イノセント

美しい人
【22】




   【一】

「ッ!」
 帳場で帳簿整理をしていた千尋は、指先に走った小さな痛みに声を噛み殺した。左の人差し指を見てみると白い線が一本入っていて、そこからじわじわと赤い血がにじみ出てくる。機械で断裁したわけでもない、どこか甘い断裁面で指を切ってしまったらしい。千尋はぺろりとそれを舐めた。
「どうした、セン?」
 それを見咎めた指導役。
「あ、指、切っちゃったみたいで」
「不器用だな、お前」
「やぁ、新聞紙でもダンボールでも厚紙でも指を切っちゃう不器用者ですので」
 帳簿はともかく新聞紙とかダンボールでどうやって切れるんだ? ある意味器用者だなとイズは心底不思議がるが、切れる時はどうやってでもなんででも切れるもんですと千尋は苦々しく笑う。実際切れるのだし。千尋はもう一度ぺろりと指を舐めた。
 そんな仕草に、なにやら娘らしくないなぁと思いつつもとりあえず一言言えば十倍くらい言葉が返ってくるとわかりきっていたので手元の予約帳簿に視線を落としたイズは、そこに記された名前を見て顔をしかめた。珍しい高位神の、団体予約であったが。
「うわぁ、またウズメ様がみえるのか?!」


「あぁ、たしかに瀬戸内の翁の御一行予約が入っているね。瀬戸内の主とは言っても、近海の総元締めのような方だよ」
 翌日の休憩時間、なんとなしに気になってハクを捕まえてみた千尋。私の河も海に繋がっていたから少しばかり知り合いでね、そのよしみでここを使って下さるのだよ、とのハクの言葉に、改めてハクがそこらのただ竜ではないと知らされる。海の主と知り合い、そう言われてもぴんとこないけれど。レベルは『オードリー・ヘップバーンとハクが知り合い』と言われるのと同じくらいぴんとこない。取り合わせが不可思議過ぎる。
「イズさんが、ウズメ様って方がみえるのかとイヤがっていたのだけれど、ウズメ様って?」
「渦女姫は翁の孫なんだよ。とても可愛がっていらしてね」
「はぁ、姫様。それがどうしてイヤなんだろう?」
 権力者の随従の中に女性が入っているのは珍しくないし、そのような女性達は大抵大人しい。単独や、羽を伸ばしに来た主婦(のようなもの)の仲間内での宿泊客ならまだしも、随従として来る者達は躾がなっているのだ。
「孫とは言っても、あまり公言できる生まれではない方でね」
 翁の末の息子が、どことも知れぬ出の妾に生ませた姫。しかも、母親は娘を産んだ後すぐに行方をくらましたので、更なる忌み児として周囲には認識されている。けれども、孫の中でも末も末、しかも唯一の孫娘であった為に翁はなにくれと可愛がっているらしい。
「ただ、その甘やかしが度を過ぎていて、まぁ、なんと言うか、我侭し放題の乱暴者と言うかね」
 あまり言えはしないけれどね、と言葉を濁し言い訳しつつしっかり言ってしまっているハクである。
「なんかいやぁね、そんなお客様」
「翁は良い方だよ。なにせ、遠く流れてしまった私を気にかけて来て下さるのだから」
 翁はね、本当に良い方なんだよ、と繰り返すハクの言葉の中にも嫌々な色を見て取って、ハクにも苦手な人っているのだなぁと妙に感心した千尋であった。

   ◆◇◆

「おお、ハク殿、久しいな」
 そして二日後。瀬戸内の主ならもっと格上の宿にも泊まれるだろうに『たまには鄙びた宿も良い』と油屋に宿泊する翁の一行が到着した。その言葉を聞いて、湯婆婆が内心眉をひくひくと動かしていることも鷹揚な態度の翁には堪えていないようであったが。
 出迎えたハクの真名も知っているであろうに、ハクの境遇を慮ってあえて口にしない翁は、確かに人の良さが滲み出るような好々爺であった。出迎えの列の末席に控えた千尋の第一印象は『絵に描いたような仙人』であったが。随従達が体格も外見もよい美丈夫であるからか、そんな彼らの中にいる小柄でちみっちゃくて白い髪に白く長い髭を伸ばした翁はまさしく『仙人』だ。目は落ち窪んで、長く伸びた白眉に埋もれている。できれば杖も持ってもらいたいところである。
 そのすぐ後ろに控えた者に目をとめて、千尋は気取られない程度に首を傾げた。翁や他の随従は品のよい姿をしていたが、その者だけがなんと表現すればよいのやら、破天荒な格好をしていたのだ。言うなれば、ばさら者と呼ばれるような姿。蓬髪に荒々しい化粧に背の高さがあいまって男かとも一瞬思ったが、奇妙な女らしい魅力もあったのでかろうじて女性だと判別できる。不思議な雰囲気を纏った人物であった。
『あれがウズメ姫様?』
 目の前の好々爺に可愛い可愛いのおくるみ生活を送っていると聞いたのでどんな可愛らしい大人しげな、そしてたまに我侭を言う姫なのかと思えば、これはこれはそんな可愛らしい存在ではないらしい。まさしく『瀬戸内の渦の娘』との通り名で呼ばれるだけはある、一癖も二癖もありそうな女性であった。眦にきりりと入れられた青いラインが意思の強さをあらわすのか、それとも破天荒な性格をさらに強めるのか。
 その渦女が、末席にいる千尋に目を留めて、にこりと唇の端を持ち上げて笑ったので思わずどきりとした。わぁ、なんだろう、不思議な感じ。女の人に微笑まれただけなのに、どきどきする。見た目凄い格好なのに、なんだか許せちゃいそうな、そんな気分になる。女子高で『お姉様』とか言う時の心境って、多分こんなんじゃないだろうか。
 末席でひとりぐるぐると『百合』の言葉に対して思案する千尋であった。


 まぁとりあえず帳場にいる限りそうそう高位のお客様と直接話する機会なんてないし、と千尋は渦女の存在を意識から綺麗さっぱり消し去ることにした。帳場の管理人で、知り合いにもあたるハクならいざ知らず、下っ端の下っ端である自分とはまったくの接点がないのだし。
 千尋は普段通りに帳場に詰めて、時には連絡物を抱えてあっちこっちを走りまわりながら、何事も無く二日が過ぎた。その頃には渦女への周囲の感想が、ハクやイズと似たり寄ったりであるとも気がついた。たしかに、話のしっぽだけを聞いていても、かなりやりたい放題であるらしい。
 昨日は渦女についた従業員のひとりが額を怪我したのだが、それについても傲慢にも
「そやつが粗忽であるのだ」
 と言い放ったらしい。あきらかに渦女が投げた杯が原因であるのにもかかわらず。
 湯婆婆は、彼女がした弁償はすべて翁より払われるからか、あまり真剣に渦女を諌めようともしないし立場的にもできるはずがなかった。翁はと言えば、そんな渦女のやんちゃぶりが面白いらしく、特になにも言わないようである。千尋は常々『自由』と『放任』はまったく違うと考えていたが、これは後者ではないかと思う。けれども家庭の事情もあるのだし、首を突っ込める立場でもないし、我慢するしかないのであろう。
 その渦女は、機嫌が良い時は陽気で羽振りも良く、人懐っこい一面もあった。油屋のあちこちに出没し、小湯女達としゃべりこんでは楽しげに笑っている。小湯女達は彼女が好きなのか、まさしく『渦女お姉様』と言わんばかりである。男のような衣装も『お姉様』と言いたくなる理由のひとつであった。しゃべりこんでいて仕事に遅れてしまった小湯女達が叱られないように口添えをするあたり気配りがきいているのであるし。男達の評価は散々なものであるが、女達には妙に受けがよい。
 けれども千尋は、渦女と廊下ですれ違うたび、なにか違う視線を感じてならない。廊下の脇に控え、渦女が通りすぎるまで頭を下げているのであるが、なにやら熱心に見られているような……。あまり渦女に関わらないようにしようと決めた千尋であった。その視線の意味にも気がつかずに、怯えているのだとも知らずに。


「ハク殿、なぜここに人の娘などがおるのだ?」
 営業時間で忙しいハクを人通りのない廊下で捕まえて、渦女は壁にもたれかかったまま問いかけた。原色味の強い、けれども高価であるとわかる着物をまとい、優雅とも大雑把ともとれる仕草で両腕を組みながら。
 真向かってみればハクよりやや低い位置から渦女がきつい眼差しを投げかけている。
「あちらの世界から流れ込んできた者です。ここにはなめくじも蛙もおりますよ」
 感情を含めないハクの声に、渦女は目を細めて面白げに眺めやった。
「そんな下等な者達などいくらおっても構わぬが、人となれば話は別だ。奴等は山を汚し海を汚す者達ぞ」
 そなたの河も散々な目にあっておきながらなぜ同じ所に住んでいられる? と内容はきついものであったが、その声色は面白がっていた。女性にしてはやや低い声が笑いを含んで廊下に響いている。
「昔からどこか外れたヤツだとは感じていたが、面白いのぅ」
「人がすべて汚す者だとは思いませんよ。因果の深さで言えば我々の方がよほどあくどいでしょうし」
 一時の感情で河は荒れ狂い、海はすべてを海底に飲み込むのであるから。欲しい物は奪い取ってでも手中におさめ、飽きれば打ち捨てて振り返りもしない、子供のような生き物。それが『神』であり、『神』に連なる者の気性であった。
痛い所を言葉少なで突いてくるハクに、言うようになった、と渦女は笑うのであった。


 翌日の、朝の見送りも終わりにさしかかる頃合に、千尋は町のはずれにある店に用事を言いつけられて書類を抱えて外に出た。用事自体は簡単に終わり、寄り道もせずに油屋への道を辿る。
空を見上げれば太陽はまだまだ空の頂上に向かっている段階で、白々と輝いている。冬も近いこの頃ではあるが、本日はほんのりと暖かい。このまま午後になるのなら、日向ぼっこしながらお昼寝したら最高かもしれない。薮入り前の大忙し時期なのでとてもじゃないが昼寝などできないが。そう考えるとうらうらとした太陽が恨めしくもあった。
 そこここに申し訳程度に植えられていた街路樹はすっかり落葉してしまい、今は裸のままである。ハクにこの樹の名前を聞いても、誰も知らないのだと返された。ついでに、昨年は落葉などしなかったとのこと。その前は今年のような人の手に似た葉っぱではなく、丸く大きな葉であったらしい。その更に前は……と続けられそうになり、慌てて『もういい』と止めなければ次はなにを言われていたのやら。不思議の世界は樹一本でも普通ではいてくれないのかと遠い目になるから。
 自分が戻る頃には帳場も一段落しているだろう、とぼんやりと考えて大階段を昇っていると、耳になにやら楽しげな声が届いた。耳を澄ませながら階段を昇りきると、それは女の声であるとわかった。きゃらきゃらと賑やかに笑う女達の声に誘われて、千尋は花園を覗き込んでみる。一体誰がいるのだろう、見送りの当番でなければまだ皆眠っているような時間帯なのに。
 そっと椿の影から覗いてみると、そこには渦女と、小湯女達が数名おしゃべりに興じていた。普段ならまだ眠っている時間帯であるのに、小湯女達の顔には眠気のかけらも見受けられない。彼女と話をするのが心底楽しい、そんな色がありありと見て取れた。
 花園で、どこから見てもかっこいい女の人を囲んでの、少女達の会話。千尋ははっきりと『百合』とか『宝塚』の単語を思い出してしまって一生懸命に胸中で頭をふった。そして改めて目の前の光景を見つめる。
 怖い怖いと言われているけれど、身分とかそんなの関係無く接してくれる人なんだ。そう考えると、視線が怖いと思っていた自分を恥じる気持ちになった千尋であった。

   【二】  

「あ……ウズメ姫様」
 トンテントンテン……と、遠くの座敷から楽しげな楽の音が聞こえる時間の、底冷えのする廊下。従業員だけが使用する、普段ならお客様も通らない……いや、その存在すら知らないであろう隠し廊下で、千尋は渦女と相対していた。増築に増築を重ねた結果なのか、それとも従業員の利便性をはかった為なのか、その隠し廊下は人がようやっと擦れ違える程の狭さで、両側は板戸の壁、明り取りもないので裸電球だけが薄ぼんやりと照らす陰鬱な場所であった。
 しんと重く静まり返った廊下を、遠くのお囃子や賑わいだけが陽気に空気を掻き乱す。昨日から油屋で営業をしている、人気の旅芸人三姉妹がいるのだ。きっとこの賑わいはそれであろう、と千尋はどこかのん気に考えたが、渦女がその陽気さに心が動かされる様子は微塵もない。向こうはあんなにも楽しそうなのに、ここは空気が凍りついたかのように冷ややかで痛くて辛い。
 できるだけ関わりあいにならないようにしようと避けていた渦女に、忙しく動き回る女中班に連絡物を届けた帰りに偶然出会ってしまって千尋は口篭もる。今朝の様子から気さくな一面もあるのだとはわかっておりながらも、自分を見る渦女の視線はやっぱり怖かったので。
「道にお迷いですか? このあたりは増築に増築を重ねた箇所ですので、このまま進まれましてもウズメ姫様のお部屋からは遠くなりますが……」
 引き攣りそうになる顔になんとか笑顔を浮かべて廊下の先を指差すが、渦女はじっと押し黙ったまま千尋を見つめている。その顔にはなんの表情もなかったが、なんとなく不愉快げな雰囲気が千尋の足を一歩後退させていた。
「あの、ウズメ姫様?」
 じりっと一歩後退すれば、渦女も一歩前進し、とうとう千尋は壁に背を押しつけてしまい、そこで自分が後ずさりをしていたのだと気がつくありさまであった。
 千尋を壁に追いやりながらも渦女は更に歩を進め、覆い被さるようにして千尋の顔を真正面から眺めやる。
至近距離で見つめる渦女の目は、目元のきつい化粧に誤魔化されがちであったが、どこか幼い感じもする。けれども今は、はっきりとした侮蔑の色が浮かんでいて、千尋は後がないとわかりながらも壁に背を押しつけた。
「あの……」
「ふん、やはりただの人か。あの婆も酔狂な真似を」
 この世界で『人』などなんの価値があるのだ、と渦女は吐き捨てるように言い、ついでぐいっと千尋の手首を掴んだ。
「お前、わたしの座敷に上がれ。酌でもしてみよ」
「う……ウズメ姫様! わたしは帳場の仕事がありますので座敷には……」
 そのままずるずると力任せに引きずられそうになり、千尋は精一杯の力を込めて踏みとどまった。渦女は女でありながらもやはり人外の存在であるからか、その力も尋常ではない。
 渦女は千尋の必死の言葉を聞くと、薄い唇の端を持ち上げた。初対面の日に彼女が見せた笑みとはまったく違った笑い方であった。あからさまな侮蔑の笑みに、千尋は凍りついたように動けない。
「誰がそなたのような人如きに重きを置くか。人など、目の前でひらひらと舞わせてみて、後は嬲るくらいしか価値がない」
 あの、規格からも外れた竜の酔狂に踊らされているだけとも気付かずなんと人とは気のきかぬ生き物よ、と言われて千尋は頭に血が上がるのを感じた。
「わたしが人でも! ハクが竜でも――!」
 心に貼りついている渦女への恐怖心や、今だ『人だから無力だ』との思いを押し込めて、千尋は口を開いた。
「わたしはわたしです! わたしが人だからって、それだけで勝手にわたしの価値を決められたくはありません! ハクの気まぐれでわたしが帳場にいるのだとしても、わたしはわたしの仕事を一生懸命しているのです!」
 わたしの価値はわたしの生まれや種族なんかで決められるのではなく、わたしの行動で決められるものです! と千尋は叫ぶように言いきった。それに渦女は表情から侮蔑の色を消した。
「脆弱な、愚かな人風情が、神に連なる者に立てつこうなど――ッ!」
 ぐいっと手を引かれ、更に近くなる眸と眸。千尋はその中に、先とは違う光を見た――と思った瞬間、廊下の薄い闇の先から小さな悲鳴が聞こえた。咄嗟に振り返った廊下の先には、小湯女がひとり立ち竦んでいて――
「危ない!!」
 千尋は渦女の手を振り切り、その小湯女へと向けて走った。だが、後ろから恐ろしいまでの圧迫感が突如として襲ってきて、千尋はそれに絡めとられて倒れ込む。まるでそこだけ重力が増したかのように千尋の身体は廊下に縫い止められ、肺すらもぺしゃんこになったのか息ができない。頭の奥が酸欠でぐらぐらする……と思う間もなく千尋は気を失った。その光景を見た小湯女は悲鳴を噛み殺して一目散に逃げてしまったのであった。


 湯殿の見まわりをしていたハクは、突如として湧きあがった神気にはっと頭上を振り仰いだ。この湯屋に来る客は霊々であるのだから神気を察しようと驚くことではないが、今感じたその力はあまりにも高位の者の仕業であるし、この湯屋でそのような力の使用は禁止されているのだ。神気はただそれだけで下等の生物の命さえ奪いかねないのだから。それ以前に、そのことは神自身が重々承知しているのである。
 ハクは神気のあり場所目がけて走り出した。
 そうして辿りついたのは、従業員以外は知り得ないような、隠し廊下。従業員達が時間を短縮する為に通る以外は用もない、電灯さえ薄暗い廊下であった。
 そこでハクは、鮮やかな絹の色をみた。背の高いその者が纏うと、原色の派手な衣もよく映える。けれども、その者の前に倒れ伏している秋色の衣をみつけて、ハクは息を飲んだ。この町では珍しい、茶色がかった髪にあわあわとした秋色の衣を纏う者など、千尋しかいない。
 ハクは千尋にかけより顔を覗き込んだが、やはり意識がないのか、ぴくりとも動かない。彼女があの神気をまともに浴びたのであれば――と考えて、ハクはぎゅっと拳を握った。
「渦女姫!」
 くすくすと笑う渦女に向けて呼ばわった声は、はっきりとした怒声で。
「神の血脈に連なる者がかような行いをするとは!」
 神の気は薬にもなるが毒にもなる。今回のように一気にそれを浴びれば、最悪昏倒ではすまない事態もありうるのだ。なにせ、神気ひとつで山の樹木が枯れ、嵐が起こり、海が荒れ、真水が煮えたぎる湯にさえなるのだから。自然に属する神の心の揺れは、自然の災害として起こりうる。それはあってはならないこと。だからこそ神は神気を抑えることに意識を集中するのだ、自分より下位の者達が側にいる時は尚更に。それなのに渦女は、千尋を害する目的でその枷を外した。それは誰が聞いても許されるべき行為ではなくて。
 渦女は楽しげに――否、見下した笑いをやめようとしない。
「その怒りはその娘が対象であるからではないのか? 落ちたとは言え竜、崩れたとは言え神の一柱だと思っていたが、やはり守護せし場所を人の手によって奪われた竜神は甘い甘い!」
 人など嬲り殺すのが道理であろう? と尚も笑う渦女。細められた目元に施された青い化粧が、侮蔑の眼差しを更に強調させる。
「人などに固執して、かような場所に踏みとどまっている。竜の誇りも地に落ちたのぅ」
 ハクはぎりと唇を噛みしめ、怒りに震える手を握りしめて、すっくと立ちあがった。背の高い渦女とハクの視線が真っ向からぶつかり合う。
 その場に第三者がいれば、そのまま殺し合いになりそうな気迫が双方にあったと言うであろう。けれどもハクは、爪が食い込むほどに拳を握りしめて、ゆっくりと口を開いたのであった。
「私は愚かな竜だ。怒れる竜だ。河はもうなくとも、守護する者がある竜だ」
 護る者がある『竜』に勝てるとお思いか――?
 煌々と金色に輝く翡翠色の眸で見据えられそう問いかけられた渦女は、ハクの静かな怒りを受けて押し黙るのであった。

   【三】

 逃げてしまっていた小湯女が恐る恐る廊下に戻ってきた頃には、ハクは千尋の部屋に彼女を連れかえっていた。
 魔法で整えた蒲団に横たえさせても、まるで目覚める気配がない。
 血の気のない頬に触れればとても冷たくて、ハクは千尋の手をとってゆっくりと撫でてやった。額にかかる茶色味を帯びた髪を梳くと、おのれの髪とは違う感触がする。柔らかくて、くるくると枕元に渦を巻いて広がっている。
 いつもなら淡く色付いている唇の色がひいていて、それをじっと見つめているとどうしようもなく不安になってきた。心にひたひたと冷たい波が音を立てて迫ってくるような。そこに渦女への怒りはかけらもない。このまま千尋が死んでしまうのではないかとの純粋な不安だけがハクの心に迫ってきて、ハクは身を屈めてそっと千尋に口づけた。
 何度か彼女に口づけてその柔らかな感触も知っていたけれど、そのどれの時とも違う冷たさに、ハクは思わず千尋を胸へと掻き抱いてしまった。くったりと力なく上半身をおのれの胸へと預ける千尋を、ぎゅっと抱きしめる。
 千尋が人間であるから、私が崩れたとは言え神であったから、高位に連なる者達の反感を買うのなら――はやく抱いてしまえばよかったと、千尋の身体の冷たさにハクは思う。真っ黒に塗りつぶすように、真っ白に染め上げるように――抱いてしまえば。彼女の意思など聞かずに、彼女を護る為だとの大義名分の元に。有無を言わさず竜の妻にしてしまえばよかった。彼女にまとわりつく『災厄』のカードの手をかわす意味でも、彼女に下された魔女の予言をかわす意味でも、彼女を呼び続ける『冬』から真に解放する意味でも――。
 けれども、それではただの『贄』でしかないのではないかと思うと――恐ろしい。崩れた神であるのに『贄』を求めるのかと誹られそうで。竜は慈悲深い神獣と言われていても所詮は獣だとハクは知っていた。それでは千尋が嫌だろう。抱きしめるのなら身体だけではなく、心ごとだとハクは決めていたから――なにも言わないしなにもしなかったのであるし。
「千尋――目覚めて」
 強く強く抱きしめる。勝気な千尋が嫌がって起きやしないかと思って。けれども千尋はぴくりとも動かない。あるかないかの呼吸が更に浅くなって、身体がどんどんと冷たくなっていくのがわかって、同じだけのはやさでハクの心も凍えていった。
 このままふたりとも死ねるのならそれもまた幸福かもしれない、とハクはふと思う。そう考えつくと、それはとても良い考えに思えた。とてつもなく甘美な夢だ。永遠に時が止まる、千尋を胸に抱いたままであるのならそれもまた良い……彼女が離れていってしまうかもしれない恐怖にも、誰かに取られてしまう不安にももう脅かされずにすむ……
『お取り込みのところすまんがのう』
 凍えるハクの心に誰かがそう呼びかけたのは、次の瞬間であった。
『ハク殿、ちょいと儂の部屋まで来てはくれんかのう』
 その声は、神が使う技のひとつ『心話』で語りかけてきた瀬戸内の主であった。
 ハクはその声を無視しようと、更に心の内側に篭ろうとして千尋を深く懐に抱きこんだのだが
『その娘御、そのままでは本当に死んでしまうぞい?』
 そう言われては瀬戸内の主を訪ねざるを得ないのであった。


 渋々と千尋の元から瀬戸内の主の部屋へと赴くと、人払いがされているのか、そこに翁以外の気配は微塵もなかった。あの、渦女の物さえない。
 油屋の中でも品のある調度品でまとめられたその部屋でゆったりと座っている翁には、さすが海の主と言うべき風格があった。おおらかで揺るぎ無く、どこまでも深い懐だと感じさせる。
 その主が、ハクを一目見て口元をほころばせた。
「良い顔になられたの、ハク殿」
 男っぷりが上がっておるぞい、と主は楽しげに笑う。血が繋がっていようと、その笑みは渦女のどの笑みとも似ていなかった。
「昨日よりも今日、今日よりも明日の方が良い男であることよ」
 ハクは楽しげに笑う翁の真意が掴めずに、唇を引き結ぶ。
「おのれの河をほっぽらかして瀬戸内までふらふらと放浪していたあの童と同じ者とは思えんのう」
 翁から出てくる言葉に、ハクはなんと返せばいいのか思いつかず
「今から考えれば、愚行だと思っております」
 と苦々しく返答するしかない。それを聞いて翁は楽しげに笑った。
「自由な水らしい生き方ではないか。河の主になる竜など、成体になって河が安定しておれば結構ふらふらと外洋をさ迷っていたりするぞい。まぁ、お主のように幼少期からふらふらしておる者の数はあまり多くはなかったがの」
 水は世界に行き渡り巡回するモノ。その放浪癖もある意味本能だからして仕方がないことであろう。
けれども、と翁は笑いをおさめる。
「我が孫は不憫な子でのう。生まれが生まれであったから、なんやかやと肩身の狭い暮らしをしておっての」
 誰もあの子を見ようとせなんだ、あの子はそこにいるのに『無い者』として扱われておった、と。
「水や海は流れ流れて一所に留まることを知らぬ生き物だ。湖や、それこそ道端の水溜りでさえも動くのに、あの子は一所に押し込められておった。水の本分に反した生き方じゃな」
 一度止まった水は腐るしかない。それをあの子は心の強さで防いでいた、と翁は心底からの感嘆の声で語る。
「幼くとも誇り高いあの子が儂は好きでの。なんやかやと構っておれば、それもまた周りの者には気に食わんかったらしいがの」
 まぁ、今は昔のお話だが、と翁は笑う。
「そんな時期に、ふらふらと瀬戸内を訪れた竜の中のあるわっぱがことの他気に入ったらしくてのぅ。あの子にあいに行けば、あの小僧は来ぬのかと何度も聞かれたもんじゃよ」
 翁の話がまったく読めなくて、ハクは内心いらいらとしてきた。こうして話をしている間にも、千尋の状況は悪化していくだろう。翁はそれをネタにおのれを呼び出したのにもかかわらず、話すことと言えば昔話ばかり。
 そんなハクの心境を感じ取ったのか、翁はわざとらしく怯えて見せた。
「おぉ、怖い怖い。守護せしモノを持つ竜を怒らせようなんて命知らずにはなる気はないぞい。儂はもう暫く生きておりたいでのう。せめてあの子が昔のように笑う日が来るまではの」
 心配せずとも、娘御の元へは儂のてだれが向かっておる。お主の結界に他者が入り込んだのにも気がつかんほどに平静を欠くか? と翁は笑う。
「あの子があんな奇天烈な格好を好むようになったのは、わっぱが来なくなって百五十年ほど後に、その河がなくなったからと聞いてからじゃ。あの子にとって、そのわっぱは憬れそのものじゃったのだろ」
 その憬れが崩れた時に、留まっていた水が動き出したのじゃろ。あの子の本質は、すべてを巻き込む『渦』――留まっていた反動で荒れ狂ったのであろう――と翁は語った。

   ◆◇◆

 甘い匂いが鼻腔をくすぐって、闇の中にあった意識がゆっくりと上昇するのを千尋はぼんやりと自覚した。
 目を閉じているからなにも見えないのか、それとも真実ここが闇であるからなのかはわからないが、何も見えないからこそ敏感になった嗅覚でその匂いを味わう。
 甘い、甘い香りだ。こんこんと涌き出る、混じり気のない水が喉を通りぬける瞬間の香りだ。森を、土を通って濾過された水。得難いものだ。お金をいくら積んでも簡単には取り戻せない自然の匂いが、全身を包んでいる。もっとその香りを感じようと深呼吸をしてみると、強張っていた身体や意識がその香りに溶けてしまいそうだ。とても心地が良くて、嬉しくて――少しばかり物悲しい。
「う……ん?」
 なんだか重く苦しい夢を見ていた気がするが、その甘い香りにすべてが緩和されて心地よく目が覚めた気持ちで瞼を開けると、そこにはなぜかハクがいた。羨ましいほどに透き通った白い肌に、艶やかな黒髪に、『端座』と表現するのがよく似合う、座する姿勢さえ美しい、ハクが。
「……」
 まじまじまじと、その顔を見上げてしまう。はて、なんで彼が自分の寝ている側に座っていたりするのだろう、その状況が心底理解できない表情で。どこかいつもと違う、張り詰めた表情のハクをまじまじと見つめてしまう。
 鼻先には闇の中で感じていた香りが残っている。いや、更に強くなった気がした。きっとこれも夢だろう。水の匂いとハク、この繋がりに不思議などなかったけれど、こんな光景は夢としか思えないから。
 それでもとりあえず、確かめてみなければなるまい。どうあっても夢としか思えないけれど――夢ならなんでもありだろうけれど。
「あれ、ハク? なんでここにいるの?」
 蒲団の中から手を伸ばして、ハクの手に触れてみる。
「……あれ? 本物?」
 自分よりも体温が低いのか、ハクの手はいつでもひんやりとしていて気持ちが良い。透き通った皮膚の下に綺麗な水が流れているような独特な感触だ。そのいつもの感触がそこにあって、千尋はそんな間抜けな発言をした。ここまで来てもまだ夢だとしか思えないのだ。
「……ようやっと目が覚めたのに、夢だと思っている?」
「だって、夢でしょ? わたしが寝ているのに、ハクがいるなんて」
 わー、触ってもリアルに感じる夢なんてはじめてみた、と千尋はまだ夢だと信じきっているようである。いつもふたりきりであれば穏やかな笑みを浮かべているハクにしては表情が固いなぁ、目の色がなんだか怖いなぁとの疑問はあるけれど。
 そう思っていると、ハクが小さく笑んだ。けれども、それはいつものそれではなく――いたずらを思いついた子供のような、意地悪げな、笑み。
「そうか、これは夢か。じゃぁ、夢の登場人物になにをされても不思議じゃないね?」
「……はい?」
 ハクはそっと身を屈めて千尋の唇を奪った。ちゃんと意識のある彼女の、柔らかな唇を。
「!!」
 夢じゃない夢じゃないこんなの夢じゃない――ッ! と千尋は気がついて蒲団の中でばたばたと暴れるが、掛け蒲団の上からしっかりとハクに押さえつけられていてなんの足しにもならない。なんでこうなっているの――ッ! と叫びたいのに、口がふさがれていてなんにも言えないし。
「まだ夢だと思ってる?」
 心底楽しそうないたずらっ子の目をしたハクに向けて、千尋は一生懸命枕の上で頭を振った。これでまだ夢だとか言い張ったら今度はなにをされるかわからない。色々な意味で眩暈が襲ってきた。
 それにしても一体なんなのだ、この状況は。たしかわたしはウズメ姫様と口論になって、気持ちが悪くなって――意識が、なくなって。
 そこまで思い出して、千尋ははっとハクの顔を見上げた。いつの間にか上半身を起こされ、しっかりとハクの胸に抱き込まれた体勢であって、その事実に気がついて真っ赤になりながらも。水の匂いがますます強くなって、心のどこかがほっと弛緩したのを感じながらも。
「ハク、ウズメ姫様は?」
「――渦女姫はもう帰られるそうだよ。そなたに見送りはして欲しくないそうだ。それから、怒りに我を忘れて、ひどいことをしたと謝っておられたよ」
 そう告げるハクの表情には少しの変化もなくて。穏やかな穏やかな笑みも普段通りで、なんの違和感もない。
「あ、うん。わたしも偉そうなこと言っちゃたし」
「偉そうなことと言えば、瀬戸内の主がそなたを誉めていたよ。神に連なる者に向けてのあの口上、天晴れだって」
 天晴れなそなたの祝言に必ず祝いを届けるから知らせてくれと言われたけどどうする? といたずらめいた口調で言われて、どうするもこうするもないもん、と千尋は真っ赤になった。なんで祝言なんだ、なんで。神様達が考えることってどこかピントが外れていて突拍子もない、との感想を抱いた千尋であった。
 ハクがその時、どんな心境であったかは――今はまだ知らぬが花である。