イノセント

Comfort
【23】




   【一】

 昨夜から降っていた冷たい雨が変わらず庭の緑や鮮やかな花弁をしとしとと叩く、とある朝。
 ハクは千尋の部屋の前に立ち、ほとほとと戸を叩く。昨夜の最終見まわり時に帳場で小さな鏡を拾ったからだ。手の中にすっぽりと入る小さな丸い鏡で、裏には赤いちりめんが張られている可愛らしい品。帳場でそんな鏡を持ち歩く者と言えば彼女しかいない。なにせ、帳場の紅一点なのだから。
「千尋、起きているかい?」
 千尋の部屋にも鏡台はあったが、無くしたと思って捜しまわっていたら可哀想だ。はやく返してあげようと思い、朝もはやい時刻に千尋の部屋へと訪れた。
「千尋?」
 重ねて声をかけると、中からばたばたと慌てる物音と
「ちょっと待って待って! 今髪がぼさぼさなの!!」
との叫び声が聞こえる。ハクはその慌てっぷりに苦笑した。
「着替えは済んでいる? 開けてもよい?」
 廊下の端と端にある明り取りの向こうは、しとしとと雨が降っていてどこか薄暗い。そう言えば、雨が降ると髪がまとまらないと千尋はぼやいていたなと思い出す。今も悪戦苦闘しているのだろう。
「あとは髪を結うだけで終わりだけど開けちゃ……」
 千尋の言葉を全部は聞かず、ハクは部屋の戸を開けた。と、そこには鏡台の前で悪戦苦闘している千尋の姿が。
「開けちゃダメって言ったのに〜〜!」
 千尋は半泣きの形相でハクを振り向いた。彼女にしては心底珍しい表情な気がしないでもない。
「なかなかに悪戦苦闘しているようだけど?」
 おのれとは違い、柔らかな髪はたしかに少しばかり膨張しているかもしれないとハクは思うが、それでも千尋が見せるのを嫌がるほどにみっともないとは感じられないのでその慌てっぷりがおかしいだけだ。
「面白がっているでしょ?」
 と聞き返されたので、素直に
「面白い」
 と答えると、ぷぅっと頬を膨らます様子さえおかしくて仕方ない。時々彼女は妙に子供っぽい仕草をする。頬を膨らませていると思わずその頬をつつきたくなるのだけれども、とはハクの言わざる本音だ。本当にやろうものなら――それ以前に言おうものなら、即部屋から蹴り出されるだろうから言いもしないししもしないだけで。
「ハクみたいにさらさらストレートの人にはない苦労ですよーだ」
「私は男だからね、あまり頓着しなくてすむからありがたい」
 どうせわたしの髪はくせっ毛で不器用子さんですよーだ、帳簿でも新聞紙でもダンボールでも厚紙でも指を切れる不器用子さんですよーだ、と拗ねられる。なにやらその様子はハクのいたずら心を呼ぶには充分な態度で。
 拗ねて鏡ばかりを見ている千尋の背後に座り込むと、鏡越しに千尋の顔が見える。当然千尋の後ろでハクが何をしているかも、千尋には見えるわけで。
「ハクっ! ぎゃぁ! やめてぇ!!」
 肩を覆うように広がっている髪を掬い取ると柔らかい感触が指先に生まれて、ハクはなんとも言えない笑みを浮かべた。その表情を鏡で見てしまった千尋の叫びは、まぁ、なんとも色気のかけらもないものであったが。
 髪を他人に触られる、しかも美容師でもない異性に――それ以上にハクに触られると言うのは、なんとも不可思議で恥ずかしくて仕方ない光景で。しかもしかも、ハクは真後ろにいて、それを鏡で見てしまっている。『前門の虎、後門の狼』状態。蛇に睨まれた蛙よろしく、背中に冷たい汗が落ちそうだ。二重どころか三重苦。自然に顔が真っ赤になる。
 見る間に耳まで真っ赤になった千尋の様子を後ろと前から確認して、ハクは更に笑みを深くした。
「千尋、その反応はちょっとばかり傷つくよ?」
 千尋の言葉よりも身体の反応の方が正直なのでそんなことはかけらほども思っていないけれど、慌てっぷりに拍車をかけてみたくて、意地悪を。
「ち……違うの! なんかえっちっぽいからヤだ!」
 なにがどうしたらそう思うのかはわからないけれど、そう思ってしまったのだから仕方がない。元から髪なんて他人にほいほいと触れさせるものでもないのだし――その行為は、なんだか、特別な関係にだけ許されるものに思えて。それに、なんと言っても、鏡越しのハクの表情がその思いを加速させているのであるし、断じて自分の発想が悪いのではなくてハクが悪いのだと千尋は心の中で叫び倒した。
「ふぅん?」
 真正面を向いてもハクがいる状態に耐えきれなくなって、千尋は視線を横へと逃がし始める。それに気がついて、ハクは千尋の視線をもどそうと、髪を掬いとってそれに口づけた。いくら横を向いていてもその仕草でなにをしているのかに気がついた千尋は声を殺して叫び声をあげた。
「いやぁ〜〜ハク〜〜」
 や〜め〜て〜〜〜ぇ! とのひょろひょろな叫びに、ハクは思わず吹きだしてしまった。
「なんなのよぉハクっ! 意地悪しに来たんなら帰ってよねぇ」
 半泣きですねすねを加速させる千尋に慌てて表情を引き締めようとするものの、どうにも失敗してしまう。いじめっこ、すけべ、セクハラ上司! との罵詈雑言も甘んじて受けねばならないだろう、この状態では。
「あぁ、すまないね。かわりに私が髪を結ってあげよう?」
「はぁ?」
 千尋はその唐突なハクの提案に、口をぱくんと閉じた。鏡越しに目を丸くして見つめてしまう。その隙をついてハクは鏡台に置かれていたブラシを確保すると、千尋の柔らかな髪を梳き、なにやら勝手に編み込みをはじめてしまった。
「あの、ハク?」
 器用に動く指先がどんどん髪を編み込んでいくんですけど……丸くなっていた目が点になってしまった千尋が我に帰ったのは、ハクが髪を編み終えて髪留めをつけた瞬間であった。
「気に入らない?」
「……」
 や、とても素敵だと思います。サイドをきっちりと編み込んでいるけれどふんわりとした印象で、とても素敵……なんだけれど、自分がやろうにもできない代物で。なんでそんな編み込み知ってんのよ悔しい! とも思うわけで。
「……ありがとう」
 素直にその言葉が言えない。
「どういたしまして?」
 千尋の複雑な心境をわかっているのかいないのか、ハクは満足げに笑っている。それがまた悔しさを増長させるのだ。
「ハク、自分の髪はいつも一本縛りなのに、どこでこんな編み込み覚えたの?」
「さぁ、どこでだろうねぇ?」
「……」
 ハクが変な性格をしているとはもう心底からわかっているつもりであったけれど、改めて複雑なため息を吐き出す千尋であった。

   ◆◇◆

 そんな複雑なため息の謎は、あっさりと翌日に暴露されそうになってしまった。
 昨日とは打って変わってからっと晴れた天気を引き連れて油屋に現われた
「花の三姉妹でございます――!」
 との、やかましい言葉と一緒に。
 その『花の三姉妹』と名乗る三人は、素晴らしく長くて美しい髪を持った三人娘であった。『花』と名乗るだけあって、いずれ劣らぬ花の如き美しさ……と言うか、区別がつかないほどにそっくりな三人娘であった。艶やかな黒髪をときはなす様子も、薄っすらと施した化粧も、紺碧の眸も、形の良い薄い唇も、話す声も表情も区別などつかない。ただ、それぞれの名前を冠した、宵闇を映した着物の柄だけでかろうじて区別がつくほどにそっくりな、旅芸人の三人姉妹。
 それぞれに小さな荷を背負い、花飾りをあしらった編み笠を手にしている。表には荷を括り付け、金の鈴で飾られた黒毛の馬が一頭みえた。姿形だけを見ていれば、旅など耐えられそうにもないほどしとやかでおとなしやかであるが、慣れた旅装を見てみれば中身は随分と違うのだろうと目端の利く者なら気がつくであろう。
「また来たのか、あなた達は」
 太陽が中天に昇った、所謂昼休み時間にかしましく現われた旅姿の三人娘を認めたハクの第一声がそれで。珍しく、あからさまに嫌そうに眉を寄せている。
 それを見つけて、ハクよりも頭ひとつ分低い娘達はわらわらとハクに群がってはあっちこっちをぺしぺしぺたぺたと叩いてきゃらきゃらと笑い声をあげた。
「あぁらハク殿、男っぷりがあがっているじゃぁありませんこと? あのわらしがこんな男前になるなんて、ねぇ、あやめ?」
「ほんにほんに。あの可愛らしげなわらしがこんなに大きくおなりだなんて。わたくし達も年をとるものねぇ、しょうぶ?」
「前に油屋さんに来た時には、わたくし達よりもお背が低くて、柳よりもほっそりとして、花よりも可憐なかんばせをしていらしたのに、今ではもうすっかり男君の顔つきですもの。そりゃぁわたくし達もお婆さんになりますわねぇ、杜若?」
 いえいえ、あなた達は以前も今も若い娘姿のままですよ、恐ろしいまでに。と口元まででかかったがハクはなんとか耐えた。一言迂闊なことを言えばなにをばらされたものかわからない。この妖怪三姉妹ならやりかねない。
 その間にも三人娘の手はハクの胸板を触ったり肩を触ったり腕を触ったりとやりたい放題で、どう動けば良いのやら困ってしまう。なにせ、この三人娘になにを言ったところで勝ち目がないとわかっているので、静止の言葉すら出てこないのだ。
「御髪もこんなに伸びまして。まぁ、わたくし達がよってたかって結わえて遊んだあの頃が懐かしいですわねぇ?」
「ほんにあの頃はお人形のように愛らしくて、ついつい飾り立ててしまったものですのよ?」
「……お蔭様で、すっかり結わえ方を覚えてしまいましたよ」
 苦々しく笑うしかない。あの時の大騒動を思い出すとなにやら意気消沈してしまうけれど。
 あれは千尋がこの町に迷い込んでくる少し前のことであったから、もうその恥ずかしい姿を知る者も限られてはいるであろうけれど。湯婆婆と、釜爺と、父役にも目撃されてしまったのだったろうか。あとはもうここにはいない従業員数名で、誰にも言うなと懇願――脅したとも言う。その後その者達が相次いで仕事を辞めていったのは自分のせいではないと今でも信じているのだが――しておいたので他には誰も知らないだろうけれど。そのように願ってはいるけれど。
 そんな、玄関先での騒がしさを、通りかかった千尋が見咎めてとことこと近づいてきた。お客にしてはハクの態度がなにやら普段と違っていておかしいので、小首を傾げながら。花の名を冠した三人の娘とハク、その四人が揃っている光景は、まさに一幅の絵のように美しかったけれども。
「ハク様、お客様ですか?」
 お客様専用の玄関から来たのならお客なのだろうが、そこに立つ三人娘は同じ仕草で頭を振る。長い黒髪が扇のように広がった。
「あぁ、こちらは旅芸人の三姉妹だ。暫く滞在することとなったから」
「花の三姉妹ですわ。こちらで稼がせて頂くのはこれで四度目かしらねぇ、杜若?」
「前回は六年ほど前でしたわねぇ、あやめ?」
「こちらのお客様は、おはやし上手で、羽振りも良くて。ほんに楽しゅうございますねぇ、しょうぶ?」
「……はぁ、よろしくお願いします」
「冬も近し年末と言えば忘年会。しっかりと稼がせて頂きますわ」
 またなんかくせのある人達だなぁと千尋は思う。姿形は美しい、ほっそりとした娘達であったが、口を開けばなんとやら。それに、分裂でもしたかのようにそっくりな姿形で、あやめにしょうぶに杜若と名を互いに呼び合っているが誰が誰なのやら。
 その困惑を見て取ったのか、三人が同じように唇の端を持ち上げてから、わたくしが長女のあやめ、わたくしが二女のしょうぶ、わたくしが三女の杜若、と自己紹介してくれたが、それでもやはりわからない。今現在右に立つのがあやめで、真ん中が杜若で……のレベルである。
「わたくし達の衣装をご覧下さいまし。名にあわせて花をあしらっておりますのよ?」
 や、だからその柄ですけれど、あやめもしょうぶも杜若も似通っているからなにがなにやら。そんな中途半端な方法で区別なんてつけられないし。自然千尋の顔の困惑は深まるばかりである。
「あらん、かわゆらしい反応だわ。かわゆいわぁかわゆいわぁ。ねぇあやめ、そう思わないこと?」
「思いますとも思いますとも、しょうぶ。かわゆらしいわぁ、この、ふくふくほっぺもちいさなお鼻もまんまるおめめもかわゆらしいこと!」
「まぁあやめ、しょうぶ、そのかわゆらしい方をふたりじめするなんてずるいですわ! 珍しやかなその茶味の髪を触りたいですわ、杜若も入れて下さいまし」
「……」
 おのれから興味がうつった三姉妹になにを言えるわけもなく、あちらこちらを同じようにいじられ始めた千尋に対して『すまない、千尋』と心の中でだけ謝る不甲斐無い帳場の管理人。
 後には
「ひゃぁぁぁ??」
 との千尋の声なき叫びだけが残されたのであった。

   【二】

 神様の世界にも忘年会があるのか、冬も押し迫ったこの年末、徐々にお客の数が増えていた。賑々しく宴を張り、陽気に盛りあがる霊々達は今年の憂さを晴らそうとしているかのようだ。
 そんな中で一際盛りあがっているのは、あの三姉妹が上がっている座敷だ。そこだけ空気の色が違うかのようで、けして羽目を外した騒がしさには感じられないが確実に盛りあがっている。
 彼女達が油屋に滞在して本日で三日目。三姉妹の噂を聞きつけて逗留宿を移ってきたお客さえいた。
 油屋の楽曲担当も乗りに乗っており、三姉妹の姿や華やかな楽の音をひとつどころに閉じ込めておくのは勿体無いとばかりに障子も開け放たれている。笛に鼓に琴の音に、ゆぅるりと油屋の中に色鮮やかな空気が漂い始める。酒の成分がその空気に混ざっているかのように、その空気を吸い込めばほろ酔い気分になる。階下にある湯釜から立ち昇る湯気もほんのり色付くかのようだ。ほわほわと良い気持ちに従業員さえ足元を浮かれ気味にしている。
 楽に舞に酒に酔った陽気な霊々は、楽の音に誘われてきた神にも酒をすすめ、もう本来の座敷のお客との区別さえつかない大賑わいである。
 笛や鼓や琴のうねりにあわせてひらりひらりと舞っているのは、あの、口を開けばかしましい三姉妹とは思えない者達であった。今はその口元に艶やかな笑みを浮かべ、ひらりと手を返すごとに着物の長い袖が揺れて波紋を刻む。手にそれぞれの名の花をあしらった扇を手にしていて、それが翻るとひらりひらりと小さな白い花びらと小さな白い光が宙を満たし、その様子はとても美しかった。風にそよぐあやめにしょうぶに杜若、まさしくその具現のような、三姉妹の舞。流す艶っぽい視線にお客の霊々は色めき立った。
 千尋はぱたぱたと忙しげに書類の配達に出た帰り道に、その現場に遭遇してしまった。座敷からあぶれたお客が廊下に座り込み、そこでも繰り広げられている宴会に立ち往生したのだ。
 まぁこの道がダメでも隠し通路の方に行こうか、でもあそこは昨日嫌な思いをした道だしなぁと足踏みをして迷っていると、そんな千尋を座敷で舞っていたはずのあやめが見つけたらしい。舞いにあわせてつつつつと廊下へと優雅にさりげなく踊り出て、口元を艶っぽく意味ありげに持ち上げるとひょいと千尋の手をひっぱって座敷へと引き入れてしまったのだ。
「えぇぇぇぇぇ??」
 いつのまにやら廊下から座敷に引き上げられてしまって、千尋の口からはそんな間抜けな声しか出なかった。それほどまでにも優雅に、さりげなく、座敷に拉致されてしまったのである。
座敷には絶対に上がらないので有名な、あの帳場の、洋装の新人が座敷へと現われて、お客は更に盛りあがった。おぉ帳場の娘っ子じゃ、との声があちらこちらから上がる。それを見て取って、千尋は恥ずかしいやら困惑するやら。居並ぶお客の赤ら顔よりも頬が赤く染まる。
「一緒に踊りましょうよ、ねぇ、センさん?」
 顔を寄せてにっこりと艶やかに問われたけれど、それはもう逃げ場もない所で絶対の命令にも等しくて。
「わ……わたしっ! 盆踊りとフォークダンスとワルツくらいしか踊れません!」
 それだけ踊れれば充分な気もするが、それらと三姉妹の舞はまったく隔たったものである。千尋のうろたえも当然だろう。けれども三姉妹はまたもや三人同じように唇の端を持ち上げて笑った。紅をひいた唇の刻むその笑みは色っぽいけれど意地悪そうでもあって、千尋はぞくりと背中に冷たいものが走るのを感じた。
「大丈夫ですわ大丈夫ですわ。わたくし達は『操り糸』の使い手でもありますの、ほうらこの通り」
 つぃっとあやめが腕を上げれば、この場から走って逃げたい意思とは反して千尋の腕も上がった。つぃっと腕を引かれれば千尋の腕も優雅に動いた。舞なんてかじったこともないのに、指の先までゆらりと動き、スカートから伸びた細い足までも泳ぐ魚のようにゆらりと舞を刻む。
「えぇ?!」
 糸なんてなんにも見えないのに勝手に身体が動く〜〜! と千尋は声もなく叫ぶしかない。それに、あやめの動きとは全然違う方向に足も手も動くのだし、なにがどうなっているのかわからない。
「センさん、笑顔ですわ笑顔」
 できるかそんなもの! と言いたいのに言えない。千尋は精一杯の引き攣り笑顔を浮かべるのであった。
どんなに金を積んでも、どんなに経営者や帳場の長に食いついても絶対に座敷に上がらせない帳場の紅一点と、花の三姉妹の艶やかにして珍しやかな四人舞に、その場に居合せたお客人達はおおいに盛りあがった。
「なにやらほんにかわゆらしいですわね。ねぇ、杜若?」
「ほんにほんに。こう、なにくれと構ってあげたくなるかわゆらしさですわね。ねぇ、しょうぶ?」
「あらあら、センさんで遊ぶか、それとも他の方をからかってみます?」
 やれ楽しや、どう遊ぼうやら。
 千尋の意思などお構いなしに、舞の最中にひそひそと内緒話をして艶やかに笑う三姉妹は、中身を考えなければとてもとても美しい舞い手であった。
 ――あくまで『中身』を知らなければ、であったが。

   ◆◇◆

 矢のように時間が流れるのが『楽しい時間』であるからなのか、宴はあっという間に終盤へと近づいてしまった。
 なにやら最後あたりまで宴に付き合わされてしまった千尋は、あの、昨日渦女と一騒動のあった隠し通路をへろへろと歩いていた。普通の廊下を歩くだけの体力が残っていなかったのだ。
若いとは言え、いきなり普段踊ってもいないのに無理矢理踊らされ、普段使ってもいない筋肉を酷使すればへろへろになる。それに、普段座敷に上がってもいないので、緊張で精神もへろへろになってしまった。
 今普通の廊下を歩けば、あの帳場の娘が座敷に上がったとのことで他のお客に捉まりそうで怖い。これ以上はゴメン被りたいし、なによりひとりで座敷に上がってどうしろと言うのだ、どうしろと。すでに酒もまわりにまわった、できあがった座敷なんて怖くて上がれない。この『油屋』が売るもうひとつの品を考えれば、なにがあってもおかしくないのだし。酔客がどんな突飛な行動に出るかを知らないわけでもないのだし、自衛をしないほど自分は無防備でも、他人にそのような対象として見られるわけがないと胸を張って言い切るほど愚かでもないつもりだ。なにせ、あの小さなセリカさえ借金のかたに身体を売ってもおかしくはない世界であり場所であり、自分の年であれば尚更おかしくないのであるし。夜番で帰りが遅くなった時、さり気なく帳場の誰かが昇降機の近くまでついてくれたり――ハクが部屋まで送ってくれる、その配慮に気がついていたのであるし。彼等の配慮を無駄にしない為にも、捉まる前に逃げるが勝ちである。
「あぁもうイヤ」
 疲れた。もう寝たい。お蒲団が恋しい。明日は絶対足とか腕とか背中とか腰とか筋肉痛だと考えると憂鬱だ。それに帳場の仕事もほったらかしてしまったし。まぁあの騒ぎだからハクの耳に事情は届いているだろうけれど、なんとからかわれるやら、あぁ憂鬱。明日、わたしは休みだったから良かったぁ。これで休みじゃなかったら仕事中に死ぬ……意識は色々な意味でぼぅっとしていて、そんな徒然をはっきりと考える気力もなかったが。
 へろへろと壁にもたれかかるように進む千尋を、設置をけちって間遠い間隔で付けられた裸電球がぼんやりと照らし出す。部屋と部屋との間に挟まれた隠し廊下に窓なんかなく、両側は板戸の壁で、半身を預けるようにしているとひんやりとして気持ちが良い。けれども一歩でも止まったらそのままずるずると眠り込んでしまいそうで、千尋はなんとか一歩一歩進んで行った。だが意識はもう半濁状態で、自分がどこを歩いているのかも、なぜ歩いているのかもよくわかっていない。
 そんな千尋を、千尋が座敷に引っ張りあげられ今ようやっと開放されたと連絡を受けたハクが発見した。あの座敷からならこの隠し通路を通るだろうと考えて、回り道をして出迎えたのだ。
 それにしても、へろへろよろよろと歩く千尋は、ただ単に座敷にあげられたにしてはへろへろしすぎていて、どうしたのだろうと思う。とうとう足を動かすのも嫌になったのか、半身を壁に預けた形でぴたりと立ち止まってしまった。
「千尋? 大丈夫?」
 俯き加減で床を見つめて立ち止まった様子はやはり変だ。なにか座敷で嫌なことでもされたのだろうか。あの三姉妹が座敷にいたのだから、そう無体なことは誰もできないだろうとは思っていたが、もっとはやくにかけつけられれば良かったのにと後悔する。こんな日に限って他所で問題が多発して、千尋にまで手がまわせなかったのだ。
 今日は高く結い上げていた髪が顔を覆っていて表情は見えないけれど、かすかに震える肩が見てとれる。まさか泣いているのだろうか。
「ちひ……?」
 声をかけて近寄ろうと足を進める間もなく千尋の体がぐらりと揺れたので、ハクは慌てて千尋へと駆けより、その上半身を受け止めた。ふわんと香る髪の匂いに混じって、なにやら酒の匂いがした。
「……」
 座敷に上がれば仕方がないこととは言え、すすめられた酒を断れなかったらしい。
「……千尋、酒を飲んだね?」
 力なくハクの腕にもたれかかる場所を変えた千尋に、ハクはとりあえず安堵の息をついたけれど、ついで妙にいらだってくる。座敷にあげられてしまったのはある意味あの三人姉妹に強制的にされてしまったのだから仕方がない。けれども、酒を飲んでふらふらとして、とろんとした表情で腕の中にいるのは少しばかり許せなかった。おのれのいない場所でそんな状態に陥っていたのが許せないのでもあり――無防備に頬を酒に染めてしな垂れかかっている彼女の無自覚さが許せなかった。そんなにも無防備に私に身を預けてもいいのと問いたくもあり、思い知らせてやりたくもあり。まぁ、そう考えている自分が一番悪いのだろうけれど……とは思うものの、許せないものは許せない。
 けれどもそんなことを考えながらも、酒の混じった、複雑で甘い千尋の香りを珍しい酒でも味わうかのようにゆっくりと抱きしめて胸いっぱいに吸い込んでいると――ふと千尋の腕が上がって首に抱きついてきた。
「千尋?」
 ぎゅうっと抱きつかれると、頬が触れそうなほどに間近になる。酒気をたたえてとろんとした千尋が眠たげにハクをまじまじと見つめてきた。なにやら最近、千尋にまじまじと見つめられることが多いなぁとかのん気に考えてはいたが、実は崩れそうになる千尋ごとひっくり返りそうになって慌てて壁に自身の背を押しつけてほっと息をついたところであった。そんな体勢でまじまじと顔をあげて覗き込まれていると、なにやら、千尋に壁際へと追い詰められた錯覚に陥る。
 千尋はと言うと、腰や肩をハクに支えられているのをいいことに、半分ハクを壁に押しつけるようにして背伸びをしてハクの顔を覗きこんでいる。しっかりと首に回した腕を外す気はさらさらないらしい。
「あの、千尋?」
 うぅん? と小首を傾げて目を細めこちらを覗きこんでくる。一体どれだけ飲まされたんだと思わずにいられない。
「千尋、それ以上は届かないよ?」
 千尋はハクの頬に自分の頬をすりあわせたいのか、うんうんと小さく唸りながら一生懸命に背伸びをするが、いかんせん身長差がある。それに、千尋に押し倒されるようにしてハクは壁際に仰け反っているのであるし。ここから先の距離を埋めるには、千尋がもっと近づくか、ハクが身を屈めるしかないのだけれど。触れそうで触れない微妙な隙間を埋めるのは互いの呼気だけである。
どうしたものかと思案しかけたハクの耳に、
「おしい! もうちょっと近くですれば良かったですわ! 手元が狂ったのがくちおしや」
「あぁん勿体無いですわ勿体無いですわ! センさん、がんばれ! ハク殿と足元に距離があるんだから、一歩踏み出してくださいまし! 女は根性ですわ!」
「いやん、わたくしも見たいのに見たいのにーっ!」
 との声が届いた。廊下の先の先に、嫌になるほど聞き慣れた三姉妹の声。よくよくその方向を見てみると、鈍く照らされた廊下に、人や位の低い神であれば感知も叶わないほどに細く呪力にまみれた細い糸が長く這い、千尋の手足に絡みついてきらきらと光を弾いているのを発見してしまった。
「……怒りますよ?」
 しらっとその方向を向いて、一言だけ告げてみる。感情を押し殺した声ではあったが、それでも三姉妹は黙って退いたようで、するすると糸も廊下の端へと消えて行った。
 何年経とうと女は悪戯好きな少女か。良いようにおちょくられているおのれも悪いのだろうが、と考えるとなにやら不思議な感じもしたが。

   ◆◇◆

 翌朝、いつもの起床時間よりも少し前に目覚めた千尋は、それでも蒲団から出てこられずにいた。頭ががんがんする。気持ちが悪い。そしてそれ以上にひどく喉が乾いた。けれど動きたくない。
 蒲団の中で起き上がる気力をかき集めながらもぐるぐると考え込んでいると、ほとほとと戸が鳴った。ハクの声が聞こえたので蚊の鳴くような声で返答を返したけれど、外に聞こえたのかどうかも自信がない。なによりも寝巻きで寝ているこの状況とそこにハクを招き入れるその意味をまったく考えてもいない完全な二日酔い状態を自覚してもいない。ある意味、彼女の無自覚さは無頓着にも通じてはいたが。
「千尋、大丈夫?」
 蒲団をぬくぬくとあたためている千尋の丸い形にハクは苦笑した。昨日の、酔いにとろんとした眸でしな垂れかかってきた彼女とは雲泥の差であるので。
「うぅん、あたまがいたい……」
 もごもごと蒲団の中から声が聞こえるその様子もやはりいつもの彼女らしくて、そんな彼女に腹を立てていた心が抜け落ちて行くようであった。
「ほら、水だよ? 喉が渇いたろう?」
「……なんで知ってるの?」
 掛け蒲団より目から上だけをだして、千尋が上目遣いに、ごにょごにょと。
「覚えていないのかい?」
「……お座敷にあがったのは覚えてる」
 やれやれ、その先は記憶にないのか。ハクは千尋に気がつかれないように苦笑した。どうやら酒には弱いらしい。もうけして座敷には上がらせないようにしなければなるまい、そう決心を新たにしながら。
「そなたは、お客様に酒をすすめられたのだよ。どれだけ飲んだの?」
「……覚えてないってば」
 こんなになるほど飲んだりしないよ、未成年だし。と千尋はぶつぶつと呟きながらなんとか蒲団から上半身を起こし、受け取った水を喉に流し込んだ。ひりひりと渇いて仕方がなかった喉に冷たい水が流れ込んでいくと生き返った心地がする。けれども喉の渇きはなくなっても、頭の痛さや身体のだるさは減じない。特に身体は筋肉痛できしきしと鳴りそうだった。今はまだだるさと頭痛が勝っていたけれども。
「これも飲んでおきなさい。痛み止めだから」
 懐から取り出された薬包紙の中身をありがたく胃に納めると、千尋は肩でふうと息をつく。途端、解いた髪がばさりと顔の前に来て鬱陶しくて頭を振ったが、その仕草でまたぞろ頭痛が襲ってきたらしい。
「お酒なんて飲む人の気が知れない……」
 顔をおさえてうめき、泣きそうな声でそれだけしぼりだす千尋に、ハクは耐えきれずに声を立てて笑った。
「ハク……声、低いけど、頭に響く……」
 髪、鬱陶しいし、と、暖簾のように顔にかかる髪の向こうから更にうめきをあげながら。
「まだそなたには酒などはやいよ。もう少し用心しなさい」
 あんなのに用心もなにもないもん、と千尋は暖簾の向こうからぶつぶつと呟いている。確かにそうではあるけれど。あの三姉妹に捉まってしまえば逃れられようなどないとは思われるけれど。
 ハクはもうひとつ苦笑混じりの笑みを浮かべ、千尋の背後へと向かってそこに腰を下した。
「髪が邪魔なのだろう? 結ってあげるよ?」
 頭を振り動かせばつきつきと痛いのでお化けのようなざんばら髪のままぼぅっとしている千尋の様子は、あの、雨が降って髪が膨張してるからやだ! と叫んでいた少女と同一人物とは思えなくて、やはりおかしい。
「えぇ? 編み込みは頭引っ張るからヤだぁ」
 ばたばたと腕を振りまわして抵抗をされるけれど、ハクは我関せずの面持ちでしらっと指を動かしては柔らかな髪を掬い取り、器用に編み込みをはじめるのであった。


 かしまし三人娘に無理矢理編みこまれてしまった自分の髪を解く過程で覚えてしまった編み込み術でこの少女を飾る。なんとも言えない因果に、ハクは千尋から見えないのを良いことに晴れ晴れと笑った。
 誰が自分を寝巻きに着替えさせてくれたのかとの素朴な疑問に千尋が気づいたのは、ふんわりと痛くないように髪を編み終わったハクが機嫌良く去った後であったとのこと。