イノセント

回転木馬は廻り続けた
【24】




   【一】

「わたしの名前、千尋って言うの」
 とある昼休み、リンはなにげない風に千尋よりそう告げられて飲みかけの茶を吹きそうになり慌てて喉の奥へと送り込んだ。急いで飲み込んだからか、気管の方に流れてしまってリンはげほげほとむせ込んだ。先に胃に送り込んでいた蜜柑のすっぱい感じがせり上がって来る。
「リンさん、大丈夫?」
「だ……大丈夫なもんか! セン、なに考えてやがる?!」
 口元を手の甲でぐいっと拭いながら、リンは声を荒げる。
自分の名前を告げる。それそのものはなんらおかしいことでもないように思えるが――この『不思議の世界』では、それはご法度である。特に、名を用いて従業員を支配する魔女と、下位上位入り乱れた神々が集うこの町では生命線を握られるに等しい行為だ。個人の存在につけられた名は本質をもあらわし、本質を知ればその個人の運命を操る糸を好きにできるのだから。
「なんでっあたいに名前を……っ」
 そこまでむせながらも一生懸命に怒鳴り散らしたリンは、千尋の表情に気がついて口をつぐんだ。リンを気遣っている幼い彼女はとても真面目な表情であり、けして軽々しく名を告げたのではないと思わせたのだ。
「あのね、リンさん。この町の人達は皆違う名前を名乗るでしょ」
「あ……あぁ」
「このままで死んじゃったら、本当のわたしの名前を知っている人って数少ないんだなぁと思って。違う名前を名乗っていて死んじゃったら、本当のわたしじゃなくて違う人が死んだみたいじゃない?」
「そ……そうだな」
 死ぬ死ぬと縁起でもない、と思いながらも相槌を返してやる。この元妹分は、もう自分がかばってなにくれと教えなければいけないような頼りない小さな子供ではないのだと、もうわかっていたから。
「なんだか、そんなのは嫌だなと思って。わたしはわたしなのに、そんな『違う存在』のまま死にたくないなって。全員に教えるわけにはいかないとはわかっているけれど、せめて、大切な人達にはわたしの本当の名前を知っていて欲しくてね」
「あ……あぁ、ありがとう」
 リンは間抜けな表情のまま、まぬけな反応を返すしかできなかった。名を預ける、自分からすれば大それた行為の先に自分が指名されたのだと気がついて、呆然としてしまったのだ。
「千尋、か。良い名だな」
 一度だけ口にする。これは元妹分の大切な名だ。間違えないように、そして迂闊に口にしないように一度だけ口にして、あとは胸の奥にしまい込んだ。
「で? 今時の人間には『家の名前』もあるんだろ?」
「……わたしはただの千尋だよ」
 ただの千尋なの、と、先の真剣な表情とは打って変わってぼんやりとしながら、千尋はもう一度繰り返した。


『そなたは私を裏切っても良いのだよ』
 リンがはやめに部屋を切り上げてから、千尋はなにをするでもなくちゃぶ台の上で蜜柑を転がしていた。右にころころ、左にころころと弄んでしまうのは、考え事をしている時の癖だ。
『私はそなたを裏切るつもりはないけれど……それでも『けして』などは誓えないから』
 ハクが告げた言葉が、蜜柑のころころと一緒に千尋の脳裏をころころと転がる。
 穏やかな表情だった。けれども真剣だった。突然そんなことを言い出したハクは、とてもとても『いつもと同じ』雰囲気だった。冷たい風がひゅうひゅうと吹くようになった、早朝の花園でだった。昨日綻びかけていた芙蓉の蕾が花開いていて、そこだけ淡い色に染まりあたたかな空気が漂っていた。
 どうしてそんなことを言うのだろう、と千尋は思うよりも先に口を開いていた。冷たい風が心の中にひゅぅっと吹いた気がして、それに背中を押されるようにして。
「わたし、そんなに価値の無い存在?! 裏切られても『辛くない』のって、相手がそれだけの価値しかないってことじゃない?!」
 そう言葉を投げつけた後のハクも、普通の表情だった。千尋はわけがわからなくて、花園から逃げ出すしかできなかった。
 たしかに……たしかに、自分とハクの関係は不思議な物だとは思う。自分では覚えてはいないけれど、自分が十歳の頃にこの町で出会っており、それからは夢の中でも会っていた。迎えに来られて、それから『他人』と呼ぶには近い距離に存在している気がする。
 ハクは保護者のようで、兄弟のようで、友達のようで――それらのどれよりも親密で、それらのどれよりも近くて――それらのものよりもとても複雑でわかりづらい関係の気がする。ハクが側にいるのは最初の頃からまったく不思議ではなかったのだけれど。そう感じるのも、今改めて考えればとても不思議ではあったけれども。
「……ハクのカバー」
 転がし過ぎて勢いのついた蜜柑がちゃぶ台から床へと転げ落ちても、胸のもやもやは転げていってくれなかった。

   【二】

 宴会時期にあわせて現われたかしましい旅芸人三姉妹の座敷は相変わらず賑やかこの上なかったが、そんな雰囲気に感化されない空気が千尋のまわりに漂っていたので、薮入り前の大忙し時期であるのにイズは帳場から逃げ出したくて仕方がなかった。
 薮入りまで一週間を切ったのにこれでは帳簿が整わないだろうが、ハク様にぴしっとするようにと注意でもしてもらうか、と上座に視線を転じて、見なきゃ良かったと後悔したのは次の瞬間であった。そこにもやはり異様な空気が漂っていたのだ。冷たい風が吹いているようで、なんだか『永久凍土』とも言えそうで――まぁ、こちらはいつものことと言えば、いつものことであったけれども。
 またぞろ胃腸がしくしくと痛み出してきそうで、無意識に懐をまさぐる。胃薬胃薬、持ち歩かなきゃぁ駄目だろうか――。仕事が終わったら釜爺の所に行かなきゃならんだろうか――。ぐるぐると考え込んでしまう。
「セン……」
「……はい?」
「あまりわしを苛めてくれるなよ?」
「は?」
 わかっていないし、この弟子は。


 宴会シーズンである為に普段より三割増しの忙しさの中、それでもリンは帳場のふたりの動向をそっと窺っていた。
 周囲に漂う空気は双方とも微妙に曇り空時々無意識に土砂降り状態であったけれども、仕事はきっちりとこなしているところが生真面目大真面目四角四面で馬鹿正直――要領が悪いとも言う――なふたりらしいと言えばふたりらしいが、双方が通り過ぎた後は妙にじめっぽくて従業員達はげんなりとしていた。双方とも、周囲には勘付かれていないと勘違いしているところが笑えると言うか痛々しいと言うか。
 でも、まぁ、オレがどうこう言う問題じゃないし。
 料理をたんと載せた膳を抱えながら、リンは廊下の端をふらふら歩いている千尋の後ろ姿を見やりながら思う。もう彼女は小さな子供ではないのだから、あれやこれやと手をまわすなんてしたくないし、しない。それがどんなにもどかしくとも、だ。
「リン姐さん、ちょっかい出したくなりません?」
 忙しい為に借り出された小湯女のミヤコがいつの間にやら横に来て、ぼそりと一言。手には同じように膳が、視線は同じように千尋の背中に注がれている。
「ちょっかいって……ミヤコ、出すんじゃないぞ?」
「あたし自身は手ぇだしませんけどぉ、誰かが出してくれたら面白いなぁってカンジですか?」
 って言うか、なにかあのふたりに関して情報があるのかと問い詰めてみたくなったけれど、ミヤコは眠たげな普段の表情をすこしばかりにんまりとさせて、
「黙秘権発動中」
 と先手を打った。

   ◆◇◆

 それは、巾着いっぱいに詰めてもらった飴玉の、最後の一個。
「ちぃね、メロンのアメさん、好きなのー」
 薄いセロファンのはしっこをきゅっと捻った大粒の飴玉の中でも、一番好きなモノ。透き通った葉っぱの色をしていて、口の中に放り込めば甘い味がして、嬉しい。パイン味もイチゴ味も抹茶の味だって好きだったけれど、一番好きなのはやっぱりメロン味。ついつい最後の一個を大事に大事にとっていて、とっておきの時に食べようと考えていた。
 なのに、最後の一個なのに、ふと気がついたらいつの間にか巾着ごとなくなっていて。
 あぁぁーん、おかーさぁんっメロンのアメさん、どっか行っちゃったよぉ!
 ぐすぐすと泣いても、飴玉は戻ってこない。
 ――大切な物がいつまでも手元にあるわけがないとは知らなかったあの頃。


 それは、一年に一度連れて行ってくれた、遊園地の回転木馬。
 太陽も西に傾いて、遊園地全体をオレンジに染め上げている。長い長い自分の影法師を追いかけるようにして飛び跳ねている、女の子。お気に入りの赤い靴に白いポシェットをあわせていて、それだけでご機嫌である。
「ちひろー、そんなに急いだらこけるわよー」
「だってだってぇ! おとーさんがもう帰るって言うんだもん! あといっこー!」
 女の子の周囲には明るい夕闇にキラキラと瞬くたくさんの遊具があったけれども、そんなものには目もくれずただひとつを目指していた。
 とてとてと危なっかしい歩調でようやく辿りついたそこにあったのは、華やかな上にも華やかな、メリーゴーランド。陽気な音楽を惜しげもなく振りまいて、ゆっくりと回転して女の子を手招いている。あまり有名な遊園地ではないからか、それはどちらかと言うとこぢんまりとしたメリーゴーランドであった。大人からすればもっと大きくて賑やかで派手やかな回転木馬もあるとわかってはいたが、その女の子にとっては夢のように美しくて大きなメリーゴーランドで。女の子のステップは、自然に音楽にあわせてゆらりゆらりと楽しげに。
「おとーさん、お馬さん乗るのー」
 係員がドアを開けるのももどかしく遊具上に踏み込んだ女の子は、
「おぉいちひろ、馬車が空いてるぞ!」
 との父親の呼びかけにも気がつかないほどに熱心な表情で、白い馬を一頭一頭確かめるようにしている。煌びやかな装飾を施された馬達はどれも同じであろうに、女の子は「これもちがう」「これじゃない」と呟いては次の馬へと危なっかしい足取りで渡り歩いた。その様子に係員も苦笑し、お客が少ないのもあいまって始動釦を押さないでいてくれる。
「ちひろ、はやくしなさい!」
 メリーゴーランドの外からカメラを構えた母親が女の子を叱っても、女の子は耳を貸さない。けれども、すべての馬を見終わった女の子は、さっきのはしゃぎようとは打って変わった、火が消えた線香花火よりもしょぼしょぼとした顔で父親の待つ馬車へと歩いてきた。
「あのね、あのね、前にこれに乗った時ね、いっこだけおめめの違う子がいたのに、今日はいなかったの」
 ちぃね、その子に会えるから嬉しかったのになぁ……。
 ――無条件になにかを信じて裏切られるなんて思いもしなかったあの頃。


 そんな昔の夢をみた朝は、目が覚めてもなにやら物悲しかった。
 すべてが振り捨ててきた世界の事柄であるからか――もう会えないであろう大切な存在の映像であったからなのか――または、かつて自分がそこにいた、幸せな家族の光景であったからなのか、とてつもなく泣きたくなって、千尋は蒲団の中で丸まって嗚咽を噛み殺した。自然に震える肩に両手をまわし、ぎゅっと自分で自分を抱きしめる。冬も差し迫った寒い朝、そうしているのは余計に寂しさを思い知らされる。泣きたい時は言いなさい、なんて言った相手のところには行けないこの状況も辛い。嬉しかったのに、そう言ってくれて、本当は嬉しかったのに……。
 他愛無いひとつひとつが宝物だったあの頃。最後まで持っていたメロンの飴玉。一年間も会えるのを楽しみにしていた回転木馬の白い馬。今から考えればなんて他愛無いことだったのだろう。飴玉などいくらでもあっただろうに。一頭だけ目の色が違う馬なんて、子供の目の錯覚だったのだろうに。それでも、そんなひとつひとつの他愛無い事柄が、あの子供には大切だったのだ。
 今、わたしは、大切ななにかを見失いそうになっているのだ、とふと気がついて、またもや泣きそうになった。しんと静まり返った凍える朝にも慣れなければならないのかと考えたら、心の真ん中に空洞ができそうだった。
夢と現の狭間でだけなら泣いても良いのだろうかとぼんやりと考えた。

   【三】

「よぉハクサマ、別にくちばし突っ込みたいわけじゃぁないけどよ」
 翌日の朝になってもじめじめとしめっぽい千尋の様子に、やっぱり一言くらいは言っておかなければいけないだろうかと考え直したリン。早速早朝見回りをしていたハクを捕まえてみた。なにせ、カラ元気をカラカラ無理矢理振りまかれても鬱陶しいだけなのであるし。
「なにかあったのかよ、センとの間に」
 千尋の様子が変だ、それすなわちハクとなにかしらの関係があると無意識に考えてしまうその思考回路もその状況もなんだかなぁとは思うものの、それは疑いようのない現実で仕方がないと諦めている。かわりに、ぐりぐりと多分にヤツあたりを込めてハクを問い詰めてみる。
 けれどもハクは
「……」
 ミヤコの黙秘権よろしく、だんまりを決め込んでいる。文句も言わないし嘘もいい訳も言わないかわりに、なにもリンに教える気はないらしい。
「お前、わかってんのか? センがじめじめじとじとカラ元気振りまいてるのに」
 それにもハクはだんまりを押し通していた。
「生乾きの洗濯物並に鬱陶しいんだぞ。カビが生える一歩手前の煎餅なんだぞ」
 透き通った翡翠の眸にもなんの変化もない。
「朝飯だってほとんど食ってないし」
「……」
 ポーカーフェイスもここまでくるといっそ天晴れと言いたくなるが、まどろっこしいたらありゃしない。それを無理矢理にも突き崩してみたくなる。
「……千尋、考え込んでるぞ」
「リン、その名は――」
 ようやっと貝の口をこじ開けられたと胸中でほくそえんだものの、それ以上の反応は引き出せそうになく、リンは肩をすくめるのであった。


 薮入り前で大忙しなんだからぴしっとしなきゃぁとは思うものの、気を抜くとついついぼんやりとしてしまう。
「別にショックなんかじゃないもーん。ハクなんかもういいもーん」
 ぶつぶつと呟きながらも、花園の隅に作られた東屋の軒先にちょこんと座って言ったところで誰も聞いていないし、聞いていたとしても本気になどとらないであろう。この洋装の娘の、ぼんやり具合を見てみれば。
 どちらかと言えば、秋が長く冬が遅いこの不思議の町でもあと十日もすれば雪が降るだろう寒さの中で、昼時とは言え花頭以外に遮る物もない吹きっさらしの軒先でぼんやりしている具合は、日頃風邪をひかないようにと注意している彼女にしては無防備過ぎた。厚手のブランケットを一枚ひっかけてはいるが、見るからに寒そうだ。帳場の管理人あたりが見れば確実にひとつやふたつ小言が出てきそうな状況であるのに、その姿も影も見えないのが変と言えばこの上なく変ではあったが。
 頭の中が飽和状態でなにも考えられない。それが千尋の現状だ。昨日の朝から無意識に考えて考えて出口のない迷路状態にもすでに厭きて、今はなにも考えていない。考えても仕方ない問題ではあるけれど――なにせ、ハクの言葉の意味がまったくわからないのであるから。
 リン達と忙しく掻き込んでいる朝食も箸が進まず、心配げな視線を受けるのが嫌で、昼食は賄場に言って作ってもらった握り飯とたくあんとお茶だけをもって吹きっさらしの庭に出た。けれども、機械的に口にやる握り飯を胃に納める気力もない。ここ最近色々とありすぎて、胃がきりきりとしている。なにやらよく倒れて睡眠時間だけはたっぷりとあるような気がするが、ぐっすりと眠れたのはあの水の香りに包まれて目が醒めた短い一時くらいなのではないだろうか。
『裏切っても良い』ってどんな意味が潜んでいるのだろう。ハクは優しい人だから、無意にそんな傷つけるような言葉を持ち出したのだとは思えない。直接聞きたい、それはどう言うこと? って。けれども、聞けない。怖くて。まるでこの感じは――
「ハクがこの油屋に連れてきてくれた日の言葉みたい」
『そなたがどんな決断を下しても、私はついていくよ。私はその為に生きているのだから』――わたしはハクにとってどんな存在なのだろうかと問いかけたくなった、あの言葉と同じ謎だらけの言葉で、測り難い。
 表面だけを見れば『私はそなたを裏切らないけれど』と続いたその言葉をすでに裏切っているではないかと思えたけれど、そんな上っ面だけを見て怒りを持続できるほど幼いつもりもなかった。そうなると、やっぱりわたしの存在なんてそれだけの価値でしかなかったのだろうか。わたしの為に生きていると言ったのを後悔しているのだろうか。わからない、なにもわからないけれど、どうしようもない。
 今までの数ヶ月、たくさんのことがあったけれどそれなりに生活できていた。さり気なくハクが手をまわしてくれていたのだとはもう気がついていた。どうしてわたしはこんなにも無条件にハクに寄りかかれていたのだろうか。それ以前に――なぜハクがそこまでしてくれるのかがわからなかったのだけれども。
「わたしとハクって……」
 一言であらわせば、どんな関係なのだろう?
 考えても考えても、どの謎にも答えひとつみつからなかった。

   【四】

 古い設備であるだろうに、昇降機は驚くほど静かに稼動する。

 大晦日間近の、浮かれたくった霊々の大半も酔いつぶれて眠る時刻に、ひとつだけ稼動している昇降機があった。隠れるようにして存在している、二天にたった六室だけある部屋に向かう昇降機だ。中にいるのは、その一室の住人である、帳場のハク。
 大晦日前の賑わいに乱れたくった帳簿を整理しているとこんなにも遅くなってしまった。こんなに遅ければもう誰も彼も眠っているだろう……と考える頭の隅に上がるのは、自室の廊下を反対側まで歩けばそこで眠っているであろう娘のことばかりだ。昨日と今日と千尋の様子がおかしいことなど、リンに言われずともわかっていた。なにせ、その原因を作ったであろう人物はおのれなのだから。
 今から考えればなんとも愚かしい言葉であったと思う。『そなたは私を裏切っても良い』なんて、完全に彼女に行動のきっかけを押しつけて――その行動の先にある事柄の責任を彼女に押しつけて。傷つけるのは怖いが、それよりも傷つくことが怖いのだろう、おのれは。竜と言えど、心まで鋼でできているわけではないのだ。なにかを恨みもするし、逃げる為に誰かを呪いもする。
 けれど。
「本当に……愚かしいな、私は」
 彼女をあんなにも苦しめている。自分を守る為に。
 けれども、あの時はそれ以外になにもできなかったのだ、私には。
 
 昇降機が軽いベルの音をたててとまった。

 かすかな作動音がして昇降機の扉が開けば、オレンジ色の裸電球ひとつが灯る薄暗い廊下があり、昇降機から降りて右側へとまっすぐ進めばよいのだとわかりながらも――扉が開くほんのわずかな合間に心が揺れた。この足を左に向けてみないか、と。廊下の左最奥にある部屋へと向かい、眠っている娘を抱いてしまえばいいと。誰にもとられないように、私の物だと刻み込んでしまえば良い。所詮彼女は弱くて脆い人の娘で、私は竜なのだ。人の子の意思など、竜のそれに飲み込まれてしまうであろうから……と。
 昇降機内のぼんやりとした明かりが、薄い薄い影をハクの足元に作っていて、ハクはじっとそれを見つめたまま考えていた。これはまるで私の心の影だな、と。薄暗く、常に私につきまとう、影。
そんなことに気が持って行かれていたからか、ハクは昇降機の扉が開いて勢いよく飛び込んで来たモノに気がつけず、素で『ソレ』を受け止めて昇降機の奥へと背中をしたたかに打ちつけた。なにやら鳩尾に固くて熱い『モノ』が直撃して激痛が走ったが、ハクは『それら』を確かめようと必死に視界をこらした。否、目で確かめるよりも先に、その香りで『なに』だか判断できる存在ではあったけれど。
 ほの暗い明かりの下にぼんやりと浮かび上がっている『それら』は――おのれの腕に勢いよく飛び込んできたその香りは――
「……ちひろ?」
 半分おのれにのしかかるようにしているのは、今の時刻であればとうに眠っているであろう千尋であった。今だ寝巻きに着替えもせず、洋装のままの、少女。
「……まさか、酔ってる?」
 座敷に無理矢理上がらされ、酒に酔って絡んできたのはたった数日前だ。この状況はその時とほとんど変わっていない。ただ、じっとうつむいて、顔を見せてくれないことだけが違いと言えば違いだろうか。
「……酔ってない」
 くぐもった声がそれだけを告げてくるが、ハクにはなにがなになのかわからない。千尋はぎゅっと小さくなってハクに半分のしかかるようにして身体を預けているが……その細い肩がかすかに震えていた。それは寒さの為ではなく、もっと別の原因の為に。
「……湯たんぽ?」
 ハクの鳩尾に押しつけるようにして千尋が抱えているものは、よくよく見ればどうやら湯たんぽらしい。千尋が触れている箇所とははっきりと違った感触に、ハクは状況が状況であるのに笑い声を立てそうになって困った。
「ハクっ! 笑うなんてひど……」
 押し殺したはずの笑いも、これだけ密着していれば振動でわかってしまうだろう。千尋は弾かれたように顔をあげてハクを睨みつけた。わたしが持っていたのは湯たんぽだけではないのだ。廊下には毛布だって蹴倒してある。昇降機のかすかな振動音を、隙間風の入り込んでくる部屋の戸に背を預けて、眠いのも我慢してひたすらに待っていたなんて知りもしないで――昇降機が稼動したと同時に廊下を走ってここまで来たのも知らないで――笑うなんてひどい。わからないなら直接聞けばよい。こんなくだらないことで時間を潰したり、くよくよ悩んだり――ハクを無理矢理嫌いになる必要なんてないのだから。そんな感情や決心がありありと見てとれる千尋の表情であったので、ハクはまたもや笑った。
「ハクっ!」
「だって……こんな、弾丸みたいに飛び込んでくるとは――予想もしていなかったから――」
 ひどいことを言ったとの自覚があるから、このまま離れて行かれても仕方がないと諦めてもいたのに。傷つくのが怖いくせに、遠まわしに自身のとどめをさすような、じわじわと自分で自分の首をしめているようなおのれの言動にいちいち腹立ちもしたのに――どうして彼女は。
「だ……だって! わたし、ハクの言葉の意味、全然わからないから……っ!」

 彼女は、まっこうから立ち向かってきてくれるのだろう。まるで挑むように。弱い心を暴きにくるように。

「――なにもわかっていないの?」
 諦めなければいけないのかと思った強い眸がすぐ間近にある。
「なにを?」
「私が言ったこと」
「だからわからないんだって。昨日からずっとずっと考えてた。でもわからないよ」
 ずっとずっと彼女が考え込んでいたことなど、ちゃんと知っている。
「わたし、ハクになにかした?」
 ぼんやりと物思いに沈んだり、苦しそうだったり、周囲に心配をかけさせまいと陽気に振る舞おうとしているそれらすべての原因がおのれにあると考えるのは苦しかったけれど――それ以上に、心が愉悦の色に染まるから。
「わたし、裏切られても平気だなんて思えるほどに嫌われていたの?」
 細い身体が震えているのは拒絶を恐れてなのだと、わかるから。
「……そんな意味じゃないと言っても、信用しない?」
 きっとなにもわかっていないのだ。もうそんな感情は、彼女に対しては麻痺しているのに。
「ハクがわたしを裏切るかもしれないってのも、意味わかんないよ」
 絶大な信頼。それを寄せてくれるのは嬉しいけれど。

「ハクはどうしてわたしを……」
 助けてくれるの――?

 そう続けようとした千尋の言葉を、ハクは封じた。唇で。そっと触れるようなものではなく、呼吸を奪うような、深い口づけ。
 千尋の身体がぴくりと跳ねて、ついで離れようと小さく身じろぎするが、ハクはそれをも封じ込めるように唇を追いかけた。乱暴な仕草で千尋を抱き込み、身動きを封じる。
 無防備な、薄っすらと色づいている唇を割り、舌を差し入れて絡めとる。その感触に大きく目を見開いた千尋は、どうしたら良いかもわからずに、全身に力をこめてかたまるしかなかった。ぎゅっと瞼を閉じて、その慣れない感覚に耐えるばかりだ。自分の口腔をハクの舌が弄っているのだと考えると、恥ずかしさのあまりにこの世界から消えてしまいたくなるけれど。ハクに翻弄され続け、もう自分がどうなっているのかもわからなくなってくる。とろとろと溶けてしまいそうだ。
 ハクと千尋の身体の間にある湯たんぽだけが妙に現実感があって、千尋はひたすらに手の中のそれを抱える。ぬるめのお湯を入れた小さな湯たんぽが、これは夢ではないのだと千尋に告げる唯一の存在であるかのように。
 昇降機の薄い照明に包まれてひとつに重なって落ちる影。
 壁に追い込まれていたのはハクであったが、今は千尋の方が追い込まれていた。見えざる壁に。
「は……はく?!」
 息継ぎの為だけに離れる唇。執拗に追い続けられて、千尋の足はすでに力が入らなくなっていた。くったりと身体を預けるようにして、唇をハクに貪られるままだ。予備稼動の音さえやんだ狭く暗い昇降機の中に響くのは、口づけの合間に漏れる千尋の苦しげな喘ぎだけである。湯たんぽの熱よりもはっきりと熱くなった千尋の柔らかな身体はすっぽりとハクの腕の中におさまっていて、抱きしめているのは気持ちが良かった。
 ハクが唇を解放した頃には、千尋の身体からは完全に力が抜けきっていた。もはやひとりで立ってもいられない。ハクの腕の中で震えている原因は、寒さでも、恐怖でもなく――もっと別のものになっていて。
 意識を失っているのでもなく、酒に酔っているわけでもなく、別のものに酔うようにして千尋が身体をおのれに預けている現状に、ハクは心の中で暗く笑う。紅潮した頬に潤んだ眸で見上げられると虐めてしまいたくなる。泣かせてみたくなる。千尋を生贄の羊にしたくないと思いを新たにしたのはたった数日前なのに、その数日前のおのれすら裏切ってこのまま攫ってしまいたくなる。
「私がこんなことをするなんて、思ってもいなかったろう?」
 耳元で囁いて柔らかな耳朶に歯を立てると、千尋の身体の震えが一際大きくなった。
「やぁ」
 くすぐったい、よりも強く甘い衝撃が背中を走って、千尋は小さく声をあげていた。千尋は自分の口から漏れた声にびっくりして両手で顔を隠そうとするものの、身動きもできないほど強くハクに抱きしめられていてそれも叶わない。
 深い翡翠色の眸が光の加減でか奥底に金色が潜んでみえて、それにまた千尋は震えた。まるで見知らぬ人みたいな――否、ハクはハクであるとわかるが、まるで獣みたいな眸。
「……っ!」
 細い首に唇を這わせる。淡い色をしたブラウスの隙間から立ち昇る香りはまだ固く若い娘のもので、ハクはそこを強く吸い上げた。震えに混じる怯えの色を感じ取りながらも、ハクはやめはしない。
 こんな乱暴な――ある意味千尋を裏切り続ける口づけをしたのは、あの、はじめての口づけ以来であった。あの時よりもうちに抱えた熱は暗い色を纏っていて、千尋を容赦なく追い詰めて。否、追い詰める意図をもって残酷な口づけをしている。涙を我慢している少女の表情は竜の隠れた嗜虐心を引きずり出すものでしかなく。
「ハク……やだぁ」
 身をかたくしてハクの行為を受けている千尋の眸は困惑で揺れている。震えながら、怯えながら小さく喘ぐ様子すら愛しいのに――手放す気などさらさらないのに、私は――なんて馬鹿なことを言ったのだろう。こうやって彼女をいつか裏切るのだから、彼女がおのれを裏切っても良いなどと――どちらが先に裏切るのか、この言葉を大義名分にして裏切るのかを、千尋の選択権として委ねる形にして――言霊は一度放たれればもううちには戻ってこないのに。この娘の中であの言葉はどう存在しているのだろう。確かめるのが怖い。後悔しても仕切れないのに――今この時でさえ意思とは反した言葉が口をついて出て行くのを止められない。
「嫌なのは、タスクの為?」
 鮮やかな所有の印が刻まれたことに満足したハクが呟いた言葉に、千尋ははっと目を見開いた。
「タスクが……なに……?」
 弱々しい喘ぎに辛うじて音が混じったような返答。
 タスク。なぜここで彼の名が出てくるのだろう。タスクと言えば、下働きの少年で、それ以外の関係はない。関係と言えば、千尋と同じあちらの世界出身の小湯女に告白したいのだがどうしたらよいだろうかと出身が同じだからと相談されたくらいだ。いくら出身が同じだからって、自分は人、その子はタヌキだから参考にならないよと一言の下にすっぱりと協力を断ったくらいの極薄な関係。
「まさか……勘違いしてるんじゃ……?」
「……勘違い?」
 まさか。あの、朝も早い時間、季節感の狂った花園で見かけた、親密そうな、真剣そのものの雰囲気が漂っていた、下働きの少年と千尋の会話。『付き合う』だの『告白』だのの単語が飛び交うあの場にいたタスクの目には、たしかに恋慕の情があった。それをしてなにを『勘違い』と言うのだ。
「わ……わたしっ、タスクに相談受けててっ! それも適任じゃないからって断ってたのっっ!」
「……嘘?」
「〜〜〜〜〜っ! わたしがハクに嘘言ってなんの得になるって言うのよぉ!」
 し……信じられない! と千尋は先ほどの雰囲気はどこへやら、盛大に腹を立てた。
「わたしはわたしなの! 誰も関係ないの! わたしは『千尋』って名前を持っている個人なんだから、他人なんて関係ないのっ!」
 千尋は、目が点になりすぎて思わず緩めてしまったハクの腕よりぱっと飛び退くように脱出すると、手に持っていた小さな湯たんぽをハクへと投げつけた。
 ハクがそれを反射的に両手で受け止めている間に、
「ハクなんてもう知らない!」
 と叫ぶように捨て置くと一目散に廊下の左最奥へと駆けて行ってしまって。
 ハクは――千尋の熱をほのかに宿しているかのような湯たんぽを抱えて、昇降機の壁伝いにずるずると座り込んでしまった。
「は……はは」
 思わず笑ってしまう。駄目だ、重症だ。彼女に関しては空回り、冷静な判断ひとつ下せやしない。彼女が離れていくかもしれない事柄ひとつとっても、無駄に足掻いてしまう。みっともないほどに。
「参ったな」
 そんなことは、もうとっくにわかっていたのに。わかっていたはずなのに。わかっていてもどうしようもないものなのだと改めて思い知らされて。
 さて、この湯たんぽをどうしようか。さすがに今夜返しに行ったら蹴りだされるだろうか。
 どうしたらこの上もなく損ねてしまった怒れるお姫様の機嫌を直せるだろうかと思案する帳場の管理人の表情は――どこか幸せそうであった。

   ◆◇◆

 怒った勢いで着替えもそこそこに蒲団にもぐりこんで見た夢は、色々ごちゃまぜになった夢だった。
 茜色に染まる、煌びやかな遊具の立ち並ぶ遊園地。石畳の広場の向こう側に小さな女の子の姿があった。お気に入りの赤い靴でスキップを踏む女の子がきらきらと色とりどりの光を振りまくメリーゴーランドの前でポシェットから取り出したのは、透き通った緑色の飴玉。
 端をきゅっと捻ったセロファンを開け、中身を取り出して光にかざしてうっとりと見惚れる。赤や黄色や青の光や陽気な音楽に包まれて、その飴玉はこの世のなによりもきらきらと輝いて見えた。一番大好きな、一番最後まで残していたメロンの飴玉。それは、この回転木馬にいる白い馬の目と同じ色で――大好きなのだ。
「お馬さん、会いにきたよ!」
 そしてにっこりと笑うのだ。幸せそうに――懐かしそうに。派手やかな電飾よりも煌びやかに輝く女の子の眸。
 視線の先には――華やかな光と音楽を振りまく遊具の上には、なぜかハクが立っていた。様々な電飾に照らされて、翡翠色の眸が金色に輝いてとても綺麗だ。賑やかな遊園地のそこだけが浮き上がって思えるが、ここは非現実の夢の国、白い竜の神様がいてもおかしくない。
 ゆるやかに上下しながら回転する、馬具で身を飾った白い馬や馬車を背に、ハクは穏やかに微笑んでいる。女の子がそれに応えるかのように嬉しげに両手を差し出すと、ハクは人の身を解く。メリーゴーランドよりも鮮やかな光の粒子を振りまいて。そこには白銀の鱗に水底色の鬣を持った、翡翠色の眸をした幻想の生物が存在していた。
「ハクっ」
 心底嬉しそうに笑った女の子は、ふわりと傍に降り立った竜の背に器用に乗せられて、茜の空へと舞い上がって行ってしまった。

 エメラルドも翡翠も知らない小さな子供が、あの透き通った深い水の色を表現するなんてできやしない。けれども、一番好きな、一番会いたかった存在として覚えていたなんて……。千尋は何かが掴めそうな気がした。封じられた記憶の片鱗を。ハクとの関係がなになのかを――。
 けれども夢は所詮夢。掴もうと手を伸ばしても儚く掻き消えるもの。
 千尋は、竜と女の子が飛び去った方向を、賑やかな音楽と光に包まれた遊園地の中に立ち、ただただ見送るしかできなかった。

 回転木馬は廻り続ける。あの日の女の子が少女となって会いに来てくれるのを、ひたすらに待っている。