イノセント

暮れる世界のお話
【25】




   【一】

 奉公に上がる者達が心待ちにしている時期が、年に二度ある。すなわち、盆と正月の休み、所謂『薮入り』だ。ここ油屋は、盆時期はある意味繁盛時期にあたるのでその前後の閑散期に振り分けで変則薮入りとなるのだが、年末年始はすぱっと全員が郷下がりを行っていた。
 正月は、常日頃神仏に祈る事もない人間達が唯一その存在を思い出す時期である。社持ちの神であるなら社に腰をすえ、なくとも自分達が本来いる場所に霊々が戻る為、湯治に来ようなんて酔狂な者は数を減らすのだ。本来なら奉公に上がって最初の数年は郷下がりを認められないのであるが、その間面倒を見るべき経営者が率先して油屋を留守にする為、年端も行かぬ下働きや小湯女が郷に帰って里心がつく云々の配慮はなかった。
 そんな薮入りが、今年も油屋に迫っていた。
「えーと、これで全員かな?」
 千尋は手にした冊子に最後の名前を書き入れて、上からひいふうみいと数える。
「全員居なくなるかと思ったら結構いるのね、居残り組み」
「まぁ、郷に帰っても誰も居ない奴とか、郷に帰るわけにも行かない奴とか、めんどくさい奴とか、お前みたいなヤツとか。事情は様々だからな」
 千尋の手元にある居残り組みの名簿を覗き込み、今年はそれでも少ない方だぞとリンが言う。
「毎年毎年残る奴は決まってるけどな。あっちの世界のヤツ等は大概そうだし。筆頭はハク、父役だけど」
 ハクと父役が居座ることになってから数が減ったとお姐さまが言ってたなとリンは腕組をしつつ言う。
「薮入りにまで上司と顔をあわせるかもしれないなんてのはヤだからなぁ。ちょっと小金がある奴は旅行にでも行ったりするんだってさ」
「……河童見学とか?」
「河童見学とか」
 千尋は、つい最近河童やその他のぬいぐるみに埋もれて悪夢を見たことに対してあてこすってみたのだが、リンにはそんな遠回しな攻撃がわかるはずもなく。普通に普通に返されてしまった。
「……リンさんはどうするの?」
「あぁ、あたいは郷に帰るよ」
 帰らねぇと五月蝿いのがいるからさぁとリンは心底辟易した声色で、後ろ頭をがしがしと掻いた。
「帰ったら帰ったで五月蝿いけどな」
 やれ奉公なんてやめて早く帰って来いだの見合いの席を設置しているから来いだのと五月蝿いのだ、特に――父親が。
「そんなの親にオゼンダテされなくてもなんとかするって言ってんのに、親父ときたら五月蝿くってッ!」
「可愛くて仕方ないんでしょ、お父さん」
 千尋はぶつくさ呟くリンを目を細めてみた。自分の前で禁句とも言える親の話をぽんぽんと出してくるリンが好ましかったからだ。変に気を使って話題をはぐらかされるよりは嬉しかった。自然に相槌を打てるので。それに、この油屋には親がいないなんて者はたくさんいる。親に売られた者もいるし、二親ともあっけなく死んでしまった者だっている。生死不明の者だっているのだ。そう考えると、少なくとも自分の両親は生きているとわかっているからひとりだけ不幸ぶったりはできないし、するつもりもなかった。
 そう考えている千尋は、リンが心の内で安堵の息をついていることなど気づきもしなかった。なんだ、こいつ、やっと元にもどったな。じめじめの後の無駄にカラカラカラ元気を振り撒いている鬱陶しい状態も終わって、普段通り。誰となにがあったなんて別に聞きはしないけれど。そんなの、当人同士の問題であろうし。そこまでくちばし突っ込みたくはない。
「さ、薮入りまであと三日! ばりばり働くとしますか!」
 白い襷を取り出して手際よく襷がけし、じゃがんばれよと手を振って去ったリンの背に、千尋は盛大なため息をついた。薮入り前と言えば大繁盛期、そして帳簿の締め切りの時期である。千尋は帳場に帰ったら待ち構えているだろう仕事の山を考えて、もうひとつ大きなため息をついたのであった。

   ◆◇◆

 一心不乱に仕事をしていると、あっという間に三日など過ぎ去ってしまうものだ。気がつけばいつもは人で溢れかえっている油屋から人の気配が消えてしまって、千尋はひとりで茫然としていた。遅くまで押した帳場仕事からようやく解放されその分とばかりに惰眠を貪っている間に、あれだけいた従業員達は郷下がりの途についてしまったらしい。昇降機前のぴかぴかに磨き上げられた廊下にぽつねんとひとりで立っているのは、妙に間抜けであった。
 気まぐれで起きる日蝕事件の際にすこしはやい正月休みをもぎ取ってきた日向とその母親は、さっさと遠くにある別荘へと赴いたらしい。日向がいない証拠に、彼が転ぶといけないからと煌々と灯されていた照明もほとんど落とされ、窓から差し込む光しか光源がないので、普段と違って油屋内部は薄暗かった。
 とりあえず小腹がすいているなと思いついたのであるが、以前ぼや騒ぎがあったらしく、賄場の火を使う事は湯婆婆の厳命で禁止されていた。かわりに、町の定食屋から人数分の食事が賄場に届く手はずになっている。外に食べに行く者は、その一回前の仕出しで報告すればその回の食事はひいてくれる制度になっていると自分が説明をしたのだっけかと千尋はぼんやりと思い出す。満足に台所に立ったのは銭婆の家と家庭科実習くらいだと考えてみれば、ガスでも電器コンロでもない賄場を勝手に使ってなにができるかと言えばぼや騒ぎか真っ黒な炭の固まりかとも思う。自分で考えて妙に不機嫌になった。
 とにかく朝ご飯を確保しに行こう、と賄場に向かっている途中で、千尋は見慣れた姿を発見した。油屋内で仲の良い小湯女や女中、そしてひとりだけ格好のちがうセリカであった。郷に家族はいないと言っていたし、郷に帰る気にもならなかったのだろう。そう言えば、彼女達の名前を名簿に書き込んだ記憶がある、と思い出す。なんだか妙に嬉しくなった千尋であった。
 それから皆して賄場へと行き、めいめい食事を確保するとそのままなんとなく女部屋へと足が向いた。同じ年頃の娘達同士、固まればやることと言ったらひとつしかない。おしゃべりに花を咲かせるのである。
 狭い部屋に炬燵をふたつ持ち込んでぎゅうぎゅうとおさまり、双六をしてトランプをしてもごもごとみかんや煎餅を食べる。油屋のあるなしごとを喋り倒し、時には上司や仕事への愚痴を言い、また他愛無い話へと転がっていった。石油ストーブのやかんをどけ、餅を焼いて食べもした。ぷっくりとふくれた餅に定番の砂糖醤油や海苔を巻いて食べる。賄場からくすねてきた納豆を挟んで食べるとこれもまたおいしいのだが、なかなかに好き嫌いの差が激しくて論争になったりもする。
 やがてお腹もくちてしゃべりつかれ、炬燵のぬくもりでくうくうとひとりが船を漕ぎ出すと、つられた様に次々と昼寝の海に落ちていく娘達。
 石油ストーブの上で、しゅんしゅんとやかんが蒸気を噴き出しているのが子守唄。


 炬燵の天板に腕で顔を囲むようにしてつっぷしていた千尋が目を覚ましたのは、背後から聞こえるカタカタと言う音であった。
「??」
 寝ぼけ眼で振り向くと、それはどうも石油ストーブあたりから聞こえるらしい。千尋はもそもそと炬燵から出て、這うようにしてストーブへと近づいた。よく見ると、勢い良く噴き出していたやかんからの蒸気がなくなっていた。どうりでいがらっぽいはずである、加湿もなにもあったものではない。千尋はぼーとした頭のまま、石油ストーブ脇に置いてあった小さなやかんを持ち上げた。中には継ぎ足し用の水が入っていたので、とりあえずストーブの上に置いてあるやかんにこれを入れ、もう一杯小やかんに水を汲んでくればよいだろうと考えて勢い良く水を流し込んだのであるが――途端に、ガランガランゴロンと大きな音を立てて石油ストーブの金属部分に何かがあたり転げていく音がした。
「ナニ?!」
「なんの音?!」
 その音に、すやすやと昼寝を楽しんでいた娘達が跳ね起きた。そして音のした方向へと一斉に視線を向ける。と、そこには、やかんを持ったまま茫然としている千尋の姿。
「あ……ごめん、やかん、壊した」
 石油ストーブの上に置かれた大やかんは、空焚きのまま熱せられ、そんな中に水を急速に入れた為弱い接続部分である注ぎ口が外れてしまったのだった。ストーブの上にあるやかんは、丸に近いなんの用も足さない物体と化していた。同様に、なんの用も足さない物体と化した注ぎ口が転がっている。
「うわぁ! セン様がやかん壊したぁ」
 一瞬の沈黙の後、なんとも言えない笑いがその部屋に満ちた。普通ならこんな間違いをする者などいない、けれどもこの帳場の娘であればそれも有り得るかもと皆が思ったのだ。
「とりあえず、笑ってても仕方ない問題がひとつ残ってるよ」
 微妙な笑いの後に、小湯女のミヤコがぼそり、と。
「そうそう。始末書、書かないとダメですよ、セン様」
 やかんないと困りますからねー、始末書書かないと新しいの買ってもらえないし、修理もしてもらえないんですよーと娘達が言い募る。
「年の終わりに始末書なんて……」
 なんてついてない、と千尋はうめく。
「今年の嫌なコトは今年中に終らせるに限ります! さっさと書いてさっさと提出して、晩ご飯も一緒に食べようね」
 石油ストーブ前に手をついてがーんと落ち込んでいる千尋の背を思い切りよくひっぱたき、女中のひとりがそう言った。
「提出……??」
 経営者のいない今年中にどうやって提出するのだ、どうやってと思っていると、
「ナニ言ってンですか。始末書提出と言ったらハク様ですよ。セン様と同じ階にハク様の部屋もあるんだから、寝しなにでも提出すればいいじゃないですか」
 提出は楽ですね、なにせ同じ階なんだし、行き慣れてますよね、との娘達の言葉に、千尋の顔色が赤くなったり白くなったりする。
「そう言えば、ハク様の部屋ってどんななんですか? ほら、上役の部屋には行っちゃいけないって言われてるんで謎なんですよねー」
「あの性格から考えるに、埃ひとつ落ちてない見事なまでに殺風景な部屋?」
「意表をついて案外乱雑にしてるとか?」
「それってちょっとかわいいかも」
 セン様が一個一個後ろから片付けて歩いてたりしてーときゃぁきゃぁ好き勝手に話し出す娘達の言葉など、今の千尋の耳には届いていない。
「や、だからわたし、ハクの部屋行ったことないって言うか行きたくないって言うか……」
 人外魔境だったら嫌じゃない? ハクの部屋なんて。そんな千尋の小さな呟きは、もちろん娘達の耳にも届いてはいなかった。
千尋の幼馴染である和樹の妹がかつて
『首からぶら下げられたプラ・カードの文字なんかより、雰囲気とか匂いとかの方がよっぽど信用できる』
 と言っていたが、付き合っていると同意してもいないし公言もしていない現在のハクと千尋の関係を周囲はどう考えているか。理解していないのは千尋ひとりであるのかもしれない。

   ◆◇◆

 とりあえず、千尋は娘達と別れ、部屋に戻ってひとり寂しく始末書を書き上げて、さてどうしようと悩んでいた。たしかに彼女達が言うように、自室の廊下をまっすぐ反対側まで歩いていけばそこにハクの部屋はあるのだが、なんとなくそこに行くのが嫌だった。特に意味もなく、廊下の中央にある昇降機から向こう側に行くのをずっと躊躇っている千尋である。
「だって、男の人のエリアだもの」
 今時にしては珍しい程にその様な点を重視する躾けを受けていた千尋は、無意識に近づいてはいけない場所であると認識しているらしい。女のひとり部屋である千尋の部屋に散々ハクは入り込んでいるのであるが、最初にハクに連れられて来た記憶がある為か、その点にはさっぱり気がついていない千尋であった。それ以上に『ハクの部屋』だと考えるとどきどきとして足が進まなかった。それは、ハクから口づけをうけたあの日から顕著になっている心の動きだ。
 ぺらぺらと始末書を眺め入り口を眺め、ふうとため息をつく。仕方なしに腰をあげ部屋を出て廊下をとぼとぼと歩くものの、昇降機前で足は止まりそれから動こうとしない。ぼんやりと照らし出すオレンジ色の裸電球はいつものように鈍く光っている。
 千尋は昇降機脇のスイッチをおもむろに押して稼動させると、なぜかそれに乗り込んだ。相変わらず意気地が無いものだ、なにもこだわることなどないだろうにとは思うものの、やはり無理なものは無理であるのだし。ひとり納得して昇降機の下降する音に身を任す千尋であった。
 やってきたのは、元の大部屋。千尋を迎え入れた娘達は、たかが廊下の反対側まで歩いて行くのに散々悩んだらしいげっそりした千尋の様子を感じ取って茶化せるだけ茶化した後に、またもや双六をしたりして時間を潰し、町から届いた夕食を確保して部屋へと引き上げた。
「でもセン様、その始末書、さっさと提出した方がよくないです?」
薄いたくあんの切れ端ををぽりぽりとかじりながらの誰かの質問に
「めぐりあう時はめぐりあうモンです。その時渡すわ」
 憔悴しきって逆に投げやりになったその千尋の言葉に全員で苦笑した。めぐりあう時はめぐりあう。きっとハク様の場合、めぐりあわなくても良い時でもめぐりあうように仕向けるんじゃないかとも思うけど、とは誰の感想か。娘達のハクの印象は、どうもその様な感じで一致してしまっているらしい。千尋がいなかった頃とは百八十度くらい雰囲気が変わったというのが本音である。あくまで彼女絡みに限って、であったが。普段はなんにも変わらない、相変わらずの『ハク様』であったけれど。
 そうこうしている間に年が変わる瞬間が近づいてきて、ぱらりぱらりと娘達は元の部屋へと戻り始めた。常ならまだ就寝には程遠い時間ではあるのだが、薮入りの間は電気代節約の為に消灯時間がはやくなる。そうなったら後は寝る以外にないのだ。部屋に帰ったところで、普段より広いスペースにはじめの頃だけよろこんで、後は部屋の隅で小さく丸まったり、数人寄り集まっていつものようにぎゅうぎゅうとして眠るのであろうけれど。
 千尋は余りの蒲団があるから一緒に寝ませんかと小湯女達に誘われたが、秋の半ばにお泊りと称して小湯女達に混じって寝てみたもののいびき歯軋りの凄まじさに辟易した記憶を掘り出して丁寧に辞退した。よっぴいてのおしゃべりはたまらなく魅力的であったし、あちらの世界であればなにかしらのイベントがある大晦日をひとりで過ごす現状に一抹の寂しさはあったけれど。

   【二】

 大部屋を出て急勾配の階段を上がって誰もいない客室の階へと辿りついた頃、かすかに鐘の音が聞こえてきた。しんと静まり返った、大気中の水分がちらちらと凍えていきそうな冬の空を渡ってくるその音に、千尋は立ち止まって耳を澄ませる。どこで鐘をついているのだろうか。たしかに聞こえるその音は、なぜか一方向から聞こえず、今度はあちら、次はこちらと移動している気がする。これも不思議の世界であるからだろうか。
 千尋は廊下の障子を開け、その外側の窓硝子も開け放した。ぬくぬくとした大部屋から出てきた体に寒風が吹きつけ柔らかな頬がみるみる赤らんでくるが、千尋は構わずに身を乗り出す。さて、今度はどの方角から鐘が聞こえるか、ひとりで賭けをはじめた。
正面玄関とは逆の方向の窓であった為、眼下は広々とした草原、頭上には冴えた月明かり。月の周辺から徐々に色を変え空を彩る夜の闇。時折強く吹く風が、庭に咲き乱れる花の香りを鼻先へと運んでくる。
 あぁ、これは、夢で見た光景だ。または、どこか――それとも過去にここで見た光景なのだろうか? 今となってはどちらが先であったのかもわからない千尋は、窓枠に頬杖をついて瞼を閉じた。
 ごぉぉぉぉん――……
 除夜の鐘は百と八つ鳴らされる。同じ数の煩悩を清めてくれるのだ。
 ごぉぉぉぉぉ――ん――……
 煩悩の数は一0八個と言われているが、その説は様々で千尋にもよくわからない。ただ、色々知った中で、一0八回中の一0七回目は煩悩が浄化された宣言をする為に年内に鳴らされ、最後の一回は欲に悩まされないように目覚める、の意味を持って新年に鳴らされるとの話だけは気に入って覚えていた。こうして除夜の鐘を耳にしていると、新しい自分になれる気がしてくる。
 ごぉぉぉぉぉ……――ん――――……
 花の香りを連れた幾度目かの鐘の音が鳴り響く。と、その鐘は別の『者』も連れてきたらしい。ひとりでぼぅとしていた廊下の先に人の気配を感じて目を開けると、闇の中にぼんやりと浮かび上がる白い衣の主がいた。障子をほの明るい白に染めている冬の月光の中に埋もれるようにして存在しているのは
「ハク……?」
 明かりも持たずに静かに歩み寄る竜の青年であった。
「そなたはどこででもぼんやりとしているね。今日はなにを見ていたの?」
 千尋はその物言いにくすりと笑った。
「今日は宵の明星を見ていたの」
 茶目っ気を出してみたものの、これもまた納得し辛い言い訳であると思う。
「夕方からここにいたのかい?」
 ほら、やっぱり納得されない。
「ウソです、うーそ。ほら、除夜の鐘が聞こえるでしょ」
 そっと場所を半分空けると、するりとハクがそこにおさまった。冬の冴えた空気に、それだけの動作で水の清かな香りが混じる。
「ハクはなにをしていたの?」
 狭い窓硝子一枚分にふたりがおさまろうと思ったらどうしても体の半分は重なってしまう。ハクは千尋の背にそっと寄り添っていた。まるでぬくもりを分け与えてくれているように千尋には感じられ、背を守ってもらう安心に包まれて、ふわりと笑う。同時に、数日前の、あの昇降機での出来事を思い出してしまってどぎまぎもしてしまうけれど。あれはもう、事故だと思い込もうとしている千尋であった。
「居残り組みに火の始末の注意をしに、ね」
 湯婆婆様もいない薮入り中は私が責任者だから、とハクは苦笑する。
「おかげで、皆のように遠出もできないのは辛いね。そなたをどこかに連れて行ってあげたかったのだけれど」
 日帰りならなんとかなるけど、とのハクの言葉に千尋は首をふった。
「折角のお正月なんだから、そんな無理しなくてもいいよ。ね、ハクはお正月なにするの?」
「……ずっと積み上げて置いていた本の読破、かな?」
 遠くでまたひとつ、鐘が鳴った。
「……ハク、積読するのね」
 ハクが知らない単語が出てきたが、なんとなく意味はわかった。
「なかなかまとめて時間が取れなくて。後回しにしていたら、いつのまにか小山になってしまう」
「どんな本? 面白かったらわたしも読んでみたい」
「そなたの苦手な草書体だけど?」
 それを聞いて千尋はむぅとむくれた。活字に慣れている千尋にとって、筆で書かれたものほど困難なものはない。それが達筆であろうと、なかろうと。まだ漢字にカタカナ混じりの方が読みやすかったりする。常連化している貸し本屋でも露骨に草書体の本を避けている千尋の言い訳は『これはおじいさん向け、ハク向け』であるらしい。それを知っているハクは、千尋の頭上で低い笑い声を必死に堪えた。
「そう言えばねぇ! 皆でハクの部屋はどんなだろうって言ってたの」
 そんなに笑ってると皆で強襲しちゃうよ! とハクの笑い声を止めたくて必要以上に大きな声で話題をはぐらかしてみる。
「それは困る。私の部屋は結構乱雑だから。皆の夢を壊さない為にも、他の者はいれたくないな」
「誰もハクの部屋なんて入りたくないと思うから、安心してください!」
 それ以前に誰もハクの部屋に夢なんて持ってません、と唇を尖らせると、ハクがじっと押し黙った。また、遠くで鐘がひとつ鳴る。
「――……そなたも?」
 その言葉に、千尋はどきりと心臓が大きく跳ねたのを感じた。まだ笑いを幾分含んではいたものの、低く掠れたハクの声がすぐ耳元で聞こえたからだ。昇降機前から右側に行けないで突っ立っている時のどきどきと同じ感覚に千尋は躊躇った。あの昇降機でのやりとりからそのどきどきは加速して仕方がない。けれども、躊躇っていても、ハクの腕と言う籠の中にいる現実に変わりはない。女性以上に奇麗で、秀麗な美貌のハク。だからと言って彼が女であるわけでもなくて。れっきとした男性で。そんな彼の腕の中にいるのは女である自分で、男女がわけもなくこんなに密着しているなんて普通はないのだろうし、ならばどうしてこうなっているのだろうかと考えれば自分が無防備だからなのだろうかとの考えに行きつくけれど。
 どうして誰も通りかからないんだろう、と千尋は焦った。少ないとは言え居残り組みがいるのにぃ、ここは客室の廊下なのにぃと心の中で叫ぶもののなんの変化もない。もしやハクが結界でも張っているのだろうか、ありえない話ではないかもしれない。
 千尋はわたわたと自由になる前身ごろあたりを意味もなくひっぱったり延ばしたりして、ふと上着のポケットに入れた始末書に気がついた。
「ハクっ、ハク、あのね、これね、始末書!」
 絶対に赤くなっているであろう顔を見られたくなくて、体を捻りもせずに手だけを持ち上げて始末書をハクの胸元に押し付けてしまう。この変な雰囲気さえ壊せればもうなんでもよかった。煩悩を払う除夜の鐘が響いているのに余計な雑念が多すぎる、と千尋はひとりでつっこむ。
 胸元に押し付けられた始末書を開いて、またもやハクが笑った。
「そなたから貰う文はいつも色気がないな。少しばかり、寂しい」
 いつぞやの請求書やら、今回の始末書やら。すこしは、こう、艶っぽい文などもらいたいものであるのだが、まだまだ先は長そうである。
「……ハク、わたし以上に除夜の鐘が必要なんじゃない?」
 そう? とハクは尚も笑っていた。どうにもこうにも笑い上戸だ、と千尋は思う。低くて心地のよいその声はけして嫌いではなかったけれど。体を包み込まれるようなこの体勢で低く笑われると、とてつもなく安心してしまう。こちらの体にまでその波動が浸透するようで。
 ごぉぉぉぉぉん――……
 一際大きな鐘の音が聞こえたかと思うと、遠くで花火が上がった。ドンッドンッと空気を揺るがし、花火が打ちあがる。赤や青や黄色の火の花が咲き乱れた。
「年が明けたのね。明けましておめでとう!」
「おめでとう。今年もよろしく」
 火の花の残滓が夜空に白い放物線を描きながらとけ去るのを待って、どちらからともなく交わす挨拶に、これがはじめての新年の挨拶なのだと考えたら千尋は不思議な感じがした。ハクとはもうずっと昔から一緒にいる気がしていたが、実際は夏の終わりから数えて四ヶ月にも満たないのだ。かすかに残った夏と、秋のすべて、そして冬の入り口をすこしばかり過ぎた今の時期だけしか共に体験していないのだと考えればとても不思議であった。こんなにも近しく感じるのに。
「初詣……」
 年の初めに、あちらの世界では欠かさずに行っていたイベント。
「初詣行こうにも、こっちには神様のお社ってないんだってね」
 先ほど娘達に初詣はどうするのと聞いたらそう答えが返ってきたのを思い出した。
「あぁ、こちらの世界には奉られる存在である『神』はいないらしい。だからこそ、霊々がこちらに入り込んでこられるのだけど」
 除夜の鐘はどこかの町で行っているイベントなんだよとハクが続けた。明確なる『神』の存在がない為に、命すら満足に育めず、異世界から迷い人を引き入れやすく、記憶すら残りにくい儚い世界でもあった。そんな世界に『神の社』があるわけがない。
「でも、神様はいるって聞いたよ? ほら、あそこあたり、星がまったくないでしょう?」
 と、千尋は地平線にほど近い空を指し示した。明るい月光にも負けない糠星が空一面に広がっている天に視線をやると、なるほど、そのあたりにだけ星がなかった。
「あそこにはねぇ、世界のはじめに存在していた神様の亡骸が奉られているんだって聞いたの」
「……はじめの神?」
 見えない星の名前じゃぁノーカウントよねぇと続けた千尋の言葉に、ハクは気取られぬ程度に眉をひそめた。色々な書物を読み漁っているハクではあったが、こちらの世界の『神』についてその様な話を読んだことがなかったからだ。大概『神』については『神話』として語り継がれたり記録が残っていたりするのであるが、湯婆婆でさえ『神は存在していない』と認識していたはずだとハクは考える。どの書物にも『神はいない』と記録されていたのだし。
「そう、はじめの神様。名前のない悪い神様と戦って、その体や魂が粉々に散らばってこの世界ができたんだって。それで後の世の人達が、そのはじめの神様の姿を星座にして空に奉ったんだって。真っ黒な神様だったから星は見えなくって、『ングヴェイ』と言われているらしいんだけど」
「……ヴェイ?」
 ハクは千尋が口にしたその名前をうめくようにして口にした。千尋は様子のおかしいハクを、体を捻って見上げる。ハクは厳しい目で見えない星座をにらみつけるようにしていた。
 忘れられていたのか、花火が一発夜空に咲いた。赤い花であった。千尋にはその花火がこれから襲い来る嵐の幕開けにも感じられて、自分を抱きしめるようにして身震いをした。