イノセント

謹賀新年
【26】




 新しい年の第一日目は、それが普段と変わりない天気であろうともどこか清々しいものだ。
 ハクは自室の窓を大きく開け放ち、新しい空気を取り入れる。油屋よりも高い建造物は周囲にないので、常に遥か遠くの景色が眺められるそれは上階に部屋を持つ上役の特権のひとつでもあった。
 さて、とハクは、積み上げていた積読書の山から一冊を無造作に取り上げて、ぺらりとめくってみる。新年ともなれば居残っている上役として一言挨拶でもしなければならないだろうかとも思うけれど、従業員達に煙たがれている存在でもあるとわかっているのでいつもなにもしない。薮入りは休暇でもあるのだし、と意識を手の内の本へともどした。
 たしかこれを買い求めたのは、遠くの町に出張した時だったはずだ。あの時の季節は春の終わりで読むのが冬の初めである今だと考えると、千尋流の言葉にすれば『積読魔』になるらしい。そう言えば、これを買い求めた時にはまだ彼女はいなかったのだと考えれば――この本の山々ができた経緯が、例年よりもその山が高い訳が、彼女がここに来た為に忙しくそれどころでもなかったと考えれば――なんとなしに嬉しくて笑みが浮かぶ帳場の管理人。
 部屋の中では水場で煮立てている鍋がくつくつぐらぐらとしており、窓の外には新しい年のはじめにふさわしくうらうらとした光が降り注いでいるのであった。

   ◆◇◆

「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
 経営者もいないのんびりできるお正月であるのに、哀しいかな早起きが身についている油屋の従業員達はほとんどいつもと同じ時間帯に起きだしていた。仕事の日にはいつまででも眠っていたいのに、眠っていて良いと言われるとなぜかいつまでも眠れなくなってしまう、哀しい性分であった。その為に、朝も早い時間からそこかしこで新年の挨拶が交わされている。男集は懐の金を吐き出して祝い酒と洒落込んでいたりもするのであろうが。
 千尋もいつもと同じ時間帯に起きだして、昨日入り浸っていた女部屋へとやってきていた。居残っている女中や小湯女達が打ち揃って頭を下げ新年の挨拶を交わす様子は、いつもと同じ朝に思えてもやはり特別な朝である。
「さて、ではそろそろ」
 賄場から朝食を持ち込んであらかた食べ尽くした頃、女中のひとりがにやりと笑った。それに同じようににやりと返した一同は、片付けもそこそこに、普段は勝手に使えもしない宴会場の一室へと乗り込み、部屋の隅に積み上げていた座蒲団を並べ、その他諸々を持ち込んでなにやら準備をはじめてしまう。
「それでは――」
 小湯女の中でもとびきり声の通るイチが、こほんと咳払いし声を張り上げる。
「新春・百人一首大会!」
 途端に、三組にわかれた女達から
「いえーい!」
 と合いの手が入り、
「第一回戦、はじめまーす!」
 またもや『いえーい!』と合いの手が。女部屋で今流行りの言葉なのである。
 それを広めた千尋も同じように合いの手を入れながら、
『しまった。すっごい違和感がある!』
 と心の内で冷や汗をかいたのであった。

   ◆◇◆

 じっくり丹念に煮ていた大鍋に満足げに頷いて、ハクはそれを持って階下へと降りてきた。すると、なにやら、誰もいないはずの客間がやけに騒がしい。
 足を忍ばせてそっと宴会場を覗いてみると、そこにはなぜか居残り組みのほとんどが集まっていた。男も女も入り乱れ熱心になにをやっているのかと思えば、上座で小湯女のイチが歌を読み上げている。どうやら百人一首大会であるらしい。
 娯楽に乏しい不思議の町、しかもその数少ない娯楽場も正月は完全休業だ。自然やることとなったら惰眠をむさぼるか札遊びかくらいしかなく、百人一首大会の賑わいを聞きつけて男集も集まってきたらしい。そこまではハクにもよくわかる経緯であるし、場所については一言言わなければならないだろうけれどそう目くじらを立てることでもないとも思うのだけれども……表面だけ見ていれば、新春らしい、雅やかな娯楽に思えるのだけれど……
「それではー、第五十三回戦をはじめまーす!」
 野太い男の声も混じった『いえーい!』の合いの手が入ったりなんだりで、ハクは呆気に取られた。奇妙な合いの手も変だが、五十三回戦とはなんなのだ、五十三回戦とは。従業員達の娯楽って一体……と少しばかり遠い目になる帳場の管理人、従業員達との深い溝をこんなところから知らされてしまって愕然ともする。しかも上座には『第一・二・三・四・五回トーナメント優勝者』座席が存在し、小湯女のミヤコがいつも通りの眠たげな表情で赤い座蒲団に座って大会を眺めていた。その余裕の様子は『クイーン・ミヤコ』と看板しょっているような。
 そんな、魂が半分抜けかけたハクの存在に気づき、ついでなにやら甘い匂いが漂っていると気がついた従業員達が次々にハクを振り仰いだ……ままで固まった。なにせ、口煩いハク様にこの状態を見られてしまったのであるし、新年早々お小言かと思ったのだ。
 いつもは新年中姿も見せないハク様であるのになぜ今回に限って現われたのやら、しかも似つかわしくない大鍋を持って。甘い匂いを振りまいて。
 そんな従業員達を代表して声をかけたのは、やっぱりと言うか当然と言うかそれ以外有り得ないと言うか、千尋であって。
「ハク様、どうしたんですか? その鍋」
 なにやら甘い匂いがするし……甘いと一言で表現するよりは『美味しそうな甘い匂い』が正確であるけれど。
「あ……あぁ、昨日の晩に『辻石』から善哉が届いてね。賄場では目が届かないからこちらで温めたのだけれど……そなた達、食べるか?」
 なんとなく半眼になってハクを見つめてしまう千尋。『予約餡受付中』の言葉が脳裏に甦ってしまう。まさか……まさか、ね。ハクが『予約餡』の常連でもあったなんて考えたくもないので『まさか、ね』で思考を無理矢理に断ち切っておく。まさかまさか、今まで自室で嬉しそうに鍋をかきまわして善哉を作っていたなんてね――まさかね。将来の夢は甘味処経営だったりして、なんて冗談でも聞けない。
 そんな危機感を抱いている千尋をひとり置き去りにして、『善哉』の一言で『ハク様にみつかった』ことなど忘れ果てた従業員達は、普段よりもきびきびとした動きで汁椀やらを用意して善哉を配り始めた。
 いつもと同じ正月でいつもと同じ上司なのに、今年はどうしたのかと男集は首を捻りながらも受け取った汁椀を黙々とすする。
 女集はハクから遠く離れた部屋の隅で頭を突きあわせてさっぱりとした甘さの善哉を味わいながら
「ホントはあたし達に食べさせたいんじゃなくてセン様に食べさせたいんでしょ、ハク様ったら!」
「やることがいちいちきゃわいいよねー」
 と囁きあっている。『かわいい』でもなく『きゃわいい』と言われているところが、彼女達のハクのランクが現在どうなっているのか如実に現われている点であろう。
 小湯女のミヤコはハクと千尋を遠く見やりつつ汁椀を傾け
『……『辻石』の味付けと微妙に違うからばればれですよ、ハクサマ』
 とか思っていたり。
 どうやら男よりも女の方がそのあたりは聡いと言うのは本当らしく。

 そんなこんなの、おめでたい、いつもとは微妙に違う年明けなのでした。