イノセント

狂い風の中
【27】




   【一】

それは、人の子である荻野千尋が不思議の町に迷い込み、魔女との契約を解除して元の世界に帰った冬のこと。
 油屋は不穏な空気に包まれていた。従業員は怯えきり、湯治に訪れた霊々はあまりの気味悪さに早々に油屋を後にした。普段と変わりない活気に満ち溢れ、霊々は癒されて元の世界へと帰っていったが、微妙な違和感はずっと油屋中に根付いていた。
 湯婆婆は、従業員や客達から滲み出る恐怖を半眼で見つめ、『天』の窓より赤い時計塔を眺めやっていた。大きな満月が時計塔にかかり、上部より白々と照らしている。下部では店の明かりが黒い水面にたふたふと煌く。視線をもう少し近くに転じれば、黒い影や霊々が下町に蠢いている様子が見て取れた。それは、彼女がここに油屋を開いた時から変わらない光景に思えたが――半眼で見つめる眸には、空気が擦れあい悲鳴を上げる時に発せられる呪いの色さえ映し出されている。赤い時計塔から唸るような風が吐き出されており、それは世界の隅々に行き渡るようであった。広々とした草原を我が物顔で荒らしまわっている狂い風。
「これだけの唸りだ。勘の鋭い者なら発狂もしよう」
 すでに従業員の幾名かは蒲団から起き上がれない状態だとの報告を受けていた。霊々の動揺も著しく、このままでは悪評が立ちかねない。大気中を暴れまわっていた風の一片が、なにを思ったか湯婆婆の右肩に襲いかかろうとした。それをぱしりと手で払いのけ、湯婆婆は油屋に張り巡らせた結界を強化する為に呪を紡ぐ。
 この風は――あのひょろひょろな娘を求める『世界』の唸りであるのだと湯婆婆にはわかっていた。古い知識を連綿と受け継ぐ魔女であればこそ知っている『世界の理』のひとつ。この儚い世界は、みずからの意思で帰った千尋を『奪われた』と認識して泣いているのだ。
 呪文を唱え終わると湯婆婆は人差し指を一振りして窓をぴったりと閉め、ついで古い本を取り出し、天井から吊り下げた房付きの紐を引いた。
「良いだろう。お前が蒔いた種だ、お前に刈り取りさせてやろう」
 あの娘を『世界』に返すか。または『世界』をお前が宥めるか。あたしが鍛えた弟子の力量と――お前の決意の程を見せてもらおうじゃないか。夏のあの日、師であるあたしに八つ裂きにされても構わないのかと問われても表情ひとつ変えなかったお前の決意を、結果としてここにあらわしな。
 湯婆婆は椅子にゆったりと座り、登ってくる弟子を待った。『世界の泣き声』にしてはその影響力がやけに甚大であるとの点にひっかかりを覚えながらも――
 
   ◆◇◆

 重く沈んだ銀の空は冬特有の色。今にも舞い降りてきそうな危機感をはらんだ雪雲と、身が凍える程に冷たい北からの風。それらを引き連れてここまで来たのは誰であるのか。
 ハクは曇った視界を明瞭にしようと目をこらし、銀色の向こうを睨むように見ていた。
 またこの夢か――ハクは冬の景色に塗りつぶされたその世界の中で思う。冬の訪れとともに見るこの夢は、もはやハクにはなじみの物であった。冬の数で言えば五回目。それはとりもなさず、千尋が帰ってからも五回目の冬であると言う事だ。
 この夢を見始めるまでは、よく河の流れに乗り河をおさめる過去の夢を見ていたとハクは思い出した。あの、もう二度と戻らない過去の夢も更なる過去と成り果てて、夢で見ることもなくなった。なによりも誰よりもおのれに近しかった水の流れよりも、現在ではこの冬の夢がおのれの傍にあり続けているのだと考えたら、これは過去を刻一刻と忘れていることになるのだろうか。こんな私は彼らに対して不実ではないだろうか。もうとり返しがつかないその事実を盾に、忘却の手を拒もうともしていない。彼らの望みや夢は露と消え、恨みの念すらも儚くこの胸の中で消えていく。それは確かに存在していたモノであったのに。
 まるで誰もいない漆黒の闇と同等の世界である、とハクはそれを目にして思う。けれどもこの冬の世界が『誰もいない』わけではないのだとハクは知悉していた。この無慈悲な色の空から雪が降ってくると世界は変わる。かつておのれが守護していた河に身を鎮め縁を結び、それによってまたも救いの手を差し伸べ――逆に救われた人の娘の姿が現われるのだ。それは、今おのれが囚われ動けもしないこの不思議の世界から見送って後の、冬毎に成長した姿であった。けれどもそれは喜ばしい姿ではなかった。なぜなら――その彼女の出現は祝福されてはいなかったからだ。
 彼女の幻をみせる者もまた女であった。つややかな黒髪を髷にして、切れ長の目の際に赤い刺青をした女。色鮮やかなひれを身に纏いそれを雪混じりの強い風に逆巻かせ、それでいて凛と立つ毅然とした美に彩られている。若い娘のようにも、壮年の女にも見える、冷静な眸をもった不可思議な存在。が、紅を刷いた美しい唇を開き言葉を発しはしなかった。なにかを訴える目であるのに――または、なにかの思いを宿した目であるのに。
 ややして女が右手を一閃させると、銀の空に少女の姿が映り、高い場所から落ちそうになったり、勢いよく走ってくるトラックに轢かれそうになる。やめろ、と叫び、見えない戒めを振りほどこうと足掻くハクに向けられる女の視線は妙に虚ろだ。それでいてハクの足掻きを望んでいるような色にも見える。足掻いても一歩も前に進めず、ハクはただ目の前の幻を睨みつけるしかできない。娘らしい愛らしさを夢毎に増していく千尋の姿に心のどこかが騒ぐが、その娘の姿はいつも死と隣合わせのものしか見られない。死の手を逃れ蒼白になった顔に笑みがのぼるわけもなく、恐怖で言葉もなくした彼女の声が聞こえるでもない。
 なぜ彼女がこのような目にあわなければならないのだとハクは心中で叫ぶ。彼女を元の世界に帰したのはすべて無意味になるのか。この女の手から守れないのなら、私があの娘を帰した意味はどこに……?? 
 目の前の女はなにも語りはしなかったが、千尋を危機に陥れているのは彼女のせいだとハクは感じていた。けれども、ハクはこの夢が真実『夢』だとも思っていた。何故なら、界を飛び越えて少女に害を行える者などいないと知っていたからだ。そんな事が成し得るのは、力の強い神や妖かしくらいだろう。そう、神代より息づく神くらいだ。その様な者が、かような人の子にどうして害をなすのだ。それ以上に、この世界に神はいないのだと認識していた。だからこそこれは夢、おのれの弱い心が見せる夢――だと思っていた。その日、油屋に訪れたある神より、あちらの世界の話を聞かされるまでは。


「おぅおぅ、ようやっと見つけた!」
 営業が始まって小一時間が経過して見回りに出たハクに後ろから声をかけた者がいた。ハクはその声に反応して後ろを向き、悟られない程度に眉を寄せた。背後にいたのは、陽気で話好きで、声の大きな山の神。ずんぐりして色黒のその神はすでにひと風呂浴びたのか、屋号の入った浴衣を纏っており、無理やりに結んだ短い帯の端が上を向いている。
「お主を捜しておったんじゃ!」
「どのような御用件でしょう。なにか、手前どもに不手際がございましたでしょうか?」
 単なる話好きなら適当に相槌を打ち逃げられもしようが、この神の話好きは筋金入りであった。しかも話が誇張されており、聞いていて疲れが溜まっていくのだ。叶うならはやくここから立ち去りたいと心中で唱えていたハクは、彼の口から出てきた話にいっぺんに目が覚めた心地がした。
「ほれ、ここに昔人間の娘っ子がおったじゃろ。その娘をこの前見かけてな」
「……セン、のことでしょうか?」
「そうそう、センじゃ! 河の爺がその汚れを娘っ子に落としてもらったあの日わしもおってな。あん時は爺が羨ましゅうて!」
 今度はわしもセンを頼もうと思うておったら、次に来た時はもうおらんかってがっかりしたわいと山の神。
「あぁ、だからそのセンなんじゃがの。なにやらあの娘、やらかしたのか?」
 その神は、普段の声の大きさからは信じられないほどに声をひそめてハクに問いかけた。
「あの娘っ子、呪われておるぞい。それも、わしは絶対に関わりあいたくない類いの呪いじゃ。あんな呪いを今生の人が施せるなんぞ思わん。センはここでなにやらやらかしてあちらの世界に追放されたのか?」
 わしらの世界の霊々があれほどに人の子を呪えば噂なりなんなり耳に届くはずじゃから、とその神は続けた。
「センはどのような状態でした……?」
 ハクは客が目の前にいるのも忘れて、眉間にしわがよるのをとめられなかった。
「あれじゃぁいつ死んでもおかしくないぞ。今はまだ『娘』じゃからなんとか生きておるがこの状態で『女』になってみろ、女神らからの守護なんぞあっという間に消え失せて死んじまう」
 山の神は呪いの強さを思い出したのか、ぶるりと大きく身震いした。
「それで子を成せばまだしもどこぞの神の加護を受けられもしようが、産褥から墓場に直行がおちだろう」
 くわばらくわばらと、山の神はこわごわ唱える。
「いいえ、あの娘はおのれの意思でおのれが存在する世界に帰ったのです」
 なにかの見間違いでしょう、とハクは続けた。見間違いかのう、見間違いならそりゃぁそれでええがのう、と山の神は首を捻りながら自分の座敷へと向かった。ハクはその背中を見送って、神の話を反芻する。あの神の話は誇張が過ぎたがいつでも嘘はない。それにあの怯えた眼が真実を見たのだとハクに知らせていた。
「一体千尋になにが……?」
 ハクはしばし考えると、その足を『天』へと続く昇降機乗り場へと向けた。窓の外には、その冬はじめての雪が唸り声をあげる風に煽られて世界を埋め尽くそうとしていた。

   ◆◇◆

「千尋をこちらに連れてこようと思います」
 湯婆婆は執務室の大窓に寄り、唸る風を見つめていた。黒の闇であるはずの空は白い花びらを抱えて淡く輝いている。容赦ない白い線となって空を縦横無尽に荒れ狂う雪ではあったが、ただ見るだけならばそれもまた美しい。
 湯婆婆は背後より告げられたハクのその言葉に身じろぎひとつしなかった。
「なぜだい? ハク」
 窓に映ったハクの姿に問いかける湯婆婆。ハクもまた身じろぎもせずに言葉を紡いだ。
「あの風――湯婆婆様が私にその宥めの役を任された『風』を、私ではもう押さえ込めないからです」
 奪われた子供を取り返そうとする母の叫び――千尋を奪われたと思い込んでいる世界があげる金切り声は年々ひどくなっていた。冬の寒さの中ひとりでは嫌だと叫ぶ子供であるのかもしれないとハクは思っていたが、もうハクの力量ではその風を押さえ込めはしない事実は如何ともし難かった。湯婆婆の操り虫を吐き出した後飛躍的に伸びたハクの魔法の力でもそれは追いつかないほどであったのだ。
「ハッ! お前、自分の弱さを繕わないのかい?!」
「事実は事実ですから」
 あからさまな嘲笑にも動じることなく、ハクはすぱっと言い返した。そこにはなんの感情の色も見出せなかった。
「それだけじゃないだろう、ハク? あの娘に危機が迫っているのだろう?」
 その言葉に、ハクはようやく表情を変えた。常から感情を掴み辛い感のあるハクから、更に色が消える。湯婆婆はハクに背を向けたまま右の人差し指を一閃させる。すると、本棚から小さな箱が飛んできて、ハクと湯婆婆の中間でぴたりと止まった。くるりとハクの目の前に立ち上がると、蓋が開きするすると中身が飛び出てくる。それは厚い紙でできた手札であった。
「タロット・カード?」
 年期の入った、けれども美しい模様も隙間を埋める青の色も鮮やかなそのカード達は、ハクに裏側を見せて円を展開した。大アルカナ二十二枚と小アルカナ五十六枚がすべて出終るまで円は回り続けた。その円の中から一枚が飛び出て、絵柄をハクに晒す。ゆっくりと回転してとまったその絵柄は――
「大アルカナ十六番目のカード、塔」
 カードを見もしなかった湯婆婆の言葉通り、そのカードは『塔』のカードであった。みっつの火を噴く高い塔から人が降って来る絵柄がなんとも不気味である。
「それがあの娘のカードだ」
「なん……ですって?!」
 ハクは、湯婆婆に告げられた言葉の意味と目の前のカードが信じられずに掠れた声で問い返していた。
「意味は、破滅、トラブル、改革。何度占ってもそのカードがついてまわると言ったら、お前はどうする?」
 ハクはカードを凝視した。空から神の鉄槌が降り注ぎ、奢りたかぶった人間が墜落している。これが彼女の運命だと言うのか? 彼女が奢り神の恨みをかったと言うのか? 思い出すのは今朝方の夢である。雪にまかれ死の穴へ突き落とされようとしているのか、それともあれは現状の改革に繋がるのか。ハクにはわからなかった。ぎゅっと拳を握りしめる。
 湯婆婆はようやくハクに向き直り、冷徹な魔女としての目でその握りこぶしを眺めやった。そこにいるのは油屋のワンマン経営者でも、息子に甘い母親でも、ハクの師でもなかった。連綿と知識と技術を受け継ぎ、そして世界の調和を守る手を持った魔女であった。
「ハク、この世界に『竜』はお前だけだとはじめに言ったのを覚えているかい? この世界に『竜』はいない。かつてはいたかもしれないが今はいない。強い力を持つ『竜』を生み出し育てるだけの基盤と熱量がこの世界にはない。あたしはお前をここに留め置く為に、魔女として世界の理に介入した」
 お前の存在もある意味『人間』と同じ異質物なのだとはじめに言ったね、と続けた湯婆婆の声は、常の激昂しやすい彼女らしくなく淡々としたものであった。
 この世界に彷徨いこんで、消えられもせず、ただそこに存在していた憐れな竜。真っ先に消えてしまった方が良かった存在――もうなにもできない本人にとっても、なまじ強い生命である為に、受け止められない世界にとっても。その様子があまりにも憐れで、魔女は気まぐれな情けをかけた。
「それでもお前は、崩れとは言え『神』であったからなんとかなった。けれどもあの娘はただの『人間』だ。しかも、招かれぬ者。そんな者を連れてきてどうする?」
 歪みを持ってこちらに連れ来るは許さない、と言外に告げられたハクは、目を閉じて息をひとつ吸い込んだ。理が支配するこの世界では正しい理に乗っ取って行動を起こさねばならない。脆い世界を大きく乱す行為は成されてはいけないのだ。それを成そうとする者を排除するのもまた魔女の役割であった。
「それでも、彼女を連れて来なければならないのです」
「あの娘にすべてを捨てさせてでもかい? お前はあの娘の憎悪を一身に受ける覚悟があると言うのかい?!」
「――憎悪も知らず死ぬよりはマシだと思います」
 湯婆婆はにやりと唇の端を持ち上げて笑った。
「なら、ハク。お前のその覚悟のほど、見せて貰おうか。あの風に惑わされず、カードの手をかわして、娘の憎悪を受け続ける覚悟の程を!」
 その覚悟があるのなら、あたしが理に乗っ取って扉を開けてやろう。
 それが、湯婆婆がハクと賭けをはじめた瞬間であった。
 湯婆婆は賭けの対象――及び、理に乗っ取って扉を開く手段として、ハクの中より『千尋』の名を抜き取った。かつてここに存在していた魂の『名』はそれだけでも多大な熱量を持っていた。彼女を覚えている者がいる限り、彼女に想いをかけている者がいる限り、その名は『存在し続ける』為に力を発揮していた。湯婆婆はその力を使って扉を開こうと言うのだ。けれども『名』の力だけではやはり力不足で、扉を開けるのに一年はかかるのだと言う。ハクはその話を聞かされて内心でぎりりと唇を噛み、間に合うのかとうめいたが、その身を案じる対象はハクの内側でぼんやりとした物となっており妙に実感が薄い。それに余計焦りと不安を感じていた。確かに今までおのれの中心にしっかりと根付いていたはずの物がない不安定さに、怯えさえハクは感じた。
 焦りと不安の中で必死に冬を乗り越え、春を迎えた。咲きほころぶ櫻を見上げて、なにかを思い出せそうな気がするのに胸に蓋をされていてなになのかわからない。ぽっかりと開いた『そこ』の印象とこの櫻はよく似ている気がするのに……なにだったかよくわからなくなっていた。今思い出さなければこの穴にあったものが端から乾いてぽろぽろと崩れて行きそうな恐怖すら感じた。必死に櫻に手を伸ばし、見えないなにかを掴もうと足掻いた。
 欠落感に慣れてしまいそうになった夏、ハクはその欠落を放棄したくなった。なにがあったかも、それに対しておのれがなにを思っていたのかもわからないのに自身を苦しめる穴にハクは苛立った。しかし、ハクの内側にはその苛立ちを向ける対象すらないのだ。それがなにであったのかすらわからない。もうすでに形は失われたのだろうか? 考える事さえ億劫だった。正の感情を向けていたものだったのか、または負の感情を向けていたのか。それすらもわからない。
 激しい苛立ちを抱えているのにも疲れた夏の終わり、ハクはその穴が愛しくなってきた。思えば、こんなにも激しい感情をなにかに抱え続けていたのは、おのれが守護していた河に対してもなかったかもしれない。河に対して抱いていたのは、穏やかな感情や義務感や、そう言ったものだった。こちらの世界に来てからなら、こんなにも感情を揺さぶられたりなど一度もなかった。そう考えたら――愛しかった。おのれの中に確かにある『物』ではあったが、なぜか、ハクに寄り添って隣を歩いていてくれている気にすらなってくるのだから不思議だ。愛しさを抱えて穏やかに笑えるようになって、ハクは『それ』の名を呼びたくなった。正しく認識したかった。思い出してやりたかった。取り戻したかった。抱きしめてあげたくなった。『ありがとう』――と伝えたかった。私にたくさんの感情を与えてくれてありがとう、と。
 湯婆婆が「扉を開く準備が整った」と告げたのは、そんな感情でハクが満たされた日の新しい太陽が昇った時であった。朝日に照らされた白い顔に広がる柔らかい笑みに、湯婆婆は内心呆れ果てていた。あたしは一体なにをやっているのだろうねぇと呟くかわりに、バルコニーのテラスに足をかけ、翼と化した両腕に朝の風を抱き込んだ。


 そうしてハクは魔女との賭けに勝ち、娘はこの世界に戻ったのであった。


   【二】

 世界は取られた子供をとりもどしたはずである。それはすなわち、冬の狂い風は二度と起きない確約を得たに等しかった。けれどもハクは、風を宥める為に、もう二度と訪れぬであろうと考えていた『そこ』へと向かっていた。界と界を繋ぐ門、風を吐き出す場所――赤い時計塔である。
 今冬一番目の雪が降る中、太鼓橋を渡って油屋を抜けるハクの手には清めの酒と塩があった。陽も落ち赤い提灯が手招く食堂街を流れに逆行し足早に抜け、夜にだけ現われる河へと辿りつく。これでもかと飾り立てたフェリーから霊々が降り立ち、迎えの従業員は威勢良く声を張り上げていた。それらを横に置き、ハクは竜に身をほどいて躊躇いもせずに河を飛び越え対岸へと向かった。一直線に赤い時計塔まで飛び、その前に降り立つと再び人身へと戻る。
 赤い時計塔は霊々の通り道となり次々と異形の存在を吐き出していたが、本日はそれとともに唸る風も吐き出していた。風鳴り、と言うにはいささか恐ろしい唸りであった。今しがた通り抜けてきた低級の霊々は、恐ろしげに身を竦めて足早にフェリーへと乗り込んでいく。静々と降り積もる雪にぼんやりと霞む町の明かりに、またひと柱ひと柱霊々の後ろ姿が飲まれて行く。鬼気迫るハクの様子が恐ろしいのか、誰も声をかけようとはしない。それともその張りつめた気迫さえも飲み込んで静かにハクがそこに存在しているから誰も気がつかないのであろうか。
 ハクは暫くの間時計塔上部を仰ぎ見ていた。ふたつの時計はどこの時間を指し示しているのであろうか、同じ時を刻むことなどなかった。町の明かりにかき消されてか、たしかにある糠星は濁った色にしか見えない。霊々の流れが途切れたのを見計らって中へと歩を進めると、途端に吹き付ける狂風に長い髪や衣を玩ばれつつ時計塔内部へと強引に踏み込んだ。
 時計塔中央部は駅の待合室然とした雰囲気の広場となっていた。ステンドグラスの向こう側は晴れているのか、月光が七色に煌いて差し込んでいる。古ぼけた木のベンチに光があたり、淡い影が幾重にも広がっていた。ここは界と界の狭間。どの世界にも属さない、渡りの世界。ほんのすこし隣にある出入り口の向こう側と窓の外の天気が違う点が、なによりもその位置が『更なる異界』であると知らしめていた。
 そこはハクが訪れ得るぎりぎりの地点であった。許しなくこの広場より一歩でも向こうに踏み出せば、さらさらと身体も魂も空気に解けて消えていってしまうだろう。もうあちらの世界に彼が縋る物はなにもない。もうあちらの世界は彼を必要としていない。ある意味、あちらの世界を捨てたのであるから、ハクは。状況はどうあれ、理由はどうあれ、それはもう覆せない事実で。
 ハクは広場の中央へと足を進め、床の上にひとつだけ放置されていた燭台を取り囲むようにして塩の円を築く為に片膝をついた。ひとつに結わえたハクの髪を右に左に翻弄する風の中、その塩は一粒たりとも飛ばされはしなかった。雨漏りをしているのか、天井から一滴二滴と水が滴り落ち、燭台を伝って塩の円をじわじわと侵食する。長い時間をかけて円の中に水が溜まるまでの間、ハクは風に吹かれながら一心に『力ある言葉』を紡ぎ続ける。よどみなく流れる水のように竜の口より出でた言葉は、魔女が五年前の冬に彼に授けた言葉の連なりであった。風はそんなハクなど知らぬとばかりに切なげに荒れ狂った声で叫んでいる。ハクの身を傷つけようと、するどい切っ先となって襲いかかりもした。
 風の中にひとりで存在し、透ける月光を浴び続けてどれだけの時間が過ぎたのであろうか。すべての呪を紡ぎ終えたハクは、手にしていた神酒樽の栓を抜き、細い流れを作り出して燭台に注いだ。蝋の受け皿を乗り越え、塩の縁取りを溶かして壊し、酒が床に広がっていってもハクは神酒を注ぎ続ける。清められた酒が『流れ』となり空気を浄化し、塩と同化して『海』となりその雫は地に広がり地を浄化せしめた。樽が空になる頃には、あれほど荒れ狂っていた唸り風はやみ、耳が痛いほどの静寂が広場に満ちていた。
「この風はもう二度と起きぬはずであったのに……」
 千尋がこの世界にいる限り、二度と。なのに――なぜ?
 月光が形作っていた影がその方向を変えるほどの時間の先で、ハクがぽつりと困惑に満ちた言葉を吐き出した。けれども、油屋へと帰還したハクに更なる困惑の種が蒔かれた。それは、千尋が倒れたと言う報告であった。

   ◆◇◆

 ハクが時計塔へと向かっていたその日は、正月も終わり懐も心も暖かくなった神や、社仕事に疲れ果てた神がどっと不思議の世界に繰り出して来た為に、油屋は年初めの繁盛期となっていた。
「あーあ。やっと年末の忙しさが終って薮入りになったかと思ったらあっと言う間に年は明けるし」
 小湯女のカサネが風呂桶をごしごしと洗いながらぶうたれた。箍が緩みかけていたその風呂桶は、いわれのない粗暴な扱いを受けてがたがたと抗議の声をあげる。
「戻ってきたら戻ってきたで一気に寒くなるしっ!」
 でぇぇぇいっ! この桶、修理に出してやるーっ! とカサネは叫んで足裏に桶を挟み、がたがたと緩んでいた箍を力任せに引き抜いた。なんとも元気で行動が突飛な小湯女であった。もっと簡単に『やかましい』と表現できなくもなかったが、その様子を見かけた千尋が笑い声を上げるほどに彼女らしくて微笑ましかった。
「カサネさん、きぶつはそんー」
「このカワイイ風呂桶ちゃんを修繕の旅に御招待しただけじゃんよー、ミヤコー」
 カサネと組んでいたミヤコが抑揚のない感想を述べるその様子にも千尋は腹を抱えて笑った。やっぱり、人がたくさん居る方が楽しい。そう思った人の子であった。息子が師匠の元へと帰った為に妙に機嫌の悪い経営者もいるが、それすらも微笑ましく思える。
 千尋は書類を抱えて移動する足を止めてぐるりとまわりを見回した。たくさんの従業員、たくさんのお客。わいわいがやがや、活気に満ち溢れていた。湯釜からもうもうと立ち昇る湯気、満足げな息を吐き出す霊々、怒鳴りあうようにして声をかける従業員達。暗部は確かにあったけれど、ここは千尋にとって大切な場所になりつつあった。時々は戸惑うこともあるけれど、基本的には良い人達。ここにいれば、恐いものなど、ない。


 油屋は 繁盛すれども 我が財布 寒風吹きつく 幾度目かの春。
 先日妻より四人目の妊娠を告げられたイズは、ごった返す帳場で遠い目になりふとそんな寂しいサラリーマン川柳もどきを捻ねっていた。子供ができるのは小躍りするほど喜ばしいが、それにかかる経費をどこから捻り出したらよいものやら。油屋の経費を司る帳場の従業員であろうとも、自分の家のやりくりとなればまた別だ。ため息のひとつやふたつやみっつやよっつ、その口から出てもおかしくなかった。
 それにしても、とイズは帳場をぐるりと見回した。今日はなにやらがやがやと騒がしいなぁ。灯籠に火も入り営業時間となっているのに、湯婆婆様に茶をいれに行ったセンも来ないし。川柳もどきをぼんやりとつくっていたので、イズは周囲のなにやら不穏な空気に気がつくのが遅れた。それでも相変わらずぼんやりとしていたイズは、駆け込んできた下働きの男の言葉に、思わず筆を帳簿の上に落としそうになった。
「ハク様! ハク様、センさんがっ!!」
 あぁぁぁっ! ハク様、ここにもいないっ! と叫びながら男は慌てふためいた。どうやら、ハクを捜して油屋内を駆けずり回っていたらしい。
「落ち着け、オザ。ハク様は所用で出られておる。で、センがどうしたって?」
「あぁ、センさんなんですけどね、一階の囲炉裏端にいらしたオオトリ様に話しかけられていたらしいんスけど……」
 降って来た雪を見たいから窓を開けてくれって言われて窓を開けに行った途端、なにやら叫んでぶっ倒れたらしくって。慌てているオザの話はよくわからないものであった。
「今センは?」
「へぇ、手近の客室に寝かせとります。お客様の邪魔にもなりますし……」
 センの所にはわしが行く、オザはそのままハク様を捜してくれと言い置くと、イズは帳簿を放り出して客室へと急いだ。そこには急いで敷かれた蒲団があり、気を失っていたはずの千尋が上半身を起こした体勢でぼんやりと両手の平を見ていた。
「おうぃセン、大丈夫か?」
 そうしている千尋は、元から細い娘ではあったがよけいに儚く見えた。その儚さに思わず声をかけたイズに向けて、ゆっくりと千尋がぼんやりとした視線を向けた。
「――イズさん……?」
 どこまでも生気のない声と顔色で名を呼ぶ様子も、反応のひとつひとつが鈍かった。これでどうしたなどと聞いても質問の内容を理解できるのだろうかと思いイズは言葉を躊躇う。そうしているうちに千尋は両手を持ち上げて顔を覆うと、突然悲鳴をあげたのだ。
「やぁぁぁぁっ!!」
 いやぁっ! こわいっ!! と叫ぶ千尋は小さく身を縮み込ませがたがたと震えだし、呆気に取られ慌てるイズの目の前で再び意識を失った。意識を手放す時、小さく呟いた「ごめんなさい」は一体誰に向けての謝罪なのか。イズにはどう考えてもわからなかった。
 時計塔より帰ってきたハクは、玄関口で張っていたオザに捕まりその報告を聞いた足で千尋の部屋へと向かった。その頃には、一番目の忙しさが終った男衆の手によって千尋は自室へと連れられていたのだ。いくら慎重に運ばれたとは言え、揺さぶられても一向に目を覚まさない千尋に男衆は困惑した。眉を寄せた蒼白な顔が痛々しかった。
 同じ顔を、ハクは千尋の枕辺に座ってじっと見つめた。色素の薄い柔らかな髪を梳いてやる。昏倒した千尋を見るのはこれで何度目であろう。状況の悪さで言えばあの渦女の時の方が尚悪いであろうが、今回は原因のかけらすらつかめない。そして、いっかな目を覚まさない千尋の様子に、ハクは困惑が深まるのを感じていた。これは一体どう言う意味なのだろう。起こりえないはずの風は再び荒れ狂い、魔女の予言は変化した。すべてが大きく動き出しているのではないかとハクは思った。

   ◆◇◆

『なんだろうねぇ、この事態は。予測もしていなかったよ』
 営業時間もなかば――それはとりも成さず夜半過ぎであったが、それにも関わらず銭婆は式神を油屋へと送り込んでいた。
「あの風は止まない。予言は変化する。センは倒れる――か」
 厄介だ厄介だと思っていたけどそんな言葉じゃ足りない、と湯婆婆は一枚のカードを指先で玩びながらぶつくさとたれた。
「銭婆、あの風は帰った者がこっちに戻ってきたら止むんだろう?」
『だと思っているのだけどねぇ。なにせ、大抵風はすぐ止むし、人間ほどに長寿の者が向こうに帰ることなんてないからさ、あっという間に時間は流れて存在自体がなくなってしまう。そうしたら世界も諦めるのだし……』
 戻って来た者の記録は、本当に数えるほどしかないんだよ。銭婆は指折り数えているが、あまり参考になりそうになかった。湯婆婆は書斎机に頬杖つきカードを眺めやった。そのカードは、白と黒の犬と水中のザリガニが中空に浮かんだ月を見上げている絵柄であった。
『月――十八番目のカード、不安、不透明、嘘を司るカードだね』
 寂しげな三日月が空に昇り、その不安を呼び覚ます白い光を地上に降り注いでいた。
「これが、今のあの娘のカードさ」
 ぺいっと指先で弾いたそのカードは、まっすぐに銭婆の元へと向かった。
『この裏側にある真実を見つけられれば良いのだけれど』
 銭婆の手中に落ちてきた月の顔は、どうみても憂いの深い横顔であった。その横顔を映す下部に描かれた水面はゆらゆらと揺らいでいる。世界のすべてが不安定な印象があった。銭婆はふっと人差し指を一閃させ、湯婆婆の手元に散らばっていた手札の中から新たな一枚を引き出した。くるくると回転しながら月のカードの隣におさまったのは、泉に水を注ぎ込む為に水瓶を持った女が星空の下に佇んでいる絵柄。
『星のカード……天上の希望をあらわすカード。ハクが迷える月の導き手となれれば良いのだけれど』
 しんと静まり返ったその部屋に肯定できる者などいなかったけれども、そう願わずにはいられなかった。


 目覚めない千尋を心配しながらも、いつまでも帳場を抜けている訳にも行かないハクはようやく階下へと足を向けた。客を迎え入れたざわめきも霊々の宴もおさまり、いつも通りの空気が漂っていた。特別な箇所に足を向ければ、大湯女の嬌声が聞こえて賑やかこの上なく淫靡な雰囲気が漂ってもいるのであろうが、ハクはまっすぐに本来の仕事場へと向かっていった。と、その彼の目の前を通せんぼするかのように現われた娘がいた。リンである。
「よぉ、ハクサマ。ちょっと時間もらえねぇか?」
 そう言ったリンの目には、怒りにも似た光が宿っていた。ハクはそれに気がつき、おのれから人のいない方へと進んでいく。やがて辿りついた人気のない階段下は妙に薄暗く、リンの表情を更に暗いものとさせていた。
「センが倒れたって聞いたか?」
 両腕を組んで切り出したリンに、ハクは頷きでもって肯定する。
「あぁ。今まで様子を見ていた」
「あいつ、目ぇ覚ましたか?」
 いいや、とハクは小さく首をふる。リンは、組んだ腕に更に力を込めたようであった。
「あのなぁ、勘違いだったらはやめに言ってくれよ、あたいもこんな馬鹿話考えるだけでむしゃくしゃするんだから」
 と前置きして、リンは聞きたかった言葉を口にした。
「センが倒れた原因って――あの風なんだろ?」
「なぜそう思う?」
 逆に問い返したハクの顔はやけに無表情で、リンは腕をほどいてばりばりと頭を掻き毟った。
「なんでンな中途半端な肯定しやがるんだ! お前のその言い方じゃぁ、それは『真実』だって感じにもとれるじゃねえか! いいよ、理由も言うよ。あの風はセンが前に来た時から吹きはじめてるし、風が吹いたらお前はいなくなるし、センはぶっ倒れるし! なにより、よぉく聞いてればあいつの本当の名前を呼んでいるように聞こえるからだ!」
 あぁもう、馬鹿話を考える暇があれば仕事しろ仕事って言ってくれと願ってたのに! とリンは吼えた。

   ◆◇◆

 その日の夢に、またあの女が現われて、ハクは困惑した。いつもと同じ鈍い銀色の空から舞い降りてくる白い雪。轟々と唸る風。美しいひれを逆巻かせる女。けれどももう二度とこの夢は見ないだろうと思っていたハクには意外であった。なぜならこの夢はおのれが見せている夢だと思っていたからだ。そしてそれ以上に、千尋がこの世界にいる状況変化が起きているので、もう二度と見ないだろうと考えていたのだ。
 困惑するハクの目の前で、女がにぃっと唇の端を持ち上げて笑った。
『あの娘はわらわを謀った。その罪は償われなければならない』
 美しい声であった。ハクが二度目に聞いた声であった。一度目は、おのれの名らしい『ヴェイ』との単語のみを放り投げられただけで、それから考えれば、はじめて彼女の意思を伝えられたのだと言っても良かった。けれども、その内容はハクにはわからないもので。
 女が右手を一閃させると、そこに千尋があらわれた。常ならば銀の空に彼女の幻が映るのであるが、これもまた今回は違う様相を見せていた。地面に蹲り、頭を抱えて震え、叫び声をあげている千尋が手を伸ばせば届くかと思えるほどに近い場所に現われたのだ。右に左に煽られる、結わえていない彼女の髪。力を込めた指先が白くなっている様が痛々しい。なによりも、その口からあがる叫びは血を吐くようなもので。悲壮、まさにそれだ。
 やがてその叫びも、強まる風に邪魔されて聞こえなくなっていった。その姿は吹き荒れる雪に霞んで見えなくなる。ハクはたしかにそこにいた千尋に触れようと一生懸命に手を伸ばすが、それは空を切るばかりであった。凍えていく指先に触れるものはなにもなかった。
 いつもと違う点はまだあった。あの世界にはおのれと千尋と女、その三者しか現われ得ないはずであったのだが、今回はあの――金の髪をした殊姫が現われたのだ。そしてハクに向けて再びあの言葉を投げつけた。
『助けると偽って闇に引きずり込んだ』
 そして透明な笑顔を浮かべたのだ。彼女の印象がそれだけ強かったのかと、彼女の言葉がそれだけ胸に突き刺さったのかと考えればそれまでではあったが、棘の刺さった胸の疼きは不快なものでしかなく。
ハクにはそれらの違いが、なにかの予兆に感じられてならなかった。


 ハクは、障子を白く染める外の光と、ぎしぎしと窓を揺らす風の音に気がついて目を覚ました。まだ夜が明けて間もないのか、柔らかな光が部屋に広がっている。けれどもハクは身を起こさず、片手で目を覆った。朝の光が眩しい。この夢を見た日は光が一段と眩しく見える。目の奥を意識毎焼こうとするかのような光。冬の気温に、指先から急激に熱が奪われていくのを感じた。小さな光でも目を焼かんばかりで、白い光に満ちたおのれの部屋でさえもぼんやりと発光しているように見える。ハクは手で作った暗闇の中で二・三度瞬きをしてから上半身を起こす。そのハクの耳に、夢の中と同じ風の音が入り込み、ハクははっと窓に視線を向け、蒲団を跳ね上げるようにして立ち上がった。からりと障子を開け放つ。大きく開けた障子から容赦なく浴びせかかってくる光にハクは小さくうめき、それでも目をこらして外を見た。雪が降り積もり真っ白になった世界を唸りながら風が暴れている。
「なぜ?!」
 あの風を宥める為に時計塔へと向かったのは、僅か半日前だ。一度宥めれば一週間は大人しくするはずの風がなぜ荒れ狂っているのかハクにはわからなかった。驚くハクの目の前で、風の切片が硝子に体当たりしてぱしんっと小さく跳ね崩れていった。呪いの色を纏ったその切片は、崩れて消えていく時でさえ不協和音を奏でていく。
 ハクは急いで身支度をして油屋を飛び出ていた。その手には、塩や神酒ではなく、水晶の玉がひとつ握られている。赤い太鼓橋まで足早に出てくると、ハクは竜の姿に身をほどき、荒れ狂う空へと舞い上がった。町の上空を抜け、河の残骸を飛び越え、草原を越える。ひらりと時計塔の前に舞い降り、ハクを拒もうとするかのように強風を吐き出している時計塔内部へと踏み込んだ。見慣れた中央付近の空気はひんやりとして清浄で、昨夜張った結界や呪に綻びは生じていないのだとハクに告げていた。
 ハクは燭台をどけ、そこに水晶玉を設置した。途端、塩の円があった箇所が淡く光り、キラキラと煌き立つ。水晶がもっていた光を受けて再結晶した清めの塩は、そこを中心として突如起こった爆風に乗り四方八方に聖なる波動を放った。やがてそれは時計塔全体に行き渡り、風は今までの唸り声が嘘のように鎮まった。
 ハクは床に手と膝をつき、荒く息を吐く。この術は、なんの準備もなく無理やりに風を押さえ込んだに等しい行為であった。見たばかりの夢に惑わされ、ハクは常の冷静さを欠いていた。この風が千尋に害を成したのだと思ったら、加減などできなかった。ぽたりと床にハクの汗が落ち、濃い石の色を浮き上がらせる。
両手をついた床の上には、粉々に砕け散った水晶の残骸。その水晶がきらりと光を弾いた気がして、ハクははっと身を強張らせて振り返った。そこで見たものに、ハクは目を見開く。薄暗い通路を塞ぐように、黒く大きなもの――それは影であったのかもしれない――がおり、ハクへとその手とおぼしきものを振り下ろそうとしていたからであった。ハクは左肩に激しい痛みを感じ、ぐっと唇を噛みしめる。激痛に霞みそうになる意識、夢の後遺症ではっきりとは見えない白い視界の中で、それでもハクは黒い光を弾いた硬質な鱗と、その影が広場の土中に沈むように消えていくのを見たのであった。

   【三】

 昼過ぎに千尋の部屋を訪れたリンは、さすがに目が覚めたらしい千尋を見てほっと安堵の息を吐いてから、ぐりぐりと容赦なく千尋の髪をかき回して喜んだ。
「んっとにお前、熱出したりぶっ倒れたり忙しいやつだなぁ!」
 やーリンさんごめんなさい、と存外平気そうな口調で謝る千尋の頭を更にぐりぐりと乱したリンは、賄場に作らせた卵雑炊を千尋にすすめがてら
「けどなぁ」
 と言葉を続けた。
「なに? リンさん」
 雑炊をレンゲで掬って口に運ぶ自分を見つめるリンの視線になにやら恐いものを感じて、千尋は食事の手を止めた。
「お前、このままじゃぁまたぶっ倒れるぞ」
「――え?」
 自分でも倒れたなんて信じられずにいるのにリンに断言するようにされ、千尋は困惑の声をあげた。
「あの風、あれはお前を呼ぶ声なんだってよ」
 ハクがそう言っていた、と半ば投げやり口調ながらあっさりとリンはそれを口にした。
「わたしを――?」
「お前が帰った年の冬からなぁ、あの気味悪い風が吹きはじめてよ。ハクによると、あれはこの世界から帰っていったやつを呼ぶ声なんだって。寂しくて寂しくて世界が泣くんだってさ」
「呼ぶ……わたしを……」
 逆巻く風と空を埋め尽くすように降る雪を引き連れて世界が泣く。なぜだか、その突拍子もない話を千尋はすんなりと理解してしまって、そんな自分に驚いた。
「夢……ハクじゃなくて……世界……?」
 リンの言葉を聞いて、千尋はなにかがわかった気がした。自分が冬になったら見ていたあの夢は、ハクが呼んでいるのではなくて世界が呼んでいたのだ。美しくて恐い世界の広がり、そこにハクがいた。彼の髪を乱して吹き荒れていたあの風は、昨日の風そのものだったのだとはっきりとわかった。
「あとな、今朝ハクが怪我をして帰ってきたよ」
 ぼんやりと思考の海に囚われていた千尋の意識は、リンの言葉によって現実へと引き戻された。
「ハクが??」
「あいつはずっとあの風をなんとかする為になにやらやってたんだってさ。で、今朝怪我して帰ってきた」
 左肩ざっぱりやられてた、とおのれの肩をとんとんと指し示したリンを、千尋は茫然とした表情で見つめるしかできなかった。風をおさめて怪我を負った――それはすなわち、自分の為に怪我をしたも同義ではないか? 千尋は下を向いてきゅっと唇を噛みしめた。

   ◆◇◆

 ハクは怪我の手当てを終え、訪れる気もなかった千尋の部屋の前に立っていた。けれども、戸を叩く為にあげた手を下ろし、また上げては躊躇って下ろしを繰り返している。この戸を叩いて彼女になんと説明すれば良いのかわからない。怪我をした状態で千尋に会っても心配を増やすだけでしかないではないか。竜の治癒能力を考えれば、今日一日勘付かれさえしなければなんの心配もかけることなどないのだとハクは思い、千尋に怪我の話をするつもりも毛頭なかった。実際、営業時間前の現在、あれほどに深かった裂傷もあらかた塞がり、肉が盛り上がっているのである。朝になれば綺麗に跡形もなくなるであろうとわかっている。残っているのは、血を大量に失った為と疲労による倦怠感くらいである。けれどもハクは現在千尋の部屋の前にいた。来ざるを得なかったとも言う。それは、階下で会ったリンが、千尋に怪我の話をしたと言い放ったからだ。
「お前ら、なに弱いトコロを隠しあってんだよ。鬱陶しいなぁもう」
 との愚痴つきのリンに向けて、ハクは余計だともなんとも反応を返せずにいた。確かにその通りかもしれない。心配をかけさせたくないとはただの建前なのかもしれない。おのれの弱さを千尋に知られたくないだけであるのかもしれない。
 ハクは観念して千尋の部屋の戸をほとほとと叩いた。けれども、中からはするどい拒絶の声が返ってくるだけで。
「ヤだ! ハクに会いたくない!」
 誰にも会いたくない、ではなくて自分に会いたくないと叫ぶ千尋の声は、熱を持って疼く左肩よりも激しく胸の奥を痛ませた。弱い部分を先に隠そうとしたくせに、相手のそれにはひどく――悲しさだけが募った。


 泣きそうだった。今ハクの顔を見れば、絶対に泣くとわかっていた千尋は、訪ねて来たハクに『会いたくない』と言うしかなかった。自分の為にハクが怪我をした。しかも、個人が抗ってもどうにもならないような対象に自分が立ち向かわせたのだと思ったら、弱い自分が情けなくて更に泣きそうになる。
 自分を呼んでいたのはハクではなかったのだと考えたら、千尋の頭の中はぐちゃぐちゃになりそうだった。勘違いや思い込みでハクの手をとったけれど、それで彼に多大な迷惑をかけているのではないかと思ったら自分が馬鹿らしくなった。自分が思っていたほどにハクは自分の事を考えてはいなかったのではないか? ハクは優しいから、自分の思い込みに付き合ってくれているだけなのかもしれない。ハクは優しい。愚かなほどに優しい。もうそれはわかっていた。疑いようもないほどに。
「ふ……うぅっ」
 口をしっかりと手でおさえていなければ嗚咽が洩れそうで、そんな自分はとても嫌だった。泣いてもなにも解決しない……後悔はしないと決めているのだから、涙なんていらないのだと自分に言い聞かす。それは、どこまでいってもこの世界では『異質物』でしかない千尋の――痛々しいまでの、無意識の覚悟であった。
 千尋は、涙でぼやけた視界で部屋をぐるりと見た。なにもかもを振り捨てて来た自分が構築した、自分だけの世界がそこに広がっている。小さな二間続きの部屋のあちこちに、自分が買い求めたり、客や知り合いから貰った小物が増えていた。そこにある物はすべて『こちら』の匂いを持つもので、元の世界に繋がるものはひとつもない。妙にその事実が誇らしくもあったが、今は無性に元の世界に繋がるものに触れたかった。例えば、小学生の頃にぎゅっと抱きついていた大きなクマのぬいぐるみや、仲の良い友達と中学の卒業旅行に行った時に撮った写真や――いつでも見守っていてくれた、父母の手に。
 千尋は嗚咽を喉元で押し殺しながらふらふらと押入れに近づき、封印するように押し込めていたカバンを引っ張り出して中身を開けた。参考書やCDを懐かしげに眺めやる。高校の入学祝いに両親から贈られた銀色のブレスレットをハンカチから取り出し、そっと手首につけてみた。父母に手を握ってもらっている気がした。
 と、電源を切った携帯電話が奥から転がり落ちた。千尋はその機械を取り上げて、もうバッテリーも干上がっているだろうと思いながら電源を入れた。うんともすんとも言わないだろうと思っていた液晶画面は、意外にも海の待ち受け画面を映し出す。雪も降るこの気温でその画像を見たら、ますます寒くなった。
「こんなものもあったんだ」
 毎日のように使っていた携帯電話が、今から考えれば不思議な道具に思えた。見えない電波を通して言葉を交わすなんて、こちらではまさしく魔法でしかなしえないだろう。人の技術はそうやって『不思議』の世界に踏み込み、夢を壊していくのかもしれない。それは夢だけではなく、神の領域と言われる場所にまで及ぶのだろう……と考えたら、この手の中にある道具が可愛く思えた。言葉を運ぶだけであれば、なんと害もなく可愛らしいことか。小さく笑って、千尋は携帯の記録を呼び出し、その中に懐かしい名前を見つけて更に笑みを深くした。
「和樹……」
 懐かしい幼馴染。自分が傷つけた、もうひとりの人。彼もまたとても優しい人だったと思い出したら、忘れかけていた涙がまた浮かびそうになった。
「和樹、ごめんね。わたし、また人を傷つけちゃったよ」
 ひどい女だね、わたし。
「今からでも『ばーか』って言ってくれる?」
 いつも明るい声で真実だけを告げてくれていた幼馴染の声が聞きたかった。その感覚は、夜中にかけるあの迷惑電話の前に感じていたものと同じで、あぁ和樹の声に安堵していたのだ、と千尋は思い知らされた。白黒なんていい加減嫌だから機種を替えると和樹は言っていたからもうこの番号は使われていないだろう、使われていたとしても世界が違うのだから届くわけがないだろうと思いながらも発信釦を押し、そっと携帯電話を耳元に押し当てる。素っ気無い呼び出し音が幾つも続き、それだけで千尋は満足した。一回……二回……と呼び出し音を数え上げ、感傷も十回までなら許してあげようと言う気になり、最後の呼び出し音を聞いて耳から携帯電話を離した。そして電源を切ろうと指をのばしかけたのだが――一瞬はやく携帯電話がぷつっと音を発したので、千尋はその指を止めて電話を凝視した。
『……千尋?』
 有り得る筈がない和樹の声が――手にした携帯電話から聞こえて、小さく息を呑んだ。
「か……かずき??」
 おそるおそる携帯電話を耳に押し当てた。
『そこにいるの、千尋なんだろう?』
 世界が違うにも関わらず、その声は明瞭に千尋の耳に届いた。
「わたし……千尋。和樹、なの?」
 凄いな、本当に繋がっているんだ、と喜ぶ和樹の声が千尋の耳に転がり込んだ。懐かしいと感じたら、喉元で押し殺していたはずの嗚咽がせりあがってくるのを千尋は止められなかった。
「かずきっ! 和樹、わたしっ」
『……違うだろう、千尋? お前、もうちゃんと呼びたい名前、みつけたんだろう? なに俺に泣きついてんの』
 ばーかだなぁお前。なにこの夜中の電話再開してんだよ、もうお前の電話なんて二度と取らないぞと和樹は明るく続けた。
『奇蹟ってさ、どこにでも転がってるもんだけど、これに関してはこれ一回きりな気がするんだよ。お前があの日くれたお守りのお陰で繋がってるんだろうけどさ、これって偶然の奇蹟なんだろ?』
「お守り……」
『お前が大切にしていた紫の髪留め! お前が行ってしまう間際に俺にくれただろう? あれをあの時使っていた携帯に付けてるんだよ。で、今荷物を整理してて偶然これを見つけてさ……。もう廃止した携帯に電話が入るなんて、偶然の奇蹟だろ?』
 本当に凄いな、結婚の前祝を貰ったみたいだ、と和樹は声を弾ませる。よくよく聞いてみれば、電話から聞こえる和樹の声はあの頃よりもぐっと落ち着いて大人っぽい声であった。こちらとあちらの時間の流れは一定していないと湯婆婆が言っていたのを思い出した。あれからかなりの時間が経っていてもおかしくない。どうやら和樹も結婚する年となっているらしく、どこかしら幸せが滲んだ声に聞こえた。
「わたし……もう、そっちに居場所ないよね?」
 自分の我侭な願いを聞いてくれ、自分が鈍感だったばかりに振り回し続けた幼馴染に、結婚をして共に人生を歩みたいと願える相手がみつかった。その事実はとても嬉しく思えたが、同時に置いてきぼりにされた気がして、馬鹿な質問だと思ったが千尋はそう聞かずにはいられなかった。
『……後悔してるのか?』
 あの白い衣の男の手をとったことを。数瞬の間の後に問い返された質問に、千尋は首をふった。
「後悔なんて……してない! ただ、ちょっとだけ懐かしがりたいだけなの」
 そっちにいれば、少なくともハクを傷つけはしなかったのだろうと思ったらここに自分がいるのは罪深く思えた。
『これもお守りの奇蹟なんだろうけど……お前のことを誰もかれも忘れちまってるよ、こっちでは。覚えているのは――俺だけ』
 お前を生み育てた両親でさえも忘れてしまっているのだと、和樹は嘘偽りなく告げた。ここで嘘を言えばよいのだろうかとも一瞬思ったが、千尋に嘘はつきたくなかった。
「和樹って……ホントにウソは言わないよねぇ」
 ありがとう、和樹がいてくれて本当に良かった。千尋は涙が混じる声で電話へと囁いた。この、もう二度と起こり得ないであろう奇蹟に感謝した。
『けどな……千尋、俺は嘘はつかなかったかもしれないけれど、あいつほど必死にお前の為になにかできたわけじゃないんだぞ。それを間違えるな』
 やけに真剣な和樹の声に、千尋は目を見開いた。
『人間なんて……人間じゃなくても、目を見ればそいつがどれだけ必死かなんて、ちゃんとわかるんだよ。あの男はお前の為に必死になれる男なんだから』
 俺なんかじゃなくてちゃんとあいつの名前を呼んでやれよ、と和樹は笑った。
「ハク……? でも、わたし、ハクに怪我させて……ハクのことも思い出せないし……」
 いいんだよ、そいつがそれを望んだんだろう? それがあいつの望みだったんだろう? 和樹は泣きそうな千尋の声に、低く笑った。
『安心した。そんなヤツがお前の傍にいるんだったら……安心だな』
 お前の傍でお前を見守ってくれているんだな。あの、恐いくらいに美しい男は、けして高みで輝いている星なんかじゃなく、地上の千尋に寄り添っているのだと考えたら、和樹は安堵した。あまりにも自然にそばにあり過ぎて見えない真実も、すこし離れた処から見れば歪みなく見える。和樹はこの電話が繋がっている奇蹟は、その真実を彼女に伝える為にどこかにいる神様が与えてくれたのだと思えて仕方がなかった。時間を止めたように若い娘の声をした千尋と、幾つも年を重ねた自分が会話をする意味なんて、もうそれくらいしか意味がないような気もして――少しばかり寂しかったけれど。
『希望はさ、過去にあるんじゃないだろう? 希望は未来にあるんだから、思い出せなくて自分を責めるなよ? 信じてやれよ、あいつと……今の自分を』
『ありがとう』――その言葉がどうやったらすべて電話の向こうの和樹に伝わるのか方法がわからなくて、千尋はほろほろと涙を零した。
 この世界に来てはじめての涙であった。