イノセント

Heaven's Door
【28】




 望み通りに手をひかれてはじめて足を踏み入れたハクの部屋は、以前に彼が言っていたようになかなかに乱雑な具合であった。書類の山がそこかしこにできていたが、掃除は行き届いていたので不快な感じはしない。ある意味、すこし抜けた感じがしてほっとする。身体を休めていたと言っていたからか、明かりは灯されておらず、障子を柔らかく輝かせている月の光だけが照明であった。うすぼんやりとした闇の中に手招かれ、千尋はこくりと息を飲み込んだ。
 ハクはゆっくりと千尋の額に口づけた。ついで、熱をもった両の瞼に。赤く染まった頬に口づけ、ふっと唇を重ねた。確かめるように軽く触れるだけであったのが、だんだんと角度を変え深く深く口づけ、千尋の口腔を舌で弄るものとなった。無意識に逃げようとする千尋の身体を深く抱き込む。
「ん……っ」
 ハクとの口づけはこれが初めてではなかったが、このような深いものはやはり慣れていない。必死の息継ぎをハクの求めに応じている間に行っているほどに千尋は余裕がなかった。
 覚悟を決めたとは言ってもそれとこれとは別問題、恥ずかしさの為にかたく閉じた瞼の向こう側でハクがどんな表情をしているのか千尋にはわからなかった。けれども、鼻先に香るものは水の匂いで、ハクがそこにいるのだと目で見るよりもはっきりと千尋に認識させていた。暑い夏の日に素足をひたしたせせらぎのような柔らかい冷たさに包まれていて、気持ちが良い。
 千尋の甘い唇を貪っている間に、ハクは手を千尋のブラウスの釦へとかけ、一番上を止めているそれをはずした。襟元がゆったりと開き、千尋の細い首が外気に晒された。ついでその下にある釦も外す。胸元まで大きく開いた白いブラウスの内側に、健康的な白い肌が覗く。鎖骨をつっとなぞる。そのひんやりとした指先の感触に千尋が小さく跳ねたのを見て、ハクはようやく唇を離した。そのまま白い布の奥へと顔を埋め、そこに口づけを落とす。
 そうしている間にも次々とハクは釦を外しており、それに気がついた千尋は身を捩った。
「ハク……やっ!」
 服を脱がされ薄い胸を見られている羞恥心もあったが、ハクの肩を無意識に押し返そうとふらふら彷徨っていた手を叱るように鎖骨のやや下の柔らかな箇所を強く吸われ、千尋は小さく悲鳴をあげた。鎖骨の下に赤い花が刻まれる。千尋はおのれの胸に顔を埋めるようにしているハクを見下ろして、その有り得ない光景に顔が赤くなるのを感じた。その視線に気がついたのか、ハクがふっと視線をあげる。
「嫌だと言っても……もう遅いからね」
 もう引き返せないからね、とハクは続ける。後悔しても止められないから、と。ずっとずっと抱きしめたかったのだ、彼女の名を失っていたあの時から、ずっと。ふたりの気持ちが重なっているのだとわかった今、ハクはもう止まることなどできそうになかった。
「だから……後悔なんてしないって……決めて……」
 恥ずかしかったり不安で仕方がないのは、自分がどうなるのか良くわからないからであって後悔の為ではないと伝えたいのに、千尋は言葉のすべてを口にできはしなかった。聞かなくてもわかるからなのか、それとも拒絶の言葉を恐れてなのか、ハクが唇を塞いだからだ。ハクは呼吸すら奪おうとするかのような激しさで唇を貪るので、頭の奥がくらくらしてきた。その間にも、釦のすべてを外し、探し当てたスカートのファスナーを引き下ろされる。器用に千尋のブラウスを脱がし、スカートを取り除き、そっと蒲団の上へと横たえさせた。千尋はようやく口づけから解放され、大きく胸で呼吸をしている。朦朧とする意識の端で衣擦れの音を感じていたが、千尋は肺に酸素を取り込むのに精一杯だ。ほんのりと火照った素肌に敷布がひんやりとしていて気持ちがよい。
「ハク……ハク、あのねっ」
 衣を脱ぎ去ったハクに再び抱き込まれた千尋は、唇に、首筋に、鎖骨に、胸元に口づけを受けながらハクの動きをついて呼びかけた。
「……なに?」
 掠れて艶を増したハクの低い声で問われ、金色に光る翡翠色の眸に見つめられて、千尋は小さく息を飲み込んだ。ハクの腕の中に囲われた状態で目を開ければ嫌でも目に付くその箇所を見つめて。
「前にね、危ない所に行くのは仕事だから……行かないわけにはいかないって言ったよね?」
 傷を負ったハクの左肩に、千尋はそっと手を伸ばした。竜の再生能力を持ってすればあれだけの傷も今は引き攣れた跡がかすかに残る程度になっている。きっと朝になれば痕跡さえも消えるだろう。けれども千尋はその傷跡を愛しげに優しく撫でた。
「だから、危ない所に行かないでなんてもう言わないけど……わたしの為に危ない事するのは……やめて?」
 わたしの為にハクが怪我するのは嫌なの。わたし、こんな傷、嫌いよ? 千尋はその傷跡に爪を立てたくなった。ハクを危機に追い込んだ自分が心底嫌になった。
「千尋、それこそ聞けないよ」
 ハクは千尋の手をとって、手の平に口づけた。千尋が大きく目を見開いてハクを見上げる。
「そなたの為に行くのなら……喜びだから」
 そこになにがあろうとも義務感からではなく喜びでもって行くのだからそなたが止めないでおくれ、とハクは笑う。
「ヤだっ。そんなの、聞けない!」
 千尋はハクの腕の中で身を縮こませて小さく叫んだ。ぎゅっと目を瞑る。この自分にハクを危機に追いやる価値はないと思う。涙が零れそうだった。
「千尋、泣かないで」
 ハクは千尋の両の瞼に口づけてから、耳元で囁いた。ハクの肩口より零れた髪が千尋の肌に触れ、なにやらこそばゆい。
「聞いて。私のこの手でも、まだなにかを救えるかもしれないと思ったら、嬉しくて仕方がないのだけれど。私にもまだなにかを変えられるのかもしれないと考えたら……嬉しいのだけれど」
 守護した場所も失い、魔女に操られて生きていた私にもまだなにかできるのだと考えたら、涙が出るほど嬉しかったのだけれども。その気持ちを与えてくれたそなたが私のこの気持ちを否定しないでおくれ。どこか嬉しそうな声色であった。
「本当の意味で死んでいた私を助けてくれて……ありがとう」
 五年前のあの日、元の世界へと帰らせて救ったと思った少女に本当はおのれが助けられていたのだ。なにかを愛することすら忘れ去っていたおのれにこの感情を蘇らせてくれた少女が腕の中にいるのだと思ったら、彼女が巻き込まれてしまった現状にすら不謹慎にも感謝してしまいたくなる。
 千尋はふるふると頭をふった。そして、手を伸ばしてゆっくりとハクの首へと絡ませて、ハクを引き寄せるように抱きついた。
「ハクがそんなこと言うの、おかしい」
 だって冬の夢の中で、あぁわたしこの人に殺されるのかもしれないと思ったのだもの。そんな人に『ありがとう』なんて言われるの、おかしいよ。
「ハク……夢の中でね、わたしに対して、なにかとても強い感情を持っているんだって思ってたの。殺されてもよかったの、そんな人になら」
 でも、勘違いじゃなかったね。今までの『荻野千尋』はハクに殺されるんだよ。こちらの世界に来てから少しずつ『荻野千尋』は死んでいったもの。
「……ちゃんと――殺してね」
 そっとハクの耳の中に落とし込まれた小さな声に、ハクは抱きしめる腕に力を入れて応えた。それから、ゆっくりと千尋の滑らかな背を撫でる。緩やかな曲線を描く背に触れた異性は彼女の父親以外にいないのだろうと考えたら妙に嬉しかった。どうなるのかわからない不安はたしかに千尋の目にあり身体に余計な力が入っていたけれども、自身に対する拒絶や怯えは感じられないからだろうか。
 千尋の背を彷徨っていた手が偶然にも身に付けていた下着の止め具を外した。千尋が小さく全身に力を込めたのをハクは感じたが、それに気づかなかったかのように下着も取り外してしまう。胸を覆っていた布の下から、陽に晒されずに白いままの双丘が現われる。さすがに千尋は恥ずかしくて手で隠そうとするが、一瞬はやくその胸にハクが触れた。大きな手で包み、優しく揉みあげる。
「やぁ……っ」
 やわやわと強弱をつけて揉まれ形を変える小さな胸からなにかまったく知らない感じが全身へと広がって、千尋は声をあげていた。ふっくらと膨らんだ胸の頂が、ハクの与える愛撫に応じてかたく立ち上がった。張りつめて痛いそれにハクが舌を這わせて舐めあげ、口に含んで舌先で転がすようにする。その間にも手は敷布に広がった千尋の髪を梳き、脇腹を撫でていた。
「ハク……っ、なんか、ヘンっ」
 慣れない感覚に戸惑いの声を千尋はあげる。
「変じゃない」
「で……でもっ」
 冷たいハクの指が触れる箇所のすべてが、内側から発火するように熱くてたまらなくて千尋は身を捩った。ハクの指は冷たいと感じるのになぜこんなにも熱いのだろう? 感覚のないはずの髪さえも、ハクが触れれば燃えそうな程に熱く感じる。自分がおかしくなっていくその過程が理解できなくて千尋は怯えた。同時に、怯えながらもかつてハクが言っていた言葉を思い出していた。誰かに触れて安堵する。その気持ちが、今痛いほど千尋には理解できていた。どこに連れて行かれるのかわからない波が全身をおそっていても、どこかに安堵感があった。千々に乱れた思考に呑まれて、はっきりと感じ取れたわけではなかったが。
「変じゃない……綺麗だから」
 おのれの手で躊躇いながらも徐々に身体を開いていく千尋はとても綺麗だとハクは考えながら、どうにもならない怯えから頬を伝って流れ落ちた涙を拭ってやる。そう言えば、どんなに辛くても彼女は泣かなかったのだと思い出した。泣き顔ははじめてみるのだ。紅潮した頬を伝うその涙すら愛しかった。
「そなたが私を信じてくれている限り、私は、私をそなたにあげるから……そなたのすべてが――欲しい」
 今まで千尋がハクに向けた何気ない表情や、ふとした時に零れ落ちた笑顔や、むくれた顔や、悩みに沈んだ顔や、恐れを湛えた顔――今日はじめて見た泣き顔や戸惑いの色、まだ見ぬ千尋のすべてが欲しかった。許しがなければ得られないそれらは、近くにあるようでとても遠いもの。
 千尋はその言葉にゆっくりと微笑んだ。涙に彩られていたが、どの笑顔よりも透明で美しかった。
「一番はじめに信用してくれたのはハクだから……いいよ」
 乱れた呼吸の中で千尋はそれだけを精一杯に伝えた。本当の名前を預けてくれるほどに信用してくれたのはハクが最初なのだから。だから……ずっと一緒にいてね。その言葉はハクの胸に宿り、心を熱くした。
『ありがとう』――その言葉がどうすればすべて伝わるのかわからなくて、ハクは千尋の唇を塞いだ。どうしたら伝わるのだろう、すべてに感謝したいこの気持ちは。誰に、なにに祈れば良いのだろう、この奇蹟を。
 ゆっくりと千尋の身体に指や唇を這わせゆるゆると快感を呼び覚まさせながら、ハクの手は徐々に下腹部へとおりていた。はじめての体験ゆえに無意識に立てて揃えた両膝から力が抜けるのを辛抱強く待っていたハクは、千尋の心の位置に身体が辿りついたのを見計らって、彼女が最後に身に纏っていた下着も取り払った。一糸纏わぬ少女の身体が、鈍い闇の中で淡く輝いていた。つっと手を下肢にやりきめの細かい太腿の内側を撫で上げると、ひくりと千尋の身体が震えた。
「嫌?」
 もう声も出せないのか、千尋はふるふると小さく首をふる。ハクは淡い茂みを指で弄り、千尋自身すら触れた事がないであろう秘所に触れる。今まで以上に困惑の色を浮かべふるふると震える千尋に大丈夫だからと声をかけ、そこにつぷりと指をさし入れた。
「ん……いた……っ」
 ゆっくりと指を動かし、丹念に千尋の中を探った。ハクによって施された愛撫に分泌された愛液が狭いそこに入り込んだハクの指の動きを助ける。
「あ……やぁんっ!」
 もう一本と増やされた異物感に千尋は頭をふった。自分の内側をなにかが動き回る感覚は想像していた以上のものだった。けれども、同じ場所からくらくらと毒めいた快感が立ち昇ってきているのもまた事実であり、千尋は困惑する。自分の口から洩れる声の響きが信じられなかった。くっと唇を噛みしめる。
「千尋……もうすこし我慢して。後が辛くなるから」
 声、我慢しなくていいから。
 そうして唇を指でなぞり髪を撫で、千尋がすこし落ち着きを取り戻してから再び指を蠢かせ始めた。本当は、奪うようにしてでもはやく千尋を抱きたかった。けれど、それではただ単に奪うだけになってしまう。それでは意味がないと思う。千尋の信用を傷つける結果に終わってしまうと考えてハクは耐えた。何故なら、ハクは今まで彼女から奪うばかりであったからだ。両親の元から、友人の元から、彼女を生み育てた世界から奪い去った存在であったからだ。それ以上に、彼自身が今までなにも生み出していない存在であるのだと自覚している為に、もう千尋からなにも奪いたくはなかった。裏切りたくなかった、いつかの日のように。
「私はね、ずっと寂しかったのかもしれない」
 苦しげな呼吸を繰り返して耐える千尋の耳に届くかどうかわからなかったけれど。
「コハク河の主であった時も、水の生き物達は私を慕ってくれていたけれど……愛してはくれなかった。彼らが私を大切に思い敬ってくれていたのは、私が河の主であったからだ。私自身を見てくれている者など……いないと思っていた」
 あの時はたしかにそう思っていたけれど、今はもう知っている。河伯であった時も、たしかに愛されていたのだと。ただそれに気づけなかっただけなのだと。愚かしくて悔しい。もう間違えたくはない。もう疑いたくはない。こんな時にこんな話をするのは、卑怯かもしれないけれど。
「だから、そなたが私を覚えていてくれたのが……嬉しかった。私自身を、認識してくれた事が――とても嬉しかった」
 五年前、赤い太鼓橋で出会い彼女を助けるまでは、かつて助けた命をまた助けようとしていただけであった。けれども、彼女がハクの本当の名を思い出してくれたあの瞬間から、ハクの内側に存在する『千尋』はもう少し意味を変えたのだ。それが恋慕の情に変わったのは安易な流れだろうか? それでもハクは構わなかった。この気持ちに偽りなどないのだから。彼女は見返りを求めない魂のままでハクの前に現われ、彼を捉えたのだから。
「河を護り、彼らを護り、たくさんのモノを護ってきたけれど……なにもこの手で生み出したりはしなかった。洪水で命を流し、命を奪うだけで……」
 水の中で生まれた命を見て、その命を護るだけで、自身はなにも作り出してはいなかった。だから、これ以上はなにも奪いたくなかった。大切な存在から――愛されたかったから。
「ハク……」
 浅い呼吸の中でおのれを呼ぶ声に、ハクは千尋の顔をみた。
「それでも……真実はあったんだと思うよ……?」
 柔らかい笑顔を浮かべた千尋の言葉に、ハクは泣きたくなった。どうしてこの娘はこんなに綺麗な笑顔を浮かべられるのだろう。どうしてこの腕の中にいるのだろう。不思議でたまらなかった。
 淫靡で甘い香りが部屋中に満ちていた。硬い殻のような少女の潔癖性をまとっていた千尋から立ち昇るその女の色に、ハクはおのれの理性が薄い切片となって剥がれ落ちるのを感じた。
「やぁ……ん……っ!」
 潤みを増した千尋の中に、ハクは張りつめた自身を沈めた。時間をかけて開いた処女の身体ではあったが、一度も男を受け入れた事などない彼女の苦痛に変わりはないだろう。逃げようとする身体を抱きしめ、あやすように唇を降らせた。敷布をきつく握りしめていた千尋の左手の平に合わせるように右手を重ねて指を絡ませ、それからゆっくりと身体を進める。
「ん……あぁっ!!」
 身体の中心をハクに貫かれて、千尋はそのあまりの痛さに悲鳴をあげそうになった。けれどもハクが動くたびに痛みが痺れるような別のものにすり替わり、徐々に胸が熱く昂ぶってくる。痛みを我慢している間にそれは喉元までせり上がって、快感へと変わってしまった。
 頭や身体の奥が熱くてたまらなかった。自分の内側で『自分』が何処までも膨張して増殖しているかのような不可思議な感覚がおそってくる。
「ハク……ハクっ!」
 緩やかだったハクの動きが少しずつはやまり激しくなり、水に溺れているようでとてつもなく不安になった。抗ってもどうしようもないその激しさは、包み込むようで、突き放すようで、理解しあう為のもののようで――または個と個を阻んでいるようで――溺れてしまう! と千尋は心の中で叫んでいた。助けて……と叫んだ。
「……ちひろっ!」
 自分の中で膨れ上がってどうしたら良いのかわからない『自分』と言う熱を抱えて戸惑いながら見上げたハクが名を呼んでくれた瞬間、千尋は膨れ上がり増殖したものが唐突に凝縮してゼロになったのを感じた。それと同時に、その空白を埋めるように、自分の中で『ハク』が一杯になったのがわかった。まるで、互いが入れ替わったかのような――互いで満たされたかのような、今まで体感し得なかった不可思議な感覚。
 千尋がぎゅっとハクの手の平を握りしめると、同じだけの強さで握り返された。それで、自分ひとりだけが溺れているのではないとわかった。ふたりとも溺れているのだと思ったら――とても嬉しかった。