イノセント 番外

ノスタルジックな泡模様




 あの人自身は、時間に正確な律儀な人だけど、周囲がそれを許さない、と言うのはままあることで。
 仕事場外で待ち合わせをして、約束の時間を大幅に遅れてくるのは、ほとんどがあの人で。そしてその理由は、あの人自身にはほとんどなくて。
 きっとまたもや
「ハク様、急ぎの書類があるのですが……」
 とか
「ハク様、実は問題が発生しておりまして……」
 とか
「ハク、ちょいとこれを届けに行っとくれ」
 とか言われてつかまっているに違いない。

『はー、役職付きも大変ねぇ』
 なんぞと、自分も、規模は違えど重要な仕事を仰せつかっているのだとの自覚に薄い感想を抱いているのは、その遅刻魔に待ちぼうけを食らわされている帳場の紅一点。油屋のランドマーク前にある『喫茶・まんぼう』でメロンソーダのグラスに入れたストローをくるくると弄んでいる。同じテーブルの上には、貸し本屋から借りて来た文庫本が一冊、はじめあたりのページに紙しおりを挟んだままの格好で乗せてある。どうやら読書にも興がのらず、手持ち無沙汰であるらしい。
 時折ちら、と視線をあげ店内を見まわすが、その町のメインである油屋の営業時間が夜であるからか、それとも喫茶室でお茶をしようなんぞとハイカラな趣味を持っている者があまりいないからなのか、客は千尋しかいなかった。まぁ、いつ来ても、メロンソーダなんぞと言う洋物を注文するのは自分くらいしかいないけれども。カウンター奥にいる異形のマスターは、きゅっきゅっと小気味よい音をたてながら湯のみを磨いていた。
 からり ころり、とストローをかきまわすたびに、透き通った濃いグリーンの海の中にしゅわっと音をたてて小さなあぶくが生まれるのは目に楽しかった。かきまわすのをやめても、こぽこぽと幾つもの線を作ろうとするかのようにあぶくが連なって昇っていくのを見るのも楽しかった。夏の光は曇った窓ガラスを通して柔らかな光になっていて、グラスを通すと微妙な色をテーブルに投げかけてとても綺麗だった。
 けれど、その濃いメロン色を眺めていると、脳裏にふとよぎる感情があるのもまた事実で。
 郷愁。胸をぎゅっと掴まれたようなそれ。甘酸っぱい想い出をかきたてるキーワード。
 両親と一緒に行った夏祭り。友達とした花火に、独特な夏宵の匂い。山の向こうに落ちる太陽。道の向こうにゆらゆらと立ち昇る逃げ水――メロンソーダはどこか向こうの世界の『夏』を強く想い起こさせるのだ。あぶくがひとつ弾けるたび、懐かしい思い出がよみがえる。
 だからと言って、泣きたいわけではない。そこに帰りたいわけではない。泣いてもなにもかわらないと虚勢を張っているわけでも、帰ってももう居場所がないと諦めているわけでもない。泣きたい時はちゃんと泣くし、自分が居たい場所はここなのだと知っているから。だからそのメロン色を見るのは完全なる苦痛ではない。痛みも苦しみもかわらず胸に迫るけれど、心地よいものになっている。
 こちらの世界に来たのが夏の残り香が漂う季節。もう一年が経とうとしている。あちらの世界とは違って、うだるような暑い夏はないけれど、確かに夏が終ろうとしている。この身に過ぎた時間の長さだけ、あちらの世界は過去の引き出しの中におさめられようとしている。それはけしてわるいことではなく、自然の摂理。あたりまえの現象。そして、記憶を掘り出して、かつてあったものたちを懐かしむのも、自然の摂理でありあたりまえの現象。
 だから、と千尋はストローをもうひとかきまぜし、あぶくをたてながら思う。

 このあぶくが無くなるまでは待ってあげる。あぶくがなくなるまでは他人のせい、でもあぶくがなくなっても来ないようだったら、遅刻はハクのせい。わたしを退屈させて、懐かしい思い出に引きずり込ませてそこから帰れなくなるような危険水域までほったらかしてくれたハクのせい。
 さぁ、今日はいつ頃やって来るかしら。遅れてすまない、って口にしながらその扉をくぐってくるのはいつ頃かしら。はやく来ないとひどいんだからね。炭酸の抜けたメロンソーダなんて、甘ぬるいものを飲ませてやるんだから。まぁ、甘味大王にはノーダメージかもしれないけれど。

 千尋はそんなことを頭の隅で考えながらメロンソーダをもうひとかきまぜし、懐かしい思い出を甦らせるのだった。




メロンソーダは、どこか懐かしい色。
これで本当に『イノセント』は『おわり』です。皆様、本当にありがとうございました。