イノセント

赤い墓標
【29】




   【一】

 ゆらゆらと揺れる青い世界。立ち昇る気泡がこぽこぽこぽこぽと耳元をくすぐり全身を包む。激しく流れ緩やかに流れるそれは水の中なのだろうか。この感触は経験がある。もう忘れ去っていた、ものごころつく前の――子供の頃の経験。河で溺れた時の――記憶が忘れ去っていても、身体が覚えていた――世界。やがて河は流れ流れて辿りつく――海へ。深い深い海へと。
 波の音が聞こえる。深く深く沈みこむ。どこまでも落ちていく不安と、包み込まれている安心感が一緒くたに存在している。緩慢な動きの身体の有り様は、水の中にいる時のそれそのもので。海がないなんてウソだよ、と思う。はじまりの海はここにある。ちゃんとある。わたし達の中に。寄せては返す波の音は心臓の音。左の扉を叩く音。
 落ちていく感覚はやがて白い光に焼かれてなにか別のものにすり換わってしまう心地すらした。『自分』がなくなってハクでいっぱいになった身体も、その白い光の中で弾けて消えてしまった気がした。それと同時に、はっきりと世界のすべてが見える気すらする。剥き出しになった魂が世界に放り出された……そんな気になる。
 落ちていく落ちていく……白い光の中を。これは月明かりの中であろうか? 千尋はふとそう思った。こんな感覚を昔味わった気がする。その時も『ハク』と言う存在に包まれていたような。
『あぁ、そうだ――月の光を弾いて煌く鱗がわたしの視界いっぱいに舞い上がって……』
 月光に透ける銀白色の鱗は、銀波であり花びらであり星だった。二本の角と水底色の鬣を持った竜は少年の姿になり――世界の重力に呼び寄せられてゆっくりと落ちていく。そしてわたしの身体も落ちていき――空中でしっかりと握ったのは、大切な手と、大切な名前と、大切な想いと、大切な笑顔――……
 地上がわたし達を呼んでいたのは、『天国は高みにあるのではない。地上にこそあるのだ』と言いたかったからなのだろうか。この白い光はまさしく天国への扉で――あの日の子供達が地上の天国で待っていてくれたのだと思ったら――嬉しかった。記憶は消されたわけではなく、ただちょっとばかりかくれんぼをしていたのだ。それをようやく見つけ出して、千尋は笑った。嬉しくて泣きたくなった。
 わたしの中で生きていてくれてありがとう。わたしの為に生きていてくれてありがとう。この言葉は――わたし達にちゃんと届く。ただひたすらに、まっすぐに。


 ふっと目を覚ますと、まだそこはハクの腕の中であるのだと気がついて、千尋はどうしようもなく恥ずかしく、それ以上に幸福感で胸が熱くなるのをとめられなかった。逃げないようにとの意味をこめてなのか、しっかりと腕をまわして自分を抱きこんでいるハクの腕を見て、ついで視線をちらりと上に上げてみる。睫、長いなぁと思っていると、視線に気がついたのか、睫が震えて翡翠色の眸が覗いた。千尋は顔が真っ赤に染まっているだろうと鏡を見たわけでもないのにはっきりと悟り、慌てて下を向く。その動作の間にハクは腕に力を込めて更に深く千尋を抱え込み、その髪に顔を埋めた。
「……夢ではないのだな……」
 一度は手放した花がこの腕の中にいるなんて、まさしく夢のようで。ハクはどこかうっとりとした声で呟く。
「私が千尋に贈ったベルに咲いている花に気がついた? あれはニゲラで、花言葉は『夢の中の恋』、そして『霧の中の乙女』と言うんだ。ここにいるそなたは私の見ている夢?」
 その、どこか幼い口調と自信なさげな言葉に、千尋は小さく笑った。
「ちゃんと本物で現実だよ」
 千尋こそが、この状態が夢に思えてならないのに。ハクと自分の関係がこんなものになろうなんて――あちらの世界で夢を見ていた頃は予想もしていなかった意外な関係だ。抱き合って朝を迎えることになろうとは――殺されると思っていたのに、ハクに。こんなに幸せな気持ちになるなんてあの頃は思いもしなかった。ほぅともらした息ごと絡めとられる優しい口づけをされる。幸せで仕方ない。いつまでも抱きしめていて欲しい。
 けれども、千尋は身じろぎをしてハクの腕から抜け出そうとした。途端に襲ってくるのは全身に広がった鈍い痛み。だが、千尋はそれを振り切って起き上がろうとする。もうひとつの『現実』を――思い出したからだ。幸せなままでいてはいけないのだ、少なくとも――今はまだ。
「ハク、わたし……行かなくちゃならないの。わたしを呼んでいる人の所――時計塔に」
 わたしが――嘘を言った、あの人の所に。千尋はすべてを思い出し、あの日の少年との約束以外で自分が成し、そして忘れてしまった重要事を――ずっと忘れながらもどこかで引っかかって仕方がなかったことを思い出して、それに立ち向かうと決めた。立ち向かわなければならなかった。千尋には、自分を呼んでいるあの『風』が『世界』などではないのだとわかったからであった。
 ハクとしては、おのれが怪我を負った危険な場所に――ましてや、千尋を手招いた者となんらかの関わりがあるであろう風を吐き出す時計塔に千尋を行かせるのは嫌であったが、彼女の強情さはよくわかっているつもりである。渋々と許した。けれども、おのれもそれに同行する点だけは頑として譲らなかった。そもそも、千尋の行く場所におのれも行くと再会を果たした日に宣言してあるのだ。拒否されてもついて行くつもりであった。結果、ハクは背に深緑のローブをはためかせる千尋を乗せて、時計塔へと空を進んでいる。昨夜と言うにはまだ間のない交わりの余韻で痛むであろう千尋の身体を慮ってか、竜の速度はいつもより緩やかであった。
 生まれたての太陽が、夜のうちに降った白い雪に光を投げかけるさまは幻想的であった。遠くの山々も雪を被り、淡い青紫や赤と言った、夕焼けとはまた違った微妙な色に染まっている。しんと静まり返った世界は静謐に満ちている。千尋は白い世界を見下ろしながら、どうしてこの雪が恐かったのだろうかと考えた。雪はやがて雨となり、冬はやがて春になるのに。汚いモノがあるから、綺麗なモノに感動できるのに。なにごとも受け入れなければならないのに。
 考え込んだ千尋に気がついてか、ハクは背中をそっと揺らした。空中で風をはらんでくねり、顔を千尋へと向けて翡翠色の眸で覗き込むようにする。千尋は小さく笑って鬣をそっと梳いた。ハクの中にもたしかに汚いモノはあるのだろうけれど、だからと言ってそれは恐れるモノではないのだ。だから、もう雪は恐くない。真白い真白いだけのものなど、どこの世界にもない。どんなに美しい存在も、高潔な精神も、どこかに欠点があり、どこかに汚点がある。完璧などは有り得ない。否、存在してはならないのかもしれない。なぜなら、欠点や汚点があるからこそ美点が美点たるのだ。完全無欠の存在などないことがその証しかもしれない。
 再びハクは空を泳ぎ、やがて赤い時計塔へと辿りついた。夜にしか現われない幻の町は朝日に掻き消え、今はさびれた時計塔だけがぽつんと建っていた。いつもなら草葉の揺れる草原であるそこも、一面の雪景色。時折顔を出している岩の上にすら雪が積もっている。
 新雪をしゃくりしゃくりと踏みしめて近づいた時計塔の壁は、ところどころがひび割れて塗装が剥げ落ちて、古めかしさを浮かび上がらせていた。『モルタル製だ』と言った父の言葉がすぐ耳元で蘇る。地面を真白く染めた雪の白さと古ぼけた赤のコントラストが目にまぶしい。
「風が生まれてる……」
 反対側の入り口では風は吸い込まれているように思えたが、こちら側では生み出されているように思える。あちら側の風がそのままこちらに抜けているのだとは思えなかった。
 誰かがこんな話を言っていたと千尋は思い出す。『世界に行き渡ることができるのは水と風だけだ。火と地はそこでしか存在を許されていない』ならば、この時計塔は世界中の風を生み出している場所と言えるのかもしれない。
 千尋はじっと時計塔上部を睨みつけるようにしていたが、やがて意をけっして薄暗い内部へと踏み込む為に足を繰り出した。背後を守るようにハクが後ろに続く。
 こつこつと、ショート・ブーツの踵が生み出す音が平たい石を敷き詰めた広場に響く。建物中央部は、月の光よりも尚白い光に満ちていた。ステンドグラスの外の異空間も雪景色であるのか、反射した朝日の清らかな光と、雪に音が吸い込まれて生まれた静寂に満たされていた。
 ぴちょん……
 ハクが水晶玉を設置する為によけた筈の燭台は、この通路を通った神の手によってか、いつもの場所へと戻されていた。燭台は天井から垂れてくる雫を受け止めて小さな音を刻んでいる。床に広がっていた水晶の欠片も片付けられたのか、そこは普段通りの広場に戻ってしまっていた。
 ひゅうひゅうと細い風があちら側に続く通路の奥から吹き込んでは、ふたりの髪を乱し木の葉を乱し広場の中ほどで沈黙をした。
 ぴちょん  ぴちょん……
 ステンドグラスの外に広がっている空に雲がかかったのか、光量が落ちて薄闇が広がった。ややするとその雲も行き過ぎ、色とりどりの光が床に戻ってくる。
 ぴちょん ぴちょん ぴちょん……
 千尋はステンドグラスへと近づき、それを振り仰ぐ。よくよく考えてみれば、この広場をじっくりと見たことはない。行きも帰りも気味悪さで母親の腕にしがみついていたのだから。今でならこの広場の静けさは身体や心に染みとおるようで気持ちが良い。ステンドグラスからは陽の光が降り注ぎ、ふわりと暖かい。
 たんったたん……たんったん……
 ハクは全身に緊張の糸を張り巡らせながらその場にいた。前方にある――あちら側に抜ける通路を見、ついで今しがた抜けてきた通路を見やった。天井に視線をやっても、ベンチの影に視線をやっても異常など感じ取れない。おのれが無理やりに宥めた風が吹く気配もなく、ハクは首を傾げた。
 と、その耳が違和感に気がついた。ここに訪れるといつも聞こえる、規則正しい水の音が――何故か、その足をはやめていたのだ。
 タンタンタンタンタンタンタンタンタンッ!
 強く早く水を打つ音にはっと身を強張らせ、ステンドグラスを見上げていた千尋の姿を求めてハクは振り返った。けれどもそこに娘の姿はなく、ぴたりと止んだ雫の音が静寂の波紋を大気に広げるばかりであった。

   【ニ】

 見上げていたステンドグラスがなぜか激しく発光して、千尋はその眩しさに目を閉じ右手を持ち上げて顔をかばった。そしてその光が和らいだのを感じ取り、恐る恐る目をあける。眩い光に焼かれた視界はぼんやりとしており、さっきまでたくさんの色に染められていた世界を映し出さずにいた。
「違う……」
 千尋はようやく戻ってきた視界の視点を合わせるように目を細め、そう呟いた。
「ここ……どこ?」
 そこは銀色の世界だった。ちらちらと白い花が舞い落ちる空間であった。温かくもなく寒くもなく、とても曖昧な温度。
 はっと後ろを振り返るが、そこにいたはずの青年の姿がないと認識して、千尋は目を大きく見開いた。ついで、さっきまで自分が前を向いていた方向――今は更なる『後ろ』となった方向から視線を感じ、慌てて視線を転じる。そこには、女がひとり、佇んでいた。質素ではあるものの上質の衣に鮮やかなひれを纏い、目元には赤い刺青の入った、年老いているようにも若いようにも見える不思議な女であった。
 その女が、赤い紅をひいた唇を開いた。
『ようやっと来たか、嘘つきめ。いかなわらわと言えど待ちくたびれたぞ』
 高慢な物言いは、けれども白く怜悧な女に良く似合っていた。声は驚くほど若い。もしかしたら自分と同じほどの年かもしれないと思うものの、千尋はどこかでそれは違うと感じていた。この女はわたしの鏡なのだとなぜかわかった。あの時はわたしと同じほどに手足の細い小さな子供の姿であった、今回はわたしが成長してここにいるから彼女も変化しているのだ。
「わたし、ウソを言うつもりなんてなかった!」
 千尋は両手をぎゅうと握りしめ、叫ぶように女に言葉を放つ。広さもわからぬ鈍い色の空間に、変な音の尾をつけて千尋の声は響き渡った。
「わたしはあの時、自分が知っていることを答えただけよ! わたしがあの問いに持っていた答えは、ハクだったのよ!」
 けれども女は、着物の袖をつぃと持ち上げ口元を覆うばかりで、その黒眸に許しの色は閃かなかった。美しいけれども、どんな感情も存在しない冷たい眸の色に、千尋は思わず身震いする。
「信じてよ! わたし、ウソは言ってない!!」
 冬の世界に虚しく千尋の声だけが響いた。ちらちらと舞い降りる白い雪は変わらず美しかったけれども、それがどんな表情も表わさない女の怒りに思えて、千尋はきゅっと唇を噛みしめた。
 それは、今思えば勘違いと偶然の上に起こった嘘であった。けれども、けしてなかったことにできはしない嘘であった。千尋にとっては『嘘』ではなく『真実』であったが、相手にとっても『真実』ではなかったのだろうと思う。
 それは、竜が魔女の家より契約印を盗み出し、式神に追われ湯屋へと辿りついた日のこと。際限なく膨れ上がろうとする黒い男と、それにまとわりつく愚かな人々が群れ集い『天』への道を塞いだ少し後の話。
 幼い千尋は昇降機を諦め、覚悟を決めて外より『天』へ向かおうと細い廊下をひた走っていた。そんな時にその道すらも防いだのは、千尋と同じ年頃の痩せた娘であった。黒髪を結い上げ、色鮮やかな着物に薄いひれを纏っていた。目元には赤い刺青。エキゾチックな容貌。千尋はたたらを踏み、その少女の前で止まった。
「あの……すみません、通してください」
 ぺこりと頭を下げて頼んでみるものの、少女は廊下の中心に突っ立ったまま動こうとしない。
「ごめんなさい、急いでいるんです」
 埒があかない、と少女の脇を強引にすり抜けようとすると、腕をつかまれた。細い少女にしては強い力だった。そのままぐっと引き寄せられ、目と目がかち合う。星を閉じ込めたかのような黒い眸は、焦りを抱えた千尋にも美しいと感じられた。
「この世の竜の名を知らんかえ?」
 小さな唇が開き、問うてきた。懇願するような、けれども多分に疲れを含んだ声色であった。その年頃の少女にしては深い深い声色に千尋は戸惑う。学校の友達の誰もこんな深い声色を纏ってなどいなかったからだ。
「竜の名前……?」
 千尋はそのおかしな問いに首を傾げる。千尋の知っている『竜』と言えば、ハクしかいない。この時の千尋はこの世界に『竜』がいないのだと知らなかった。だから正直に答えたのだ。
 けれども、千尋にとっての『竜』はハクであったが、少女にとっての『竜』もまたそうかと言えば――そうではなかったのである。たしかに千尋が嘘を言ったのではない。けれども少女にとっては嘘だった。だから糾弾するのだ、その罪を償えと。少女にとってはなによりも大切な『竜』の名であったればこそ、許せなかったのである。


『お前にわかるか? わらわはこの世界に迷い込んできたすべての魂に問うてきた。この世の竜の名を知らぬかと。そしてはじめて得た答えも違うとわかった時の絶望』
 ある者は竜など見たことないと言い、ある者は名を知らぬと言い、知っていても恐れ多くて名を口に出来ぬと言い、ある者は一緒に探してやると言いどこかに行ってしまった。
『それで今度は嘘! わらわに嘘を言うた! あちらの世界に生きる者なのに、お前らはあの竜と違ってなんと姑息で狭量なる者達よ!』
「だからわたしは――!!」
『偽りには真実を持って償え! お前の命など、あの竜の名に比べたら取るに足らぬ。真実を見つけよ!』
 言葉と声色こそ激昂しているそれであったが、表情を見る限りそこに怒りの色はない。冷徹であるから尚恐ろしくもあった。
 かわりに雪が容赦なく千尋へと襲い掛かってきた。あの、唸る風が巻き起こり、千尋を絡め取っていく。待って、違う、との言葉は容赦なく風に遮られ、やがて意識も白い雪に埋め尽くされてしまった。

   ◆◇◆

 気がつくと、千尋は闇の中にいた。手の平や片頬に草や土の感触があり、なんとも言えない匂いが鼻腔をくすぐった。昼間にたっぷりと太陽のぬくみを吸収した大地の匂いだ。
 ゆっくりと上半身を起こしまわりを見回すと、近いような遠いような場所にぼんやりと明かりが見える。視界が慣れてくると周囲がもっとよく見えた。草のぼうぼうと生えた、建物裏の空き地だった。
「ここ、見たことある」
 船着場の階段を登った所にある、一件目の茶色い二階建ての裏だ。店ではないと認識しているが、いつも雨戸が閉まっていて人の気配はない。隣には資材置き場か倉庫なのか、木で出来た平屋の小屋もある。そこがどこだかわかると、緊張していた心がすこしだけ緩んだが同時に混乱もした。フェリーがついたのか、階段を登ってくる霊々の気配がざわざわと感じ取れた。けれども、ここがどこだかわかったところで、千尋の混乱はおさまらなかった。どうしてここに倒れていたのだろう、たしか時計塔に行ったはずであるのに。そしていつのまに夜になったのだろう。油屋を出たのは朝であったのに。これは夢なのだろうか。それとも時計塔にいるのだと思っている方こそが夢であるのだろうか? 千尋はへたりと蹲り、霊々の行列の賑わいを背後にして呆然とする。
 と、霊々の行列とは反対方向からひそやかな音が聞こえた。さくさくと草を踏む足音に、千尋は身を強張らせる。闇に忍び寄ってくる者はなんであれ恐ろしい。
 けれども、夜の闇に浮かび上がる白い衣が目に入り、千尋は目を疑った。ハクだ。ハクがまっすぐとこちらに向かってくる。千尋は喜びに口元をほころばせて立ち上がろうとしたが、なぜか足に力が入らなかった。それに戸惑っている間にも、ハクは傍らに辿りついていた。
 白いその面を見上げて
「あぁ……立てない! どうしよう、足に力が入らない!」
 ハクの姿を見たお陰でおさまりつつあった混乱が一気に戻ってきてしまい、千尋は覗き込むようにしているハクの袖へとしがみついたが、その手を見て更に混乱した。
「手が……透けてる!」
 どうして?! と思う間もなく、ハクがしがみついてない方の手を千尋の口元に寄せて「私はそなたの味方だ」と言い「口をあけて、これをはやく! この世界の物を食べないと、そなたは消えてしまう」と赤い丸薬を口内に押し込んだ。噛んで飲みなさいとの忠告に従って千尋はそれを飲み下す。混乱と緊張に引きつった喉はなかなか小さな丸薬を受け付けてはくれなかった。喉がひりひりした。背を撫でてくれる大きなハクの手が嬉しかった。
 なんとか丸薬を飲み下すと、目の前に掲げた両手がしっかりと色を取り戻したのでほっとする。けれども、次に立ち上がろうとしてもやはり力は入らず無理であった。その様子を見て取ったハクは、スカートの上から千尋の足に手をかざし、手の平に光を生み出した。
「そなたの内なる風と水の名において……解き放て」
 そしてさっと立ち上がると、千尋の手をひいて風に乗り、空をすべるような速さで空き地をぬけ路地に入り『立入禁止』と赤いインクで書きなぐられた引き戸を魔法で開けるとそこすらも走り抜ける。視界に映る、鮮やかでいて毒々しい景色は線となり、耳元はびゅうびゅうと風を切る音しか捉えない。 
 こんなにはやく自分が走れるわけがない、と千尋は思った。豚の厩舎をぬけ、野菜や魚、肉を積み上げた食糧貯蔵庫を抜け、酒樽が並んだ酒倉も抜ける。
 あぁ、これはわたしの記憶だ。
 目まぐるしく変わる光景に、千尋はふっと思った。

 
 次に見たのは、見慣れた油屋内部であった。何故か吹き抜けの欄干に腰をおろし、なにもない空間に足を突き出している。運動神経が非常によろしいとは言い難い自分がなぜそのような体勢で揺れもせず恐いと思いもしないのかはわからなかったが、千尋は下をじっと見ていたのだ。
 従業員が客を誘導して逃げていた。油屋の玄関口から異様な雰囲気が近寄ってくる。黒くて臭くて濁った存在がぞろりぞろりと油屋内部に入ってくる。それを先導しているのは、小さな千尋。張り付いた、笑顔とも言えない表情はいびつだ。ぎくしゃくと繰り出している手足は折れそうなほどに細い。
「オクサレサマ」
 自分がはじめて相手をした、あの河の神だと千尋は思い出した。と、同時にあの時の猛烈な臭気を今現在少しも感じられず、千尋はなんだか不思議な心地がする。人によっては匂い付きの夢を見るとも言うけれど、千尋にはそんな夢を見た経験はなかったので、これは夢なのだと思えばなにもかも納得できる気がするのだが。
 オクサレサマの悲しげな顔を見た小さな千尋は、ずるずると泥の中を壁に向かって這いずって行く。
「ホホホホホホ、汚いねぇ」
 声が真横からしたのではっとして顔を向けると、そこにはいつのまにか湯婆婆がいた。
「笑い事ではありません」
 湯婆婆を挟んで反対側には、困った表情の父役が。
「あの子、どうするかねぇ。ほぉ、たし湯をする気だよ」
 ばんばんと壁を叩く千尋の様子をふたりは眺めやるだけであった。やがて千尋は目的物を見つけ出し、フックに木札をつけようとしてひとつを穴の中に落としたようであった。カランカランと高い音がどこまでも続いて消えて行った。小さな千尋はすぐさま新しい木札を取り出して取りつけると、釜爺の元へと送り出す。やがて湯口から轟々と音たてて温かな湯が降り注ぎ、オクサレサマの身体を包み込んだ。
『一番上等な薬湯』と言ったリンの言葉が思い出された。一番上等な薬湯は一番浄化能力の高い薬湯であると今ならもうわかる。けれども、その一番上等な薬湯でも、このオクサレサマの穢れは少しも落ちはしなくて。哀しそうなオクサレサマの仕草に、表情とも言えない表情に、胸が痛くなる。
 今は緑色に濁る湯に包まれたオクサレサマの体内に隠しこまれた大量のゴミを思うと、千尋の胸の痛みは更に増した。同時に、見た目に惑わされ本性を掴むことの難しさを思った。この濁った塊は、あの白く輝く身体を持った翁面の河伯であったのだ。千尋にニガダンゴをくれた優しい神様。ある意味、目に見えるものすらも真実ではない時もあるのだと知ったのはこの瞬間だったのだろう。


 次に切り替わった視界は宴会座席の広がる階で、なぜか客ではなく従業員が詰めかけていた。どこにこんなにも従業員がいたのだろうと思うほどの人数で、常なら外回りや裏方に回っている下働きの顔もあった。どの顔も喜色満面としており、中央部分にいる膨れ上がった黒い存在に向かって
「いくらでも手から湧くんだって!!」
「お大尽さまー、こちらへももうひとまきー」
 背伸びをし手を伸ばし、皆が口々に金をせびる。
「お大尽さま! お情けを!」
 千尋はその光景を、人々から離れた場所でぽつんと突っ立って見ていた。この光景も、かつて見た記憶だと千尋にはもうわかっていた。あの頃はこの光景の意味は良くわからなかったが、今見るとなんと醜悪なのだろう。世界には――あくまでもあちらの世界では、だが――物乞いをして命を紡いでいる者もいる。そんな者達にプライドはないのかと一時思いもしたが、それぞれに事情はあるのだし誰も好き好んで物乞いをしているわけではない。それは家族の為や、家族にも等しい者達の為におのれを犠牲の縁に立たせた、ある意味潔い行いであることが多いのだと知った。けれどもこの目の前に群れ集う者達は、五体満足で仕事もあり、食うに困らない筈であった。よりよい高みを望むのは生き物として当然の欲求かもしれない――より良い物を食べたい、より良い物を着たい、より良い物を持ちたい――が、それの為に捨てるプライドのなんと薄っぺらいことか。
「やめて! やめてよ、皆! そんなこと、やめて!」
 楽をして得た物は所詮偽りなのだ。その手中の金色の粒はやがてつちくれに戻るのだと叫びたかった。けれども誰の耳にその声は届かない。
 そうこうしている内に、目の前に小さな千尋が現われた。ポニーテールの髪を揺らし、必死な形相で駆けている。やがて昇降機で蛙男にぶつかり、踵を返したところでカオナシと鉢合わせた。カオナシが手を突き出し、金がむくむくと湧き出す。千尋はそれを不思議そうな表情で見つめ、やがて欲しくないと口にする。表情のないカオナシの白い面に大きな困惑の色が浮かんだのを、それを遠くで見ていた千尋ははっきりと知った。
 ――甘いものを振りまいて人の関心をひいてそれの虚しさに気がつき打ちのめされるには、カオナシはあまりにも純粋で無防備な生命であったのだと千尋は気がついた。この後に続く惨事にはそんな悲しみが隠されていたのだろう。あの時にはわからなかったことも、年を重ねた今ならわかることもある。
 今のわたしならカオナシになんと言ってやれるだろうか。時間はもうもどらないし、カオナシもいつまでも愚かなままではないのだけれど。彼は大きく変わったのだと――ちゃんと知っている。

   【三】

 一方その頃のハクは、鳥へと姿を変え舞い降りてきた湯婆婆の言葉に驚きを禁じえなかった。
「ここが……墓だと言うのですか?!」
「そうさ、墓だ。銭婆が調べた古文書によると、大きな封印らしいんだ」
 銭婆から連絡を受けてお前を捜しても姿はないし、これはまずいと思ってここまで急いできたのさ、と湯婆婆はステンドグラスを見上げながら言う。
「どうやら、そこに埋められているのは『神』らしいんだが、前にも言ったとおりここには『神』なんていない。けれども、確実にあの娘はここから呼ばれている。もしやと思ってくればまさしくお前がいたし」
 センも姿を消したとなると厄介だねぇと湯婆婆は口を不機嫌に歪めた。
「せめて、そんな関係になるのは一日ずらしてもらいたかったもんだよ。ふたりして愛の逃避行されちゃたまんないね」
「どうして私と千尋が、その――」
 千尋が聞けば恥ずかしさで卒倒しそうな湯婆婆の言葉に似たり寄ったりな反応を返すハクを遮るようにして、老婆はそこだけ口を面白げに持ち上げて笑った。
「あぁん? 伊達に人生重ねた魔女じゃない。弟子が妙に色気づいているのなんてとうの昔に気づいているさ。逆に、いつまで時間がかかるやらと思っていたくらいだし」
 お前、案外度胸も意気地もない男だったねぇ、お陰で銭婆との賭けに負けちまうし。男だったらさっさと手ぇだしな! とハクにはよくわからない点で叱り飛ばした。
「あぁ、だからそんな事じゃなくて……」
 湯婆婆は煌びやかな指輪をこれでもかと飾った指を閃かせ、考え込む風に顎を捉え半眼で広場を見渡した。
「神なんていないんだよ、ここには。あくまでも、文章として残っている一切にはないはずだ。銭婆が見つけた古文書は、ある意味邪教の書。いくらあたしが魔女でも、暗黒の神を崇拝するキチガイ書になんざ手を出したくないからね。あたしは知らなかった」
 けれども、と湯婆婆は言葉を切り、どっかりとベンチに腰をおろす。
「考えを変えたんだよ。邪教と呼ばれる物は、大抵が土着の信仰だ。あたしは、生粋のこちら育ちの者達を叩き起こして『神』について聞いてみた」
 そしたらなんと、黒い竜が奉られていると言うじゃないか! 湯婆婆はその時の驚きを思い出したのか、目を剥いて吼えた。
「竜だよ、竜! しかも奉られているとなるとそれは『神』に他ならない。その上に『はじめの神』ってどう言うことだい?!」
 ハクは、いつぞやの千尋の話を思い出していた。そして、なんとなくこの墓の下に眠る者の存在がわかってきた気がする。見えない星として空に奉られた竜の本当の屍が地にある。星の話その物が、地より目を逸らす偽りではないのだろうか?
「そう言えばハク、どうしてうちの湯屋が月いちで休業するかわかるかい?」
 唐突に向けられたそんな質問に、それでもハクはよどみなく答えた。
「それは、ボイラー室の点検や、従業員への計らいの為です」
 それだけじゃないんだ、と湯婆婆は人差し指を閃かせながら続けた。
「それ以上にもうひとつ意味があるのさ。お前は、湯屋が休業日の夜に時計塔下の町が現われないのは、うちが休みだからだとでも思っていたのかい? 違うね、町が現われないからうちも休むしかないんだよ」
 それは新月――月が完全に姿を消す日であった。それは星々だけが空を彩る、暗闇の世界。その夜に現われない町。逆に考えれば、闇が司る夜以外には現われる町――繋がる異世界。そして、時計塔がどこよりもしっかりとした異界への門である事実を考える。
「もしや、その竜は――」
「ここにいるのは、はじめに生まれた存在なんかじゃない。きっと別の世界から彷徨いこんできた竜だ」
 その竜がなぜこちらでは『はじまりの神』と呼ばれているのか、湯婆婆にはわからなかった。そして、ハクだけが知っている事実――あのヴェイと名乗る女もまたこの時計塔にかかわりのある者だと言うことを考えに入れれば、答えはもうすこしばかり見えてきた気がした。
「もしかしたらここにいるのは『はじまりの神』と『暗竜』の二柱なのやもしれません」
「ここに『神』が二柱もいるだって?! よしとくれ、そんなの考えたくもないね!」
 あたしが信じていた世界がひっくり返っちまうじゃないかいと湯婆婆は低くうめいたが、その彼女の前でハクが床を見つめてもらしたその言葉に、うめくどころではなくなった。
「ならば、確かめてみましょう」
 そして、両手いっぱいに破壊の力を呼び集めて呪を紡ぎだした弟子の本気の様子に、
「馬鹿も休み休みに言いなッ!」
 と叫んだのであったが、その叫びは僅か一瞬遅かったのである。
 時計塔は轟音に包まれ、床石はめくりあがり、視界は土煙に覆われたのであった。

   【四】

 神が世界を作るのか。それとも、世界が神をつくるのか。それを知るのは、はじまりの神と呼ばれる者以外にない。いわゆる『創生神』だけである。一番はじめに生まれた魂――意思と生命を有した者が『神』となる。世界が――または神が生まれるのは、小さなきっかけひとつでしかないのかもしれない。儚く小さな世界であれば、それは尚のこと小さなきっかけひとつで成しえるのかもしれない。
 女は銀色に曇る空の下で黒眸をまっすぐに見据える。わらわを生み出したのは『世界』の方だった、とはっきりと覚えている。その時はまだ世界に光も風も大地も水もなく、ただングヴェイだけが虚ろに存在していた。そこには『神』たる意思などなかった。ただ、どこともとれる空間に漂っていただけである。そんな彼女が唯一抱いていたのは『ングヴェイ』の単語ひとくさりだけであった。


 銀の空に映る娘は、更なる記憶を辿っていた。
 小さな少女がパイプの上を危なっかしく渡っているのを、鳥の目を借りて見ているようである。凄まじい摩擦音を響かせてパイプは海中にそのきっ先を向けてやがて止まった。鉄の梯子をよろよろと登っていく少女の手助けもできず、鳥はうろうろと空を旋回するだけである。
 蒼い空に流れる白い雲がやけに穏やかに思えてならない。この建物の中で繰り広げられている大騒動など、空は一切関知していないのだと妙に納得する。右往左往しているのは小さな生き物達だけなのだと思い知らされる。
 場面はまたもや進み、今度は大きな千尋としてそこにいた。存在しているのはクッションの山の中である。油屋経営者の息子に腕を取られ、遊びをねだられていた。
「こんな手、すぐ折っちゃうぞ」
 ぎゅうと力を込められて、千尋は眉を寄せて痛みを堪えた。
「痛い! ね、後で戻って来て遊んであげるから……」
「だめ、いま遊ぶの」
 我侭に育てられた坊に言葉では通じない。千尋はあの時のように手の平を見せて血の存在を利用しようかと考えて……すこしばかり悲しくなった。時間があればよかったのに、そうしたら言葉でわかりあえたかもしれないのに。今から考えればそれこそ嘘になってしまった『後から遊んであげる』なんて言葉を口にしなくてすんだのに。時間が欲しい、わかりあいたい……いや、わかりあう為には時間こそが必要なのかもしれない。たとえそこに言葉はなくとも、短い言葉以上にわかりあえただろうに。
 わかりあいたい。わかりあいたい。ハクに対して思ったそれを、千尋は女――ングヴェイに対しても抱いた。わかりあいたい……どうしてわたしに対してそのような思いを抱くこととなったのか、あの短い時間にかわした言葉だけでは完全にわかりきれはしなかった。時間が欲しい、もっと話をしてわかりあい、誤解を解き、できれば解決の道を探したい。


 気がつけば、千尋はなにもない青い空間にポツンと佇んでいた。そこは深い深い青の色一色に染められた世界で、狭いのか広いのか――それ以前に足元が下なのか頭上が上なのかの判別もつかない世界だった。
『偽りには真実を持って償いを』
 そうングヴェイが千尋に突きつけているのなら、まだわかりあえる糸口は残されているのだろうと千尋は思うがこのままでは埒があかない。千尋はどことも知れぬ空間に向けて声を張り上げた。
「ねぇ、見てるんでしょ?! わたし、真実を捜すわ! どうすれば良いの?!」
 口から出た言葉はその端から虚空に吸い込まれ、どこまで響いているのかもわからない。どこまで叫べば女に届くかすらもわからず、千尋は何度も声を張り上げた。
「ねぇ! 聞いてるんでしょ?!」
 さすがにいらいらと感情が昂ぶってきた頃、青い空間に変化が現われた。そこここに淡く白い光が漂い始めたのだ。それ自体は五センチ程の白球であったが、あまりにもたくさん輝いており世界が白く染められた気にすらなる。やがて光は丸く膨れ上がり、はじけたかと思うと――そこに、透明に輝く硬質な物体が現われた。それは千尋にとってはすでに見慣れた物であった。クリスタル製の小さなベル――ハクより贈られた大切な品物。
「え……?」
 けれどもそれを目にした千尋は、困惑の声をあげざるを得なかった。なぜなら、白球のすべてがまったく同じベルの姿をとったからである。この中から本物を捜せと言うのだ、彼女は。かつて湯婆婆が豚の群れから父母を捜せと試練を突きつけたのと同じように。
 千尋は自分を取り囲むようにして漂っているその小さなベルを見渡して、きゅっと唇を噛みしめた。

   ◆◇◆

 土煙の幕がようやく晴れた視界には、無残な光景が広がっていた。吹き飛ばされたベンチが壁にめり込み大破し、柱も中心部が空洞となっている。赤い外壁も穿たれ、外から雪や日の光が舞い込んでくる。けれども、不思議と建物自体が崩れる気配はすこしもない。そうこうしている間にも、建物自体に復元能力が備わっているのか、徐々に崩れた壁や柱が元にもどっているのだと目ざといふたりは気がついていた。細かい破片となったベンチすら、その乾いた組織を繋ぎ合わせて元の姿に戻ろうとかすかに蠢いている。
「これも竜の復元能力の応用かい?!」
 湯婆婆はとっさに張った薄い膜の結界内から声を張り上げる。目は、少しずつ元に戻ろうとする床石の下を覗いている。
「そうかもしれません」
 中央にぽっかりと開いた穴の縁に膝をつき覗き込んでいたハクは、顔もあげずにそう答えた。ハクが穿った床は分厚い物で、その下には普通に地面が存在していた。けれどもその層は一メートルの厚さも無く、地面の下に新たな石組みが施されている。そこにあったのは、完璧な密室を誇る小部屋。
 ハクは目を細めて穴の奥を覗き込んだ。時計塔が建てられた時以来はじめて光がさしているのに違いないそこには、闇よりも深い物体が安置されていた。ハクが起こした爆風で吹き飛んだ天井の一部から差し込む光が細い流れとなってそれに降り注ぎ、それが持っている硬質な鱗を暖かく照らしきらきらと光の飛沫を振りまく。
 そこにいたのは、漆黒の体躯に枝分かれした立派な角を持った巨大な――竜であった。時計塔の基盤には、この世界には存在していないはずの『竜』が埋められていたのである。

   【五】

 千尋は自分を取り囲むその小さな物体に対して、なにもできずに突っ立っていた。ングヴェイはチャンスが一度だけとも言っては来なかったが、千尋はたった一度しかベルを選んではいけないのだと気がついていた。自分にとっての竜の名は『ハク』だけであったように、彼女の言う『竜』もたった一頭であるのだ。ならば、それに対して何年間も自分を呼び続け償いを求めていた彼女が、何度も『真実』を選びなおすのを許すはずが無いではないか。
 青い虚空にも風が吹くのか、ちりんちりんと一斉にベルが鳴り出し、千尋は更に焦りを感じる。まるで早くしろとせかしているようで、惑いそうになる。
 あの時はどうだったろうかと千尋は考える。あの、湯婆婆との契約解除の時はどうだっただろう。考えてもよく思い出せなかった。あの時は心が『ここにお父さんやお母さんはいない』と告げてきたので正直にそれに従ったまでであったので。あの時のように、心の声に耳を澄ますには雑念が多い大人へとなってしまった自分に千尋は苛立つ。もしも失敗したらどうしよう、あの時のようにここに本物はなかったとしたらどうしよう、どうすればよいのだろう、そんな考えに心は乱れた。あの時にはそんな雑念はなかったのに。失敗した時のことなど考えたりはしなかったのに。この年ではそれを考えないではいられない。意識せずとも心はどうしようもなく乱れてしまうのだ。
 意を決して、空に浮いたベルのひとつに近づき、触れるか触れないかの間際まで顔を寄せる。そしてまじまじとそのベルを見た。流麗な曲線で形作られたそれが弾く小さな光もいつもと同じで、その表面に彫られたニゲラの花も葉もまったく同じであった。細い銀の持ち手に手をかければ、普段通りににぴったりと吸い付いてくれるのではないかと思われる。そっと揺らせば、美しい音色を奏でてくれそうだ。けれども千尋は迷った。その隣に浮いているベルを見ても同じ物にしか見えなかったからだ。どれもこれも同じに見え、同じ印象しか受けない。
 千尋はとうとう膝を抱えて蹲ってしまった。泣いて済むのなら泣きたい。けれども、これは泣いて済むレベルではなかった。その足元もまた青い空間で気が変になりそうであったが、自分を取り囲むベルからたったひとつの本物を捜せなんてのは無茶でありそちらの方こそ気が狂いそうになる。
 さわさわと空間を吹き抜ける風に乗り、幾百、幾千あるかわからないベルがちりん りん りんと泣く。その只中で蹲っている千尋の耳に届くそれらは、小さな可憐な音などではなく強風のうねりにしか感じられない。りん りん ちりん りん……千尋の意識を侵食するかのように忍び寄ってくる音。そんな中、耳をも塞ごうとした千尋の手がぴくりと震えて止まった。そして、恐る恐る顔をあげて背後を振り返った。
 チリン リン――
 あきらかに他のベルとは違う音が、柔らかく波紋を広げているのに千尋は気がついた。
「わたしだけが出せる――ハクの……」
 本当の『音』が聞こえる。ハクがわたしを呼んでいてくれた――たったひとつの、大切な声。聞き間違うはずも無い、高く澄んだ音。
 千尋はたくさんあるベルには目もくれず、そのひとつだけ違う音で鳴るベルめがけて走り出し、躊躇いもせずそれを掴み取った。嬉しげに高く澄んだ音を奏でたベルは、やはり『本物』の感触で、心の中にあたたかな火がともった感覚がした。ハクに抱きしめられている時みたいな――すこしばかり恥ずかしさの混じった、嬉しい火が。
「きゃ……っ!!」
 途端に、天も床もないふわふわとした空間に漂うようにしていた身体に圧倒的な重力がかかり、千尋は奈落の底にも等しい場所へと落ちていった。胸にはしっかりとベルを引き寄せ、千尋はその落下感に悲鳴をあげそうになるのを堪えている間に意識を失った。

   ◆◇◆

 時計塔下に存在していた部屋へと躊躇いなく飛び降りたハクは、そこで更なる信じられない存在と対峙していた。黒々とした山となっている竜の屍に寄り添うようにして、あの、夢の中の女が立っていたのだ。そして同じ部屋にはもうひとり、突如姿を消した千尋が倒れ伏したままぴくりとも動かないでいる。
 ハクは屍とングヴェイに警戒をしながら千尋に駆け寄り、彼女が息をしているのを確認してほっと息をついた。
『お主が来るか、娘の竜よ。偽りの名の主が』
 冬の夢では二度聞いた女の声が現実の世界でも響いた。やはり美しい声であった。若いようでもあり、年老いているようでもある、複雑な声色で奥深い。
「あなたと千尋の間になにがあったかは知りません。けれども、彼女が命をもって償わなければならない程の罪などいつ犯したのです?! 彼女はこの世界において、ほんの少ししか存在しなかったのに」
 ハクの言葉に、ングヴェイは細い柳眉をほんのすこし吊り上げた。
『命などいらぬ。あの娘が異界の者であったゆえ、魂魄だけでも招いて贖いをさせようとしたまで』
 仕方なかろう、とさらりと口にしたングヴェイに、激昂したのはハクの方である。たしかにこの考えは『神』であれば当然の思考方向であるかもしれない。けれどもハクには許せるはずがなかった。
「命を……っ! どんなに小さき命であろうとも、他者が玩ぶのはもってのほか! あなたはこの世界のすべてを――命を生み出した創生神でしょう?!」
 はじめて見た冬の夢の中で、風にまかれてはっきりとは聞こえなかった彼女の名乗り――あれは、彼女の真の名がすべて名乗られていたのであろう。彼女こそが創生の神『ングヴェイ』であるのだとハクにはもうわかっていた。けれどもングヴェイは面白そうに目を細めただけであった。
『この世界の命を生み出したのはわらわではない。それはすべて――』
 と、背後に横たわる黒い鱗の竜を優しく撫でているングヴェイの言葉を遮るように、別の声が響いた。
「その、名前のない竜ね」
 ングヴェイの言葉を引き継いだのは、ハクの腕の中にいる千尋。
『真実を探し出したか』
 冷静なングヴェイの声の響きに、千尋はハクの衣をきゅっと掴みまっすぐに彼女を見つめた。本当はちゃんと立って対峙したかったが、身体中に力がうまく入らない。ハクが上半身を抱き起こしてくれていなければ、いつまでも冷たい床石に転がっていただろう。
「わたしの真実ならちゃんとあるわ。ここに」
 そして更に力を込めてハクの衣を掴んだ。
「それはベルなんかじゃなくて、夜道に迷った時の空の指針でもなくて、ハクよ。わたしの人生を全部変えた先にハクがいる。それ程の存在を真実だと言えずにどうしろと言うの?!」
 千尋は、この世界に来た当初、星の名前を知りたがった。北を指し示す北極星のように、揺ぎ無い空の指針を持ちたかった。けれども彼女にはもっとはっきりとした星が――否、彼女が道に迷えば共に迷い、道を探そうとする星が傍でずっと見守っていたではないか。『真実』よりももっと大切だと直感が叫ぶんだからもうどうしようもないじゃない、と千尋は思う。ただ漫然と行くべき道を指し示す星なんかではなくて、迷い星だけれど、わたしにはそちらの方が良い。単純なようで複雑で、複雑なようで単純な理由。
 けれども、ングヴェイは満足げに笑った。馬鹿馬鹿しくなったのかもしれなかったが。
 だが、その淡い笑みがふとやんだ。千尋が続けて投げかけた問いによって。
「あなた、本当は――……この竜の名前を呼びたかっただけなんでしょう?」
 小さな願いだったんでしょ? だからわたしに『竜の名』を聞いたんでしょ? 鱗を撫でながら名前を呼びたかったんでしょ? 人々が竜に『ングヴェイ』と名づけていたのは間違いなのだから……その存在を正しい名で呼んで正しく認識したい。わかりあいたい。世界のはじめから共にいるその存在をわかりたいんでしょ? それに向ける感情が正であろうと負であろうとも。

   ◆◇◆

 世界のはじめの様子は、はっきりとは覚えていない。ただ、光も闇もなく、大地も空も風も水もなにもなかったことは覚えている。ングヴェイはぼんやりとなにをするでもなくそこに漂いながら『存在』し、次のきっかけを待っていた。
 そんな彼女に訪れたきっかけは、異世界から彷徨いこんできた命であった。黒い鱗に漆黒の鬣、幾重にも分かれた立派な角を持つ竜。その色を認識したングヴェイから世界に闇が生まれ、対として光が生まれた。それらに『闇』と『光』と名づける。
 どこかを傷つけているのか、衰弱した竜の様子にングヴェイは心を痛めた。それで、はっきりと他者と自己を認識する力が生まれ、同時に、それまでもやもやとあった幾つもの心の一片である『慈愛』がくっきりと形作られた。竜が落ち着ける場所を欲すると、大地ができ、対として空があらわれ『大地』と『空』と名づけた。
 硬い大地はそのまま寝そべるには痛そうで、柔らかな土を欲し、草を望んだ。偶然にも、色鮮やかな花も咲いた。嬉しくなった。熱を持った竜の身体を冷やす為に水を望み、風を望んだ。
 竜の為にングヴェイはたくさんの物を望み、生み出し、名前をつけ、やがてそれらの行為に喜びを見出した。彼女の心は様々な色彩で占められるようになり、世界は完成への道を着実に進んでいた。けれども、喜びに顔を輝かせることは彼女にはできなかった。竜が徐々に衰弱していくのがわかっていたからだ。
『あなたはだあれ?』
 芽生えたばかりの、他者と自己をわける認識力によって彼女は竜に問いかけ、そうして『言葉』がうまれた。けれどもそのはじめの『言葉』に返ってくる『言葉』はなかった。
『あなたは死ぬの?』
 命を司る創生神は、幼くとも正しく生と死への認識があった。その問いに、竜は重々しく頷く。
「それが世界の理だからだ」
『世界の理には従わなければならないの?』
「それに外れれば世界が崩れる。理とは絶対だ」
 竜の言葉により、ングヴェイは『世界の理』は絶対のものであるのだと認識した。この綺麗な生き物をも屈服させる法であるのだと。けれどもングヴェイは竜に死んで欲しくなかった。今までずっとひとりでいた為になんとも思わなかったが、他者にいて欲しいとの気持ちが芽生えていた。
『ひとりはいや。寂しい。もっと話したい』
 彼女はたくさんの物を生み出したが、意思ある生物は生み出していなかった。今まで生み出した物はすべて竜の為の物であったからだ。水には魚もおらず、空には鳥もおらず、大地に獣もいなかった。
「命を生み出せば良いだろう。お前ははじまりの神なのだから」
 世界を次々と作り出す目の前の子供を、竜は正しく認識していた。この子供は望めば幾らでも命を生み出せる存在、世界を豊かにする責を負わされた存在であるのだとわかっていた。けれどもングヴェイはふるふると首をふり、傷ついた鱗に顔を伏せる。
『あなたがいい。消えないで。もうなにもつくらない』
 子供の言葉は、生まれたばかりの『世界の理』に囚われてしまった。ングヴェイはもうなにも作り出せなくなってしまった。
 竜は悲しげなため息を胸中で吐き出す。おのれの死を看取る羽目になった創生神をこのまま置いていくのは忍びない。
「ならば、我が生み出していこう。この世界に生きる『命ある者』を」
 竜は残り少ない命を燃やして、幾つかの命を作り出した。柔軟性に富み、穢れのない世界であったから成しえた行い。水に魚が二匹生まれ、空に鳥が二羽生まれ、大地に獣が二頭生まれた。ングヴェイがそれらに名前をつけると、それらはこの世界に生きる者となった。その様子を見た竜が満足げに笑うと、おまけのように虫が生まれた。ひらひらと美しい色彩を纏った蝶も生まれた。
「あの者達は子を産み、世界に散らばり、やがてはじまりの姿から大きく変わっていくだろう。お前はそれを見守って行けばよい」
 そう告げると、竜は目を閉じてもうなにも言わなくなった。幼いングヴェイにもそれがなにを意味するのか十分わかりはしたが、とてつもなく悲しくて仕方がない。命を次々と生み出した手の中ではじめて実感した死。しかも、すべてに『名』があるのに、この竜にだけは名前がない。なんと呼べば良いのかわからない。泣きながら呼ぶ名前を知らない。
 竜の屍に寄り添ってぼんやりとしている間に、膨大な時が流れ、世界は目覚しく変化していった。
 けれども、創生神が創造を途中で放棄した世界は微妙に不安定。命ある者達はやがて確固たる意思を持ち、この世界の不安定さは『神』の存在の希薄さであると悟り、異界に救いを求めようとした。
 そして因果は巡り、竜と創生神の上に門が建てられ、時を司る時計塔となり異界を繋いだ。異界の神や生き物達が徐々に流れ込んできた頃、ングヴェイははっと目覚める。竜が纏っていた世界と同じ匂いがすると気がついたのだ。
『名前……』
 同じ世界の生き物なら、あの竜の名を知っているかもしれない。そう考えたングヴェイは、異界から流れてきた者達の間を訪ね歩いた。けれども返って来る言葉は『知らない』とのものばかりで。それでも諦められなかった彼女は訪ねるのをやめはしなかった。
 そんな中で出会った小さな娘が知っていると答え名をあげた。彼女は喜んで屍に向かってその名を唱えたが、竜はなんの反応も示してはくれなかった。そして彼女はその名すら違うと気がつき、絶望感をおぼえたのであった。それは冬の雪にも似た凍えた色。

   ◆◇◆

「馬鹿だね」
 千尋はハクの腕の中で、躊躇いもせずにそう口にした。
「わかりあいたい存在の正しい名前を口にしたいって気持ち、とてもわかるよ。だってわたしのここには、ハクの本当の名前があるもの」
 ゆるゆると腕を上げて、千尋は胸元をそっとおさえた。
「けれど……ねぇ、名前があるからその存在があるのじゃないでしょう? 名前もその人の一部でしょう? その竜は名前を捨てたかったのかもしれないじゃない。どうしてあなたが名前をつけなかったの?」
 自分の名前を竜に名づけるなんてしないで、新しい名前をつければよかったのに。そうしたら、少なくともその竜はこの世界の生き物として死んでいけたのに。少なくともングヴェイには名を覚えていてもらえただろうに。
「呼んでくれる言葉に心がこもっていなかったら、それはただの『音』だよ。ベルの音だって、心がこもっていたらわたしを呼んでくれる声になるのに。呼ぶ名前もないなんてそんなのは悲しすぎるから、偽りでも、新しい名でも構わないから呼んであげれば良かったのに」
 そうしたら、竜が残した生き物達は、もっと正しく世界の創世記を語り継げただろうに。『竜』と『名もない神』が争った末に命が満ちたなんて真実からは程遠い話にならなかっただろうに。
 ハクは千尋の言葉を聞きながら、そっと眸を閉じた。呼ぶ名も知らなかったあの季節の声は彼女に確かに届いていたのだ。嬉しくて仕方がなかった。
『偽りの……新しい名前?』
 ングヴェイは千尋の言葉にぼんやりとした声でそれだけを呟くと、竜の伏せられた頭へと近づき、その耳へそっと言葉を滑り込ませた。すると――死んで動かない筈の鱗がざわりとざわめき、頭から尻尾の先へとしゃらしゃらと細波だって光を放ち、狭い石組みの小部屋いっぱいに満ちる。
『ここに生まれてきたね』
 ングヴェイは竜の頭を撫でながら、愛しげに呟いた。その表情は驚くほど幼く見えた。
『あなたはここではじめて死んだ命で――ようやくここに生まれてきた命』
 これが本当の別れになるけれど。
『また会おう。わらわだけの竜』
 そして、ゆっくりと微笑んだ。意識が芽生えてから竜の為に様々な存在を生み出した時に感じた淡い喜びを、竜の命の流出の前では押し殺していた彼女がはじめて枷も無く抱くのには――こんなにも時間がかかってしまったけれど。
 淡い光の粒子となって崩れ去っていく竜の身体を追いかけるようにしてングヴェイもまた姿を消し、後にはハクと千尋だけが取り残される。
「……」
 雪の白と朝の光に照らされて白々と輝く戒めの小部屋は、それでももうその存在意味をしっかりと焼きつけていて、徐々に再生をはじめているけれど。
「この時計塔は、もう『門』としてしか存在できないのだな」
 その要であった竜が消え去っても、時計塔は『あちらの世界』と『こちらの世界』を繋ぎ続けるのであろう。すでにその要は『異世界の竜の屍』があることよりも、『門であれ』との人々の願いが成り代わっているのであるから。
「帰ろう、ハク」
 ングヴェイと竜がいたあたりをぼんやりと眺めていた千尋が、時間を動かす。
「油屋へ――わたし達の家へ」
 賑やかなあの場所へ帰ろうと――笑った。