「うわぁ、ハク、すごい!」
千尋は竜の背から見下ろしている山が、一面の櫻色に染まっているのに感動して声をあげた。寒い冬がようやく行き過ぎ訪れたうららかな春の光に包まれて、竜はすぃっと下降してその小山へと着地する。竹篭を下げた千尋は竜の背から飛び降りるようにすると、ハクをほったらかして櫻の巨木の下へと行き、枝を広げるそれを見上げてきゃぁきゃぁと騒いでいる。
「すごいっ! ハク、すごい綺麗ねぇ!」
あちらの世界にも名木はたくさんあったが、こちらの櫻は次々と蕾をほころばせ、はらはらと花びらを散らしており、また違った凄さを感じさせる。まるで、櫻の存在意義は花を咲かせることではなく花を散らすことにあるとでも言うように次々と花開いては次々と散って行く。
ちらちらと薄い櫻色をした花びらが舞い降りて、ハクの目には櫻と千尋が一体になった気がする。まるで櫻の懐深く抱き込まれて攫われてしまったかのような。けれどもハクは慌てたりはしなかった。彼女はいなくなったりしない、ここにいるとわかるから。ただ眩しげに、愛しげに目を細めるだけである。
「あぁ、やっぱりそなたと櫻はよく似ているね」
千尋の名を取られていたあの春に見上げたこの櫻と目の前の娘はよく似ていた。ふわりとした色彩もそうだが、根をしっかりと大地に張りどんな狂風にも負けない様子がよく似ている。見る者の心を和ませるところも同じであった。
「なに? なにか言った?!」
ハクの小さな呟きに、はしゃぐ千尋は小首を傾げる。そんな千尋をハクは両腕で囲んでしまった。どこにも行かないとはわかっていても、櫻に取られっぱなしでいる理由もないのであるし。
「ハク?! えと、お弁当、つぶれるよ?」
抱きしめられるのは別段嫌ではなかったが、突然のハクの行動に困惑の声をあげてしまった千尋は、返って来た答えに思わず苦笑してしまう。
「そなたとこの櫻を見られて、幸せだと思ってね」
「……ハクって前にも言ったけど、すっごいさびしんぼだよね?」
「些細なことで喜べるなんて、幸せな性格をしていると思わないかい?」
そう言うのは心が貧乏性って気もするけれど、仕方ないからつきあってあげる! と千尋は両腕をハクの背中へとまわしてぎゅうと抱きついた。ふたりを包むように櫻の花びらが降り注ぐ。まるでふたりを祝福しているように――または呆れているように。
千尋は、ハクの腕の檻と櫻の花びらの幕に包まれてうっとりと笑った。
「夏には海を捜しに行こうね。秋には森に連れてって。冬には雪の遊びを教えて欲しいな」
そして来年の春には、またここに連れてきてね。
ささやかな千尋のその願いに、ハクは笑みを深くした。
そして、春は春に、夏は夏に、秋は秋に――冬は狂った風をはらむ冬ではなく、いつもの冬として世界にもどった。
おわり