【 5 】




 翌日もハクは謹慎中だった。
 昨日の帳場は荒れに荒れ、湯婆婆が下に降りてきていたのだけれど、お客様がいなくなった瞬間に口からごーっと火を吐いているのをみてしまった。話だけはハクから聞いていたけれど、あれってすごいなー。サーカスの火吹き男も真っ青って感じ? もう人間じゃないねって元から人間じゃないんだっけ?
 それにしてもハクが一日いないだけでわたしでもわかるくらい帳場は荒れていたけれど、ハクって出張で数日いなくなることもあるのに、その時はどうなっているのだろうといらない心配してみたり。って言うか、それでも謹慎解かないのかユバーバサマ。ある意味お疲れ様。
 でもとりあえずわたし小湯女なので帳場なんてあんまり関係ないし、せっかくこっちの世界に来てるのにハクに会えない方が問題な気がする。会ってもどうしたらよいのかちょっと今でもよくわからないのだけど、会えないとなるとそれが寂しく感じられて仕方ないのだから不思議だ。けど、本当は別にハクの部屋に人が入っちゃいけないなんて命令はなくて。単にわたしが入れないだけで。『ハクは謹慎中だから』って理由つけて逃げてるとわかってるんだけど。
 会いたいのに会えない。
 会えないのに会いたい。
 会えるのに会わない。
 会っても離れたい。
 離れたら会いたい。
 触れられてドキドキしたのが最初だけれど、今になって思えばハクの手が懐かしく感じられて。でもきっと触れられたらもっと困るんだ。
 難しいな、『好き』になっちゃったら。色々複雑。思わずため息もでちゃう。


「ぬわー。恋する乙女だねー」
「こっちのケガレ具合が身にしみるヨあれ見てたら」
「もじもじするねーこのあたりが」
「そーんなコト言うトコロがケガレテルってんだ」
「大人ってやーねー」
「でもほらいずれ行く道、来る道だしー」
 あのふたりで来るのかしらいやーん。大人の世界にいらっしゃーいって迎えてやろうねぇー。
 とか、千尋の恋する乙女具合を覗き見ながら、お姉様達がだんごになってもじもじとしている。
 お姉様達は、小湯女達が囃し立てたような『ハク様がセンにオイタした』なんてものははなから信じてはいなかった。そんなことは千尋をすこしでも見ればよくよくわかることで。なーんにもふたりの間にはないのだろうと匂いや雰囲気でわかるのだ。そんなことは小湯女の大部分もなんとなくわかっているだろう。
 お姉様達は職業柄鼻が利くし色事には勘が鋭いので、千尋だけが微妙な方向に突っ走り気味になってこの事態になっているのだとわかるけれど、ハクが突っ走ったのだとは思えずにいた。ハクはどうも水のようにさらさらとしていて掴み難く、沸騰するのに時間がかかりそうな印象があるのだ。あの澄まし顔の下にむっつりな一面をお姉様達にも勘付かれないように隠し持っていると言うのであればまた別であろうが。『なにかあった』としても『寸止まり』か『不発』でしかないのだろうと思われる。
 お姉様達が小湯女達と一緒に囃し立てたのは、ひとえに娯楽に飢えていたからに他ならない。それに、渦中の人は、あのハク様なのだし。おちょくれる時におちょくっておかないと勿体無いお化けがでると言うものだ。結果ハクは謹慎、と言う実に珍しい現象を引き起こせてばんばんざいであるし、目の前には恋する乙女だけが無造作に転がっているし。この上もなく楽しい。非常に楽しい。これをじっくりじっくり観察そして話のタネ、時折つつかずにいてどうしろと言うのだ。勿体無いお化けに祟られるのはご免こうむりたいしそんな勿体無いことははなからできやしない。
「あぁアタシにもあんな純な時があったのかしらーん?」
「あんたにあんなもじもじ加減があったとは思えんがねぇ」
「あらアンタも好きもんなんだからなかったでしょ? あんな空を見上げてははぁ、樹を見てははぁ、桶を見てははぁなんてため息」
「ため息ついている間に」
「突撃あるのみだしねー」
 あー若いっていいねぇ、とお姉様達は思うのであった。

   ◆◇◆

 ハクはひとりで自室に篭りながら、時折貝殻を取り出しては手の平に乗せていた。普段はこんなにもこれを取り出すなんてしないのに。苦笑もしようと言うものだ。
 思えば、千尋がこちらに来ているのに、こんなにも長い間顔を会わさないのははじめてであるかもしれないとふと気がついた。千尋があちらの世界に帰っている間の方がはるかに長いのだし、こちらの世界に来ていてもおのれが出張であれば会えないのであるのに。すぐそこに千尋がいるのに会えないのははじめてだ。それに、一日のうちに何度か彼女は戸の前まで来て謝っていったりする。千尋の気配は感じられるのに顔を見ないなんてのも初めてであって。曖昧で、とてつもなくもどかしい。薄い水の幕がふたりの間にひかれているようだ。たしかに『そこ』にいると知っているのに、彼女の姿や、色や、匂いや、声――すべてがぼんやりとして掴み所がないのがたいそうもどかしい。
 千尋がいない時や用事で会えない間は『今どうしているのだろう』とか『大丈夫だろうか』と思いはしても、今のようにこの貝殻を取り出して心を静めなければならない事態は起きなかったのに。今おのれの心がどんな状態になっているのかはハク自身にもよくわからなかったが――千尋に会いたいと思っているのか、焦っているのか、落ち込んでいるのか、それすらもわからなかったけれど、ふと気がつけば貝殻の入った小箱を手に取っている。
 心を鎮めてくれる物は櫻色をしている。貝を手にしてぼんやりと改めて思うハクであった。