【 8 】




 机の上に、不思議な物が増えた。砂の薔薇みたいに見える、鉱石。あんまりにも珍しがっていたらハクが買ってくれたのだ。
「う〜〜ん」
 わたしはそれを姿勢悪く机にへばりつきながら見つめている。
 結局あれから仕事が忙しくてどうしようもなく、そんなことをしていたらこっちに帰らないと行けない時間になってしまって。折角向こうに行ったのに、ハクとお話できたのは、初日と、ガラクタ屋の中でだけだった。帰り道でもわたしはずっと口を噤んでいたのだ。ハクと手も繋がずに帰る道はなんだかとても悲しかった。折角ハクと一緒だったのに、辛くて。
「あんなものはやはり嫌いだった?」
 とハクが聞かないのだけが救いだった。わたしが嬉しいと思ったあの気持ちは演技とかじゃなくて本当だから。でも、なにも解決にはならないのだ、このままでは。
 つんっとつつけば端から崩れてしまいそうな砂漠の薔薇。綺麗なんだけど、とても脆い。偶然が作り上げた自然の芸術。まるでわたしの心みたい。偶然できたいびつな結晶は綺麗な薔薇に似てるのに、端から崩れてしまいそう。そんなやっかいなものは打ち捨ててしまいたいのに、それではあまりに寂しすぎる。だって
「悪いことじゃないもん」
『人を好きになる』――それは悪いことじゃないもん。ただ、地雷だらけのハクを『好き』になったらダメだって思っていたのが悪いことであって。地雷だらけのハクを『好き』になったら、ずっとずっと振りまわされるんだと知っていただけで。この気持ちは悪いものじゃないんだ。ハクが悪いわけじゃないんだ。わたしが悪いわけでもないんだ。
「でもハクってば、この石の意味、知っててくれたんじゃないでしょうね??」
 こちらに帰ってきて『砂漠の薔薇』について調べて知ったこと。はやりの『パワー・ストーン』とかの意味でこの石を調べたら『好きな人との愛情を深める石』とか書いてあって、これはハクの天然の地雷なのか、それともちょっとは自信持って良いって意味なのかわからなくて、思わず本屋の中央でぶふっと吹き出してしまった。でも、嬉しい、そう思っちゃうのはとめられない。それが偶然でもわざとでも。熱くて真っ赤になる頬をとめられないのと同じように。
 折角咲いた砂漠の薔薇。それを踏み潰すのは簡単かもしれないけれど――それは、人を好きになるよりももっと大変なこと。自分自身を否定すること。

   ◆◇◆

 ハクは営業が終わりしんと静まりかえった湯殿の見回りを終え、自室へと戻ってきていた。
 物がすっきりとない、どこか生活臭の薄い部屋。廊下の冷たさとなんら変わらないそこに、ただ千尋がいるだけでここが『部屋』なのだと改めて思い知らされるような、どこか薄暗い自室。
 ハクはそこに戻り、明かりを灯すと、すこし考えてから机上の箱を取り出した。謹慎中に何度も取り出したそれを再び開けるのは、あの『詩貴堂』に行って以来だ。
 蓋を開けてみれば見慣れたサクラガイが入っているのもわかっているのに、蓋を開けてしまう。いつものように取り出して、手の平に乗せてみる。ほの明るい行燈の光を受けてやんわりと輝くサクラガイ。体の中で水がざわざわとざわめき、やがてしんと静まって、微風に水面を揺らすかすかな波紋が心に広がるのを感じる。
 子供の頃から好きなサクラガイ。懐かしい記憶。水に住む者達。頭上から降り注ぐ春の光。コハク川の水面をうめつくすかのような花の舞。
 心の中に次々と湧きあがる光景の先に、ふぃと少女の姿が浮かび上がる。櫻色のイメージ、それの行きつく先はなぜか千尋だ。彼女とはじめて出会ったのが満開の櫻の季節であったからか、その時彼女が着ていた服が櫻色であったからか。それとも、春の陽気に頬を紅潮させた笑顔の印象からか。頭上を染め抜く櫻のイメージと千尋の印象はいつも重なっている。
 小さくて。薄くて。脆い。櫻と。サクラガイと。少女。
 けれど、少女は、死に絶えた残がいであるサクラガイとも、ただ流されていくだけの櫻の花びらとも違ってあたたかくて。不思議な生き物。
 サクラガイや櫻のように、心を静めてくれるだけの存在ではなくて。むしろ一時も穏やかな気持ちのまま止まらせてくれなくて。それは不快な物ではなくて。ゆらゆらと揺れた水面のような心も、その姿を追い求めている間にまたざわざわと波だって。それもまた気持ちが良いもので。心が浮き立つ、そんな気分になる。そんな感触を呼び覚ますサクラガイが好きだ。――千尋が好きだ。触れても無機質な感触を返すサクラガイなんかとは違い、あたたかく、柔らかく、生きている。時々不安になる程に、不安定で、成長していく命。大切なもの。
『男は遊びにあきたら育てたがる』
 と言ったのは誰だったろうか。主旨は違うけれど、刻一刻と移り変わるその様を愛しく思うのは本当で、それを見ていたいと願う気持ちを言葉にすればまさしくそれだと他人には言われてしまいそうで。
 だからもっと見たい触れていたいと思って指を伸ばすのに、最近の彼女はどこかおかしくて。困惑の中に落とし込まれた拒絶の色は、けれども不安を呼び覚ますものではなくて、曖昧。興味を持つだろうと思っていたものにも、微妙な反応を返してきて。
 千尋の赤い横顔に、もしやこの不純な思いを知られてしまったのだろうかと不安になったのは本当で。謹慎中に少しだけとれた距離に安堵していたのも本当で。それ以上に――そんな現状や、彼女の顔を横からしか見られない現状を苦しく思っていたのも本当で。
『不安定』――その三文字は今現在千尋ではなくて自分にこそ近い言葉で。
『戸惑い』――その三文字もとても近くて。
 どうしてしまったのか――わからない。どうして良いのかが――わからない。
 ハクはサクラガイを箱にもどし、そっと蓋をしめ、行燈の火を吹き消した。
 ハクがいるにも関わらず、その部屋は冷たい空気に満たされ続けるのであった。