【 9 】




 ハクと千尋がお互いに揺れ動いていようとも、時間は流れる。そうこうしている間にも、千尋が再び油屋へとやってくる日になっていた。
 いつもなら赤い時計塔が見える草原までハクが出迎えに行くのだが、先日の様子を考えるにそれも躊躇われてならない。もしかしたら今度こそ彼女は来ないのかもしれない、そんな気がして、怖い。いつもいつも彼女を迎えに階段まで赴き、待っている間に不安になるのだ。彼女には彼女の世界がある、彼女はいつでもこの世界を切り捨てられるのだからと考えると不安になるのだ。その不安が今日こそ現実になりそうでハクはとてつもなく恐ろしくなった。
 そう考えて、自室の時計をじっと見つめてぼんやりとしてしまう。あと一時間ほどでいつも彼女が来る時間になる……と気がつくと、一秒ごとに時を刻む秒針が死刑執行人の首切り鎌に見えてならない。ハクはそれを瞬きも忘れて見つめてしまい……ほとほと、と突然なった戸にびくりと肩を震わせてしまった。
「誰だ!」
 と、思わず声を荒げ、魔法で開け放った戸の向こう側には、目を丸くした少女と――櫻色の花。

   ◆◇◆

「ひゃあ?!」
 いつもよりもはやく来た油屋で、着替えもそこそこにやってきたハクの部屋で、はじめて聞くような怖いハクの声に出迎えられて――わたしはそんな情けない声をあげてしまった。
「千尋?!」
 戸の前にいるのがわたしだと気がついたハクの表情は、はじめてみるようなすごく驚いた顔で。
「ハク、ハク、ごめんね? なにかしてたの??」
 お邪魔だったかと首をすくめたら、ハクがとても慌てた風に駆け寄ってきて。
「いいや、驚いてしまって。そなたが来るにははやい時間だったから、誰かと思って」
 それよりもどうしたの? と首を傾げられて、わたしは持ってきた鉢植えをハクの胸元に押し付けるようにした。
「ハク、これね、『櫻貝』って薔薇なの」
 薄い薄い櫻色の、小さな薔薇が咲いている鉢植え。
「この前、サクラガイが好きだって言ってたから」
 甘い香りがとっても素敵な、新種の薔薇。
「この花見つけてね、とってもかわいかったから」
 ハクが教えてくれたハクのことに関連して見つけたもの。
「ハクも好きになってくれるかなって思って」
 ハクを好きにならなかったらきっと見落としていただろう、可愛い薔薇。そう思ったら、ハクが違う世界を見せてくれた気がして。新しいことを教えてくれるハクを好きになったのが嬉しくて。わたしもハクに色々教えてあげたくて。わたしが好きになった物もハクに好きになって欲しくて。
 そう伝えたいのに、やっぱり馬鹿な子みたいに言葉が無茶苦茶になってしまった。ちゃんと言葉も考えていたのに、いざハクの顔を見たら全部頭から飛んでいってしまった。わたしはどんどん真っ赤になっていく顔を見られたくなくてどんどん下を向いてしまって、唇をぎゅっと噤んでしまう。
 それで、一向に帰ってこないハクの反応にどんどん不安になって、勇気を出してぱっと上を向いてみたら……そこには、学校の男子が絶対しないような、はにかんだ笑みのハクがいて。手にした薔薇の花の色と同じに頬が染まっていて。
『かわいい』
 とか思わず思っちゃうようなハクがそこにいて。新発見。
「薔薇の花は好きじゃない?」
 答えはわかりきっているのに聞いてしまったり。
「いいや、好きだよ」
 そなたが好きなものならなんでも好きだよ、なんて言われて、またーハクはやっぱり地雷だらけだーっとか思ってしまう。思わず上を向いた同じ勢いで畳の一点を見つめてしまう。
 だから、
「――ありがとう」
 そこだけ妙に深い声色で言われたのだけれど、わたしにはその意味を全部知ることはできなかった。

   ◆◇◆

『ありがとう』
 またここに来てくれて。
『ありがとう』
 私の言葉を覚えていてくれて。
『ありがとう』
 私を恐れないでいてくれて。
『ありがとう』
 喜ばせようと一生懸命に走って来てくれて。いまだ整いきっていない鼓動や跳ねあがった息がそれを知らせてくれるから。
「ありがとう」
 いくつものメッセージを込めて千尋に手渡す言葉。
 冷たい貝の残骸でもなくて、散り行く櫻の花びらとも違って、少女と同じ生きている花。その櫻色。その命が眩くて、その花に込められた気持ちが嬉しくて。
 まだまだ千尋の様子は不安定であったけれど、それは少女が階段を一段も二段も飛び越えて成長したからだとわかって。予測もつかなかったその度合いに驚いてしまっただけで。彼女はなにも変わってなどいないのだと、彼女を見たらわかったので。自分の『不安定』も『戸惑い』も杞憂であったのだと思い知らされた。
 まだ見ぬ海への憧れである波とサクラガイと、過ぎ行く季節の象徴である櫻の花びらと、未来の象徴である少女と――そして小さな薔薇。大好きなものがどんどん増えていく、その不思議にハクは笑うのであった。



おわり

【あとがき】
櫻・KAI著作でした。ここまでお付き合いくださいましてありがとうございました。
このお話にはちっちゃな後日談があるのですが、サイト掲載はここまでとなります。
とりあえず、川のような男の沸点はこれから六年後(笑)なのです。千尋ちゃんは六年間やきもきやきもきさせられることでしょう。