むらさきはしどい

第三部 油屋
第一話

 蒼穹に白い線を引くように、それは天を翔けていた。
 それが飛びすさった後の地上に、空気を切り裂いた音が一瞬遅れて轟く。
 地上にいる獣達が空を見上げるが、もうそこには、それはいなかった。


「ハク様だ! ハク様が戻られたぞ!」
 赤い太鼓橋の手前で竜身より人の姿に戻ったハクを見つけて、下働きの蛙男が喜声を上げた。
「ハク様が戻られたぞ!」
 油屋中に響けとばかりに声高に呼ばわるその声を、ハクは欄干に左手をつきながら、うすぼんやりとした霞のかかる意識の端で聞いていた。乱れた結わえ髪が風にばさばさと流されて耳元でうめいているのが鬱陶しい。
「ハク様!」
 聞き慣れた父役の声がおのれの名を呼んだ後、ぎょっとしたように息を呑んだのを気配で察し、ハクは微かに口角を上げた。自嘲の笑みである。
「ハク様……そのお怪我は……」
 怪異につぐ怪異に慣れ切った感のある現在の油屋ではあるが、それでも尚衝撃を与えずにおられないハクの風体――隙なく着こなしている清浄なる白の衣は、今は真紅に染まっていた。否、染まり続けていた。ハクの利き腕である右手は、ざっぱりと裂けていた。いかに強靭な竜の体であろうとも、その傷はあまりにも大きく、そしてそんな状態で空を翔けた為に、尚更治りは遅かった。心臓が生きている証の脈動を繰り返すのにあわせて、痛ましい裂け目からどくどくと血が流れ滴りをつくっていた。
 まずはお手当てを、と手を貸そうとした父役のそれを、ハクは拒んだ。この世界の住人は血の穢れに弱い。それに、帳場の管理人としてのプライドもあった。が、父役は拒まれた手で強引にハクの左手を掴むと、大人と子供ほどの身長差をものともせずに、強い視線でその無意味なプライドをねじ伏せた。
「ハク様、まずはお手当てを!」
 その力と思いのこもった声に、ハクは目を細めた。油屋が微妙な雰囲気を纏っている事は、上より見下ろした時から感じてはいたが、父役もあきらかに変わっていた。それはメッキのように薄いものかもしれなかったが、父役は一瞬竜神を威圧するほどの気迫を纏ったのだ。一体どれだけの責務が彼を変えたのだろうか。ハクはふと考える。そして理解した。この油屋には主たる湯婆婆がいないのだと。そうでなければ父役がここまで変貌する事はありえない。なぜならそれは危険過ぎる変質であった。湯婆婆がいれば、そのような事は見逃されるはずがないのだから。
 それと同時に、ハクは父役の短い言葉の中に、真実彼が……彼等が、自身の身を案じてくれている心を察して。裏も表も疑惑も打算もなく、ただただハクの身を案じてくれているのだとわかって。
 ハクは不覚にも涙が溢れそうになった。
 あの少女がここを去ってから、私と彼等はそれだけの関係を築けていたのだと知らされて。
 青年は大人しく父役の手を取るのだった。

 竜の自己再生能力が強靭なものだとは、周知の事実であった。その竜であるハクに対して薬草や手当てなどは気休めでしかないとは父役も思ってはいたが、それでもその常とは違う痛ましい姿を太鼓橋で見た時、そんなことは思考の隅の隅に追いやってしまっていた。
 ハクは、たしかにとっつきにくい上司ではある。自身が完璧を身上としているらしく、そしてそれを他者にも求めがちな、ある意味やりにくい上司。けれども、だからと言ってそんな幾つかの点をつかまえて、拒まれた手を引っ込める気にはなぜかなれなかった。父役にもはきとはわからない。わからないながらも、このままほっておく気にはなれなかったし、ほっておいても平気でいられる自分なら、それはもう生き物ではなくて『物』でしかないような気がして。そんな自分はやはり嫌だったので。そう考えるほど、目の前のハクはなにか危うい線一本で体を支えていた。
 ましてや、この後ハクに油屋の責務を負わせようなどと言う気持ちは微塵も無く。湯婆婆を害した者なのではないかと言う疑念は更に無く。
「ハク様、まずはお手当てを!」
 自分でも驚くほどに腹の座った声でそう諭すと、ハクは目を細め、ついで瞼を閉じた。その短い一瞬で彼がなにを思ったかは窺い知る事はできない。童姿の時と変わらず白く滑らかな面には、なんの表情も浮かんではいなかったからだ。けれども父役は、握り返された掌の微かな強さで、その気持ちを理解できた、と思うのであった。

   ◆◇◆

 化膿止めの薬草を貼り、布をしっかりと巻いた腕であるが、ハクは器用に真新しい衣を身に着けた。動作に伴う痛みは意思で捻じ伏せられる。まだその段階でとまっている事にハクはある意味安堵した。
 釜爺がしつこく食い下がってくるので、止血効果のある薬湯も黙して飲み干した。
 そしてハクは現在、父役とともに油屋最上階へと足を踏み入れていた。
 空気がぴんと張り詰めた、冷たい書斎へと。
 上へと続く昇降機の中で、父役は油屋の異常から四日が過ぎていると説明した。
 それでは私は、丸二日も倒れ伏していたのか、とハクは考える。世界の果てとも思える場所から飛び続けて一昼夜半だったからだ。
 考え込む横顔を見上げて、それでも父役は一体何があったのか、ハクがなにをどこまで知っているのかを尋ねようとはしなかった。それはいずれ打ち明けられるであろうとわかっていたので。今はまだ、彼の中でも整理ができていないのだと、翡翠の瞳が困惑で曇るのを見て思う。
 一天の、御殿にある一番はじめの扉のノッカーも、主の不在を示して黙して語らない。
 湯婆婆の御殿の最奥におり被害を逃れた頭達がハクの気配を察して姿を見せたが、急ぎ逃げるように廊下の向こうへと消えていった。
 いつの頃からか母親の書斎の真横の子供部屋から離れることを好むようになった坊も、この事態の一切を知らないのだと父役はハクに告げる。現在坊は、従業員の目の届く階下の一室にいるが、我侭を言うこともなく大人しくしていて、不謹慎では有るが元気がなくて助かっていると父役は続けた。
 父役が開け放した扉の内側に一歩踏み込んだ時、ハクはなにやら空気の層が違うと感じた。それは気のせいともとれる微かなものではあったが、確かに存在している微妙なズレであった。ハクは我知らず眉をひそめる。確かにこの奥には、自分が知っている範囲であっても常ならぬ光景が待っているのだろうとは思うものの、それとはまた異なるズレであるようにも感じる。
 実際、この奥の部屋が血に穢れている事はハクにはわかっていたのであった。ある意味、確認をするべき点はそれではなかった。なぜなら、血に染まった白い衣の中には――湯婆婆のそれもあったのだから。湯婆婆の体から血飛沫が撒き散らされた瞬間を、たしかにハクは目にしていた。そしてその時の、妙に冷静な湯婆婆の目を思い出し、ハクは彼女がなにを考えていたのかわからなくなるのであった。
 廊下を右に左に折れ辿りついた主の書斎は、やはり凄惨を極めていた。窓にはめ込んだ硝子の赤い線もそのままの、一切従業員が触っていないとわかるその部屋に、ハクは一瞬だけ息を飲んだ。先ほど思い出した湯婆婆の目を妙に意識してしまう。
 部屋の内側には踏み込まず、ぐるりと室内を見渡す。満遍なく撒き散らされたかに見える血飛沫ではあるが、狭いながらも一方向だけそれを免れている部分があった。それを確認すると、ハクはそこに向かって歩き出した。一番端まで歩き、その綺麗なままの壁に手を触れる。
「なにもない……」
 おかしい。たしかに自分は――自分と、侵入者は――ここより彼方へと吹き飛ばされたはずであるのに、その壁はおろかその前に存在する空間にすらなんの仕掛けも気配も感じられなかった。それではあれは湯婆婆がなしていたトラップなどではなく、まったくの偶然であったのかと思う。なにせあの時、湯婆婆は魔法を行使する素振りさえ見せなかったのだから。
 ハクはあの夜の出来事を、一から丹念に辿ることにした。