むらさきはしどい

第四部 過去
第一話

 獣は走っていた。自分が生まれた森とは違う、それでもどこか懐かしいと思う緑の中を。
 獣は走っていた。頭の中では、同胞への怒りが渦巻いていた。
 私は私だ。『私』としての意思や心があるのに。彼らは私を『私』としては見てくれない。
 悲しかった。むなしかった。彼らがそのように自分を見る理由は、良くわかっていた。自分が彼らの立場にいたならば、多分同じ目で自分を見るだろう。
 失えない子供。次代を担う子供。貴重なる存在。
 そんな目で見ないでほしかった。ただ、仲間として見てほしかった。『仲間』だと見てくれるのなら、その果てに有るものが結局同じ『事』であろうとも、喜んでそれを成せるのに……――。
 獣は走った。ただ走った。生まれ落ちた世界とは異なる界の森を。はじめて踏み込んだその世界を、茜に染まる銀の毛を揺らしながら走った。
 空は高く蒼い。獣の心と真反対なまでに晴れ渡っている。それが妙に腹立たしい。
 同胞に当り散らすことでもできる性格ならば――または、その特異性を振りかざせる性格であるのならば、もう少し自分は心穏やかに生きて死ぬことができるのかとも思う。最低、家出のように別の界まで駆けるなんてみっともない行動をせずにすんでいただろう。

 あぁそうか。もう、仲間がどうこうなんて問題ではなく、ただただ自分がみっともないのだ。哀れだとかそんな次元の問題ではなく、そんな点を捕まえて悲しんでいる自分が異様にみっともない。

 獣は、走りに走った足をゆるゆると止めた。いくら走ろうと、いくら同胞の目に寂しさを募らせようと、自分の存在とその価値を変える事はできやしない。それをわかっているくせに足掻こうとしている自分がみっともない。

《少なくとも私は、世界の為になるのだから――》

 なにを迷うことがあるのだろう。これはあまりにも贅沢な悩みだ。
 そんな考えに行きついて、それでも前に進むのはやめない獣。もう惰性で歩き続けているようなものだ。
 周囲は深い緑。さわやかに乾いた風が、そよりそよりと木々の間を抜けてくる。昨日までこのあたりは、連日の雨で水っぽい匂いを充満させていたなどと獣は知りはしなかった。
 目の前の木立が開け、スポットライトの様に陽の光が差している場所があることに、獣は気がついた。特になにも思わず、獣はその場所へと足を向ける。
 途端に来るのは、鋭い誰何の声。
「誰ッ!」
 殺気さえ纏ったその声に、獣は一瞬言葉を失った。ひたと止まる足。
「――獣?」
 眉根を寄せて呟いたのは、幼い上に幼い少女だった。髪の上に光が落ち、澄んだ群青色を浮かび上がらせている。
 驚かせてしまったか、と獣は謝ろうとした。けれども、それよりも一瞬はやく少女が口にした言葉に、謝罪は永久に出口を失った。
「――泣いてるの?」
 乾いた草の上に寝転がっていたのだろうか。上半身を起こした姿勢で、少女はまっすぐに獣の目を見つめてそう言った。茶色の瞳は、幼さゆえに容赦なく切り込む力を持っている。
《……泣いているように見える?》
 獣はすこしばかり楽しくなって問い返してみた。
「だってそんなにはっきり泣いてるのに、自分のコトもわからないの?」
『獣』は『人』のように滅多に涙は流さないけれど、涙の代わりに瞳の中で水を凍えさせるんだって、と少女は続ける。
「あたしにはそう見えるんだけど」
 ぎゅうぎゅうに小さくした水の塊が、瞳の中に見えるもん、と唇を尖らせて少女は言う。少女は両手を躊躇いもせずに獣に差し出した。獣も躊躇わずにその手に頭を摺り寄せていた。


「ふため。二女って言うの。あなたは?」
 すりすりと銀の毛に顔をうずめて、二女は名乗った。
《むやみに名を名乗るのはいけないのではないのかい? この世界では》
 あちらの世界でも神が『真名』を名乗るのは危険だが、こちらの世界では常なる者達でもその行為は特別な意味を持つと聞いた。
「だってあたし、『本当の名』は持ってないもん。大人にならないと貰えないの」
 あたし魔女だから。と二女は笑う。獣はそれだけで納得した。
 魔女の幼少時の死亡率は極めて高い。生れ落ちて五年を越せる者は少なく、十年を越す者は尚少ない。その為に、魔女は大概、自身の子供を猫かわいがりする傾向があると言う。他者からの影響を減じる意味も含めて、幼少時は『真名』は伏せられ、成人しても『通り名』を名乗るのだとも聞いたことがある。おそらく『二女』の名は、彼女を識別する『名』とも言えぬ『固体名』なのだろうと獣は考えた。
 獣は妙な知り合いを得て、心が高揚していくのを感じていた。
《キミが魔女? 人に呪いをかけたりするの?》
「ほんとにほんとに魔女だもんっ」
 魔法はまだ使っちゃいけないけど……とぽそりと言うと、
「悔しいから使っちゃう。あたしと遊びなさいっ!」
 そして名を教えなさいと二女は続けた。
 獣はある意味絶句していた。驚いた。『魔法』とも言えない『魔法』ではあったが、その言葉に抗えないものを獣は感じていた。このまま二女と別れて元の世界に帰る気にはなれず、結局少女の言葉通りに相手をするであろう自分の気持ちに気がついてしまう。
《その魔法に囚われましょう、小さき魔女殿。私の名は――晁霧》
 獣はふわりと笑んだ。先の悲しみは、もはやかけらもなかった。
 魔女の力とは、無を有にし有を無にするもの。毒であり薬。善であり悪であると晁霧は認識していた。そしてこの世界の大半の者達は、森や山――緑の豊富な場所に好んで住み着き、守人となると言う。
「あたしのうちはあの奥。おじいちゃまと母様とねぇ様と暮らしているの」
 日が大きく傾きだした頃、二女は陽の方向を指して言った。また遊びに来てもよいかと晁霧が尋ねたからだ。
「雨の日と寒い日は、家から出してくれないの」
 だから天気の良い日においで? と、二女は首を傾げて晁霧に伝える。晁霧はこくりと頷き、僅かな時間で離れ難くなったその森を後にした。

   ◆◇◆

 茜に染まる銀の獣は、まっすぐに駆けた。行きと同じ道を、行きとは違う心の色を纏って。
 けれども、自身が生まれ出でた世界の緑広がるその山を見下ろす崖まで来る頃には、鬱々とした色に心が染まっていた。
緑豊かな、私の山。あの森と同じように瑞々しく、命の光に満ちている様に見える、我等の山。
《けれどもここは違うのだよ、二女》
 晁霧はぽつりと呟く。
 ここはもう死の土地に等しい。それはもう、人の手によって成される次元の損失ではなく、それによって失われた『神の生まれる環』の損失の為だ。この地には、新たな大地の神は久しく生まれていなかった。汚染された雨が降り注ぎ、大地は削られ、地力は弱っていく。大地が、命を循環させる鍵となる『神』を生み出せずにいた。
 晁霧の同胞の中で、彼が一番年若い者である。それはすなわち、最後の子供。最後にして最終の『神力』であった。緩慢に死に向かって生きているこの緑を、いつまで自分達が支えられるか、それは誰にも予測がつかなかった。
 黙して見下ろす晁霧の前で、死への象徴の如く、緑は血の色に染まり――やがて闇に没した。