むらさきはしどい

第五部 追憶のむこう
第一話

 天はどこまでも黒かった。
 抱えきれない力は、臨界点を突破すると同時に地上へと降り注いだ。天にも地にも、凄まじいまでの轟音が轟く。
 風は荒れ狂い、樹木を容赦なく煽り散らす。翼持てし者達は巣穴にこもり、四肢持てし獣達は瞼を閉じ沈黙にくだる。
 雨は降っていない。雷だけが、天と地を繋いでいた。


 左から来たかと思われた風は、一瞬の後には右から襲い来る。その狂風に体を持っていかれそうになりながらもまっすぐに走るのは、銀の獣。闇に閉じ込められた森を、ただひたすらに疾駆していた。
《あの世界の森の魔女を知っているか?》
 別の土地を守護している地神のセリフが彼の脳裏に蘇る。それは、おのれの仲間と話している地神の言葉。晁霧は気取られることなく、その言葉に意識を澄ませた。そして絶句した。
《森の魔女には二人の幼い娘がいるらしいが――それの片方が、今死にかけているらしいぞ》
 そのような言葉を耳にいれてしまって。晁霧は思考を凍りつかせた。
《魔女と言えば、半分以上の割合で成人できないのであろう? 十を越えることもなく死んでしまうと……》
《魔女として一人立ちし、緑の守人となれば、これほど貴重なる存在もないであろうに》
 残る娘が健やかに成長し、良き魔女となることを祈るばかりだ……そう締めくくられた言葉は、晁霧の中ではなんの意味も持ちはしなかった。
 森の魔女の娘と言っても、あの世界にはそのような存在は他にいてもおかしくはない。ゆずって、あの娘達を指していたとしても、もしかしたら姉娘の方かもしれない。けれども晁霧は確信していた。この話の『娘』とは、あの子供のことなのだと。黒群青の髪に茶色の瞳の、あの娘なのだと。幼さゆえに容赦ない視線の鋭さを持った――無邪気な娘。

 雨は降っていない。金色の光だけが閃く空。黒緑の闇に銀一閃。ただまっすぐに――……

 やがて辿りつく、素朴な魔女の家。老いた魔法使いと母親なる魔女、そしてその娘二人が暮らす森の家。吹きすさぶ風にもびくともしない頑丈なその家は、晁霧の目にはうっすらと白い靄が覆っているようにうつった。
 と、彼の到着を知っていたかのようにその建物の扉が開き、小さな影がするりと出てきた。後ろ手に扉を閉め、その前で立ち止まったままの晁霧と対峙したのは――黒群青の髪の少女。
 その姿を見た時、晁霧は一瞬二女かと思ったが、心のどこかで同時にそれを激しく否定した。髪の色が同じ、目の色が同じ、鏡に映したかのようにかの少女と同じ容姿ではあっても、目の前の子供は二女ではないとわかった。視線の鋭さまでも同じであろうとも、それは違う生き物であった。例え同じ女の腹から出でようとも、違うものは違うのだ。
《一乙――か》
 唇をぎゅっと引き締め、ただただ鋭く睨みつけるばかりである少女は、晁霧の問いに小さく頷いた。後ろにまわした手で黒いドレスをぎゅうと握り締めているのが、裾によった皺でわかった。
「地神――だね。二女を知っている」
 確信しつつも問いかけるような色を帯びた一乙のそれに、晁霧も頷きでもって応えた。
《二女が危険な状態だと聞いた》
 雷がひとつ遠くの空で閃いた後、晁霧が口を開いた。一乙は、微かに目元に力をこめる。
「けれどもここは通さないよ。おじいちゃまと母様が護りの魔法を行使しているから。他の存在を入れるわけにはいかない」
 それが聖(ひじり)であろうと魔であろうと絶対に入れるわけにはいかないと、一乙は言外に言い置く。
《二女の様子は――》
 その問いに、一乙はほんのわずか視線をさ迷わせた。
《熱が出ているのか? それとも……》
「逆。熱がないの。体がどんどん冷えていって……。どんなに火をたいても、どんなに体を擦っても、どんなに薬を使っても、二日前から熱が上がらないの」
 手が、足が、頬が青く白くくすんで、柔らかなそれらは硬直して冷たい。息はか細く、心音は遅く。同じ時に生を受けた双子の心は直接にその冷たさを体に伝え、姉娘の頬も青白い。
 現実を払拭したいかのように、一乙は硬い声色で早口に言いきった。
「母様は、今夜で状態がかわらなかったら……良くも悪くもならなかったら――ダメだって」
 死んでしまうって。この世界から消えてしまうって。二女が、妹が。と、目をしっかりと見開いて一乙は言う。その瞳から、堪えていた涙がぽろぽろと零れ落ちた。きっと、二女が臥せってから耐えに耐えていたのだろう。ひと滴転がり落ちると、あとはもう止まることを知らなかった。
 雨は降っていないが、この森には確かに雨が降り注いでいると晁霧は思った。妹を想うこの姉の涙が、二女が愛しているこの森に降っている。
 風が轟と樹木を揺らした。まるで、二女の定めを歪める手は訪れない象徴の如く。救い手の足を、我等がとめるとばかりに。
 けれども救い手は、嵐の中を突っ切って走り続けたのだ。心ひとつで、その目の前に。
《一乙、手をだして》
 遠くの空で稲光が落ちる。
 ゆうるりとあげられた小さな手。
 獣はその紫の瞳を閉じ、頭を垂れる。
 ふわりと手の内に落ちたのは、小さな小さな銀の石。内側から淡い茜の色を発した、誰が作ったのか一目瞭然な石。
「これ――は……」
 嗚咽を堪えて途切れ途切れに問うそれに、晁霧は
《それは、私の命だ》
 躊躇いもなく、そう答えていた。

 二女……あの笑みは死を知る者の笑みだったのかと、熱を失った少女に問いかけたい衝動を抑えて、晁霧はその森を後にした。

   ◆◇◆

 緑は怒りに燃えていた。
 銀の獣があの界より連れてきたかのように、その山にも暗雲が立ち込め、稲光が落ちそうな気配。
 地上にはすでに、怒りと言う雷が飛び交っていた。
《晁霧、なんと言うことだ》
《力を――禁忌を犯した。だからこの者をどこぞに押し込めておれと言うたのだ》
《信用していたのだ》
《裏切ったのだ》
 別なる生き物に力を分けた。この大地にとってほんの些細な力の喪失がどれだけの影響を与えるのか散々に説いたと言うのに、晁霧はその禁忌を犯した。
 同胞は吠える。黒い天に向けて。弾劾の声は落雷の音に負けず、晁霧の心に重く淀む。
《閉じ込めろどこかに。二度とこの地を離れる事無きよう!》
《晁霧、お主の立場を考えろ。この地の運行は、もはやお主なしではいられぬと心得よ!》
《閉じ込めろ、足を折り、別の界なぞに渡れぬ様にしろ! この地の為に! なにものにも優先されるべき、地の運行の為に!》
《魔女の娘も殺せ! 晁霧があの世界に行く元凶を取り除け!!》
 誰かが声高に叫ぶその言葉に、晁霧ははじめて口を開いた。
《やめろ、あの娘は関係ない! 神が救いの手を向けた者を、同じ地の神が殺すのか! 命を育むべき神がそれを閉ざすのか!》
 なれば私を殺せ。罪科は私にこそある。あの娘は救いを求める言葉ひとつ零しはしなかったのだと晁霧は訴える。あの娘はおのれの死を本能で感じ取っていても尚抗おうとはしなかったのだと。
 晁霧と同じ生き物の言葉は、もう彼を縛る鎖でしかなかった。寸分も動けず地に縫いとめられた足をもどかしく思いながらも、晁霧は重くなる心ひとつ抱えて訴え続ける。すべてはあの娘の為に。私が、私自身が、泣いていたとも気がつかなかったのに、それを言い当てたあの娘の為に。
《晁霧、お主以前に言うておったな》
 取り囲む銀色の獣達の間よりそう言い放ったのは、夕暮れ時に晁霧と対峙した、あの瑚欧である。彼の紫色の濃い瞳は、激昂する他のそれらよりも不思議に凪いでいた。
《地の運行に注ぐ力源が、なぜ生きたモノでなければならないのかと》
 その言葉に、声高に言い募る声がしんと止んだ。
《考えていた。ずっと。地の運行は何事も不変ではない。力を漫然と注げば良いわけではない。そこにはきとした意思がなければ、それはもはや生きている地とは言わない》
 だからこそ『生きている者』でなければならない。けれども、と瑚欧は繋げる。
《生きている事がその運行を妨げるのであれば、それはもはや害悪だ。ひとつの我侭に幾千、幾万の命をかける事は許されん。――死ぬ事は許さん。それがお主の意思であろうとも》
 晁霧はその言葉に失笑した。やはり、やはり我等の心は醜い。生きながら死ぬまで地の為に力を捧げよと言外に言いくるんでいたのは、二女に会う前までの彼ら。そして今目の前にいる瑚欧は、生きながらに死に、死にながらに生きて、ただ力の核として存在しろと言っている。大議名分は『他の命の為』。それがなによりも尊いのだと。晁霧にもわかってはいるが、あからさまにそう言われ、憤慨するよりも笑うしかなかった。結局おのれとは、最初から最後まで彼らにとっては『晁霧』と言う名を持つ生き物ではなかったのだ。『他の命』よりもその価値は軽かったのだ。
 ただひとつ変わったとすれば、ただただ生きて死ぬしかなかった晁霧の時間の中で、二女に出会い、彼女の命を救ったであろう事実が燦然と輝いたことだけ。緑に息づく命を育みながら、その実なにひとつ作り上げも残せもしなかったであろう晁霧が護った少女がいる事だけが。

 彼の誇りになった。


 封じられる。夢も過去もない眠りの中に。生きながらに死に、死にながらに生きる獣として。緑繁らす樹にそのすべてをゆだねて。
 封じる者は瑚欧。彼もまた晁霧の問いにより、彼らの罪深さの片鱗を掴んではいたが――だからこそなにもできはしないのだ。だからこそそれを推し進めようとしたのだ。晁霧をみずから封じたのは、その罪を一身に背負う為。または、同胞に罪を罪と認識させない為か。それは尚優しく深い罪であると気づくことなく。
 地の神々は穢れ続ける。罪を罪と気づくことなく。力弱き者達の命を両手に載せ、そのすべてを愛しているが為に。罪を罪と気づく事はない。
 そして地は弱る。新たな銀の獣は生まれない。そして人の子が地を削る。抗う事はすでに――できはしなかった。

   ◆◇◆

 雨の降らない嵐の夜に眠りについた獣は、まさにその夜と同じ雷鳴の下に目覚めた。
 柔らかい紫の瞳に映るのは薙ぎ倒された巨木の葉先であり、それを成した重機の冷たい腹ではなかった。
 掘り返された湿気た土が、風に転がされて泥水の中に混じる。泥水は重く淀み、吹きつく強風にそよとも揺るがない。鮮やかに閃く雷をその水面に映す事もない。
 あの時より何年、何十年、はたまた何百年の時が過ぎたと言うのだろう。山の緑は色濃くそこにあるが、晁霧の目にはそれがもう命の輝きに充ち満ちているとは思えないでいた。大気に溶け込む地神の気配は脆弱で薄い。あれから一体どれだけの時が過ぎたのだろう。幾柱の地神が虫の息で存在しているのだろうと晁霧は思う。
 銀の獣は笑う。結局私が封じられすべてを捧げてもなにも変わりはしなかったのだ。漫然と生きているだけで、死期を僅かばかり先送りしただけ。罪を罪と認めることすらも、現状を回復する術をさがすこともしなかった愚か者どもの屍が累々と続くのが現実。倒された巨木がただ哀れで。愚かな神の犠牲者となった緑が哀れで。裏切られた大地が哀れで。
 晁霧は笑う。死にながら生きた私はすでに神でも生き物でもなく死に捕われた者。もうそこになんのしがらみもない。この現状を『哀れ』と思いながら笑うことができる。晴れ晴れと。神ではない自分をはっきりと認識する。
 そして一歩を踏み出す。躊躇いもなく守護せし場を捨てて。宙を駆ける。
 その身に残った、ただひとつの約束の為に。すべてを捨てて。


 赤い門。森の中に隠されたその異界への門をくぐるには、神か妖かしでなければならない。常なる生き物――獣も人も、その身ひとつでは招かれない限り門を見ることも叶わない。
晁霧は人の娘の想いと姿を写し取って、その門を見上げていた。
 背後の空は、嵐の去った空。晴れあがり、白い星が瞬いていた。嵐の夜に眠り目覚めた後の奇妙なほどの静寂に背を押され、晁霧はその白い足で一歩を踏み出した。
 赤い門の奥へと、娘の白い姿は消える。
 星の明かりにぼんやりと色を落とすステンドグラス。静けさの中に滴る水の音。足元を小さな風が渡る。木のベンチの横を通りすぎ、晁霧は尚も前進した。
 冷ややかな石床を素足で歩き、晁霧は門の果てへとたどり着く。押し寄せてくる風に目を細め、煽られる髪を流れるにまかせた。
 振り返り見上げたそこには、赤い時計塔。前に目をやれば、湯屋へと赴く神々を運び終わったフェリー乗り場を囲む様にして点在する店の灯り。
 ごみごみとした路地を抜け、満々と水をたたえた――昼には草原となる川へと辿りつく。時間が遅いのであろう、乗り場にフェリーは一艘も泊まっていなかった。けれども晁霧には、この川の向こうに目指す者がいるとわかっていた。
波の立たぬ水面に、そっと白い足を乗せる。その足を飲み込みもせず水は穏やかなままで、晁霧はもう一歩を踏み出していた。二歩、三歩と進んで様子を見ると、あとは躊躇いもなく歩き出した。
 白い背にゆらりゆらりと茶色の髪が揺れる。暗い水面に華やかな町の明かりが照り映える。その光の渦の中を、白い影がゆっくりと進み行く。不思議の町においても尚不思議なその光景を、誰一人見る者はいなかった。


 川を抜け、辿りついた岸には、またもや店々が軒を連ねていた。こちらはこの時間からがかき込み時なのだろう、どの店も神や妖かしで溢れている。その中を晁霧はするりするりと歩いていく。誰も見咎める者はいなかった。
 なにかに引かれるように歩き続けた晁霧の眼前に、毒々しく煌びやかな湯屋が聳え立った。ここにいるとの予感を胸に、客引きはいなくなったが出迎えの蛙男のいる玄関をそのままに進む。蛙男は晁霧の姿が見えてはいるようなのだが、注意を払う気がなくなってしまったかのように、赤い太鼓橋の向こうからやってくる別の神を揉み手で出迎えた。
 建物の、磨き上げられた床に足を一歩下ろした途端、その場所がなにであるのかの情報が晁霧の中に流れ込んできた。
 もう一歩足を進めると、そこに集う神や妖かしの心の断片が流れ込んできた。
 三歩目を踏み出すと、そこの経営者の名前がわかった。
 四歩進める頃には――従業員の感情がしみ込んできた。
 歩みが五歩目となった時、晁霧は六歩目を躊躇って天井を見上げていた。五歩目に流れ込んできた従業員達の不満が、晁霧の心を染め上げていた。
 この湯屋の経営者の名は、湯婆婆だと三歩目でわかっていたが、五歩目のそれで、彼女が従業員達にどれほど恨まれているか晁霧にはわかってしまった。名を奪い、従業員を『使役』する、強欲な女。女が持つ強大な魔力の前に、従業員達は不平を訴えることもできずに働いていた。
 六歩目を進めるのが恐い。晁霧はそう思い、廊下に立ち竦む。その、この場には相応しくない娘の姿に、廊下を行き過ぎる従業員も客達もなんの違和感も抱きはしなかった。ただなにかがそこにいる、程の印象しか持たずに通りすぎるだけであった。
 白い腕を天井に高く上げかけて――途中でぎゅうと拳を握りしめて胸元へと寄せた。逡巡する手足を呆然と見つめて、晁霧は喘いだ。求めるモノも、おのれと同じように変質していた。おのれが変質しても変わらず受け入れてくれると思っていたモノが普遍であると信じ込んでいた。盲目的なまでに信じていたのだと思い知らされた。
「二女」
 真実の名ではない呼び名ではけして彼女に届くはずがないとわかっていても、晁霧は大切にその名を呼んだ。
「二女――」
 瞼を閉じる。脳裏に甦るのは、幼いがゆえに容赦のないするどい視線。
「――……」
 晁霧は六歩目を踏んだ。ついで七歩目を、八歩目を……黙々と、最上階を目指した。


 一歩一歩、約束の子供に近づくのを感じる。
 一歩一歩幻が現になる。約束は約束ではなくて現となる。過去は現実となり変質は本質になる。
「いつかあたしが一人前の魔女になったら」
 母親が精魂込めて作っている、季節感の狂った花畑を歩きながらの少女の言葉。
「一人前の魔女になったら、向こうの世界の守人になりたいな。そしたら晁霧と一緒にいられるもの」
 青紫色したリラの花の下でくるりと黒いドレスの裾を翻し、晁霧に向かい合った二女が笑みを浮かべる。
「ここは一乙がいるから、あたしがいなくても大丈夫でしょ? だからあたしは向こうに行きたいの」
 駄目? と問いかける少女に、嫌だとは言えない晁霧。答えなどはじめから決まっていた。
 ふいと舞い落ちたリラの花弁の先を見やり、晁霧は目を細めた。
《二女、あのリラの花、ふたつだけ五弁のものがあるね》
 そう言われ見上げた青紫の雲の中に、確かに寄り添って五弁の花が咲いているのを二女は見つけた。その周囲の花は四弁。
《おまじないをかけようか》
 五弁のリラの花で、と晁霧は続ける。
《黙って飲み込むと、愛する人と離れないでいられるんだよ》
 愛するとまでは思ってくれないかいと臆面もなく問いかける晁霧に
「愛……ってのはよく知らないけど、嫌いじゃないもの」
 むしろ好きだよ、あたし。むしろそのおまじない、好きだよ、あたし。二女は柔らかく苦笑して、そっと手を伸ばしてリラの花を摘んだ。

 ――離れないでね。永遠に一緒にいようね。いつか、知らない空の下に行こうね。ゆっくりとね――

 どちらからともなく交わされた約束。
 ふたりが変質したのなら、約束の変質も致し方ないのか。
 ともに知らない空の下に行こう。ともに行こう――晁霧はかつての少女を目の前にして、約束の履行を求めたのであった。