野生の楽園 【1】





   【一】

 そろ〜り そろり。
 震える手元を息を殺して見つめ、そろ〜りそろりと動かしているのは、湯屋『油屋』にいる唯一の人間、センこと荻野千尋であった。
 そろ〜り そろり。
 子供らしいぷくぷくした指につまみあげられているのは、蒼いなにかの切片。ボイラー室のささくれた木のちゃぶ台に、これ以上はない真剣さで向き合っている。
 そろ〜り。
 ぴたっ。
 じー……。
 蒼い欠片を、机上のこれまた蒼い物体の端に貼り付けて、息をつめて動かない千尋。その手元を、同じく真剣に息をつめて覗きこんでいるのは、ボイラー室の主と、千尋の姉貴分のリンであった。
 じー……。
 三十秒ほど皆で息をとめてから、ようやく千尋は息を吐き出してその手を離した。そのまま蒼い物体――端的にあらわせば高価そうな皿――を、両手で掲げて裏表と見返し、そろそろと机上に戻す。その行動を目でいちいち追い、だは〜と肩の力を抜いた釜爺とリンは、そのままちゃぶ台の上に突っ伏した。
「もうやだぜ、こんなの」
 左手だけを持ち上げて、同じく肩の力を抜いた千尋の頭をぐりぐりとしたリン。
「そうじゃぞ、セン。これで一体何度目だ?!」
「え……三度め、かな?」
「おまえ全然シンポねーのな」
 いまだに転ぶわ滑るわぶつけるわ、挙句の果てに物を壊してまぁ、とリンはぐりぐりをやめずに言い続ける。
 今まではたいした破損金額ではなかった為(従業員用の茶碗程度の物だった)あからさまに上役から文句は言われていなかったが、今回の破損物は不味すぎた。
 客室の床の間を飾る在庫の皿――ここにいる三人にはイマイチその価値はわからない――の端っこを、掃除の途中で欠けさせてしまったのだ。
 それを目撃したのは、一緒にその在庫部屋を掃除していたリンのみ。
 リンは思わず皿と千尋の腕を引っつかみ、ボイラー室へと逃げてしまったのだった。その価値はわからないながらも、これはかなりまずいと本能で悟ったからだ。
「やっぱりちゃんと言うよ、わたし」
 物を壊す自覚がある千尋は、こちらの世界に来るたびにちゃっかりと各種接着剤を持ち込んでいたりもした。その中にはせともの専用の接着剤も入っている。
「駄目だったら駄目! おまえ、こんなの知れたら、あのババァが黙っちゃいないぞ」
 千尋が修復した皿をサングラスをかけた目でためつすがえつしていた釜爺も、んだんだとばかりに肯定の頷きをしている。
「バレやせんだろう。裏側のこんなちっちぇとこ、誰もみやせんわい。安心せい、セン」
 さっさと在庫部屋に返しておけば大丈夫だろう、と釜爺までもが悪魔の囁きを千尋の耳に吹きかける。
「でも」
 と、悪いことをしている自覚のある千尋は言葉を続けようとするが、リンの次の一言にぴくりと反応した。
「ハク様がまたごちゃごちゃ言ってくるぜ、ゼッタイ」
 千尋は悪の道を突っ走ることを、その一言で決めた。
「言わない。ぜっっったいに言わない! キョーハンシャになってね、おじいさん、リンさん!」
 ちゃぶ台の前でガッツポーズをした千尋は、がばっと立ち上がり皿を風呂敷で包み上げると、だかだかと怒りを含めた足音をさせてくぐり戸を抜けた。
「……あいつ、結構根にもつんだな」
 意外ーとリンはもらすと、片手で釜爺を拝むように礼をして、妹分の後を追ってくぐり戸の向こうに消えた。
「あんなちびっこいセンでも、女はこえーのぅ」
 釜爺は、誰に聞かせるともなくポツリと感想をもらすと、いつもの定位置の前にカランコロン乾いた音を立てて降り始めた朱札に視線をやり
「今日の仕事も忙しいのかのぅ」
 と波乱の予感を感じたのだった。

   【二】

 千尋は怒っていた。
 怒っている、と表現するのは間違っているかもしれない。腹立ちや情けなさや、いろいろな物が小さな千尋には理解も処理もできないほどに渦巻いていた。
『怒り』の発端は二日前の昼過ぎ。
『油屋』の玄関上――大戸の屋根の端――に、風で舞い上がった洗濯物が原因である。
 緑の屋根瓦が反り返ったところに引っかかっているため、下から棒でつついて落とすわけにもいかず、どうしたものかと兄役や蛙男達が思案していたその後ろを運悪く通りかかったのが千尋とリン。
「身の軽いセンなら、三階の窓から屋根伝いに行けるだろう」
 と話が進んで、あれよあれよと言う間に命綱を腰にくくりつけられ、千尋は三階屋根から放り出されていた。
 ここまでされたら、後は前に進むだけである。正直、普段行けない場所に堂々と行けるというのは楽しかったし、吹いている風も最高だった。前日にできた蒼い海も綺麗であったし、屋根の傾斜は緩いし、素足に貼りつく瓦の感触もなんだか嬉しい。
 後ろではらはらとその姿を見守り兄役等に悪態をついているリンには悪かったが、千尋には不満はなかった。
 が。
 それに不満をもつ人物がいた。
 所用より戻り、運悪くその光景を下から見てしまった帳簿預かりの少年である。
 瓦にひっかかった件の洗濯物をとり、下にいるハクに気がついた千尋が大きく手をふり、ほんのすこしバランスを崩したのもまた悪かった。
 ハクは地を軽く蹴ると魔法で大戸の屋根まで翔び、ついで有無を言わさず千尋を腕に抱えると三階まで飛んだ。
 そして、その場にたむろしていた者達をまとめて使われていない客室に押し込むと、じと目で言葉すくなに説教をはじめたのである。
 ちなみに『説教』とは『説経』を受けるという意味が根底にあるとされているが、この場合の『説教』とはそのままの意味の『説教』であり、それを拝聴している者達にとっては苦行以外のなにものでもない。『ありがたい』の『あ』の字もその場に漂っていない時間であった。
 事情を胃の痛みに耐えて述べた兄役の苦労は、
「子供に危ないことはさせるな」
 のハクの一言で瓦解し。
「しかしハク様、あの屋根は身の軽い者しか……」
 行けませんですからして、と続けようとした言葉も途中で霧散し。
「だからと言って、そそっかしいセンに行かせる事はないだろう」
 との台詞を突き刺され。
 それに反応したのは――意外と言うか当然と言うか、千尋本人だった。
 表面上は、顔色が白くなっただけである。内心では、ハクがどうこう言っても自分のことを心配してくれているのだともわかっている。でも、そんな理屈でわかるところとは別のところでなにかがプツンと切れた。
 なにせ千尋にしたら、『仕事をする条件に当てはまった』→『仕事を頼まれた』→『大丈夫だと思った』→『楽しかった』。それでもってすぐにその仕事は終わるハズだったのである。なにかが面白くない。加えて、自覚がたっぷりあるとは言っても『そそっかしい』とハクに言われた衝撃もあった。
 座敷の奥にリンと並んで正座している千尋の様子がかわったのを見逃さなかったハクは、さっさと説教を切り上げると、一番に客室を出て行き大部屋へと向かった千尋とリンを追いかけた。
『危ないことはしなくていい』『嫌なら嫌と言いなさい』とフォローをするつもりだったのである。今回の件については、千尋はまったく悪くはないのだから当然である。
 が、しかし。千尋は怒っていた。なんだかよくわからないけれど怒っていた。そんなにハクにかばわれなければならない存在なのかと思うと悔しいし、仕事ひとつ任せてもらえないのかと悔しかったので。
「ハクなんか大っ嫌い!」
 とか叫んでしまって。
 呆然と立ち尽くすリンとハクを廊下に捨てて走り出したのだった。
 そんなこんなで、千尋は怒っているのである。

   ◆◇◆

 ハクは不機嫌だった。
 不機嫌、と表現するのは間違っているかもしれない。後悔や理解不能と言ったやりきれない感情が、人ならぬハクの身で渦巻いていた。表面にはおくびにも出さないのだが。
『不機嫌』の発端は、二日前の昼過ぎ。
 千尋に投げつけられた、信じられない一言。
『ハクなんか大っ嫌い!』
 なんと言うか、まぁ。
 ハクの存在意味をこっぱみじんにするには、破壊力十分な言葉だったもので。
 二日が過ぎても、ハクは再起不能だったのである。加えて、露骨なまでに千尋がハクを避けるので、ぐりぐりと地獄の汚泥に押し込まれ続ける心境のハクであった。
 そんな傷心(と書いてろんりーはーと)のハク、及び湯屋の従業員一同の気をどんっと下降させる客が訪れることとなる。


「闇の御方が来られたと?」
 兄役より予約客の采配を仰がれて、ハクは予約簿に視線を落とした。そこにはその問題の『闇の方』の名前がしっかり記載されていたりする。どうやら……気落ちしていた為に、見たくもない名前を無意識のうちに視界から消し去っていたらしい。これは本格的にまずい。
 ハクは冷静を装いながら(と言っても、兄役にはその表情の違いなどさっぱりわからないのだが)、今日の客室一覧をめくり
「『東雲の間』へ」
 とだけ告げる。
『特別室』への指示を受けて、兄役は逃げるようにハクの前から消え去った。
 おもむろに帳場から立ち去ると、ハクは一人額を押さえて呟く。
「どうやら重症らしい」
 ――重症以外のなんと表現すればよいのやら、今の状態を。
 そして考える。『今の状態は最悪だ』と。
「闇の方……か」
 今までにハクは、その神と二度あっている。一度目は、ハクがこの不思議の世界に現れた年の冬。二度目は、昨年の夏だった。
「今年もあの方はあのままなのだろうか」
 ハクらしくもなく、なにやら弱気な声色である。周りに誰もいないからこその発言でもある。
 一度目はまだ重要な立場にいなかった為、挨拶どころか遠目にその姿を見ただけであったのだが、二度目は帳場頭としてご機嫌伺いに赴いているから顔は良く憶えている。その上に湯婆婆より『格の高い神の一人(なクセに役職にもつかずふらふらしている)』で、その神が来る事によって箔付けにもなっている重要人物である為、その扱いには慎重に慎重を重ねろと申しつけられていた。
 粗相のないように慎重になれ……と言うよりは、その神自身がなにをやらかすかわからない為に目を離すなの間違いではないのか、とハクは心中で毒尽く。
 かの神は、性格は至って柔和。無理難題をふっかけるわけでもなく、暴れるわけでもなく、金払いが悪いわけでもない。供を連れて来る事はなくいつもひとりだが、勝って気ままにひとりの休日を楽しんでは帰っていく。その神が来るだけで、湯屋には得な事が多いくらいだった。
 表面だけを見て考えれば、湯屋にはまったく損はない。
 が。その行動は非常に――変――であった。少なくともハクには理解が不能だった。ある意味、先に挙げた神々よりも性質の悪いほどに変なのである。
 一度目は特に問題を起こさなかったのだが、昨年の暑い盛り『面白そう』の一言とともに一週間剪定鋏片手に麦わら帽子ひっかぶって庭の手入れをされたとあっては……ありがた迷惑多大な迷惑。湯婆婆の恐縮平謝りの姿が披露されたりした。その神が来たと聞くないなや、調理場から脱走をはかろうとする者が続出するので、ハクが来る以前に料理関係でもひと騒動あったのだろう。
 今年は一体なにをやらかすのやら……ハクは額を押さえたまま、深深とため息をついた。
 とりあえず、調理場で調理長が逃げ出そうとするのは食い止めなければならないと考える。さて、調理長の弱みはなんだったか……と考えをめぐらせていたのは語らずともよいことなのだが。
 他に先回りして脱走しそうな者をリストアップし、かの神に指摘されそうな不備事項を挙げていき、采配の手順を組み立てていく。いくつもいくつもあげていった最後に、この二日間避けられまくった少女の顔が浮かんだ。
 まずい。なにやらわからないが、彼女とかの神が接触するのはまずいと思われた。
 千尋を捜して持ち場を客室から離す方が良いだろうな、とハクは考えた指示を実行に移すべく、帳場へと帰るのであった。

   【三】

 宴も酣。あちらの間、こちらの間で、酒に酔い芸に酔う神々の姿がある。忙しく行き交う従業員の姿もあった。
 千尋は皿を抱えてボイラー室を出たは良いが、その後父役に見つかり雑用を細々細々と言いつけられ、なかなか上階にある倉庫へと近づくことが出来ずにいた。皿が気になって気になって仕事がおぼつかないのを見かねて、リンが手をまわし時間を稼いでくれた為、千尋は現在倉庫のある人通りの極端に少なくなる廊下をぺたぺたと足音立てて歩いていた。
 左側にある明り取りから月の光が斜めに差し込んでいて、遠くで聞こえる宴の喧騒が幻のように感じられる。
 なんだか心細いかも……と思うのは仕方がない心境かもしれない。ハクともずっと口を聞いていないのだし、今の千尋の状況は普段とはまったく違った感情に支配されているものだ。
 もういい加減馬鹿みたいにひとりですねるのやめようかなと、千尋は廊下の床板の接合部分を目で追いながら歩き続け考える。脳裏に浮かぶのはハクの白い面だけ。はっきり言って目は前を見ているとは言いがたい状態である。
 だからこそ。
 千尋は全然気がつかなかった。廊下の角から気配もなく現れた人物とぶつかるまで、その廊下に自分以外のモノが存在していることなど。
「あ」
「あっ!」
 揃いも揃って目がおろそかになっていたのか、はたまたこれは必然か。ふたりは勢い良くぶつかっていた。途端に滑り落ちたのは、千尋の手の風呂敷包み。
 割れる!
 頭の中で、その言葉が閃いた瞬間――皿はほんの一部分を床に接触した落下のカタチのまま、時間が止まったかのように動かないでいた。
「あ、ごめん。全然前見てなかった。……大丈夫?」
 上から落ちてきた声に驚いて顔を上げてみると、そこにはあきらかに従業員ではない人物がいて、千尋は慌てふためいた。従業員でないなら客しかおらず、客であるならそれは神である。うかつにも神から先に謝らせてしまったのだ。
「も……申し訳ありません! わたしがうっかりしてたもので……」
 怖い。神様が全員優しいとは限らないのだと言っていたハクの言葉が脳裏に浮かぶ。千尋は下げられるだけ頭を下げて謝り倒した。小さな千尋には、どうやったってその方法以外に思いつかないからだ。いやでも床と空間の間で不自然に固まっている皿が目に入る。
「いーよ、別に。うん」
 下げた頭をくしゃくしゃとされ、その行動にあっけにとられて再び仰ぎ見たその神の口元には、とりあえず穏やかな笑みが浮かんでいた。不快にはならなかったらしい。
 改めて千尋はその神の全身を見た。外見は、油屋に訪れる神々とは似ても似つかぬ、非常に人間の女性にしか見えない姿であった。しかも、その者が『神』と知らなければ、なぜ『日本の女子高生』がこんなところにいるのだろうと首を傾げるであろう外見。
 髪はとても長くて黒く、大雑把におさげにしていた。耳のそばのひと房だけを、顎よりも下あたりで一直線に切っている。
 油屋では取り扱っていない黒一色の浴衣の上から、大きな黒紫の布を羽織っている。
 左手にはなぜか、スーパーで冬になると見るミカンの入った赤いネット(どうやらミカン以外のモノが入っているらしかった)をぶら下げている。目だけが、人とは違って黒とも赤とも表現しえぬ怖い色をしているのだが、纏う雰囲気は穏やか過ぎる。
 なんだか印象が異様にちぐはぐで、異様にミスマッチだった。
「ところであれ」
 とその神が右手の人差指で指し示したのは、落下途中の皿。
「あれ、落とした方が良い?」
 疑問符が頭いっぱいに溢れた千尋であった。
「や、なんか大事に抱えてたみたいだから『留めて』おいたんだけど」
 その言葉を一度千尋は頭の中で咀嚼して、意味がわかってから頭をぶんぶんとふった。ここは神の訪れる世界。不思議が不思議ではない世界なのだ。こんなことも普通なのだろう。
「いいえ! ありがとうございます!」
 そんなぶんぶん忙しくふる頭を苦笑を浮かべて見下ろしながら、その神は風呂敷包みに手を伸ばし床より取り上げた。途端に風呂敷はほどけ、かの神の手の上で中身をさらす。
「お皿?」
 ボイラー室での釜爺よろしく表を眺め裏を眺めたその神は、千尋が欠けさせたその亀裂を見つけたらしい。なんとも言えない楽しそうな表情を浮かべると
「欠けさせたな」
 とだけ感想を漏らしなお笑う。
 そして「直しちゃえ」と笑みを深くして、その部分に指を這わせると――亀裂は跡形もなくなっていたのである。
 唖然、である。ここまで気前のいい神なんて滅多にいない。千尋はなぜだか怖くなった。顔が知らず強張るのをとめられない。
 顔色の変わった千尋の様子にその神は小首を傾げ、明り取りから入る月の光がぼんやりと支配するその世界で、千尋の目を覗き込む。
「……心に闇があるね?」
 どきりとした。目の前の神が、正真正銘『人とは違うモノ』であると突き放される声色とその言葉の内容とその赤い目に、千尋は体が震えそうになる。視線を逸らしたいのに、恐怖でそれすらも叶わない。
 小さな明り取りから漏れ入る光が雲で一瞬遮られたのか、人気のない廊下は闇に沈む。目の前の神が支配するかのような静寂の世界がそこにある。
 どこまでも静かに沈む、闇の世界――なのだが。
 一言で千尋を震え上がらせたその神は再びにっこりと笑顔を見せると、
「これあげる♪」
 と語尾を弾ませて、左手に持っていた赤いネットから白い果実をひとつ取り出すと千尋の手に押し付けたのだ。
「その原因の人と一緒に食べな」
 近くの澤で冷やしていたからおいしーよ、と先の雰囲気はどこへやらの軽さである。
 千尋の頭はすでにパニックであった。皿と果物を両手に抱えると、礼だけは無意識にできうる限り言って、まろぶように廊下の奥へと駆け出した。
 なんなのだ、あの神は。あの軽さは。と言うのが、千尋の感想であったのだが、とりあえずは助かったのだと思うと安堵感が胸を占める。
 そんな千尋の後姿を見送って、その神――闇の神『笹姫』は艶やかに笑う。
「青春っていいなぁ」
 ――ハクにはとことん理解のできない神である事が、このやりとりを見るだけでもわかっていただけるであろう。

   ◆◇◆

 その日の営業が終わる頃。
 二天にある自室でハクは業務日記をしたためていた。
 本日の大きな問題点その一……酒に呑まれた牛鬼のお客様が派手にけんかをして、襖二枚が被害にあう(これは後日請求書を送る段取りがついている)→解決済み。
 本日の大きな問題点その二……件の神が、酒の最中に部屋を出た後小一時間ほど行方をくらませた為捜索に人手を割いたのだが、本人はふらりと部屋に舞い戻っていて、その間手酌酒をさせたと言う失態があったこと→当人が構わないと言われるので、これも解決済み。
 ――その二点くらいである。『大きな問題』は。
 それにしてものっけからやってくれたな、とハクは思う。思わず業務日記の『問題点その二』を書き記した箇所をトントンと指で叩いてしまう。
 まぁ、当人が謝っていたくらいだから大したことではないのだが、湯屋一同でその行動を監視していたにも関わらず行方をくらませられたところに問題があるのだ。
 今日はこれだけですんだから良いが、笹姫は一週間ほど油屋に逗留予定なのである。それを考えると、胃がきりきりと絞られる思いだった。


 そんな気苦労で胃を痛ませるハクの存在する部屋の戸の前で、千尋も胃をきりきりさせていた。その両手には、白い布をかけた盆があった。件の果物を切り分けて持ってきたらしい。その果物は、澤で冷やしていたと言う笹姫の言葉を閉じ込めているのか、どんなに時間が経っても冷たく瑞々しかった。
 どうしよう――往生際が悪いにもほどがあるが、千尋はまだ悩んでいた。
 あれだけ露骨にハクを避けていたのだから、どの面下げて彼の部屋の戸を開ければよいのか、そんなことで悩んでいた。
 どうしよう、でも神様に背中を押してもらったんだし……と考える。このままハクのところに行かなかったら、あの怖いような優しいような神様に申し訳が立たないという気持ちもあった。そして、あの一瞬垣間見せた『神』としての底知れる眼差しとにっこり笑う目を思い出し、震え上がったりほっとしたり忙しく気持ちが上下してひとりで疲れ果てもした。
 二天にはハクしか住んでいない為、その廊下は冷え冷えとして千尋の体を冷たくする。きりきりと痛む胃と、ふらふらとする気持ちと冷たい体、その上に仕事の疲れも乗っかって、千尋の今の状態はかなり苦行だ。
 ここにいつまでも立ちんぼをしていても苦行は終わらない、と判断した千尋は、ようやくハクの部屋の戸を叩いた。
 短い誰何の声に名を名乗ると、ハクは「入っておいで」とだけ伝えてきた。
 ぎくしゃくした手足を動かして部屋内に入ると、そこには穏やかで暖かないつものハクの空気が満たされていて、それだけで廊下の冷たさに凍えていた体がやわらかくなる気がした千尋であった。
 ハクの方はと言えば、普段なら戸の前に誰かが立とうものならすぐにその存在を感知するはずであるのに、どうも注意力が散漫になっているなと内心苦笑していた。しかも千尋の気配を読めずにいたのである。どうやら長い間戸の前で立ち尽くしていたらしく、手の先が強張っているのが見て取れた。
「どうしたの、千尋?」
 手にした盆に気がついてどうやら仕事の話でないようだと判断したハクは、この期に及んで気まずそうに戸の内側でもじもじとしている千尋を安心させようと名を呼んでやる。
「あ……うん。お客様に果物を貰ったから―― 一緒に食べようと思って」
 まだお仕事中? とおどおどと首を傾げて問いかけてくる千尋の様子には、ハクを避けて避けて避けまくった怒りの気配はない。かわりにハクの気持ちを量りかねて萎縮しているようでもある。
 ハクは胸中で深く安堵の息を吐いていた。千尋の心境がどのように変化してこの状態になったのかはわからないが、今は目の前に千尋がいる方が重要だ。自分を避けた理由や心境の変化を問いただして再び逃げられるのはかなわないと思い、いつもと変わらないようにと願いながら笑みを浮かべて
「いや、ちょうど終わったところだから」
 と部屋に手招く。
 千尋は意を決して部屋へと上がり、ハクの目の前にぺたんと正座をして、盆の上の布を取り小皿のひとつに竹のクシを添えて差し出した。
小皿の上には、内側がほんのり赤みを帯びた白い果実が切り分けられている。
「これは『サセホ』の実だね。油屋では扱っていないのだけれど」
 煮詰めた蜂蜜に似た独特な香りが有名な為、ハクはその果物の名を知っていた。赤い花が咲いた後で結実する果実で、この周辺にはその木はなかったはずである。その神が自身で持ち込んできた品であろう。皮は分厚くてやや硬いが、中身は溶けそうなほどに柔らかく美味なので、珍味としても有名である。
 そして考える。なぜ今日の千尋が『神』に会ったのだろうと。確かに自分は、父役に千尋を湯釜や客室付近から外れた裏方の仕事に回すように指示を出したはずであるのに。
「うん。長い黒髪の女神様から頂いたの。廊下でぶつかっちゃって、謝ったらくれたの。その…ハクと一緒に食べなさいって――言われて」
 ごにょごにょとそれだけ言うと、千尋は膝の上で水干の端をもぞもぞともてあそんでいたのだが、ようやく蚊の泣くような声で
「この前はごめんなさい」
 と謝った。
 その言葉で、ハクは千尋のその前の言葉がなにを意味するのかも考えずに笑みを深くしただけであった。千尋は下を向き続けていたのでその顔は見ていないが。
「いいや、私も悪かった。あれは千尋が頼まれた仕事だったのに」
 ほっと息をついて顔を上げた千尋ににっこりと微笑みかけると
「あちらの部屋の窓からの景色を見ながらこれを食べよう。町の明かりが綺麗だよ」
 と、誘う。
 ふたり肩を並べて、久しぶりのゆっくりとした時間を堪能することができた。
 遠くの町の明かりを見つめて、ふたりは黙ってサセホの実を口に運び、時折会話をする。妙にくすぐったい時間である。
 そんな感じでゆっくりとすごしていると、こてんとハクの肩に千尋が頭を寄せて眠り込んでいた。
 仕方がないなと思い、さてどうしたものかと夜空を見上げてハクは考える。
 非常にオイシイ場面設定だと考えるハクは、眠り込んだ千尋を起こさないように静かに苦笑した。

   【四】

 その翌日。泊まりの神々がそろそろ起きだそうかと思う時間の少し前。
 帳場を預かる若い竜は、その一室に素晴らしく凍りついた微笑を貼りつけて乗り込んでいた。客室に呼ばれもしないのにあがり込む無礼は承知である。しかもその部屋の現在の主が、女神であるからして無礼どころの話ではなくなるのもわかってはいた。
 が。
 現在のハクには、そんなものはまったく考えに入ってはいなかった。ひたすらにかわいい従業員に降りかかっている事態の解決だけを考えていたのである。
「んあ?」
 寝起きの悪い神なのか――笹姫は乗り込んできたハクを寝ぼけ眼で一瞥すると、起き上がる気が失せたのか、枕にぽてんと顎を乗せて目を閉じる。
「帳場のお子さんか〜。……どうしたの?」
 やけにくぐもった、しかしハクの乱行に怒りを感じてはいないらしい声色でもごもごとそれだけを言う。
「失礼は重々承知ながらお尋ねします。昨晩、うちの従業員に下されものをしましたね?」
 失礼は重々承知などこれっぽちも思っていない声でハクが問うと、笹姫は右手を布団から出し額を押さえる。
「あー……なんかしたような気もする。でも酔ってたから全然覚えてないや。山二つ超えたところの澤に、サセホの実を放り込んでいたのを採りに行った先からサッパリ記憶ない」
 ところで無茶苦茶頭痛いんですけど、昨日私はなにをどれだけ飲んだ? とうめきながら笹姫はハクに質問を投げかける。
 その問いを受けて――ハクは押し黙った。押し黙らずにはいられなかった。昨日この神に供したのは――油屋の貯蔵庫で一番高価で、一番希少な『龍殺し』であった。その名前の如く、うわばみの龍でさえも酔わせると言われている酒を供して、何事もなく一日を終わらせようとしたハクと湯婆婆の思惑が裏目に出ていたなんて……この事は誰にも言えやしない。
 あとで二日酔いの薬湯を手配しましょう、とハクは引きつりそうになる口元を悟られないように営業スマイルで覆い隠した。
「で? サセホの実がなんかどーかしたの?」
 二日酔いながらも、ハクの言葉は覚えていたらしい。昨夜の自分の行動とハクの言葉で、事態を正確に把握しているところは、二日酔いでも神は神。
「サセホの実を頂いた従業員が――精神的肉体的に幼児後退を起こしました」
「……は? なんでそうなるの」
 この世界の住人があれを食べてもどーにもならないはず……ごにょごにょと枕の上で呟く笹姫に、ハクは
「その従業員は人間の娘です」
 と叩きつけるように言う。段々と腹が立ってきたハクである。この神とはそりがあわない、と胸中で握りこぶしをつくって吼える。どんな神とでも馴れ合うつもりもないことなど、この際棚上げである。
「なんで人間の子が――あー、酔っていたから気配もわからないかぁ」
 そりゃごめんねぇ、それにあれ、野木の実だしなにが起こるか想像つかないよねぇ……と語尾を消しながら、笹姫は二度目の眠りに落ちていった。
 後には、本気で殺意を覚えたハクが残されのでした。

   ◆◇◆

 時間は、帳場の白竜が乱行を行うよりも一時間ばかり遡る。
 泊まりの神々はまだ夢の中であっても、油屋の従業員の活動時間は迫っていた。
 そんな、まだ朝も――と言っても時刻的には昼前だが――早い時間に女部屋に響き渡るのはひとつの声。
「おい! 誰かハクを呼んでくれ!!」
 帳場の責任者を呼び捨てにする強者など、この湯屋には十人もいない。その数少ない者のひとり、小湯女のリンがけたたましくその名を連呼している。
 何事かと寝ぼけ眼をこすりこすり同室の女達が薄い布団からそちらを見ると――皆一斉にあんぐりと口をあけ、ついで
「あらまぁ」
 とそれだけを言う。
「だからハクを呼んでくれってば〜〜」
 珍しい弱りきったリンの声に反応してか、リンのすぐ脇にいつも布団を敷いている妹分のセン――千尋がぐすりと鼻を鳴らした。
「泣くな! わかったから!!」
 なにがわかったのかはわからないが、混乱したリンは必死の様子で千尋をなだめようとその背中をさすりさすりし
「とりあえず部屋出ような? な?」
 と水干の上着をその肩に着せ掛けて部屋より連れ出し、従業員の休憩所へと導いた。ここにいれば、やがてやって来るであろうハクとすれ違いにならないですむからだ。
 そして「センが……」との連絡の途中で飛び出したハクが慌てて二天から休憩所へと急ぎくると、そこにはリンと千尋と、遠巻きに見物している野次馬がおり。
 ハクはそれらの者達に動揺を見せないようにいつもの表情を顔に貼り付けさせると、冷静を装ってふたりを伴い上階への昇降機に乗り込んだ。
 そしてリンと千尋以外が見ていないことを確認してから、おもむろに手を額にやりわざとらしくため息をつく。
「リン……そなた、センになにかやったのか?」
「オレがセンになにかやったって言うのか? だったらそれはおまえじゃねぇの?」
 昨日の晩センを女部屋に連れてきたおまえの方があやしいだろうこのエロ上司! と言い立てまくる。
 そんなふたりを仰ぎ見て、千尋はまたもやぐすりと鼻をならした。
「大丈夫だからね、千尋。泣いちゃ駄目だよ?」
「セン! オレが陰険ハク竜の呪いから救ってやるからな!」
 がばっと昇降機の床に這い蹲るようにして千尋の視線に顔をあわせた二人は、千尋が聞いていようが聞いていまいがお構いなしに叫ぶように言う。
 言っている意味はわからないながらも、千尋は
「うん」
 と頷いて、二人はほっと息をついた。
 そして同時に
『視線が低い……』
 と胸中で呟いたのである。
 荻野千尋。現在十歳の筈の彼女は――今現在どう見ても、四・五歳の 姿形だったのである。

   ◆◇◆

「おぎのちひろ、四歳です!」
 と元気良く右手の指を四本立てて名前を名乗ったその反応に、湯屋の主・湯婆婆とその息子、そして彼女をそこまで連れてきたハクとリンは深々とため息をついていた。やはりそうなるか……と一同は心の中で遠い目をしていた。
 その千尋は現在、坊と一緒に一生懸命肉まんを頬張っていた。起きてからなにも食べずに最上階まで連れてこられたので、当然であった。
 はじめのうちこそは湯婆婆とその巨大な坊の姿に泣きそうになっていた千尋であったが、坊がネズミになって見せたりする間にそんなことはどうでもよくなったらしい。ハクやリンの気持ちも知らないで、無邪気に赤い絨毯の上を坊とともに転げ回っていた。
「本当にこの娘はやっかいな子だよ! こんなに小さくては仕事のひとつもさせられやしない!」
 湯婆婆は絨毯の上を転げ回っていた千尋をねめつけると、そう言った。
「湯婆婆様にも原因はわかりそうにありませんか?」
 ハクがじっくりと千尋を観察しても原因がわからなかった為に嫌々ながら湯婆婆に泣きついた形になるのだが、彼女はその巨大な頭をふるだけであった。
「魔法の気配はさっぱりだ。少なくとも、あたしが感知できる魔法の類ではないはずだよ」
 さてさてどうしたものかねぇ、使えない穀潰しはさっさとブタか石炭にでも変えられればいいのだが……と湯婆婆は宝石で飾った右手の人差し指をぐるぐると宙でまわす。
 千尋が新しく湯婆婆と交わした契約書には、千尋が労働をすることに対していくばくかの賃金と衣食住を支払うとなっている。しかし今の千尋の状態では、湯屋で通用するほどの『労働』が提示できるとは言えない。これでは契約不履行になってしまう。
 湯婆婆に今の千尋を見せたのは早計だったか……とハクは思ったが、遅かれ早かれ勘付かれることだ。この判断は間違いではないと確信できる。下手に隠し事をしてどう利用されるか予測がつかない。その点抜け目がないと言うか突拍子もない発想をする湯婆婆であるから、素直に現状を報告しておいた方が害がない。師ではあるが心底信頼も尊敬もできない人物であるとハクは知悉していた。
 尚も指を意味もなくぐるぐる回している湯婆婆から視線をはずし、ハクは昨夜の千尋の様子を思い浮かべた。と言っても、ハクが千尋と接触したのはほんの一時間ほどでたいしたこともなかったはず――ただ、千尋が『客』からもらったと果物を持ってきただけで、それすらもあまり珍しいことでもなかったのだ。
 が。
 その瞬間、頭の中で閃いた千尋の言葉。
『長い黒髪の女神様から頂いたの』
 黒髪の女神。
 昨夜の客の中で千尋が一目で性別の判断がつく姿形をしている神はすくない。客のほとんどがオオトリ様やおしら様と言った性別があるかどうかも怪しい神々ばかりなのだ。
 その数少ない神の中で、黒髪の、しかも女神と言えば――件の闇の神しか該当者がいなかった。しかも笹姫は小一時間ほども行方をくらませている。
 ハクの機嫌は、一直線に不機嫌となった。
「湯婆婆様、その原因がお客様にあるとなれば、センの契約が不履行となるのはお門違いと言うものではありませんか?」
 その一言で千尋の処遇は保留となり、ハクは笹姫の部屋へと乗り込んでいったのであった。

   【五】

 すっかり朝寝坊した。
『東雲の間』に届けられた薬湯は良く効いた。頭の奥の奥にまだだるい痛みがあるものの、さきよりは比べ物にならないほどに調子が良いと納得せざるを得ない。
 空を見上げれば、ぽっかりと白い雲がひとつ浮いているだけ。太陽の光は強すぎず寒すぎず、ほこほことして柔らかい。
「久々の休暇の二日目〜〜!」
 笹姫は、油屋の狂い咲きする中庭で大きく伸びをした。
 なにやら起きぬけにひと騒動あった気もするが、二日酔いで頭ぐるぐるであったので細部までは覚えていない。
 ま、いいか。
 その四音で千尋の件を片付けて、笹姫は本日の予定を立て始める。
 油屋から西と東の方向はもう行き厭きたので、今度は北へ行ってみようかな。それとも南?
 油屋の白拍子の群れに紛れ込んでいつばれるか遊んでみてもいい、とか物騒なプランまで頭に思いあがらせながら、笹姫はぷらぷらと中庭を散策しつつ、油屋へと引き戻っていた。
「おや?」
 客用の玄関でも中庭に通じる扉でもない場所に辿りつき、目の前に現れた人物達の様子に、笹姫は目を細める。
 中庭に面した濡れ縁に座しているのは、今朝方の帳簿管理の少年。濡れ縁の外――庭で蝶々を追いかけているのは、小さな女の子。
「人間?」
 そう言えばあの子――ハクの事である――が、『人間の子供』がどーしたとかなんだとか言っていたなぁと思い出し、サセホの実が原因でなにかが起った云々と言っていた気もする、と思い出す。
 まじまじまじと、目の前の光景を見てしまう。なんともかんともミスマッチばりばりなもので。
 小さな女の子は、桃色の水干の上をざっくりと羽織り帯で留めているのだが、どうみても大きさはぶかぶかだった。袖も肩も全部が落ちていて、とりあえず裸でいるのはまずいのでそこら辺のを着ていますと一目でわかるその格好。白くて細い足がにゅっと出ていることからもよくわかる。
 対してハク――の状態も変、であった。彼が手にしているのは、女の子が着ている着物と同じ色の布地。ちくちくちくと、彼の手元で針が規則正しく動いている。傍らには裁縫道具。生真面目な表情で手元と女の子を交互に見ている。
「……」
 もうなんと言って良いのやら。いや、言えない。あんまりにも楽しすぎて(笑)。
 なんて感想は彼には言えないのだろうが、笹姫は草葉の影からそれを盗み見、必死で笑いを堪えるしかなかった。
 そうこうしているうちに、どうやら縫いあがったらしい。ハクが千尋を手招きして、なにやら説明している。少し困惑し考え込んだ後、ハクは上層部に指を向け、またなにか説明している。笹姫は聞くともなしにそれを耳にした。
「一番最初にいた女部屋に連れていくから、そこの者に着かたを聞きなさい」
 とりあえずハクみずから着替えさせるわけにはいかないとの理性だけは残っていたのか、とリンあたりなら言いそうな説明を、目の前の女の子に告げている竜の子であった。
 笹姫はにっこりと笑って、二人の目の前にと現われ出でた。
「わたしがやろうか? その子の着替え」
「――笹姫」
 不意打ち食らわせるつもりなどなかったのだけれど、ハクの面に浮かんだ微妙な嫌悪の色に、結果そうなったのかと笹姫は思う。
 まぁ、どうやらなにかわからないながらもわたしにも原因があるらしいし、それは致し方ないのかなと思い、軽くハクを流すことにする。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
 おぎのちひろですっと元気に返事が返ってきて、頭の隅にそう言えばこの子に良く似たもう少し大きい女の子を見たような記憶があると気がつく。どうやら朝方ハクが言っていた『精神的肉体的幼児退行』とはこれの事かと合点がいった。
「小さくても本当の自分は大きいんだって納得いけば元に戻ると思うけど?」
 だって人間の真実の姿は唯ひとつでしか有り得ないのだから、と笹姫はぽつりと漏らした。
「は?」
 迂闊にもハクは、それに対応する事ができずにいた。余りにも唐突、かつ気軽にぽいっと言われたので。
 そんなハクの手から縫いあがったばかりの水干を難無く奪取すると、これまたまじまじとそれの縫い目に笹姫は目を落とす。
「上手いもんねぇ。キミにこんな『特技』があるなんて知らなかった」
 几帳面な性格をあらわすその縫い目に、笹姫は本気で感心した。
 それに対するハクの表情は――不機嫌、であった。


 帳簿の管理人ハクは、従業員からは恐れられている存在でもある。
 徹底した完璧主義者。はっきり言って失敗には容赦がないが、反面人を快く働かせる手管をも意外なるかな身につけている上司である。
 が、女性陣にはそんな事とは別次元でハクを恐れている点がある。
 それはハクの、妙な『特技』の為なのであるが。
 裁縫が異様に上手い、と言う点は、どこか『あぁハク様なら』で納得できそうであるのだが、そんなレベルのものではない。
 ハクのその恐れられている特技とは――着物の上からでも、人の寸法――今で言うスリーサイズ――をずばりと当ててしまうものなのである。これは女性陣には痛い。しかも湯女や白拍子などは尚痛い。少しでも太ったならハクにすぐ指摘を受けてしまう。
 ふくよかは良きかなのこの世界ではあるが、それと『みにくいまでに太る』のは別問題。体重増加には気をつけなければならないのだ(最近は指摘されることもなくなったが、ハクの心の内での感想を考えると迂闊に体重を増やすわけにはいかなかった。目が怖いのである)。


 そんな傍迷惑なニギハヤミコハクヌシの特技は、本日も発揮された。
 朝方湯婆婆の部屋で千尋の処遇の件が一段落した後の出来事。
「とりあえず、センのこのカッコどうします? このままじゃ風邪ひいちまいますよ」
 リンが千尋のぶかぶか水干姿を上から下まで眺めやりそう提議する。
 今は坊と一緒にイスに座って、顔よりも大きな肉まんを頬張っているから良いが、先などは絨毯の上を転がりまくっていた。はっきりいってあられもない姿であったので、あれはいくら見てくれが見てくれでも問題大アリだろうとリンは思っていたのだ。
 特にどこぞのエロ上司にとっては――な。
 とは、リンの言わざる本心であるが、まさかまさかそこまで見境がないはずないだろう、と心のほんの一部分、その片隅の片隅でその上司を信頼している彼女であった。しかし予防線を張っておいた方がより確実であろう。
「それくらいの子供用の着物なんざ、この油屋のどこを捜したってみつからない筈だよ。子供なんて居やしないんだから」
 まさかそんなみっともなさに輪をかけた格好でここに居させるわけにもいかないし、お客様の手前。
 湯婆婆は忌々しげに、右の人差指で机をトントンと意味もなく叩いている。
 沈黙がその部屋に下り、自然湯婆婆とリンの視線がハクの身にと向けられた。湯婆婆は、弟子のその裁縫技術については前から知っていた為に。リンは、オレよりも縫いモンが上手い気持ち悪いヤツ、とハクに対して感想を持っていた為に。
 ハクはその視線を受けて、渋いため息をつきつつ
「私がセンの着物を縫います」
 と言わざるを得なかった。
 渋い表情のまま、肉まんを食べ終わった千尋を手招きし、特大の疑問符を飛ばしながら駆け寄ってくるその子供の前に膝を落とすと、どこからともなく取りいだしたるは、なぜか巻尺。
「千尋、今から体の寸法を測るからね」
「ちょっと待てや、このロリコン上司! てめぇの『特異技』知らねぇとでも思ってやがるのかッ!!」
 器用に目の前の千尋にぶつかるのを避けて、ハクの後ろ頭を踏み倒したリン姐さん。
 リンのなけ無しの信頼さえも失ったハクの未来は一体どっちなのだろう、と湯婆婆は思ったものである。


 そんな一件を、笹姫のなにげない感想に思い出し、自然不機嫌になる帳場の少年。ある意味その得意技自体が許せないものであるが、それについては本人気がついていないのであるから仕方がない。
 リンにとっては、ハクの懐から巻尺が準備良く取り出されたことの方が気持ち悪くて仕方がなかったのであるが。
 ハクは不機嫌な表情のまま、それでも笹姫が妙にご機嫌な笑顔を浮かべている為に、その好意を拒絶するわけにもいかず、さっさと千尋を伴って隣の部屋へと消えていくその姿を見送るしかできなかった。
 濡れ縁の外の空には、白い雲がひとつぽっかりと浮いている。そのほのぼのとした空を見上げ、竜の子は誰憚ることなく深々とため息をついたのであった。

   【六】

「どうぞごゆるりとご滞在下さいませ」
 湯屋『油屋』の女主人は、絢爛豪華な座敷に座す上座の神に向けて、その巨大な頭を垂れていつもの口上を述べた。
 今は、油屋営業中。
 ここは、油屋に五室しかない、閉じられた空間に存在する特別室の一室。有りて無い二天の上の階。
 目の前の神は、金の毛並みも美しい稲荷神であった。


 金箔意匠を施した悪趣味一歩手前の芸術的襖を音もなく閉めて、湯婆婆はこれで挨拶まわりの必要な上客は終わりだと鼻から息を吐きだした。その音がやけに大きく響いた気がして、湯婆婆はいそいそと階下に通じる昇降機へと乗り込む。
 一階下れば、そこは湯婆婆の鼻息など掻き消えてしまうほどの喧騒に満ちた、賑々しい場であった。
 オオトリ様の一行が、先導者に従って歩くたびにぴよぴよと穴の開いたビニール人形よろしく合唱している。
 気の早い牛鬼が、接待係の女の尻を追いかけて騒ぎたくっている。
 一番風呂につかってきたらしい春日様の一団が宴を張っていた。
 吹き抜けよりその様子を覗き見ていた湯婆婆の後ろを、ゆっくりとオシラ様が手ぬぐい片手に行き過ぎて、女主人は慌てて頭を下げ愛想をふりまく。
 オシラ様の白い背中を見送った湯婆婆は、もう一度吹き抜けより階下を見下ろした。
 と、目についたのは、誰よりも『ちまい』従業員の姿。
 湯婆婆はなにも言わず、廊下を跳ねるように駆けているセンこと千尋の姿を目で追った。


 ぱたぱたぱたぱた。
 千尋は、異形の神々が闊歩するその廊下を小走りに駆けていた。
 ぱたぱたぱたぱた。
 その手にはただひとつ、蓋のついた小さな木の器があるだけであった。中身は乾燥した木の実である。両方とも、すっころんで落としてもばらまかしても大事にならないものばかりであった。
 千尋はぱたぱたぺたぺたと足音を立てて、ひとつの開け放した宴会場の前へと辿りついた。どうやらそこが目的地であったらしい。
 中にいるお客様は……と湯婆婆が視線を転じると、イボイノシシ神の団体であった。
 千尋は勢いつけてぺこりとお辞儀をしてからなにかを言っているらしい。どっと場が沸いて、上座に居たイボイノシシの一人が手招く様子が見えた。どうするのやらと見ていると、そのイボイノシシは強面を笑いで歪ませて、千尋の頭をなでるようにその短い前足でぐりぐりと引っ掻き回していた。
 それからもしばらく階下を見ていた湯婆婆であったが、いい加減見ているのも厭きるねぇとにくたれ口をひとつ転がすと、自室へと続く昇降機へと乗り込んだ。


 なかなかやるじゃないかあのちびも、と湯婆婆は思う。
 湯婆婆が見ている間中、千尋は背の襷を白い蝶々のように閃かせて走っていた。
 手にはなにかしらの、落としても割れないものを持っているところをみると、誰かが気を利かせて采配を下したと見るべきであろう。
配達先の客人の様子も、千尋を迎え入れると途端に和やかな空気に包まれてしまう。
 廊下をぺたぺたと走るその姿を見て、あの小湯女にここにもなにかを、と言っている客が後を断たないので、尚更に千尋は廊下を走りまわる。
 名もないような神は――とりわけ自然神は、子供が好きだと相場が決まっている。どうやらみんなして千尋を構いたいらしい。
 迷子札よりもはっきりと従業員であることを主張する桃色の水干を着ていなければ、そのまま油屋より神隠し第二段間に突入しかねない有様でも有る。
 走る勢いを殺しきれずにオオトリ様の集団に突っ込んだ時も、オオトリ様はそのまま柔らかな羽毛で千尋をくすぐるように取り囲んでしまい、笑いを含んだ甲高い子供の悲鳴を聞きつけて宴会場の他の客がどっと笑いさざめく。
 あの厄介な姿になって一日と半。営業時間で言うなら二度目の夜。
いつのまにか千尋は油屋の看板娘と化しているではないか、と湯婆婆は気がつくのであった。

   【七】

 千尋幼児化三日目。
 朝の掃除も朝食も終わり、ほんの少し時間のあいたボイラー室。
 ボイラー室の主は定位置に。その下に有るささくれたちゃぶ台を囲むように、子供三人分の頭が揃っている。言わずと知れた帳簿の管理人と小湯女のリンと千尋である。
「セン、だからなおまえ、本当はもうちっとだけ大きいんだってばよっ」
 座布団にあぐらをかいて、リンは反対側に座っている千尋に何度目になるかわからないセリフを繰り返した。
「うー」
 はじめこそは座布団の上に正座をしている千尋ではあったが、すぐに足がしびれるらしい。三分もしない間に横座りとなっている。元から低い視線がもうもうちゃぶ台すれすれになってしまって、そんな状態で台のへりを両手で掴んで唸っている。まるで小熊が唸っているようにも見える。
「千尋、ゆっくりで良いから考えておくれ。そなたの視線がもう少し高かったことを覚えているだろう?」
 ますますちゃぶ台に隠れるように姿勢が悪くなる千尋であったが、やや考えてからやはり唸りながら頭を振る。
 ハクとリンは、揃って天井の木目を仰いだ。
 釜爺はいつもの位置よりそんな子供達を見下ろしながら、難儀なものだのうと感想を胸中で漏らした。
「じゃぁこれならどうだっ。セン、おまえの髪はもっと長かったんだぞ。暇があればオレが髪を梳いてやったことも忘れちまったのか?」
 今やってやるよとリンは座布団から立ち、千尋の背後にまわると、やや低い目で結わえてあるウサギの尻尾ほどに短い髪をほどいてやる。ついでずいっとハクの方に右手を出した。
 目と目で通じ合う、と言うものがこの二人の間に成立することなどこれ一度きりであろう。ハクは懐から櫛を取り出すと、リンのその手に載せてやった。
 ……冗談のつもりだったのにホントにもってやがった、とはリンの心の内の言葉である。その言葉の後ろには『気持ちわりぃ』とのおまけがあるのであったが。
 とりあえずそんなことはハクの顔面に放り投げて、リンは千尋の短い髪を梳いてやる。四歳の子供がおざなりに梳いた髪はわちゃわちゃのくちゃくちゃである。お姉様方がおもしろがって髪を梳いてやったりもしていたが、本日はまだであったらしい。リンは根気良くもつれをほどいてやった。
「千尋、そのことも覚えていないかい?」
 髪を梳いてもらっている為にしゃんとした背筋になった千尋は、髪をとられて頭を振ることもできずにもごもごと口を動かすだけであった。
「セン〜、オレがやってやったことも忘れたってぇのか」
 わーそれはつれないなぁとリンは明るい口調。半分投げやりにもなっているらしい。
 千尋はやや後ろを向きながら
「おかーさんにしてもらってたもん。リンちゃんじゃないもん」
 と反論する。
「オレだってやってたのっ」
 とリンは、折角梳いた髪をぐしゃぐしゃとかきまわした。
 ちなみに四歳児の千尋は、幼児化第一日目の朝より、リンを『リンちゃん』、ハクのことを――恐ろしいことに『ハクちゃん』と呼んでいた。営業時間中にそう呼ばれて振りかえったハクを見て、周辺の従業員が極寒の如き冷気を肌に感じたのは気のせいなんかではない。
 ぐしゃぐしゃとかきまわされるのにまかせていた千尋の表情がふと歪むのを、ハクはみた。
「どうしたの、千尋?」
 途端にふにゃふにゃと泣く一歩手前になる千尋。
「おとーさんとおかーさん……パパとママは〜?」
 髪を梳かれて『おかーさん』と言う単語を思い出したらしい千尋は、次の瞬間には泣きに泣きまくった。
 あちらの世界には居ない者(神々)の物珍しさに、すっかり父母の不在を忘れていたらしい。
 容赦のない子供の甲高い泣き声が、ボイラー室の空気を切りに切り裂いた。
「パパ〜ママ〜ッ! あぁぁぁんッ!」
 喉の限界なんて考えていない、子供の必殺技ぶちかましである。そんなものに慣れていない……どころか初体験のハクとリンは、大慌てで耳をふさいだ。
 釜爺も両手の人差指で耳の穴を塞いでいるが、余りの手で千尋を抱き上げると、更に余りの手で千尋の頭をぐりぐりと撫でた。
「あー、セン。おまえさんの親は、用事で出かけておるんじゃ。わしらにおまえさんを預けて行ったんじゃよ」
 ぶうらりぶらりとその小さな体を揺らしながら言ってやると、ようやく千尋は泣きやんだ。ひくりひくりとしゃくりあげているが、小首を傾げて
「パパとママ、帰ってくるよね?」
 と、微妙に答えにくいことを聞いてくる。
 まさかまさか、ここは神々の湯治場で、千尋は短期アルバイトに来ているなどとは言えない釜爺は、腕の最後の一本でハクとリンを指差し、
「おまえさんの親が居ない間は、ハクとリンが親代わりじゃよ」
 と微妙に論点をずらした。
 泣きやんだ千尋をゆっくりと床に下ろしてやると、千尋は先とは変わって上機嫌になり、ハクとリンの元にとてとてと駆けていき、ある意味泣くことよりも寒い言葉を二人に向けた。
「じゃぁ、リンパパちゃんに、ハクママちゃんだねっ」
 なぜなんだ千尋……ハクは目の前のちゃぶ台に心の中で突っ伏した。

   ◆◇◆

 ひゅるり〜ひゅるり〜らら〜〜〜♪

 その曲をハクが知っているとは思いがたいが、まさしくハクの心の中に流れ続けているのはそのフレーズである。木枯らしが吹いているのか、はたまた霙混じりの風か。はっきり言ってどちらでも良かったが、周囲の従業員にはたまったものではない。心ここにあらずの帳簿管理人は不気味に過ぎた。
 どんよりとしたハクの視線の先を見やれば、予想違わず幼女の姿。あいも変わらず、とてとてぺたぺたと足音をさせて廊下を走っている。
 ひらひら ひらひら。
 背の白い襷が尾を引いて、蝶々のように揺れている。ハクはそれをぬぼーと見ていた……造作はいつもと変わらず鋭利な美貌のままなのだが、発する雰囲気の微妙さ加減で従業員は震えあがっていた。
 従業員達は廊下の片隅で噂する。千尋が子供になった直後でも、ハクはあそこまで変になりはしなかった。千尋に『ハクちゃん』と言われようとも、ああまではなりはしなかったのだ。と言うことは、それ以上のことがあったに違いない……どうでも良いが傍迷惑な話だなぁ。けれどもおもしろいから実害がでるまでは静観静観。
 なんともたくましい従業員達であった。ぺーぺーの平社員は結構強いのだ。


 まま……なぜなんだ千尋、とハクは、今朝方から何度目になるかわからないそのセリフを心の内で呟いた。心中では、目の前の壁にがんがんと頭を打ちつけている。
 両親の代理とされたことすら不本意なのに(親になりたいわけではないからだ)、なぜに『まま』なのだ、なぜに。
 ようするにハクが気にしているのはその一点であるらしい。
『ぱぱ』ならまだ良いのか、と聞かれれば否と即答するのであろうが、『まま』よりは断然受け入れやすい。
 とりあえず、こんな見てくれでもニギハヤミコハクヌシ、れっきとした男である。肌がすべすべとか髪が綺麗とか女子のように可愛らしいとかさんざんっぱら言われ続けていようと、男なのである。
 それがなぜに愛しい少女から『まま』と呼ばれて抱きつかれ、子供に必要なお昼寝に付き合わねばならんのだ。嬉しいような悲しいような『まま』の修行が朝から続いているのだ。
 それに、ボイラー室に居たリンが『ぱぱ』と呼ばれたのも気に食わない。自分が『まま』に割り振られたからには残りの人物が残りの役を得ることなどわかりきっているが、千尋の言い方では明らかにリンの方が先でハクは残り役であった。
 それにそれに、リンが仕事に向かう為にボイラー室から出かけに、
「リンパパちゃん、いってらっしゃーいっ」
 とほっぺにちゅっとかしたくせに、ハクママちゃんが出る時には口元をふにふにさせただけで『いってらしゃい』も言ってくれなかったことが妙に引っかかる。
 重ねて言うがニギハヤミコハクヌシ、これでも男である。多分に狭量ではあったが。
 リンの方が頼もしく見えるというのか千尋――考えれば考えるほど泥沼にはまっていく帳簿管理人の視線の先には、神々に人気者となった幼女の姿。
 その小さな頭の中で『パパ=男の人』『ママ=女の人』との理解が上手くいっていないだけなのだと知りもせず、ハクは心の中で聞いたこともないフレーズを流し続けるのであった。

   【八】

「おぅい、センを知らんかぁ?」
 賄場の男が、領域外の客室付近の廊下をうろうろとしながら湯女を捕まえた。
「セン?! さぁ、知らないねぇ」
 それだけを言い置くと、湯女は忙しげに廊下を歩き去ってしまう。
 おかしいなぁと賄場のかえる男は首を傾げる。その手には木の器。セン配達用の器である。
 賄場の外には小さなイスがあった。先まではたしかにそこに、一番ちまい従業員がこっくりこっくり船を漕ぎつつ座っていたのだ。最後の配達物を待ちながら。
「センー? おぉいセン、どこ行った?!」
 賄場の周辺を、名を呼びながらうろうろするが見当たらない。
「厠にでも行ったんじゃないのか?」
 別のかえる男が賄場より顔を出して言ったが、器を手に持ったままの男は頭を振る。
「それにしても遅すぎるんだよ。もしや迷子になっちまってる……とか」
 その可能性に辿りついて、かえる男達は顔を見合わせた。
 両者とも蒼白であった。


「ここどこ?」
 なんとかひとりで厠に行って、賄場に戻る途中廊下の筋を間違えた。かえる男達の想像した通りであった。それだけであれば適当に歩けば誰かに行き当たりそうなものなのだが、千尋の場合はそんな当たり前の事が通用する年齢ではなかった。
 眠い目をこすりこすりして歩いていた廊下の奥に昇降機を見つけておもしろがり、背を伸ばしてレバーを引いた。がくんがくんと振動をさせて昇り続ける昇降機が面白くなって、昇降機を乗り換え乗り換え行けるところまで行ってしまった。
 ここはニ天の上――客室で言うならば最上階、特別室の階である。
明かりはともっているが、長い長い廊下の奥は寒々として薄暗くも感じる。なによりも漂うこの空気が、小さな千尋の心を押しつぶすかのように静謐に満ちて神さびている。
 千尋が今まで接してきた神々とはレベルの違う高位神達の座す場に足を踏み入れているのだ。並みの人であるなら恐怖心を抱くであろう。
 が、千尋は良き事なのか悪き事なのか、そんなものこれっぽちも抱きはしなかった。ただ寒いだけで怖くはなく、誰かがいるのならリンパパちゃんやハクママちゃんの居る所に連れて行ってもらえるだろうと考えたのみ。
 だからこそ、仄かな灯りが洩れ出でる襖をからりと引き開けたのである。
 金箔意匠の悪趣味一歩手前絢爛豪華な襖の内側には、これまた悪趣味一歩手前の衣装を纏った神が座しており、きろりと鋭い眼光を浮かべて闖入者を眺めやった。
「なんだ、女童」
 細面の白い顔、黒と金の混ざった長髪。なによりも毛並みの美しい金の尻尾で稲荷神と見て取れる、神々しくも不遜な姿。
 周囲に侍っていた舞手らが、襖の向こう側に現れた最年少の従業員の姿を認めて身を奮い上がらせた。
 この稲荷神、子供が大嫌いなのである。そのキンキンした子供特有の声が、特に。
 千尋はそんなことも知らず、いつものように襖の外側からお辞儀をした。短い結わえ髪がぴょこんと稲荷神の視線に跳ねた。
「おじゃましますっ」
 長々と堅苦しい口上を述べられるはずもなく、千尋はそれだけは必ず言う様にと父役に言い含められていた。その言いつけ通りにここでも言ってみたのだが、稲荷神はひくりと眉を微かに動かしただけであった。
「鼓城(こたち)様、失礼を致しました。年端も行かぬ迷い女です。どうぞ捨てお置き下さいませ」
 鼓城と呼ばれた稲荷神の右手に侍っていた青い着物の舞手が、しな垂れかかって杯に酒を並々と注いだ。左手に侍っている赤い着物の舞手が、さっさと出ていきなと焦りを含んだ視線を千尋に送る。が、そんな雰囲気はとんと読めない四歳児は、ゆうらりゆらりと揺れる稲荷神の尻尾の先を視線で追いかけて、はっと我にかえる有様。赤い着物の舞手が痺れを切らし、稲荷神に深々と頭を下げて千尋の元へと駆け寄った。
「セン、早く下に行きな!」
 廊下へと引っ張り出し、赤い着物の舞手は千尋の背をぐいと押すのだが、千尋はやだやだと足を踏ん張った。
「やだーっ! 狐さんだよ、さっきのっ。すごーい、きれー!」
 腕をわたわたとさせて、子供特有の無邪気さで場の雰囲気を読まない言葉を連発する。その声は、神気を含んで静々と重い闇に沈む特別室の廊下の空気を――裂いた。
「やかましいぞ、女童!」
 怒号一声。
 金箔意匠の襖が内側から弾け飛び、青い着物と赤い着物がくるくると木の葉の様に絡まりながら、ハリをはめ込んだ戸を突き破って落下して行った。
 残されたのは、稲荷神と元凶なる子供の二人であった。

   ◆◇◆

「は? いないの?」
 自室でもなくて? と、細い頤に右手を添えてこっくりと小首を傾げている人物に向かって、父役は内心冷や汗をたらたらかきまくっていた。
 なぜにこんな所においでなさるのだ、闇砕の御方っ! と叫び続けている。
 ここは油屋の帳場。居るのは父役と帳場の平社員。帳場の管理人は運悪く不在。よって父役は、最重要最注意神の応対に出ざるを得なかった。
 普通客人は帳場なんぞ覗かないだろう。用事があっても、わざわざおいでなさる事もないだろう。呼びつけてくれなされば良いのだ、呼びつけてくれれば! と心中で叫び続けるが、眼前に立つ漆黒の髪を長くたらした女神は、首を傾げて天井を睨んでいるだけである。
 それにそれに、と父役は続ける。本日の笹姫のお衣装は、油屋では扱っていない、裾のあたりがほんのりと黒紫の白い着物。たしかこの女神は手ぶらでいらっしゃったはずであるのに、どうして毎度毎度私物がこんなに沸いてくるのだろうと不思議でならない。不思議がれば一切合切が不思議に思えるので、父役は疲れ果てて思考を放棄した。
「さようでございます、笹姫。このような場までお運び頂いたのに、大変申し訳ございません」
「そうかー、ふーん。帳場のあの子って、いつでもこの付近通りかかったら見かけるから、ちょっとセンちゃんの様子聞こうと思ったんだけど……」
 帳場のあの子って……あの子って……それってハク様のことですか? それ以前にそんなに頻繁に帳場のあたりうろうろしてるんですかこの女神はっと父役は胃がきりきりとしてきた。いかん、胃薬は残っていただろうか……そんなことが心配になる。
 さっさと部屋に帰るなりしてもらいたくて、父役はハクが見つかったらお部屋に向かわせますので……と告げる為に口を開こうとして、笹姫の次の一言でぱくりと閉じざるを得なかった。
「いいよ、捜すし。邪魔してすまなかったね」
 そしてひらんと右手をふって、帳場から軽やかに立ち去った。
 父役は『ぎりぎりぎり』と痛む胃を抱えて、その場に蹲った。潰れた顔からダラダラと汗が滴り落ちる。それを見た他の従業員は
『父役がガマ蛙ならガマの油がとれるのになぁ』
 と呑気に考えていた。誰も心配なんてしていなかった。


「センがいなくなっただと?」
 一方ハクは、セン――千尋がいなくなったとの報告を受けていた。賄場の男と、リンの二人からである。
「そうなんですハク様。小半時前には確かにここにいたんです!」
 かえる男は、賄場外の小さなイスを指差して、ハクに説明する。その顔は蒼白のまま元に戻っていない。
「オレの方にも来てないんだ。とりあえず湯場は手分けして捜してみたん だけど、居ねぇし。残るは外か、物置とか――客室に紛れてるのかもしれねぇ」
「わかった。センの捜索は私が手配をするから、おまえ達は持ち場に戻りなさい」
 賄場の男は「へい」と返事をすると、ぎくしゃくとした足取りで賄場へと戻って行ったが、リンはハクに食い下がっていた。
「オレも捜す。なにせオレの妹分なんだし」
 好きにしろと、ハクはややヤツあたりも含んだ声色でリンに許可を与えると、捜索の采配をする為に帳場へと足を向けた。
 と、突然湯屋の上部湧き上がった、神気が大気を揺るがせる波動をぴりりと肌で感じて、ハクははっと天井を振り仰いだ。
「上か!」
 一声捨て置くと、ハクは上階へと続く昇降機めがけて走り出す。リンも負けじとそれに続いた。

 もどかしい気持ちで昇降機を乗り継ぎ乗り継ぎして辿りついた客室最上部。
 そこは、小さな千尋が、今まさに遥か下方の庭へと自由落下させられる瞬間であった。


 たん……っ
 ハクは落下する千尋を追いかけて、床をけりつけ窓より飛び出していた。
 少しかけた月が浮かぶ黒蒼の空を風切って白い光が舞う。
 ひゅおぉぉぉぉと音をたてて落下する小さな子供が、目を不思議そうに見開いているのが妙にはっきりとわかった。
 ハクは空中で白竜の姿を取ると、ぽすんっとその背に千尋を受け止める。
 ふわりと身をくねらせて上昇する竜の背で、千尋は前にも同じ感覚を味わった事を思い出していた。満月よりも鋭い月光が、きらりきらりと白銀の鱗に反射して千尋の目に残像を残す。


「なにすんだよ、てめぇ! 客と言えど許さねぇからなッ!!」
 破られた窓より帰還してみれば、リンが顔を真っ赤に染めながら、高位神の胸倉を恐れ多くも鷲掴みにして食って掛かっていた。
「やめなさい、リン。センは無事だ」
 言外に、鼓城様の相手は私がやる、と言い置いている声色にはっと窓を振りかえれば、そこには大切な妹分が白竜の背に鎮座していたので、リンはほっと息をついて手を離した。
 徐々に人の姿に戻る竜の背からおりると、千尋はてててと足音をさせてリンの背後へとまわり、その長い髪をうんしょと引っ張った。
「鼓城様、うちの従業員がなにやら粗相をした模様。大変申し訳ありません」
 言葉こそは丁寧であるが、目がなんとも不穏な帳簿管理人。その目のまま、廊下をぐるりと引き裂かれた襖の惨状に一瞥をくれると、白々とした視線で稲荷神を見据えてにっこりと笑った。
「一体なにをやらかしたのでしょうか。鼓城様ともあろう方が大人げなく子供を殺めようとする程ですので、よほどのことなのでしょうねぇ」
 事と次第によっちゃぁただでは済まさない……元からただで済ませるつもりもない白竜である。
 応じて稲荷神と言えば、顔を赤くさせて怒り狂っている。
「なにをやらかしただと?! この女童はな……ッ」
 リンに胸倉を掴まれていた腹いせか、稲荷神はおのれより背の低いハクのそれを掴みあげようと手を伸ばし――その場に響いた新たな人物の声にぴたと手を止めた。
「こうちゃん、こんな所でなにしてるのかなー?」
『こうちゃん』との理解不能な単語の為に、千尋以外のその場に居た者達は一瞬思考を止めて固まった。
 その発言者の元へ皆が視線を集めると、そこには、裾だけほのかな黒紫に染めた白い着物をまとう神の姿。
「ささひめさまぁ」
 千尋が臆せずとてとてと、その神の元へと駆けて行った。
「ちょぉっとわたしにつきあってくれないかなぁ。神としての人となりについてじっくりたっぷり語り明かしません?」
 口元にはにっこりと人好きのする笑顔をのせているが、黒く沈んだ赤い瞳だけが真剣に怒っていた。
「わたしの目の前で『女の子』にオイタするなんて良い度胸してるんだもの、それくらい平気よねぇ」
 ……重ねて言うがこの稲荷神鼓城、かなりの高位神である。が、しかし、こののらりくらりと生きている笹姫の方が……立場的にも能力的にも――上、なのである。
 稲荷神は蛇に睨まれた蛙よろしく、ひきつった顔で笹姫の後に従った。
『説教』とは『説経』を受けるという意味が根底にある。このふたりの間に今からかわされる談義とは――いや、笹姫から一方的に語られる話は、きっとそのままの『説教』であるのだと思われる。晩から朝まで『神のなんたるや』を昏々と聞かされるのかと思うと、鼓城は胃がきりきりとしてきた。
 後に残されたのは、無残に破られた調度品と、特大の疑問符を頭にくっつけた子供が三人であった。

   【九】

「まいったよまいったよ。まさか窓から放り出されるとは思ってもみなかったよ」
 鼓城乱行明けて翌日の女部屋に、かぎ裂きだらけの赤と蒼の着物を纏った舞手が、疲労しきった体を引きずって戻ってくるなり、そう言い置いて眠りこけてしまった。どうやら、異空間の狭間に魔法で作られた、有りて無い五階の窓から振り落とされた為、空間を飛び越えて遠くまで飛ばされてしまったらしい。
「ハナもハルも、元が鳥だったからよかったものの、空の生き物以外があんなトコロから放りだされちゃぁ……うぅ、考えたくもない」
 と、そのふたりの疲労困憊ぶりを見た他の従業員達は震え上がった。
 良かった、上客を相手に出来るような自分じゃなくて、と胸を撫で下ろす。当分、害のないオオトリ様やオシラ様の相手で構わないよと思う。給金安くとも命にはかえられない。


「まいったまいった」
 同時刻のボイラー室で同じセリフを口に乗せたのは、そこの主であった。
「なにがなにやらわかりませんが、なんか迷惑かけちゃたみたいで……」
 と恐縮しきりなのは、元の姿に戻った千尋である。彼女の周囲には、帳場の管理人と姉貴分のリン。そして早起きした坊がネズミの姿でちょこんと座っていた。
「なにはともあれ、元に戻って良かったなぁ、セン!」
 目がさめて横を見たら、そこには元に戻った千尋が布団に丸まっていたので、喜びいさんでボイラー室へと連れて来てしまったリンであった。騒ぎを聞きつけてハクもやって来たのである。
「なにも憶えていないのかい、千尋?」
 とハクが訪ねると、千尋は四歳児の時となんら変わらぬ仕草で頭をぶんぶんと振って
「なぁんにも憶えてないの。ね、わたし、なにかした?!」
 と問い返してくる。
 ハクとリンは顔を見合わせて、
「別になにもしてない」
 と言うことにした。
 いけ好かない稲荷神に殺されそうになったことなど知らない方が良いだろうとリンは思い。
 神々に大人気となった千尋に、心の中で木枯らしを吹かせていたなんてばれるのが怖いハクは、一切を闇に葬り去ろうと決めた為に。
 三者三様の心のうちを考えて、釜爺はひょひょひょと変な笑いを漏らす。
「問題はあるんだけどねぇ、お邪魔してもよい?」
 と、その場にいない……来る事などない人物の声が聞こえてくるまで釜爺は笑っていたのだが、その声の主に視線をやって目を丸くした。
「笹姫」
 帳場の管理人は一気に機嫌が急降下した。本当に、なぜにこの神はあちらこちらへ出没するのだ。昨夜は帳場へ現われたと聞く。客人としての最低限の礼儀も心得ないのか、と思いつつも、昨夜助け舟を出してくれた借りが有る為に邪険にもできない。笹姫にしては、鼓城の件で幼児化の責任をとったつもりでいるのだが、微妙にふたりの思惑はすれ違っていた。
 なんじゃなんじゃなんで神がこんなトコロに……と、釜爺は定位置で腰を抜かしそうになっていた。
「問題、とは?」
 とりあえず高位神を立ちつんぼにしているわけにはいかない。朝の会合が始まった初日に運び込んだ、新しい座布団を部屋の片隅から一枚取り寄せ、笹姫に勧めてみる。それにちょこんとおさまった笹姫は、千尋を指差しくるりと円を描いた。
「こうちゃんがねぇ、教えてくれたんだけど」
 ……だからこうちゃんて鼓城様のことですか? と心の中で聞き返すハクとリンである。
「千尋ちゃん、あの子の尻尾捕まえちゃったんだそうな」
 だから『あの子』って鼓城様のことですか? とやや疲れ気味に心中で問い返す。
「金狐族の掟で、尻尾捕まえちゃった人間は殺すか愛するしかないんだそーな」
 ……はい?
「だからとりあえず殺そうとしたらしいんだけど、やめたんだって。多分今日から猛烈らぶらぶアタックが繰り広げられると思われ」
 神は慈愛の生き物これ基本だから、と笹姫はころころと笑った。
「がんばってねvv」


 なにはともあれ、すべてが元通りになった湯屋『油屋』。
 今日も今日とて、油屋唯一の人間は、あっちにぶつかりこっちにぶつかりしながらも、元気に走り回っていた。
 ただひとつ、前とは明らかに違うのは、彼女の後に背後霊よろしく追いかけてくる高位神の姿があるだけで。
「いやぁぁぁ来たぁっ! リンさん、助けてぇッ」
 任せとけっと、くぐり戸の向こうに妹分を押し込めると、その戸の前に立ちはだかったリンは、稲荷神と因縁の対決三度目に突入した。
「お主、毎度毎度邪魔しおって。本日は許さじ、そこをどけ!」
 と鼓城は吼える。
「申しわけありません鼓城様。この奥は関係者以外立ち入り禁止になっておりま〜す」
 と睨み付けて言うリン。ギャグなまでにばちばちと火花が飛びそうな緊迫した空気が充満した。
 と。
 くぐり戸の奥から……奥に続く階段あたりから、どしんっと大きな音がして戸が揺れた。
「セン?!」
 なにがあったんだ、と思わずくぐり戸を開けて中を覗き込むと……あわれそこには階段から落っこちた千尋が目を回してひっくり返っていた。
 頬をぺちぺちと叩いて正気つかせた千尋に
「大丈夫か、セン?」
 と問うと
「わたしは誰? ここはどこ?!」
 なんぞと問い返され。
 油屋はまたしても、常なる日々にさよならしたのであった。

 ――振り出しに戻る?