野生の楽園 【2】





   【一】

 西の空に、太陽が落ちようとする夕方。
 赤いランドセルを背負い、友達と別れて、てってかてってかと坂道を下っていくのは、言わずと知れた千尋である。
 明日からは、祝日と土日の三連休。さすがに頻繁の住み込みアルバイトはまずくなってきたので、今回はおとなしく家で勉強したり、友達と遊びに行く予定にしている。それもまた楽しみで、歩くリズムにポニーテールが跳ね飛んだ。
 それに、と思う。
 また――また、ハクと喧嘩したし。すねたまま前回こちらの世界に戻ってきてはや二週間、なんとも油屋に行き辛い。もう少し時間を置いてからの方が良いだろうと思う。
 喧嘩――と言うか、またもや一方的に拗ねている原因なんて、すでに忘れ果ててしまったが、顔が合わせにくい、謝らなくちゃいけないとの思いだけが、この半月間千尋の心の奥に重く沈んでいた。
 このまま喧嘩別れみたいになっちゃったらイヤだなぁとは思うものの、なかなかあちらの世界に赴くきっかけを作れずに悶々とする千尋であった。
 山に帰る鴉が、おうちに帰ろうとかぁと鳴いて飛び去った。その黒い影を見て、帰り際に縁起の悪いものみちゃったなぁとため息をついた時。
 ふと、千尋は道の先の真ん中に誰かが立っていることに気がついた。
 そしてあんぐりと口を開けてしまう。
「あれ……あれって……」
 指こそ指さなかったが、口から出てくるのは言葉にならない言葉だけ。
目の前の人物はそんな千尋の心中を知らず、小首を傾げてにっこりと微笑んだ。
「千尋ちゃん、お帰り〜」
 語尾にハートがつきそうなうきうき声を出すのは――絶対にこんなところにいるはずのないと思われる、笹姫であった。
「た……ただいま、デス」
 数ヶ月前に、油屋でであった神様。
 今は、素晴らしく長い黒髪を腰のあたりでそろえていた。そしてなぜか、この付近では見当たらない紺のセーラー服を身につけていた。
 赤とも黒ともつかない不思議な目は漆黒に沈んでいたが、夕日の炎が映り込んで本来の色を纏っている。
 ぱっと見れば、どこにでもいる女子高生。が、この神が『女子高生』なんぞと言う生ぬるい存在であるはずが無いことを千尋は知っていた。
「千尋ちゃん、待ってたの〜。明日から三連休でしょ?」
「え……あ、はい。そうですけど」
 思わずじりじりと後退しそうになる千尋。
「今日から油屋に行こうね〜vv 前からず〜と、一緒に遊んでみたいなぁって思っててvv」
 うわぁ、嬉しそう。すっごい嬉しそう。見えないはずのハートが乱れ飛んでいるのが、千尋にはなぜかわかった。
 でも――今の気持ちでハクに会うわけにはいかないし――なにより、いきなり両親に『旅行に行って来ます。しかも他人(神様)と』なんて言えるわけがない千尋は、ぶんぶんと頭を振った。『行けません』なんて言葉に出すのは恐ろしかった。
「えぇ、ダメ? どうしてもダメ?」
 途端に悲しそうになる笹姫。
 そしておもむろに、手に持っていた物を目の前に掲げてため息をついた。
「御両親には許可をとってあるのに……ほら、千尋ちゃんの荷物、預かってるの」
 ……どうしてわたしの旅行用鞄が神様の手の中にあるんですか、と千尋はやや引きつった笑みを浮かべつつ考えた。
「従姉妹の笹姫(さき)お姉ちゃんと旅行に行くのは、なんら変な理由じゃないでしょ?」
 それに御両親、千尋が旅行に行くのなら自分達もどこかに行こうってコトになって、近場の温泉に行かれてしまったし……となんでもないようにとんでもない事実を千尋に漏らした。
 千尋は頭の中で、『仮想頭』を一生懸命振りたくった。
 わたしには『神様』の従姉妹なんていませんいませんそんなの怖いです。
 前にハクが言っていた、と千尋は思い出す。『あの闇の神の行動は変だ』と。確かに――変だ。変すぎる。しかしこの無邪気な威圧感に圧倒されて、なにも言えなくなる所がまたすごい。これも『神様だから』で納得できることなのだろうか。
 千尋は心の中で涙を滝のように流し、ご機嫌な笹姫に腕をとられて赤い門をくぐったのであった。


 荻野千尋、何度目かの神隠しの一部始終である。

   【二】

 荻野千尋は困惑していた。
 諸悪の根源は、目の前でゆっくりと酒盃を傾けている人物である。
 ぱっと見にはどこにでもいる女子高生。小造りな顔、平均的な背丈、痩せてもおらずさりとてふくよかなわけでもなく。全体的にどう評価しても『女子高生』と答える以外に選択肢がない人。漆黒の髪が腰を越えてまだ長くとも、覗き込めばその瞳が深い赤の色だと気がつけども、纏う雰囲気が無邪気だからか違和感はさほどない。けれども実態は、帳場の管理人が「あの方は変だ!」と言い放つほどに変な、闇の女神様。通り名を笹姫と言う。
 その笹姫に拉致されるように、ここ湯屋『油屋』に連れられてはや三時間が過ぎている。その短くも長くもない時間内、なにがなにやらわからぬ間に、いつもは掃除やお世話する為に出入りしている湯船に一緒に入れられるわ、体は洗われるわで大変な思いをした千尋であった。笹姫がなにやら妙に嬉しそうなのでそこはかとなく千尋は嬉しくこそばゆかったのだが、いつもは同僚の小湯女達の目が気にかかる。彼女達は笹姫の戯れにすでに慣れてしまっており、今回の憐れな生贄の子羊に同情の眼差しを送っていたのだが、緊張している千尋にはそんなことまでわかろうはずがなかった。
 そんなことをつらつらと思い返している千尋が着ている物は、淡い橙色にぼかした赤と白の小花が散った浴衣。これもこれでひと騒動おきた物であった。なにしろこんな品は、ここ『油屋』では扱っていないのである。それは臨時従業員である千尋の知悉するところ。しかも、千尋の為にあつらえたかのように寸のあったその品は、千尋の可愛らしさを引き立てる為に誰かがしつらえたような品でもあった。恐らく、まさに千尋の為にあつらえたのであろうが、ここに来る時の笹姫は手ぶらであったことを思い出せば一体どこから取り出したのかと首を捻りたくなる。受け取っても良い物なのかどうかと思案し辞退すれば、笹姫に「浴衣姿をわたしには見せてくれないの?!」と泣きつかれ、今後彼女には逆らわないでおこうとげんなりしつつ悟った千尋であった。
 そんな思いを千尋にさせた笹姫自身も、『油屋』では取り扱っていない浴衣を身に纏っていた。夜の闇に紫の蝶がひらひらと舞っているそれも、一体どこから取り出した物なのやら。内心で首を捻っている為に、黒塗りの膳と口元を往復させていた箸の動きがぴたと止まる人の子のそれを見逃す闇の神ではない。
「千尋ちゃん、おいしい?」
 青い切子硝子の冷酒を乾していた笹姫の手も止まり、そう問いかけられた。
「お……おいしいです」
 いつもバイトでここに来て食べている賄い料理とは雲泥の差である。白米はふっくらつやつや香りもよく、煮物は上品な味付けで口の中でほろりと崩れる。彩りも目に楽しい。添えられたお茶からして質が違う。だからもってこの料理を口にするのは嫌な作業ではないのだが……ここまで辿り着く経過を振り返ってみると、流されていてはいけないとも思うのだ。無駄な抵抗とは思いつつも。
「そう、良かった。これでも昔はひどい味だったのよ〜」
 昔昔大昔戯れに団体客に混じって宿泊した時の料理はそりゃぁひどかった。格安パック旅行にしても足元みすぎだと、調理場へ乗り込んで同材料で料理をつくってみせたこともあると笹姫は軽い小話程度のノリで千尋に語ってみせた。
「料理は材料も調理人の腕や勘も大切だけど、手間隙惜しんじゃダメね」
ちなみにそれはいつくらい昔ですかと問い返せば
「……帳場の子が来る前かなぁ……」
 と遠い目をする。それ以来わたしが来るとなると調理場から脱出しようとする者達がいるんだってねぇと不思議がる笹姫。なんとなくその人達の気持ちがわかった千尋であったものの、先の笹姫の発言に無意識に頬がぴくりと動いた。それを目ざとく見つけたからなのか、笹姫は傍らに置いた切子細工の徳利を持ち上げにっこりと笑みを浮かべた。
「そだっ。千尋ちゃん、これ飲んでみる?」
 げんなり脱力と微かな苛立ちを心に同居させた千尋を置き去りにして、笹姫は思いつきを実行しようと、もうひとつの赤い切子細工の酒盃に今まで自分が口にしていた酒を注ぎ千尋の膳へとちょんっとおいた。
「えぇ?! だってコレ、お酒ですよう!」
 飲めないです飲めないですぅと千尋は手をわたわたさせ酒盃をつっかえそうとするものの、
「大丈夫。甘いよv」
 と語尾を弾ませてつきかえされる。あのぉそんな問題じゃぁないんですけどぉとごにょごにょ口の中で転がす千尋の言葉は、もちろん笹姫には届いていない。届いていたとしても完全無視である。
「だってだって、わたし、お酒飲んじゃいけない年ですよ?! まだ小学生です!」
 流されてはいけない流されては! と決心して強く出ると、
「でもそれって日本の決め事よ? ここは日本じゃないから大丈夫」
 一杯だけ一杯だけ人生何事も経験するべし! とよく分からない論破をされた。口で言っても勝てるわけがないと諦め、千尋はその甘いらしい酒を口の中へと運び入れた。半分以上がヤケだった。
 はじめの感想は、確かに甘い、だった。冷やっとまろやかでふわんとした味で、想像していた酒とは印象が違っていた。甘酒よりも飲みやすいと思った。が、口から食道、そして胃にすべり落ちる頃には焼けたかと思うほど熱くなり、口の中は熱いやら痛いやらひりひりするやらでもうなにがなにやらわからなかった。
「うひゃぁぁ」
 水水ぅと思い立ち上がると、くらりと目がまわりへにゃりとひっくりかえる。たった一杯の酒でも足にきている千尋であった。なぜなら、人生最初の酒は――あの、竜をも酔わせる『竜殺し』に勝るとも劣らない希少価値とアルコール度数を誇る珍酒『鬼の顔(かんばせ)』――だったのである。
 意識が途切れる前に千尋が思ったことは――オシラサマとか日本の川の神様とかが来る世界なんだからここだって日本って言っちゃってもいいんじゃぁぁぁぁぁっ! であった。大雑把な解釈であった。

   【三】

『鬼の顔』――製造元は(株)赤鬼酒造。どんなに顔に酒色が現われないと豪語する者のそれさえも同族と同じ真っ赤にしてみせるとの意気込みにより最近完成された酒である。飲み口の良さに杯を重ねると後から全身真っ赤になる一品。
 そんな品を人生最初の酒としてしまった千尋がひっくりかえるのも無理ない話である。ちなみに笹姫は酒豪な為、その酒の強さに全然気がついていない。
 笹姫は目をまわしてうんうん唸っている千尋を目の前にして、さてどうしたものやらと思いつつくいっと杯を乾した。そしておもむろに手を二度叩打ち合わせ、待機していた女中を呼びつけると寝床を用意するよう言いつける。
 いつも元気いっぱいに走りまわってはすっ転んでいる従業員センがいつもとは違う意味ですっ転んでいるのを目にした女中は、あらあらあらといいつつ寝間へと急ぐ。その目には先の小湯女達同様同情の色があったのだが千尋は知る由もなかった。


「で、もって? ハクちゃんがここに来た理由って?」
 千尋ぶっ倒れ事件より小一時間後の『東雲の間』には、その間の主である笹姫がひとりで酒を飲んでいた。その襖の外側、ひやりとした廊下に座して対峙しているのは、帳場の管理人のハクであった。部屋と廊下の温度差により空気が流れ、まっすぐに切り揃えた髪がゆらりと揺れる。
「センが倒れたと聞き及びましたので――」
な んとも歯切れの悪い言葉の後、無礼は承知なれど、と言いつぐんだきり平伏してしまったハクに、笹姫はある意味冷たい言葉を向けた。
「今の千尋ちゃんは従業員ではなくて、わたしの連れで、ここのお客様だと思うのだけれど」
 それを重々承知しておきながらの『無礼は承知』のハクの言葉に、笹姫は気がつかれない程度の笑みを浮かべる。笹姫の言葉に反応してか、ハクの肩がぴくりと動く。
 まぁ、今は客と言えど元は油屋の従業員云々と口にしないだけマシかぁ。と心の内で呟くと、笹姫はすいっと立ちあがった。淡い光を室内に投げかけている灯を遮って襖へと向かうと、そのままハクの横すら通りすぎて昇降機へと向かう。
「あの……笹姫!」
 説明もなにもないままの笹姫の行動についていけず、浴衣の闇と廊下の薄闇が同化してひらひらと紫の蝶が遠ざかるのを呆然と見送ってしまう。その蝶が完全に飛び去る前に慌てて呼び止めたハクは、次の語を探して目を泳がせてしまった。泳がせる視線の先にとまった蝶は、近づきもせず遠退きもせずただそこに居る。その蝶がひらりと羽を振るわせたのは笹姫が細いおとがいに手をやったからだと気がつくのに数瞬かかった。
「そう言えばここに来る前にねぇ、沢に果物放り込んできたの」
 またどこぞで聞いたような話だと思いながら、それでもまだ話の脈絡が掴めないでいるハクは沈黙を守った。
「ちょっと取って来るから、寝込んでる子を見ていてもらえる?」
「……」
 闇の奥から見返してくる眸は赤い。血の赤よりも重く沈んだそれに、ハクは問いを向けた。
「千尋は……あなたになにかを告げましたか」
 躊躇い躊躇い口にされたその問いに、笹姫は小さく肩をすくめる。
「なにも聞いてないけど? 無理言ってここに連れて来たことについての愚痴ひとつ」
 それは愚痴を言っても右から左なあなたの性格を把握しているから言わないでいるのではないかと思いつつも、口にはしなかった。
「それよりもサセホの実、良い塩梅に冷えてると……」
 その言葉に思わずぎらりと笹姫を睨みつけるハク。
「嘘です嘘。向こうの世界から桃を持ってきたの」
 笹姫お気に入りのその澤を板で塞いだろかと本気で思ったハクであった。

   【四】

 ほのかな灯りが柔らかく燈る『東雲の間』。有りて無い油屋五階に五室しかない特別室であるこの一室は、上品な調度で飾られていた。
 青白い頬をしてぎゅっと瞼を閉じている千尋の枕辺に座ったハクは、その冷たい額をじっと見つめていた。ハクはどうするでもなく千尋の額だけを見つめている。絞られた灯の輪が揺れると、額にかかった髪がつくっている影もゆらりと揺れる。
 半月前に意地の張り合いをしたまま帰ってしまった千尋が目の前にいるというのに、彼女は酒に目をまわして目覚める気配がない。油屋の長い夜もとっぷりとふけた就業時間終了間近に『東雲の間』の主が帰ってきて帳場の管理人をすげなく追い出すまでその沈黙の時間は続いた。
 ハクが下がった後でふっと目を覚ました千尋に水を与えながら
「さっきまでハクちゃんがいてたんだけど」
 と告げる。
 ぽしょりと
「……タイミングわる……」
 と言葉をこぼして水を飲み乾した千尋に向けて、調理場で皮を剥いてきた桃を入れた硝子の器を手にしながら笹姫は淡く笑った。千尋は、ハクがいたであろう枕辺を視線で撫でまわしている。
「どっぷりと思い悩んでいても、良い答えなんて出てこないよ? もう寝なさいな」
 千尋の頼りなげなその視線に苦笑をひとつもらし、笹姫は千尋の細い肩を押して布団へ逆送すると、燈されていた灯を吹き消した。月が障子の外からほのかに照らす闇の中、体中を駆け巡っていた酒の残滓がとろとろと夢の中へと千尋を導く。


 原因は忘れたと嘯いてはいたが、記憶の奥底にきちんと記録されていた。千尋は夢でそれをなぞっていた。
 そもそもの原因がどちらにあるかと問えば、絶対的にハクにあると千尋は思う。
 半月前のバイトの最終日、なんだか様子がおかしいハクに
「なにか心配事とかあったら言ってね? わたしじゃハクの力になれないとはわかってるけど、愚痴くらい聞けるから」
 仕事中のハクは沈着冷静な上司だが自分とふたりでいる時はとても優しくて見た目相応の少年に見えるので、相当無理をしているのではないかと考えていたからこその台詞であった。が、返ってきた答えは
「そなたには関係ない」
 であったもので。
 その言い方や態度にかちんときて、家に帰る挨拶もなにもなしにバイト先から駆け帰った千尋であった。
 ハクの物言いも問題ありだとは思うものの自分のその態度も問題ありだったと自宅に帰ってから冷静になって考え、千尋はこっそりと泣いた。できる事なら今すぐ油屋にとって返して謝りたい、けれどもそれはもう無理だから……と考えている間に夜が来て、学校に毎日行く日常に巻き込まれてしまった。
 そんなこんなでなんとなく油屋に行きにくくなり、はや半月。そしてハクと顔をあわせる決心すらつかないままここに連れてこられた。決心なんて放ったらかしてさっさと顔をあわせ謝ってしまえれば良かったのだろうが、なかなか客と従業員の立場と言うのも接触がないものなのだと千尋は気がつく。向こうは完全に自分がここに来ていると知っているのだろうと思うと、胸のあたりがざわざわした。
 本当はこんなカンジ好きじゃないのに、と思ったら、夢の中でも泣けてきた。

   【五】

 あけて翌朝。
 なんだかどこかでこんな境遇にあった気がするなぁと二日酔いに痛む頭を持ち上げ、行儀悪く枕を抱え込んだ笹姫は、あぁあの時もこの『東雲の間』だったっけとぼやんと考えていた。
 客が起き出すにはまだはやい時間に断りもなく乗り込んできた帳場の管理人のその行動は、前回のサセホの実騒動とまったく一緒だ。けれども唯一違うのは――その姿が――いつもの少年姿よりも六つ七つ歳を重ねているように見えるのである。
「さーさーひーめー」
 襖を一息に開け放ちそう言った声も、普段の声より低く響くもの。
「……」
 いくら二日酔いでも、六年も七年も眠り続けていたなんてオチはないだろうなと笹姫は思いつつも口にはしないでおいた。ハクの形相があまりにも暗かったからだ。
「一体わたしがなにをしたの」
 口をついて出てきた笹姫の第一声は、そんなものだった。なんとも爽やかではない朝だった。


 なんか違う。
 千尋は『東雲の間』の上座に笹姫と並んで座りながら思う。
 なんか、どころか、おおきく違う。と千尋は考え直す。
 隣では笹姫が小難しい顔をしているし、目の前には決心もつけられず会えもしなかったハクがいる。その見た目は大きく、著しく、普段と違っているのだが、今現在千尋が心の中で『違うー違うー』とわたわた叫んでいる原因はそのどちらでもなかった。
 手持ち無沙汰になって手をもそもそさせると、左手首に巻かれた、おそらくシルクだろうと思われる花飾りつきのリボンがくすぐったい。手首のリボンだけだけでなく、普段は着ることなどないふりふりレースのたくさんついたドレスに素晴らしく違和感をおぼえる千尋は、これを着せられるまでに笹姫と繰り広げた無駄な抵抗を思い出す。どうやら笹姫には、人を飾り立てて遊ぶ趣味があるらしい。だからと言ってこのドレスは自分にはスンバラシク似合わないと思うのになぁあんまり動けないし……と千尋は小さくため息をついた。
 まぁもう仕方ないなぁできる事ならこのみっともない姿をあんまり他の人に見せない為に奥に引っ込んでおこうと決心すると、千尋はようやく目の前の現実へと思考を向けた。なにせ、とにかくハクがいるのだ。見た目がどうであろうと、あの、喧嘩別れみたいになってしまった、ハクが。
「これは一体どう言うことなのですか?!」
 怒気もあらわなハクが、下座より笹姫に食ってかかる。それに対して笹姫は、曖昧にあははと笑って手にした扇子を翻すだけだ。少年特有の危うい頬の線がすっかり精悍みを帯びたハクが、物凄い殺気を帯びてぎらりと笹姫を睨みつける。
「これは〜その〜、あれだね、桃だね」
 ぱちりと扇子を閉じて笹姫がそう答えるまでの間、千尋は珍しいものを見ているような気持ちで目の前のハクを眺めていたが、冷や汗だらだらな笹姫のその言葉に思わずそちらに視線をやった。
「桃?」
 思わずハクと言葉がはもってしまう。
「桃って、夜に食べた桃?」
 わたし、なんともないよと両手を広げてみせる。記憶だってあるし、意識だってちゃんと小学生だし、姿が縮んだり伸びたりもしていない。
「だってあの桃は、向こうの世界の桃だもの。千尋ちゃんにとっては普通の物だから」
 まさかまさかハクちゃんにとって向こうの食べ物が異質なものになっているなんてすっかりこちら側の住人なんだねぇと、ハクの境遇を知るかのような感想を笹姫は口にする。
「昨夜、無理矢理、押しつけて下さった、あの桃が原因だとおっしゃるのですか?!」
 いちいち言葉を切ってそう笹姫に告げたハクは、それからすこしばかり考えるように沈黙し……
「被害は私だけではすまないかも」
 と呟いた。

   【六】

 いつかどこかでこんな境遇にまかれたヤツを見たような……とリンは起き抜けの頭でぼんやり考えていた。その頭は現在、同室の女達にもみくちゃのくちゃくちゃにされてぼっさぼさであったが。
「きゃーリンっかわいいわぁあんた!」
 なでなでなでなで。長い黒髪もこねくり回され、団子になりそうだ。
 いつかどこかで……どころではなく、ここで妹分が同じような目にあっていただろうと思い出し、リンは枕元に置いた水干の上着をひっつかむと手早く帯をしめ、下履きを短くたくし上げると猛ダッシュで部屋を飛び出した。向かうは、あの、帳場の管理人の部屋である。が、慣れない重心や勝手の違う手足の長さにバランスを崩し、すってんと転んでは長い髪を勢いよく後に跳ね上げて起き上がりまた走り出す。その勇ましい走りっぷりを目にしたかえる男が感嘆したのは、誰もが抱く気持ちであったのかもしれない。


「おまえが原因か――ッ!」
『東雲の間』にてハクが被害の余波を口にした瞬間、背後の襖が勢いよく開けられそんな怒声が飛び込んだ。一斉に向けられた視線の先には、小さな子供が仁王立ちしていた。長い黒髪、きつめの造作、そしてその口調に
「リンさん?!」
 と千尋は目を丸くした。その間にもリンとおぼしき幼女はずかずかと『東雲の間』に上がり込み、ハクの胸倉をむんずと掴みあげるとがくがくと揺さぶった。大人姿のハクであったが、座していた為に立っている幼女が胸倉を掴むのにちょうど良い高さだったのだ。
「待てっ私ではない!」
「おまえが原因以外になにがあるってんだっこんっの色ぼけ上司!!」
 関係ないだろうとハクは心中で叫ぶものの、がくがく頭を揺さぶられているのでどうにもならない。
「えぇっとぉリンさぁん?」
 状況がよく掴めないでいる千尋が、上座より恐る恐る声をかける。えぇとぉ、とりあえずリンさん、かわいいんですけどぉとの感想は飲み込んだ千尋であった。


「だからっ! 昨夜ハクサマが持ってた桃を食べたあと凄く眠くなって、それから先全然覚えてないんですよ。で、目が覚めたらこうなってまして」
 とりあえず客である笹姫の手前口調を改めて説明をしたリンであるが、それに対してハクが素早く
「勝手にそなたが一切れ持っていったものに対して私に責任があるとはなんたる言い様だ」
 とぶつぶつ呟き、隣に用意された座布団に座っていたリンから脇腹にパンチを食らっていた。
「どうせセンが酒かっくらって倒れたのもハクサマのせいなんだろうから、美味そうな桃の一切れや二切れや三切れくらいうだうだ言うなよな」
 だからそれも誤解だと思うものの、綺麗に入った脇腹パンチの為に必死で冷静な顔を作っているハクにはなにを言う余力もなかった。
「あぁまぁ、リンちゃんもこちらの住人だからねぇ。こうなるんだろうねぇ」
 桃の変転効果も個人差があるみたいねぇと笹姫は続ける。個人差、でこの事態を片付けられてはたまらないとふたりは胸中で思った。
 それにしても現在の『東雲の間』では、なんとも不思議な光景が繰り広げられている事になる。上座の片方は主である笹姫でありこれは問題ないのだが、もう片方はひらひらと着飾った千尋。彼女と対する下座には幼女姿のリン、そしてその隣、笹姫と対面する下座には青年姿のハクが座している。まともな格好をしているものが四人中ひとりとは、はっきり言えば変だ。
「ま、様子を見るしかないんじゃないでしょーかね」
 前回の千尋ちゃんと違って意識はきちんと保たれているんだし、そんなに支障はないんでしょ? と場違いと思われるほどににっこりと優しげな笑みを浮かべた笹姫。前回と違って、本来の自分を思い出したら姿も元に戻るわけではなさそうなので笑って誤魔化した、とは笹姫は絶対にばらしそうになかった。


 とにもかくにも、この事態を油屋の経営者に報告しないわけにはいかない。いくら原因が最重要最注意のお客様の仕業であろうとも。
 嫌々ながらともに昇降機に乗り込んだリンとハクは、辿りついた一天で湯婆婆に一緒くたに馬鹿笑いをされた。
「なんってカッコウだい、ふたりとも! ハデにやったもんだねぇ!」
 片方は青年、片方は幼女。しかもふたりとも、知る人ぞ知る名物帳場の管理人と名物小湯女だ。そのふたりがこんな変わり果てた姿で目の前にいると考えただけでおかしかった。
 あんまりな馬鹿笑いの程に、普段は冷静なハクもいささかむっときた。
「それでは湯婆婆様、このみっともない姿をお客様方へ見られぬよう、暫く私どもは表にでない方がよろしいかと存じますが?」
「なに言ってんだい、ハーク? こんな面白い見世物を奥にしまい込んでどうするってんだ」
 湯婆婆は馬鹿笑いを引っ込め、かわりに抜け目ない笑みをのせた。裏なら一枚ところか五枚も十枚もありそうな笑みだった。笹姫より託された文がくしゃくしゃと湯婆婆の手の中で皺をつくった。『良きに計らってください』なんて言葉は、湯婆婆の中で都合の良いように解釈されるしかない。
「せいぜいふたりともがんばって愛想ふりまくんだよ! いいね!!」


 リンっリンっ、そんなことしてないでお客様にこれを運んどくれよ! との女中の声をだかだかと足音立てて蹴散らしたリンは、小さな体に大きなデッキブラシを担ぎ、湯殿へと向かっていた。背には白い襷の蝶々がとまっている。いつぞやのちび千尋用に帳場の管理人があつらえたお仕着せが再利用されていた。
「ヤです! あたいの今日の仕事は湯殿掃除なんですから、お客様への品運びはしませんっ!」
「リン〜〜、どうせそんなちまい体じゃぁ満足に掃除なんてできやしないだろぅ? それよりもオオトリ様がお手玉を教えるって大騒ぎなんだよぅ」
 だからオレの今のみてくれはコンナだけどお手玉教えてもらうほど小さいコじゃないんだってのっ! とリンは胸中で叫ぶ。千尋が小さくなった時は意識まで幼かった為にお手玉を教えてもらう事や頭をなでまわされるのはただ楽しいだけであっただろうが、今回のリンは働いて自立している自尊心があった。無邪気にお手玉を教えてもらう気にはなれずにいた。この小さな見た目に再現されたいつぞやの幼女人気に、リンは心底辟易して心の中で叫び続けていた。まさか自分がこの騒ぎの中心に立つとは思ってもみなかった。
 湯婆婆に愛想をふりまけと言われてもできないものはできないんだーっとリンは胸中で叫び続けた。


 心底辟易しているものの、それをおくびにも出さないもうひとりが帳場にいた。言わずと知れた帳場の長である。
「こんな時に湯婆婆様がながの不在とは、いやはや」
 と、手ぬぐいで額の汗を拭っているのは父役。会議に出席する為に午後より油屋を留守にしている主がある意味恨めしいが、ここ最近なんだかんだと精力的に動き回っている湯婆婆を見ているとなんとも言えない。
「誠に、いい迷惑……」
 と言いかけて口を慌ててつぐんだのは兄役であった。このふたりは現在、仕事場に常とは違う姿で現われた管理人の姿を遠巻きにしてひそひそと語り合っていた。横目で管理人を窺ってみると、いつもと同じ表情で帳簿を繰っている。聞かれていなかったかとほっと息を吐き、ふたりはまたもやこそこそと会話を続ける。
「それにしてもあのハク様のお姿! 一体どうされたのだ」
「どうやら闇砕の姫君がなにやらしたとの事ですが。ほら、いつぞやセンがちまい子供になった、あの……」
「あぁ、今回はそれの逆なのか」
 胃がきりきり痛いなぁと父役は呟く。あの時買い足した胃薬、まだ残っているだろうか。
「……不機嫌だな」
「不機嫌ですな」
 暫く管理人の様子を眺めていたが、やはり所作の端々に不機嫌さがにじみ出ていた。微妙に紙をめくる指が雑だ。何年も上司として見てきたからこそわかる微妙な差だった。
上司の機嫌が悪いと職場の雰囲気もおのずと暗くなる。が、父役も兄役も管理人が不機嫌である理由がわかるだけに
「難儀だなぁ」
 との感想にとどめる。
 なにせこの管理人、ここに辿りつくまでに大小あわせて五室の座敷へと招かれ、客の相手をしてきたのだ。しかも、すべて女神である。相手がなにに興味を持ってハクを召したかは考えるまでもなく明白であった。
「ほぅ、あの童が長じればこのようになるのか」
 ほほほと五回も意味ありげに笑われては、いくらハクでもげんなり来るものがあった。
 そんなハクの胸中を慮って、部下ふたりはハクに言葉をかける事はしなかった。八つ当たりで仕事を言いつけられるのがごめんだったのも理由のひとつであったが。


 たしかにハクはいらいらしていた。
 湯婆婆が不在で、そんな時に我が身に降りかかった災難。そしてそれに付随した女神達の秋波に辟易しながらも、のらりくらりと言葉でかわす自分自身が心底嫌になった。
 場所が場所柄だけに、普段の姿が姿なだけに、その様な意味合いを持つ視線や言葉を向けられた事がなかったわけではない。それをかわす過程をも彼女達が楽しんでいるのだと知っているからこそ、その時は冷静に仕事だと割り切って対処できていた。けれども今回は、一時の、仮初めの大人の男として女神達はハクを認識している。対するハクも、一時の、仮初めの『男』として対峙しなければならなかった。例えそれが『遊び』でも。
 女神達が満足する言葉を選び選び口にする行為は、とても滑稽に思えた。『自分自身』がどこにもいないようで、『自分の言葉』など誰にも届いていないようで――それ以前に、ハクは自分が『自分の言葉』を口にしているのかもわからなくなっていた。女神達との会話で選んだ言葉は、意識せずともするりと口からでていたのだ。まるで、接客マニュアルをなぞらえているように。
 そんな事は気にするべき点ではないともハクはわかっていた。これは仕事であり、仕事に『私』など関係ないと理解している。今までもそのようにしており、それで問題があったわけではないのだから。けれども一度気になりだすと、どうにもそれに拘ってしまう。
 自分はここにいるのに、誰も『ハク』を見ていないのではないかと思ったら、ここ三週間ばかり胸に抱えていたもやもやが一段と暗い色になった気がした。


 ところ変わって、夕食時の『東雲の間』
 淡い光が室内を照らしている様や、どこからともなく雅やかな楽の音が聞こえてくる様は昨夜と同じ。笹姫と千尋が浴衣姿で料理をつついているのも同じであった。些細な差異と言えば、本日は笹姫が黒地に大胆な風車模様、黒紫の帯を締めている事や、千尋が赤地に格子柄椿模様、アイボリー色の帯をコーディネイトしている事か。そして大きな差異といえば、ふたりの前に並ぶ膳の料理が――昨日の純和風物ではなく、どうみても中華料理もどき、になっている点であろうか。あくまで『中華料理』ではなく、『もどき』と表現したくなる代物。
「がんばってるね、賄場も」
 その料理群を見て、笹姫がそう評す。『苦労している』の間違いなのではないかと千尋は思った。
「こんな点、好きよ。例えそれが拙くとも」
 がんばってるってのはよい事だ、と続ける笹姫を目の前にし、千尋はため息と一緒に海老チリもどきを飲み込んだ。
 そりゃぁ脱走者もでてくるだろう、こんなんじゃ。でも憎めないのだから不思議。

   【七】

 右を見て左を見て右を見て、こそこそこそこそ『東雲の間』から駆けて行く千尋の姿を、ハクは翌日の朝日の向こう側に見た。腰のところに大きな蝶々がとまっているのが、白い襷とすこしばかり違ってこれもまた可愛い後ろ姿だ。もちろん千尋はそんな後ろ姿をハクに見られているなんて知らず、朝の散歩へと行く為に小走りに油屋の廊下をかけていた。なにせ、その着飾った姿を他の人に見られないようにと気をつかっているのだから。
 それにしても、とハクは思う。あの服は一体どこから取り出されたのだろうかと。どう考えても、普段の千尋の趣味ではなかった。しかも服の色が、昨日も今日も
「黒」
 なのである。豪華なフリルのドレスではあるが、なんとも千尋にその色が一番似合うとは思い難かった。似合わないとはちっとも思わないところが帳場の管理人らしいところであったが。
 そんなことを考えながら、特別階の朝の見回り途中その廊下で突っ立って小さな後ろ姿を見送っていたハクは、『東雲の間』の襖に半分もたれかかるようにへばりついて自身を見上げている視線に気がつくのに数瞬遅れてしまった。寝起きでほどよく乱れた風車模様の浴衣姿でしどけなく襖に寄りかかっている様は、妙齢の女性であればそこはかとなく艶っぽいはずであるのだが……妙に色気が薄かった。
 なにやら異様な視線でハクを見上げている笹姫と視線がかち合い、なんとも言えない沈黙が双方の間におりた。
「可愛いでしょ、千尋ちゃん」
 もぉう着せ替え状態で楽しくって仕方ないのよーと、それでも襖にへばりつきつつのたまう笹姫はやはり変だ。と、同時に、やはりあの服の出所は笹姫なのかと合点が行くハク。
「服の様式にはとやかくは言いませんが……」
 あれはあれで良いと思う。が
「なぜに黒なのですか?」
 思わずそれを聞きたくなる。それに対してすかさず
「なんで?」
 と問いがかえってきたのだが、やはりそこはかとなく調子が変だ。
「千尋にはもっとこう……萌黄や空色や桃色など柔らかな色が似合うと思うのです」
「えぇー? だって黒は女をせくしーにするのよ! せくしーな千尋ちゃんをハクちゃんは見たくないと」
 私以外の男にせくしーを振り撒いてどうさせるつもりなんだこの姫君は。だったら尚更黒を千尋に着せるわけにはいかない、と場所もわきまえずに畳み込もうとしたハクは、次の笹姫の言葉に口を閉じた。
「そーか、ハクちゃんの千尋ちゃんへのイメージって、春色なんだねぇ」
 ほやほやあわあわ春ランマン♪ と襖にへばりついたままの笹姫は、やけに悪い顔色と抑揚のない声で節をつけて歌った。
 二日酔いなら大人しく寝ていて下さいとハクは思った。そんな、わざわざ布団から這いずって出てこなくても良いのに。いっそ永遠に寝ていて下さい。


 時を同じくした賄場では、朝餉の下準備をしながら関係者一同による自主的会議が行われていた。ぐおんぐおんと低音を響かせる換気扇の下に集まって額を寄せ合っている。
「昨夜はなんとか中華料理をお出しして乗り切ったが今夜はどうする?!」
「まだお客様にお出しできるほどの外つ國料理なぞありゃせんぞ」
 ひそひそひそひそ。その男共の輪の内側には、たくさんの料理本が山を築いていた。『簡単にできる中華』をはじめ『はじめてのフレンチ』『イタリア料理を家庭で食べよう!』『××さんの韓国料理(丼編)』等々、見るだけなら楽しく、自身が食べるだけなら簡単そうなレシピ本であった。が、提供する相手が、あの、闇砕の姫君となると中途半端なものは出せない。先代の調理長から伝えられた嘘か真かわからない話があるかぎり。
「それよりもなによりも、あの姫君が長期滞在とかするようになったら俺はこの職場やめるぞ」
 蛙男のひとりがうめくようにそう言った。
「僻地の民族料理まで流されていくようになったら、俺はなにを今まで学んできたのかわからんようになる」
 その言葉に、賄場全体にため息が充満した。ぐおんぐおんと換気扇がため息を外へと押し出した。

   ◆◇◆

「坊もその桃食べてみたいぞ」
 油屋最上階の一室で坊がそう言ったのは、リンとハクが変転した翌日の朝であった。
 暇になった千尋がひらひらのドレス姿を誰にも見られまいとしてこそこそ遊びに来た坊の部屋で、常とは違う階下の雰囲気について尋ねられた結果であった。
「坊も大きくなりたいんだぞ。おんもに出て遊びたいんだぞ」
 町や川や草原に行くんだぞ! と握りこぶしをつくり力説する坊の様子を可愛い弟のダダに感じながらも、千尋は複雑な表情で笑った。
 坊が『大きくなる』とは、このままのサイズで年経た姿となるのだろうか、それとも今のハクと同じくらいの背格好になるのだろうか。前者なら油屋内を歩けはしないだろうと思うし、後者なら年を重ねてサイズが小さくなる不条理が待ち構えている。不思議のこの町ではそれすらも不思議ではないかもしれないが。
 それに、桃を食べてリンのように『小さくなる』または『幼くなる』可能性もないとは言いきれない。現在赤ん坊姿の坊がそうなった場合――一体どうなるのか考えるだけでも恐ろしく、坊に対して肯定も否定もできない千尋であったのだが
「大きくなって……バーバのお仕事手伝いたいんだぞ」
 との坊の言葉に、表情を改めた。
「だってこの頃のバーバ、すごくタイヘンそうなんだぞ。なんか疲れてるみたいだぞ」
 坊はちゃんとわかるんだぞっと胸をそっくりかえす。
 夜遅くまで書き物をして、外回りの仕事も多くなって。でも坊の相手もちゃんとしてくれて。だから坊、わがまま言わないんだぞと続けた。寂しい時もあるけれど。
「坊は優しいね」
 千尋はなぜだか泣きたいような気持ちになって、それでも坊に笑みを向けた。
 子供なのに――子供だからこそ相手をきちんと見、純粋に心配をしている。坊はとても優しかった。

   ◆◇◆

 本当の自分と言うものを、一体どれだけの人がきちんと知っているのだろう。
 無意識に考え、無意識に振舞っているのが真の意味での『本当の自分』なのだろうか。頭で一度考え、それから行動し発言しているのが『本当の自分』なのだろうか。それは『理想』とせめぎあっている『自分』なのだろうか、それとも『理想』そのものなのだろうか。『理想』は他者にとっての『おのれ』とどう違うのだろうか。『理想』も演じ続ければいつか『本当』になりはしないのか。
 他者の目を気にしだしたら、言葉ひとつとってもそれが『本当の自分』から出た言葉なのか疑ってしまう。
 ハクはそんな事を考えながら、笹姫を見捨てて朝の見回りを続けていた。


 心配だから見ているのか。見ていて異変に気がついたから心配になったのか。
 どっちが先なのだろうかと、坊の部屋から戻りがてら庭へと出て散歩をしつつ千尋は思う。
『心配』なんて、ハクには必要がなかったのだろうか。だって、なんでもできるハクなんだもの、わたしなんて子供に心配されるなんてやっぱりヤだったのかも、と千尋は考える。
「でも心配だもん」
 なんにもできないと知っているけれど、話を聞いたり、ちょっとでもお手伝いできたらなと思っただけなのだ、坊のように。なんにもできない自分を責めたくないから、せめてなにか行動を起こそうとした事に対して肯定をして欲しかっただけでもあったけれど。
「……こんな気持ちで言ってたの、きっとハクにはばれてたんだ」
 つらつらと考えてようやく辿りついたずるい自分の本心のかけらに、きっとハクは気がついていたからこそ『関係ない』と言い放ったのだと千尋は思った。そうでなければ、あのハクがそんな物言いをするとは思えなかったからだ。
「……違う」
 季節感がばらばらな油屋の庭で立ち止まり、千尋はぶんぶんと頭を振った。自分はなにを見ていたのだろう、ハクをなんだと思っていたのだろう。ハクは、ただ優しくて、冷静で、大人なだけの性格ではないと知ったのに。
「なに見てるの、千尋の馬鹿っ!」
 不覚にも涙がでてきて、千尋はそれを手の甲で乱暴にこすり上げた。

   【八】

「なに見てるの、千尋の馬鹿っ!」
 との声が見回っている庭の奥から聞こえて、ハクは眉をひそめた。その声は『千尋』の名を出しながらも、間違えようがない程に千尋自身の声だったからだ。一体どうしたのだろう、馬鹿とは穏やかではない。
 ハクは足をはやめて奥へと急いだ。そこでハクが見たものは、ごしごしと乱暴に目元をこすっている千尋の姿であった。あちらの世界から千尋が着てくる普段着とも、油屋の水干とも全く趣きの違う可愛らしいドレスに身を包んでいる彼女は、意地になったように手を動かしている。
「千尋、やめなさい!」
 声をかけるのももどかしく、ハクは千尋の両腕を掴んで引き下ろした。もう慣れたとは言え勝手の違う大人の手の平では千尋の細い腕を掴むのにも加減がいる、とハクは頭の隅に残っていた冷静な部分で考える。千尋の手首はこんなにも細かったのかと思い知らされたが、目の前に晒された、赤くなった千尋の顔の方がもっとショックだった。目は充血しているし、頬や目元はこすれて赤くなっている。
「千尋、肌や目を傷めるから、そんな事をしては駄目だ」
「関係ないんだったら、心配なんてしてくれなくていいもん!」
 身長差がある為に前屈みになりながらのハクのその言葉に、千尋はキッと眼差しに力を込めて睨むように言葉を放った。みっともない姿やみっともない顔を見られているとは微塵も考えはしていない。
 ハクは、その唐突な千尋の言葉に目を丸くした。次の語を繋げられずに、間抜けにも口をぱくぱくとする。
「関係なくなんてないでしょ? わたし、ハクの事、好きよ? ハクだってわたしを心配してくれるんでしょ、だったら関係ないなんて言わないでよ!」
 心配くらいさせてくれたっていいじゃないの馬鹿ぁ――っと千尋は堪えきれずにぼろぼろと涙を零し始めた。両腕をハクにとられたままなので、えぐえぐとしゃくりあげるのがいつもより苦しい。ハクはと言えば、両手を離すのも忘れておろおろとうろたえていた。
「あの……千尋??」
「わたしはお子様だしっハクのお仕事の足も引っ張るしっ! 愚痴を聞いてもきっとチンプンカンプンだしっ! ハクがわたしに心配かけないようにってわざと冷たく言ったのだとしてもわかんないほどに馬鹿だもんっ!」
 だけどだけど、だったら心配だって思うわたしの心や、お手伝いしたいってわたしの心はダメなものなの? 
「それを伝えちゃいけないのが『大人』になる事なんだったら、わたし、大人にならなくってもいい!」
『本当の気持ち』を覆い隠して心の中だけで心配する自分や、『悩みなんてありません』なんて顔をするハクがいて当り障りのない毎日を送るのが『大人の世界』だとしたら、『大人』になるのは怖いと千尋は思ったのだ。
「あぁ……違うんだ、千尋。違う……」
 ぼろぼろぼろぼろ、くしゃくしゃな顔で泣く千尋に戸惑いながらも、ハクはそれだけを喘ぐように口にした。
「本当の気持ちを覆い隠したのは、私が最初なんだ。千尋、私が悪いんだよ」
 こすれた肌に涙が伝ってひりひりと痛そうに感じ、ハクは懐から懐紙を取り出そうとして、いまだ自分が千尋の腕を捕まえていた事にようやく気がつき慌てて手を離した。千尋の細い手首にはうっすらと赤い跡形がついている。
「私が最初なんだよ。千尋の言葉は――とても嬉しかったから」
 こんな自分を気にかけて見ていてくれて、些細な雰囲気に心配してくれて、言葉までかけてくれた千尋の心が嬉しくて――けれども、嬉しいと感じた自分は『本当の自分』なのだろうかと思ったら、素直に嬉しいと言えないであんな言葉を向けてしまった。他者の目を気にしている自分がどこかにいやしないかと思ったら――
「千尋、全部私が悪いんだよ。自分に……自信がなかったから」
 ハクは再び千尋の手を捕まえ、ゆっくりと語り出した。込められた力が緩いのは、心が落ち着いた証拠なのか。
「誰かがね、私の事を話しているのを聞いてしまったんだ。私は、まるで、冷たい人形のようだと言っていたんだ」
 話がよく理解できずに、千尋は真っ赤な目のままきょとんとした表情になった。涙は、ハクの言葉の流れに流れていつのまにかとまっていた。
「問われれば型通りの答えしか返さない、精密機械だと。収録されている言葉以外は知らない辞書だと」
 そんな陰口なぞ気にする価値もないとわかっていても、たしかにそう思う者がいるのだと思ったら、ハクの心は凍えてしまった。
「融通のきかない堅物も個性かもしれないけれど、その話を聞いてしまったら……私は、それしか持っていないのではないかと思ってしまって」
 だから『本当の自分』を捜した。心を裏返してみればどこかに『本当の自分』がいるのではないかと思った。いらいらした。どれが『本当の自分』なのかわからなくなった。そうしているうちに、何気なく口にする言葉ひとつとっても、『常識』や『知識』や『智恵』以外の『自分の言葉』を使っているのかと疑ってしまった。
 そして、『仕事』以外に、自分がなにかを誇って成し語れる物はあるのだろうかと……そう思ったら、自分にはなにもない気がして。なんと薄っぺらい、魅力のない存在なのだろうかと思い知らされた。
 今回の姿が変わってからの周囲の反応が変わった事も、ハクにはショックだった。私は私なのに。姿形が変わろうと、本質までも変わったわけではないのに。そう思いながらも、姿にあわせた、周囲が期待しているであろう振る舞いをしてしまう自分が嫌だった。
 一体、『自分』はどこにいるのだろう? 『私』とはなになのだろう?
 ハクは『自分』を見失ってしまったのだと、千尋の手を捕らえながら穏やかに語った。それすらも、なにかの裏返しなのかもしれないけれど。
「私が持っていた『私』はどこにいってしまったのだろう。ただ私は『自分の言葉』を話したいだけなのに。どこに行ってしまったのだろう」
 微かに込められた力は、感情の発露なのか。千尋はその震えるハクの両手をじっと見て、それからふっと顔を上げた。白い白いハクの顔。言葉の色とは裏腹なその白に、千尋はふわりと微笑んだ。
「ハクはここにいるじゃない。ハクは冷たくなんか、ないよ?」
 だってハク、笹姫様の所ではあんなに怒ってたじゃない、と千尋は続けた。
「わたし、あんなに怒ったハク、見たことないよ? 笹姫様は神様で、お客様で、今はわたしの保護者なのに、全部ひっくるめて怒ってたじゃない」
 それになにより、ハクは優しいのに。冷たいお人形じゃないのに。どうしてそんなコトで悩んでいるのかわたしにはわからないなぁと千尋は笑った。くしゃくしゃな笑顔だった。
「きっとお仕事で疲れてたんだねぇ。そんなコトで悩んでいたなんて」
 悩んだり怒ったり、人の評価を気にしたり、心と反対の事を言ったり。そして優しかったり。
 落ち込んで、自分を卑下する材料を山と探し出して更に落ち込んで。『魅力がない』とは、あまりにも自分を知らない台詞だと千尋は思う。
「ちゃんと、ハク、たくさんいるじゃない。誰も、たったひとつが『本当』だなんて言ってないよ。全部あわせてハクだもの」
 きっとその人は、ハクをよく知らないからそんなコトを言ったんだねぇ。本当はハクのコトを知りたいと思っているのかもしれないよと千尋は笑う。
「本当に……いる? 私は」
「うん。わたしは知ってるよ」
 だから関係ないなんてもう言わないでね、と千尋は念を押した。
「あの日、わたし泣いちゃったんだからね。自分が自分で嫌いになりそうになったんだから」
 こんな自分の為に泣いたり笑ったり、怒ったり。ハクはその千尋の気持ちが、今回こそ本当に素直に嬉しく感じられて――笑った。屈託のない、つくりものではない笑みがふわりと浮かぶ。心に花が咲いたかのように綺麗な――千尋もはじめてみるような。けれどもどこか、泣きそうな、それ。
 いつぞやのように額を重ね合わせる。大人の額と子供の額。まるで『嬉しい』を表現するのには言葉では足りないとばかりにハクは額を千尋のそれに重ねていた。いつかの夜にはただ黙って見つめるしかできなかった額に触れる。
「そなたが私をちゃんと見ていてくれるから――もう言わない」
 ――誰がなんと言おうと、ただひとりでも自分を見てくれているから、もう、いい。
 千尋は思わず頬をほんのりと赤く染めてうつむいてしまった。よくよく考えてみれば、いつもとは違う青年姿のハクに顔を覗き込まれ、ずっと両手は繋がれている。まわりは花の群、空は抜けるように蒼い。胸のあたりが色々な意味でざわざわした。
「ハク……ハク、あのね……えぇっ?!」
 ごにょごにょと、ハクの知らない事実を告げようと顔を上げた千尋は、言葉尻を困惑の混じった悲鳴にかえた。右肩にとんっと重みを感じたかと思うと地面へと押し倒されたのだ。
「ハクっハクっ! 起きて〜〜ッ!!」
 うんしょうんしょとハクの肩を押すも、重くてびくともしない。
「ちょーっとハクーッ! 重い〜〜!」
 父役さんや兄役さんが『ハク様の様子がなにやら変だからちょっと様子をみてくれんか』とわざわざ頼みにきたんだよ、たくさんの人がちゃんとハクを見ているんだよと伝えようとしていた言葉は、すべてが、自身に覆い被さるようにしてすーすーと寝息をたてるハクへの呼びかけとなって消えてしまった千尋。
 空は無駄なほどに高く、透明に煌いていた朝の出来事であった。

   【九】

「なにわともあれ、めでたい」
『東雲の間』の笹姫が、扇子をぱちりと音鳴らしそう言った。
「無事に元に戻って良かった良かった」
『東雲の間』上座には、笹姫と千尋が。下座には所用より帰還した湯婆婆、そして少年姿のハクが座していた。朝の庭でいきなり入睡したハクは、それから三時間後に目覚めた時には元の姿に戻っていたのだ。よくよく考えてみれば、ハクは人と竜の二つ身を持ち自在に変転する存在である。桃の効果を中和するのははやいはずであった。それらを指して『めでたい』と言った笹姫ではあったが、視線をハクに向けようともしていない。目を合わせればなにをくどくど言われるかわかったもんじゃない、が笹姫の本心であった。
 あぁ良かった、元に戻って。
 心の中で安堵の息を吐いたなど、この竜の少年に知られたらどうなるやら。ただでさえ千尋をここに連れてくるなどの逆鱗に触れるすれすれ行為をやっているのだから、これから先は立ち入るのが難しい領域だと笹姫は思う。
「この度はご無礼の数々、お許し下さい」
 ととりあえず、口先だけで非礼を詫び頭を下げるハクの様子もなにやら恐い。
「うーん、私の方がなにやら、いろいろ、迷惑かけたからねぇ。しばらくこちらには来ないようにするよ」
 今度ここの玄関口に立ったらまっさきに塩をまかれそうだから、誰にとは言わないけれど、と笹姫は心の中で呟いた。油屋、気に入っていたから残念だけど、くすん。いいもんいいもん、今度は千尋ちゃんが夏休みの時にでもリベンジかけるから。千尋ちゃんを『東雲の間』専属にしてもらおうっと。
 と心の中で泣きつつもしつこく不穏な計画を立てている笹姫、そんな事も知らずに心の中で喝采をあげるハクを押しのけて、湯婆婆がずいっと身を乗り出した。
「まぁぁぁ笹姫様、そんなお気使いは無用でございますよ! どうぞ、末永くお越し下さいませ!」
 いつでも歓迎いたします、と耳まで裂けるような笑顔の湯婆婆。ハクは胸中で舌打ちをし、千尋は複雑な表情で笑った。
「とりあえず今回はそろそろお暇します。千尋ちゃんも、お仕事でもないのに油屋にいるのはちょっと大変そうだから」
 実はかなり緊張していたでしょうと傍らに視線を向ける。あはははと乾いた笑いを千尋は浮かべた。緊張しているのは、この、笹姫が毎日着せるふりふりなドレスのせいなんですけどぉぉぉぉっ! と心の中で絶叫する千尋にいつかこの神は気づいてくれるのだろうか。
 やはり笹姫は微塵も気がつかず、あぁそうだ、と唐突に手をうった。
「湯婆婆殿、調理場に桃をひとつ置きっぱなしにしてあるのだけれど、人をやって持ってきてもらえません?」
 食糧貯蔵庫の端に入れておいたのだけれど、と続けた笹姫の言葉に、湯婆婆は突然凍りついた。分厚い化粧の上からもはっきりとわかるほどに、蒼白になっている。
「あぁぁぁあの、笹姫様、貯蔵庫の桃とは、例の、今回の、桃なのですか??」
「えぇ、そう。結局残りを片付ける機会を逃してしまったものだから。誰かが間違えて食べてしまってはいけないので、こちらで処分します」
 そんな笹姫の説明も耳に入っていない湯婆婆の様子に、その場にいた三人は首を傾げた。
 と、その瞬間、いつぞやと同じように襖が勢いよく開き、髪の長い幼女が転がり込んできた。
「湯婆婆様! 坊が大変なコトになってます!」
 あぁそう言えばリンちゃんの変転は個人差の為にまだ戻っていなかったのだっけ、と笹姫が虚脱する。湯婆婆はと言えば、虚脱を通り越して半狂乱だった。
「あぁぁぁぁっ! 坊が桃を食べたいと言うからあの桃をあげたのにぃぃぃぃぃっ!」
 坊ぉぉぉぉぉぉ〜〜!! と叫んだまま、湯婆婆は経営者にあるまじき態度で客をほったらかして昇降機へと急ぐのであった。


 その時の千尋とハクは。
 顔を見合わせて――笑っていた。もうもう、どこまでも不思議なこの町で起きるすべてが不思議に彩られていて、笑うしかなかった。

 ハクは、姿が変わっても心や態度がまったく変わらないリンの様子に笑い。
 千尋は、これから繰り広げられるだろう油屋のてんやわんやを思い描いて笑う。

   ◆◇◆

 いつもと同じ油屋。いつもと同じ人々。
 けれどもいつでもちょっと違う?
 騒動はいつでも誰かが引き起こしている。
 振り出しに戻っているようで、昨日とは確実に違う今日が来る。
 それがとても嬉しくて、人の子と竜の子はにっこりと笑った。