野生の楽園 【3】





「断じてわたしじゃな〜〜いっ!」
 どこかから控えめながらも雅やかな楽曲が流れてくる、青々とした畳が敷き詰められた、品の良い調度品で纏め上げられた広い一室でそう叫んだ黒髪の女神を一斉に胡乱な目つきで見つめたのは、三組の視線+きょとんとした二組。
「だからっ! わたしじゃないの〜〜ぉ!!」
 握り拳を作って至極真面目な表情で力説しているが、長い長い黒髪を首の後ろでふたつに分け、止め具に黒紫のふわふわしたボンボンをつけているトコロで妙に胡散臭くていけない。黒地に白いウサギ柄の浴衣、黒と紫のグラデーションのへこ帯をしめた、外見だけなら万年女子高生。けれどもこの女神が女子高生なんて枠組みで収まっている存在でもないと、そこに揃っていた全員が知っていた。ボンボンにウサギ柄、へこ帯で若作りしたって無駄だよ、って感じである。
「笹姫サマ……ここにいる全員、ぜんっぜん納得してないんですけど」
 半分睨みつける様にしてしらっと言いきったのは、小湯女のリンである。
「なんせ、昨日笹姫サマがハクサマになんか言っているの見てましたからねぇ」
 不信不信不信感いっぱいのフィルターで見てしまうのが習慣になっているからか、笹姫のすることなすことが胡乱で仕方がない。ここ数年、結構大人しくしていたとは言え、前科なら山とありすぎた。なにせ、自分もそれに巻き込まれた口であるのだし。身体が小さくなってオオトリサマやオシラサマ達にまとわれつかれたあの悪夢の数日間。
 リンはその胡乱な目つきのまま、広い部屋の片隅を見た。そこには胡乱な三組の視線のうちひとつと、きょとん目二組が揃っている。その一組の視線の持ち主――釜爺の姿は、有りて無い特別階『東雲の間』で見るにはとても違和感があるのでなんとなく視線がそちらに流れてしまいもする。もちろん、その長い六本の腕でわたわたわたわたきゃっきゃきゃっきゃとはしゃぎながら脱走しようとする子供ふたりを掴まえている姿とその子供の方がもっと違和感が強いのであるが。
「あれ、が笹姫サマのせいではないとどうして言いきれるんです?」
 そうだそうだと頷くのは、釜爺と、リンの隣に座った経営者である。どうしても笹姫から視線が流れてしまうらしく、釜爺の方を向いていたが。湯屋『油屋』の女主人の視線の先にはおかっぱの子供と茶色い髪をちょんっと結わえた子供が団子になっていた。
「あたしゃあんなガキを弟子にした覚えはないんですよ……」
 思わず語尾もかすれてしまう。大笑いして良いのやら嘆き哀しんで良いのやら判別つかないのだ。なにせ、あれの片方が自分の片腕とも言える弟子の変わり果てた姿なのだから。あぁ今日からの帳場は荒れるねぇ……思わず遠い目になってしまった魔女であった。


 ことの起こりはよくわかっていない。なにせ、今朝起きてみればリンの隣からくすんくすんと泣き声が聞こえてちっちゃくなった人間の娘を発見したのであるし、いつぞやのようにハクを呼んできてもらったらその先にもちっちゃくなった帳場の管理人がいて。示し合わせて小さくなったようなふたりを目の前に並べてから、リンはその足で『東雲の間』に乗り込んだのである。その様子は数年前の帳場の管理人と同じ勢いで。
「ササヒメサマッ!」
 スパンッと開け放した襖の向こうの、いつもと同じ二日酔いに苦しむ女神の姿を見つけて、リンは脱力したものである。見た目だけなら人畜無害、しかしその中身は歩く大騒動歩く環境破壊。ここ数年は小騒動ですんでいたので(それでも騒動は起こしているのであるが)油断していたとしか言い様が無い。
「一体あのバカになに吹き込んだんですか?!」
 脱力状況からなんとか気力をかき集めて一言聞くのが精一杯であった。そして冒頭の笹姫の叫びへと戻るのである。
「う〜ん、しっかりお子様だねぇ」
 とりあえずわけはわからないながらも、笹姫は状況を判断するべく、部屋の隅に囚われの身の上であるお子様達をじっくりと真面目な表情で眺めやった。
 片方はおかっぱの白い肌をした男の子で、白い水干の上を巻きつけて帯で留めている状態。もう片方はそれよりはもう少しましな大きさの桃色水干を上下で身につけた女の子であったが、体の大きさよりはあきらかに水干の方が大きく見えた。枯れ枝のように細い手足の先には、それでも幼児らしいふくふくした指がついていて、なんとも愛らしい。
 真剣な表情で裏に表にと子供達ふたりを見ていた笹姫であったが、案の定と言うかヤッパリと言うか、この神に真剣さの持続を望むのは無理なのか、ふにゃっと笑うとおもむろに手を上げる。
「や〜ん、ほっぺふくふく〜〜」
 女の子――リンの妹分であるところの人間の娘、千尋の頬をふにふにと指先で突つきだした。千尋はやぁんと鳴きながら小さくイヤイヤと首を振る。その光景を隣のおかっぱ――もとい、帳場の管理人であるハクがじぃっと動きをとめて見ていた。
「ハクちゃんのほっぺもふくふく??」
 完全に面白がってやがる、とはリンの胸中の声だ。でも、とりあえず面白そうなので自分も寄ってみることにする。千尋の次に生贄となったハクも、むーと唸りながら笹姫のいたずらから逃げようとしているが、その動きは姿そのままにどこかとろくさい。リンは面白がって指を伸ばしてみる。
 と、ハクはじとっとした視線でリンを見上げてから、おもむろに口をあけてリンの指にぱくりとくいついた。
「あ! なにすんだテメェ!!」
 振り解こうにもびくともしないハク。さながらスッポン。しかし周囲で見ている分には嫌な光景であるのには違いない。
広い室内には嫌な沈黙と、リンの罵詈雑言だけが響いていた。
「と……とりあえず、この格好どうします?」
 なんとかちびハクから指を取り返したリンが、いつぞやと同じ質問をあげた。
 もうもう子供用の衣服を捜すなんて無駄な努力はあれでこりたのでしないが、よく考えたらあの時の打開策は使えないではないか。なにせ、帳場の管理人自体がちびっこくなっているのだし。ハクのお針子ちくちく姿なんて別に見たくもなんともないが、こうなるとどうすればよいのやら。
「別にいいじゃないか。センはとりあえず前のが残っててそれでいいだろうし」
 なんとなくまだ流れがちな湯婆婆の視線の先には、釜爺の膝に背中をもたれさせ、両足を投げ出して座っているちび千尋の姿が。なにやら真剣な顔つきでまじまじとなにかを見ているのだが、それは自分の両手の平を見つめているだけであった。一体ソコになにがあるのだと問いただしたい気分になる湯婆婆であった。その隣に同じように座り込んでいるハクも千尋の手の中を真剣に覗きこんでいる。そんな変な行動をしているちびっこどもではあるが、以前の水干の上を巻きつけただけの状態よりは外見は格段にいいのだし、ハクに至っては――
「腹掛けでも着せときゃいいんだよ。男なんだし」
 である。
「竜なんだから風邪をひくわけでもなし怪我するわけでもなし。ガキのケツなんて見えてても誰も見向きしやしないし、金太郎みたいでいいじゃないか」
 と口にしたところで、なにやらあたしの坊と同じ格好じゃないかと気がついて湯婆婆は顔を歪めた。あたしのかわいい坊とペアルック、やめとくれ冗談じゃない、速攻でこのがきんちょどもの格好をなんとかせねばなるまい。それでもなにやら腹が立つ。以前センがちっこくなった時は、なんだかんだと動きまわれる年で、多少なり売上に貢献したのも事実だ。けれども今回目の前にいる子供達は、それよりも更に体が小さい。ためしに
「年は幾つだい?」
 と聞けば、なにやら恥ずかしがってもじもじくねくねと身体をゆすってからようやく
「さんしゃい」
 と答えたのだが、同時に示した右手の指はニ本しか立っていない。まったくアテにならない、売上に貢献どころの話ではない、それなのになんでその穀潰しの着物の心配なんぞしなきゃならないんだ、と湯婆婆は心の中に冷たいものが吹きつけるのを感じたのであった。
 とにもかくにもちびっこの服である、とリンは気を取りなおしてもう一度提示した。問題はまだまだ山とあるだろうが、とりあえずは。
 と、暫くだんまりを決め込んでいた上座の笹姫がなにやらにっこりと笑っている。普通っぽい普通の笑いであるのだが、リンはそれを目撃して背筋に冷たいものが走るのを感じた。なんだ? 普通の普通の笑みであるのに。
「それに関しては大丈夫! 実は……」
 笹姫が普通の笑顔でどこやら知れぬ場所から普通に取り出したのは、なぜか白と桃色の水干であった。しかも、ちびちびサイズ。リンは『それをどこから出したどこから!!』と問いただしたいのを押し殺して部屋の片隅と女神の手の品を見比べて、新たな問いがリンの胸の内に湧きあがらせてしまった。
「なんで今のこいつらにぴったりな水干がちょうどあるんですかッ!」
 絶対こいつが犯人だ! と言わんばかりの剣幕でリンは上座に向かって吠えた。なぜなら笹姫が掲げているそれらは、今のおこちゃまサイズのふたりにぴったり合うような大きさだったからである。この際『いつもどこから私物品を湧かしているのだろう??』との油屋従業員共通の謎よりもそちらの方を解明するのが先であると思われるのだ。
「えぇ? ハクちゃんがずーと前にお裁縫上手だったの見てわたしもやってみただけなの。でね、大きいのはやっぱりムズカシイから小さいのに……しただけ……なんだけど??」
 その成果を持ってきただけなんだけど?? 言葉を続ければ続けただけ胡散臭いのはなぜだろうか。そもそも白と桃色の水干である必要はないと思うのだ。ますます持って疑いが濃くなるだけであった。
「ま、ま、リン、とりあえずありがたくそれを着せてやれ。このままじゃハクはともかくセンが可哀想だ」
 じっと手を見ているのにもあきたのか、今度は水干の裾をいじいじとしている。どうやら丈が長いのが気になるらしい。いじいじいじいじ、細っこいけれどふくふくぷにぷにした子供の手でいじくっている。それを見たハクもなにやら自分の水干の裾をいじりだした。それにしてもなんなんだろう、このさっきからのハクの様子は。なにやら真似っ子ばかりであったり、気味悪く沈黙してぼーとしたり。子供らしいやかましさはあるもののどこかおっとりのんびり大人しい千尋よりも更に静かである。そう言えば声を聞いた記憶がない。千尋は日本語のできそこないどころか多国籍語ちゃんぽん、果てはカタカナ表記のできないような言葉を意味もなくわちゃわちゃとしゃべくっていたが(たまに片言の日本語をしゃべるので意思の疎通はできる)、ハクはそれすらもしておらずじっとしている。よく言えばじっくりと周囲を観察している、悪く言えばだんまりしていて気味が悪い。
「それにしてもハク、なんか変じゃないですか?」
 裾をいじくっていたかと思うと、その裾にかぷりと噛みついた。そしてそのままこてんっと横に倒れてじーと動かない。一体なにがしたいのだろう? と言うか、普段のすましたハクから考えるとおかしすぎていけないリンであった。姿形と中身が幼い、との事実をさっぴいて考えても笑える光景。
「竜の幼体の実態は成体よりも謎が多いから、これは幼体独特の行動かもしれん。もしかしたらわしらは今貴重な体験をしているのかもしれんなぁ」
 や、そんな迷惑でしかない貴重な体験、別にしたくないし。竜の研究学者目指すわけでも、竜と結婚して子育てするわけでもなし。釜爺の豆知識を聞いた後でそう心の中で突っ込んだ湯婆婆とリンであった。
「あ、水干もいいけどこっちもおすすめなんだよねvv」
『東雲の間』に存在する六人中二人が心の中で寒い突っ込みを入れるのと同時に、笹姫がまたしてもなにやらをどこかから取り出した。普通の普通の普通の笑顔のままである。いっぺんに胡乱な目つきに変わってしまった三組の視線の先には、フリフリレースが裾いっぱい飾られた幼児用の黒いワンピースドレスと、赤い蝶ネクタイもかっこいい幼児用の黒いスーツひと揃えが。どうにもこうにも『ピアノの発表会にでも出るのか』と問い返したい代物であったが。なぜにピカピカに磨き上げたエナメルの靴まで揃っているのだ靴下付きで、と突っ込みたい。とても大真面目に突っ込みたい。
「って言いますか、なんでそれもこいつらにあつらえたような大きさなんですか……?」
 もう怒鳴る気力も萎えると言うものだ。絶対犯人はこの昼行灯姫君だと決めつけたリン。言い訳無用である。
「え? だからぁ、水干が上手に出来たから今度は豪華に本格的にしてみようと思って……」
 男の子用のスーツ生地はイタリアから、ドレスのレースはフランスからネット通販で仕入れたの♪ とか嬉しげに言われてもちっとも嬉しくない三人であった。イタリアがどうした、フランスがどうした、との感想しか出てこない。
「いいです、水干で充分です。ありがとうございますっ」
 語尾がなにやらトゲトゲしてきたリンであった。
 とにもかくにも別室にお子様ふたりを連れて行き着替えさせることにしたリンの後ろ姿を見送ってから、湯婆婆は大仰にため息をついた。なにやら千尋がここに来てからというもの、『油屋はじまって以来』と頭につく出来事が多い気がする。やはり人間の娘は疫病神だと思うのと同時にもう看板娘のひとりになってしまっている現実は変えようもないのだしあぁため息。そう言えばあの娘がこっちとあっちを行き来して『あるばいたー』とか言うのをし始めてから、もう五年が経つのだ、早いものである。なにやら今現在の問題を忘れて過去の世界に逃げ込もうとする湯婆婆であった。
「着物はなんとかなっても、ほれ、またああなった原因を突き止めんとどうしようもないぞい」
 ハクはまぁ数日すれば戻るだろうが、千尋の場合は自力でなんとかなるものでもないだろう。『あるばいと期間』とやらが終わるのも明後日に迫っているのであるし、千尋が向こうに帰らないのも、ましてやこのままの姿で帰すわけにもいかないのであるし。なんとなく今度は笹姫の方を見てしまうふたり。
「だからわたしじゃなーいーっ」
 ちょうどあうサイズの着物を持っていたのも偶然なのーっ! と笹姫がまたしても喚いているが、リンと同じく犯人は笹姫だと決めつけているふたりには無駄な主張であった。皆していじめるーとかしくしく肩を震わせて泣き真似しても痛くも痒くもない、なにせ相手がこの姫であるから尚更。ある意味達観したふたりは明後日の方向を向いて
『本当なら今頃は蒲団引っかぶって寝ているはずなのに』
『本当なら今頃は根城についてるはずなのに』
 それぞれ思いつつ、笹姫が泣き真似に飽きるのを待ったのであった。


 おっとりぼんやりしていながらもお着替えはやはり嫌なのか、小さな手を振り回しぽてぽてとした足取りでいやんいやんと逃げ回る千尋になんとかきちんとサイズのあった水干を着せ終えたリンがようやく『東雲の間』へと戻ってきた。着替えが終わったので逆にご機嫌になって不安定なステップを踏みつつフラフラと進む千尋を先頭に、千尋を追い込むようにしてリンが続き、その後ろに真似っ子のハクが千尋以上に不器用なステップで続いている。ちなみにこちらのお着替えをリンは手伝う気などあまりなかったが、じぃっと千尋のお着替えを見ていたハクは目の前に置かれた白い水干と千尋を何度も見比べて理解したらしくみずから着替えを済ませてしまった。竜の幼体恐るべし。ぼんやりしているのか理解がはやいのかよくわからないリンであった。それ以前に女の着替えをじぃっと見ているなと突っ込みたいところであるが。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、でかハク気に食わなけりゃちびでも憎い、である。エロ上司は小さくなっても天然エロ上司なのか、と考えれば妙に納得がいったが妙に哀しい。
 とにもかくにもちびっこふたりのお着替えも済み、それに嬉しそうにするのは笹姫しかいない。
「や〜ん、サイズぴったり〜〜」
 かわいい〜〜と語尾も伸ばし加減で千尋をつっつきまわしている笹姫に対してどんな感想を抱けばいいというのだ。考えることさえ億劫になってきた大人達であった。ただ、かわいかわいかわいーと喜んでいる笹姫の頭の中で、先のひらひらドレスやスーツをこのふたりに着せる野望が消えていないだろうことだけはなぜか考えるまでもなくわかって頭が痛い。どうにもこうにもこの姫君の思考や行動は読みやすい気がするものの、いつも不測の事態が起きている現実を考えればまったく読みきれてはいないのだろう。
「ま、まぁ、これでなんとかカッコだけは普通になったわい」
 先と同じようにたくさんの腕できゃわきゃわと意味もなく畳の上を飛び跳ねて騒ぐ千尋と、それを真似っ子してトタンバタンと不器用に跳ねているハクを確保した釜爺がもう一度問題を持ち出した。
「けれど根本的な問題はなにも解決されておらんぞ?」
 それは、とりあえずその場にいた全員が一時的に、意識的に忘れ去っていた問題でもあった。もうそこに触れてくれるな釜爺、との視線を部屋の片隅にあぐらをかいて座り子供達を腕にぶら下げている老人へと向けてしまいそうになるリンと湯婆婆であった。
 実際に額に手をやって釜爺とちびっこより視線をそらせようとしたリンを、老人の長い腕にぶら下がるようにして遊んでいた千尋がふとみつけて首をかしげた。すいっと腕の檻から抜け出してとたとたとリンへと歩みより、ぺちぺちとリンのその手をおのれの小さな手で音立ててはたいた。
「リンたーん、たいたーい?」
 どうやら頭が痛いのかと勘違いしたらしい。原因はお前等だと言いたいけれど、小首をかしげて舌っ足らずな口調で尋ねてくるその千尋自身に罪があるわけでもなく、リンは曖昧に笑って千尋の髪をくしゃくしゃとかきまわしてやった。その光景を釜爺の足元にぽてんと座り込んで眺めていたハクも真似っ子しにくるのかと思いきや、その場で千尋の首かしげを真似るだけであった。やはり大きかろうと小さかろうとハクはハクなのだと思ったリンであった。こ憎らしいったらありゃしない。
「大丈夫だよ。セン、釜爺んとこ行って遊んでな」
 くしゃくしゃと髪をいじられ、いやーんと叫びつつ自分の頭に手をやって髪を整えようとしてさらにわしゃわしゃくしゃくしゃにしながらもなぜか千尋はリンの側を離れようとしない。もじもじもじもじ、指と指をあわせてこねくり回している。
「ん? どうした、セン?」
 今度は座蒲団に座るリンの背中にぴとっと貼り付いて、もじもじもじもじ。
「あのね、あのねー、リンたーん、だっこして、だっこー」
 外に行くとだだをこねるのか、それとも厠か? と考えていると予想外のおねだりをされてしまって、リンは面食らった。だっこ……だっこ。おねだりをするちび千尋の姿は可愛らしいが……もしかしてこれをやったらハクもだっこせねばならんのだろうかと考えると素直に抱き上げてやれないリンであった。なぜかこれは真似っ子しに来る! との確信を秘めた予感が悪寒とともに襲ってきたのだ。
「あのねー、だっこしてほしいのー。だっこしてほしーなー?」
 思案している最中も、千尋は小さくおねだりを続けていた。だっこしてーとわめかず『だっこしてほしーの』と言うところがおっとりした彼女らしかったが。ゆさゆさと全体重をかけてリンの背中を揺さぶってねだっていると、ハクが案の定と言うかなんと言うか、釜爺の所から抜け出してきて一緒にリンの背中を揺さぶり始めた。
「だーッ! いったいお前はなんなんだよッ!」
 竜の幼体だかなんだか知らないが、この真似っ子いい加減にしてくれーとリンは叫ぶ。や、見ている分には楽しいからほっとくけど、とは、釜爺と湯婆婆の共通した思いだが。見ているだけなら面白い、普段とギャップが激しすぎて。
「うーん、本当に竜の詳細はわかっていないからねぇ。でも人間の子供だってなんだって、はじめは真似っ子とか他人の反応から学習していくものだから、今は学習期なのかもしれないねぇ」
 それにしても人の子よりも行動が慎重だねぇ、と扇子をぱちりと閉じながら笹姫が。今の今までだんまりを決め込んでいたのは、どうやらハクの様子を書き止めるのに忙しかったかららしい。どこから取り出したのやら、その手にはメモ帳とペンが握られていた。更に笹姫の傍らには――最新型デジタルカメラまでもが。もしかしたらこのままの状態で数日が過ぎたならば、笹姫の手元には竜の観察日記が束になってできあがっているのかもしれない。それはそれで静かでいいかもしれないけれど。新たなトラブルが起きないのならば、であったが。そしてこの手の行動に関して、新たなトラブルが発生しないはずがないのだ。都合よく取り出されたそれらの品に『絶対にこの姫君が犯人だ』と疑いをますます深めた三人であった。
「わーかったよ、だっこしてやるよ! ほれ、セン、来い」
 立ち上がって両手を広げてやると、わーいと喜びながら千尋がリンの腕の中におさまった。自分も自分もーとでも言いたいのか、ぴょこぴょこと跳ねて頭上の千尋に手を伸ばすハクはとりあえずほっておくリンであった。なんであたいがハクなんざだっこせねばならんのだ、親じゃあるまいし。それが本音であるのだし。
 とにもかくにも千尋はおねだりが叶って満足げである。元より赤い頬が興奮で更に赤くなっている。品の良い調度品で囲まれた『東雲の間』を高い位置から見まわし、ついで上を向いてあんぐりと口をあけた。細かな意匠を施した天井が近くなって嬉しいらしい。
「なんだ、天井好きなのか? 釜爺に見せてもらうか?」
 いくら油屋内では背の高い部類に入る自分であるが、釜爺が腕を伸ばした方が圧倒的によく見えるはずだ。けれども千尋はリンの言葉を聞くや否や、口をぱくんっと閉じてリンの首に手を回し、ぎゅうっと引っ付いた。リンの首にある空間に、自分の、あるかないかの薄い肩を押し込めるようにしてしがみつき、うーんうーんと唸っている。なにを勘違いしたのか、なんとなくわかる気がする。大きくなっても今だ自分に懐いている妹分は、小さくなってもやはり懐いていてくれているらしい。大きくても小さくてもハクがやはりハクであるように、大きくても小さくても千尋もやはり千尋であった。
「別にどっか行けって言ってるんじゃないって! いいよ、好きなだけ付き合ってやるから!」
 容赦なく首をしめてくる千尋に根負けして、リンが叫ぶようにそう言った。子供の勘違いもなにやら恐ろしい。そしてそれらを見上げていたハクはふっと沈黙して、おもむろにぎゅっとリンの足にしがみついた。一体こいつはなになんだ……と千尋をだっこし、足にハクをくっつけたままリンは心の中で遠い目をしたのであった。
「いや、だから、ふたりがこうなった原因を……」
 釜爺が、いらないことに、みたび問題を持ち出した。もういいじゃないかこのままでも、と思い始めたリン。思考が『疲れた』を通り越して投げやりになっているらしい。なにせ、まだ足にハクをくっつけているのであるし。
「だからわたしじゃなーい!」
 デジカメ構えたままでそう力説されても全然説得力ないです。そう心の中で突っ込むリンであった。
「や、でもあたい、昨夜笹姫サマがハクサマと話されているの見ちまってますからねぇ。一体なにを吹き込んだんですか??」
 どうせ変な入れ知恵したに決まってるんだ、とリンは胸中でぶつぶつと呟いた。なにせ――ここ一ヶ月、このちびっこふたりの間には妙な雰囲気が流れていたのであるし。よそよそしいと言うか、妙に意識しているようなと言うか、とにかく変な雰囲気が。そんなオモシロソウな状況を見逃すこの笹姫ではないと、けして長く深いとは言えない付き合いで知悉してしまった。本人至極大真面目に真剣に『状況改善』に首を突っ込んだつもりなのだろうが、それでこのなんとも言えない状況になっているのだろうし。笹姫がなにをハクに言ったのかをまず明らかにしなければ話が進まないではないか。と言うか、絶対にその話の内容が今回の問題の原因であると完全に決めつけているリンであった。
 と、その話の内容を明らかにしろと詰め寄られた笹姫は、なにやらポッと頬を染めてもじもじと両手を組み合わせ始めた。一体なんなんだ、この笹姫の様子は。外見から考えるなら少女らしい仕草であるが、中身が中身であるだけに異様で気味悪いものでしかない。実態と年に似合わない仕草は公衆猥褻罪に匹敵する。
「そんなぁ、乙女の口からは言えないよぉ」
 だからそのぶりっこやめっちゅーに。突っ込む気力も萎えるというものである。けれども笹姫はもじもじもじもじ、座蒲団の端を人差し指でこねくり回している。もじもじもじもじ、鬱陶しい。けれども、次に笹姫が口にした言葉に、そのままぶりっこしていてくれれば良かったとリンはある意味後悔したのであるが。
「いつになったら千尋ちゃん押し倒すの? なんて言ったなんて言えないよぉ」
 って言うかしっかり言ってるし。寒い空気が『東雲の間』に重くのしかかった瞬間であった。
 たしかにここ一・ニ年の笹姫がふたりに送る視線は妙に期待した視線であったが。障子の影や襖の影、廊下の隅から覗き見るようにしてハクと千尋を見守っている姿を何度も目撃してはいたけれど、まさかあなたそんな話をこのエロ上司に振ったなんて誰も考えないわなぁ、と脱力する余力もなかったはずであるのに更に脱力感を感じたリンであった。『脱力』とは底のないものなのだと身をもって思い知ってもちっとも楽しくない。楽しいはずがない。あぁ考えるだけでも疲れてくるし泣けてくる。
「あ、違うって! だからそんな超直球ストレートにがつんっと言ったんじゃなくってねぇ、女の子はやっぱりちゃんと言葉や行動で示して欲しいことだってあるんだよって言っただけなのにー」
 歪曲して歪曲して、でもいきつくトコロの本音が『いつ押し倒すの?』なのだとしたらすごい思考方向をしているぞこの姫君。色々な手順一足飛びにしているし。それに、だいたいそれが余計なお世話だってんだ当事者等の問題であろうし。自分もあのふたりに対しては色々色々そりゃぁもう色々と言いたいことはあるけれどっ。
 いまだにもじもじと座蒲団をこねくり回している笹姫を胡乱な目つきで見つめてしまうリン。やっぱりこの姫君に原因があるんじゃないか。
「でもでも、それっきりだよ? 他にはなんにも言ってないしなんにもあげてないよ? ハクちゃんがその後どうしたかまでは知らないよ?」
 たしかに良く考えてみれば、笹姫とハクが話をしているのを見たのは営業時間も終わりの終わり、今の時間よりそう遠くない時だ。そこからハクがなにかを画策して行動に移すにしては時間が短すぎる気がする。だいたいその時間では、千尋とハクは接点などなさそうであるし。あくまでこの笹姫が他になにもしていなければ、であったが。
「ほんっとーになにも渡したり入れ知恵したりしてないんですね??」
「この目が嘘を言っているよーに見える?!」
 ずずいっと千尋をだっこし足にハクをぶら下げたままのリンが笹姫に詰め寄ると、笹姫は真剣な目をリンへと差し出した。焚き火のすぐ後ろに有る、深く沈んだ闇に似た赤い眸だ。とてもとても真剣で、嘘をついているようには思えない……が、嘘はついていなくても無意識に忘れ去っている、なんてのはおおいに有り得るのではないか。とことんまで信用できない。
「リンちゃんがいーじーめーるーっ!」
 全然可愛くないし、泣き真似しても、それ。リンは心の内で片手をぱたぱたと振って泣き真似をする笹姫に突っ込んだ。両手でしっかりと千尋を抱えていたからだ現実にはできなかったのだ。
 湯婆婆と釜爺はあからさまに明後日の方向を向いて、見ないフリ聞かないフリ。
 けれどもその笹姫の様子に、ちびっこ千尋はすっかりと騙されたらしい。みるまに眉を八の字にして、もごもごと口元をすぼめてしまった。ますますぎゅっとリンの首にしがみつく。まるで、自身が泣く寸前かのように。
「ヒメたーん、たいの?」
 ぐずぐずと鼻を鳴らし出す千尋に慌てるのはリンだ。冗談じゃない、こんなちびっこに泣き止めと説得しても泣き止むはずがないではないか。ちびっこの泣き声は破壊的なのに。だいたい、ヒメたんとはなんだヒメたんとは。ちび千尋の発言では有るが、気持ち悪くて仕方ない。
「うぅん、千尋ちゃん、大丈夫。笹、負けないから」
 だーかーらー誰も苛めてやいないんですって! ただ単にあんたが犯人だと確信しているだけで! そう叫びたかったがリンはぐっと堪えた。相手はお客様だし。それに、どうせ言っても意味がない。ノーダメージなのだろうから。
「だってほんとーになにもしてないもの」
 あぁなんか堂々巡り。もう明後日のあるばいと期間終了なんてネックをとっぱらう為に強制神隠ししてしまうか、と投げやりな思考になってきた湯婆婆。どこぞの誰かがそれで内心喜んだりするのだろうし、もういいじゃないか。あっちの混乱なんてこの際知らないね。あぁ知らないとも。
 そんな雰囲気が流れ出した『東雲の間』の襖をほとほとと叩く音がした。どうしたのだろう、人払いをしたはずであるのに。この場で一番下っ端のリンに対応をさせようにも両腕に千尋を抱え、足にハクと言う重石をつけたままの彼女では無理があると判断して、湯婆婆が襖をからりとあける。と、そこには小湯女が一名。なにやら耳打ちをこしょこしょと。それを聞いた湯婆婆が素っ頓狂な声をあげた。
「なんだって?! 鼓城様が掃除道具入れから見つかった?!」
 どう言う意味だいそれは!! と湯婆婆に噛みつかれ、報告にあがった小湯女は泣きそうになりながら
「そのままの意味です〜〜」
 と繰り返すしかなく。湯婆婆は取るものもとりあえず階下ヘと走って行った。目の前にいた笹姫は上得意の客ではあったが、もう付き合いきれない。それが本音でもあった。
「釜爺、なんか鼓城様、目を覚まされないから気付けの薬湯がいると思うんですけど〜〜」
 なんじゃいなんじゃい、出てくる所も所なら状態も状態じゃわい、と釜爺は腰をあげてそそくさと廊下へと出て行った。その心中は湯婆婆とほとんど変わりがなかったので。孫にも等しいちびっこどもは気になるものの、薬湯作りは仕事でもあるのだし。リンだっているのだし。
「え? あのエロバカ金狐、性懲りもなく出てきやがったのか?!」
 けれども、鼓城の名を聞いてリンは色めきたった。笹姫も歩く騒動歩く環境破壊魔であるが、金狐の鼓城もある時を境にしてから騒動の巻きちらし厄介者である。笹姫が人知れず迷惑を撒き散らすのに対して鼓城は自身が迷惑の中心にいる。
 笹姫に直接被害を被られて恨み五年のリンではあるが、鼓城には間接的に被害を被られ続けて恨み五年。ことあるごとに妹分である千尋を嫁にと迫る狐顔と対峙し続けていたのだからこの時も『鼓城』の名前に反応しないはずがない。千尋を首からひっぺがし、ハクを跳ね飛ばすようにして放り出すと廊下の奥へと消えていった。
 後に残ったのは、『東雲の間』の主である笹姫と、放り飛ばされたのを新しい遊びだと勘違いしたちびっこふたりが残されて。
「…………」
 急に静かになった『東雲の間』に奇妙な沈黙がしんしんと。
 降り積もった沈黙に『?』と小首を傾げた千尋を目の前に、笹姫が普通に普通に普通ににっこりと笑った。

   ◆◇◆

 結局その騒動の原因は掃除道具箱から発見された金狐の鼓城であった。
 五年前に四歳の千尋にしっぽを掴まれて以来『嫁になれ』と追いかけ回していた鼓城の仕業――笹姫とハクが別れた直後にハクを強襲してあちらから持ち込んだ『桃缶』を、女部屋へと帰ろうとひとりで歩いていた千尋にはこちらの世界の『野生のサセホ』を食べさせたのがことのはじまり。翌朝邪魔者ハクが桃でなんらかの変転をおこしているであろう間に、同じく小さくなっていると確定済みの千尋を掻っ攫う算段であったのだが……千尋に『サセホ』を食べさせた帰りにばったりあった笹姫がなにやら不穏な空気を察したのか、掃除道具箱へと押し込めてしまったのであった(が、笹姫はその時ほろ酔い気分で掃除道具箱へ鼓城を押し込めた事実は完全に忘れ去っていたし、鼓城も誰に襲われたのかはわからなかった。それは見事な手業だったとそこから推測される)。そして、小さくなったハクと千尋だけが発見されたのが真相らしい。
 そんな騒動も遠くになった一ヶ月後のある日、油屋の経営者の元に小包がひとつ届いていた。それを、真っ赤なマニキュアで彩った爪で開封した湯婆婆は、出てきた中身に腹を抱えて笑った。そしてそれを抱えて従業員の溜まり場へと赴いた。それらを見た従業員等は、笑ってよいものかなんと言ってよいものか、奇妙で微妙な沈黙をふらせたのだったが。
 湯婆婆に小包を送ったのは、あの笹姫。中身はなんと――プリントアウトしたデジカメ画像であった。しかも、アルバムに仕立て上げたものと、大きく引き伸ばして額に入れた別扱いの一枚。それらにうつっている被写体は、ちいさな男の子と女の子。ピアノの発表会にでも出るのかと突っ込みたいくらいに着飾った可愛らしい子供達――が、手を繋いでいたりおもちゃで遊んでいたりする光景が……。
「なんなの、これー!!」
 それを見た当事者のひとりが顔を真っ赤にして叫んだのは、沈黙の数瞬後。幼女でも童女でもない、少女らしい体躯をした十五歳の荻野千尋。その少女が、それらを覗き見して叫んだまま固まった。なにせ、どうみてもこれは自分とハクなのである。他人の空似の子供達だと言うには無理がありすぎるほどに、自分とハク。しかも一月ほど前に知らぬ間にまた子供になっていたらしいし、この写真を見て他人の空似だと主張するのは絶対に無理。
「なんで……なんでこんなのが!!」
 可愛らしく着飾って小さな子供特有の無邪気さで写真に収まっているのは五十歩でも百歩でも一千歩でも月までもずずずいっと譲っても良い。どんなにからかわれても我慢する。が、別枠扱いにされている写真の方は恥ずかしくて憤死しそうな……ハクが自分の頬に口づけている、その場面。
 石のようにかちんと固まっていた千尋がその写真を強奪していきなり走り出したのは当然の行動だと思われる。
 

 なんなのなんなのなんなのーッ!
 千尋はなにも考えずに油屋内を駆けに駆けた。事情を知らない従業員がすれ違い様にぎょっとする。それほどに千尋はものすごい形相をしていた。
 と、油屋の人気の少ない廊下で、前から歩いてくる人物にとんっとぶつかって千尋はとまった。なりふり構わず突進してくる千尋を驚かせもせず勢いで倒すこともせず柔らかくとめたのは、長髪の、帳場の管理人。
「どうしたの、千尋? 凄い顔で……」
 まわりに誰もいなかったからセンとは呼ばずに千尋と呼ぶと、千尋は自分がハクに捉まっているのだと気がついて更に顔を赤くした。胸に抱きかかえていた額縁をぎゅうっと抱きしめる。
 ここ二ヶ月まともに顔を見られもしなかったハクに今こんな心境でこんなことになっているなんて……どうしようどうしようどうしたらいいの?!
「なに持っているの?」
 ハクの方も、ここ二ヶ月まともに顔もあわさず会話もできなかった千尋が急に飛び込んできたので、内心ではとまどっていた。どうしてだか、なんと言葉をかけてよいのかわからない。彼女が突然におのれを避け始めたから、どうしたらよいのやらわからない。これ以上彼女には嫌われたくないから。
「こ……これはッ!」
「写真?」
 覆い被さって隠すようにしているその物体は、どうやら写真立てのような。
「あ……しゃ……写真なんだけどッ」
 まともな会話とも言えない会話だけれど、慌てふためく千尋の様子は、ある意味新鮮で。子供の無邪気さとも、切れ味の悪い女の会話でもない、少女の動揺が言葉にそのまま現われた言葉で。
 ハクの脳裏に一月前のある女神の言葉が蘇った。

『卵が先か、鶏が先か? ハクちゃんが先か千尋ちゃんが先か?』
 この変な雰囲気の原因は、なにが先? 

 にっこり笑った、赤い眸の弾むような言葉。けれどもその時には意味がわからなくて。だが今ならわかるような気がする。今目の前にいるのは、幼い子供の殻から抜け出そうとしている体と心を持った千尋。そしてどうやらその体と心で自分のことを意識しだしたらしい。真っ赤に染まっている頬の、なんとなく外し気味になる視線の、その意味は。手の中にある小さな心臓はとくとくと早足で、走って逃げ出したいだろうにそれでもここに留まっているのは――『私』が捕まえたから。
『笹姫、ある意味では千尋が先かも知れませんが――その意味で言えば、私の方がずっと先』
 ずっとずっと見ていたから、卵が先でも親が先でも環境変化が先でもなくて――ずっとずっと私が見ていたから。千尋が見ていてくれると言ったそれよりも、深く長く。
『なにかが新しく生まれたわけでも、環境が変わったからでもなくて――状況が整っただけ』
 だからにっこりと笑う。嬉しさで。けれど、気取られないように。
「どんな写真?」
「えっ? ヤだ、見せない!」
「それはつれない。そなたは意地悪だね」
 い……いじわるとかそんなじゃなくてぇっと千尋はぶつぶつと呟いていたけれど、やがて観念したのか、そろそろと胸元から写真をひっぺがした。そこに写っている光景を見て、ハクもさすがに驚いたけれど――ゆっくりと破顔した。
「子供は無邪気で正直だ。私も見習わなければならないかな?」
 いつかいた過去の自分を――と、ハクは心のうちで呟いて、千尋の頬に口づけをひとつ贈った。
『女の子はやっぱりちゃんと言葉や行動で示して欲しいことだってあるんだよ』
 そうかの姫は言っていたなと思い出しながら。暗黙の了解や見ているだけでは、頑張って開こうとする蕾にはまっすぐ届かないし負けてしまうから、意思表示をしないとね。

 それからふたりの関係がどうなったかは、また別のお話。