野生の楽園 【4】





   【一】

 人が住むこちらの世界の、瀟洒なお社の――人には知り得ぬ清浄な空間で。そのお社の主である金色の狐は両腕を組み眉根を寄せ、難しい表情で思案していた。
「どうしたらあの娘を我が嫁にできるのか」
 金狐族の掟で、尻尾を捕まえた者を『殺す』か『愛する』しかないと言うのがある。
 その金狐――鼓城は、六年ほど前に小さな女童に尻尾を捕まえられ、それ以降ずっと嫁になれと求愛しているのにまだ叶っていない。相手が人間であるからなかなか誠意が通じないのだ。――その方法がかなり『普通』から逸脱しているとは気がついていない鼓城であったが。
「油屋の女狐がいつもいつも邪魔をするのであるし」
 人間の娘、センの姉貴分だか知らないが、女狐のリンがことあるごとに立ちはだかって鬱陶しい。もうひとり邪魔をする帳場のハクと言う若造竜も同じく邪魔であったが、前回はそちらを標的にして計画が失敗したので今回はリンに的を絞ろうと考える。
 まぁ、前回失敗したのだって不測の事態、歩く大騒動歩く大破壊魔である闇砕の姫君に邪魔をされたのが大きな要因であったのだし、断じておのれの計画がまずかったわけではないのだ。だいたい、思惑は上手く行き、こちらの世界の桃缶を食べた竜は幼児化してしまったのであるし。
「桃……か」
 腕を組み組み考える。
 桃と言えば、これは笹姫の仕業であったが、こちらの世界の桃を向こうの者が食べると成長・または幼児化するらしいとわかった。それを応用して桃缶を食べさせてみたら竜の子は幼児化した。それならば、桃を乾燥させれば一気に成長するのだろうか? 桃の水分が抜けたのと同じように、身体の水分が抜けてよぼよぼの老人になるのだろうか? それとも狐娘は更に幼児化するのだろうか。どちらにしても面白い。
 鼓城はにやり、と元から耳まで裂けた口をさらに持ち上げて笑った。第三者が見れば、絶対に悪役だと表現しそうな、腹黒い笑みだった。元が端整な狐顔であるからか、あまり損はしてはいなかったが、その内容を第三者に覗き見されていたとなれば、株も一気に二足三文十束ひとつでバナナ叩き売り大暴落状態であろう。
「誰ぞ! 誰ぞおらぬか! 桃の干物を用意して油屋に届けよ!」
 女狐め、よぼよぼの老婆となるがいい! その間に我はセンを掻っ攫うぞ! と哄笑さえする金狐の鼓城。
 お社に仕える狐達は、またはじまった、きちんと仕事して下さいよもーと心の内で愚痴るのであった。

  ◆◇◆

「……」
 所変わって、霊々が疲れを癒しに訪れる、不思議の世界にある湯屋・油屋。
 その女部屋で、リンは小さな箱を手にして固まっている。因縁のある金狐からの『今までの詫び』として贈られた小さな箱の中には、桃の砂糖菓子が入っていた。見るからに高級そうな包装にちょこんと上品におさまった砂糖菓子はとても甘そうだ。
 が、
「菓子に罪があるわけじゃないが――ロリコン金狐からの貰いモンなんて食えるわけねーじゃんか」
 とリンは胡乱な目つきでその箱を眺めやるだけである。なにせ、今までが今までであるのだから。開け放した廊下の向こうからさわさわと気持ちの良い風が吹いてきてはいるが、心の中はどよどよとした空気が重く淀んでいる。ある意味、ここまで気分を急転直下にさせる金狐、その影響力はすさまじいものがあると言えなくもない。
「えぇ? でも、折角の頂き物なのに、勿体無いし、鼓城様にも失礼だよ?」
 とのたまうのは、自分が鼓城にとってどんな存在であるのか認識していない人の娘。と言うか、鼓城が自分にとってどんな存在であるのか理解できていないとも言えるのだが。どちらにしてもはやく認識して欲しいものである。周囲の為にもできるだけはやく。
「セン……それは無用な気遣いだよ」
 あの金狐にそんなのしたらそれこそ勿体無い! とリンは怒り口調そのままの手つきで、箱に結わえられていた飾り紐を結び始めた。美しく飾りつけられていた紐は乱雑な蝶々結びにされてしまう。
「大体な、あの神さんはあっちの世界の神さんだろ? あっちの世界のモンをあたいが食ったらなにが起こるかわからないし」
「あ、そうかぁ」
 そう言えばずっと前にリンさんってば小さくなったんだよねぇとの懐かしげな千尋のおっとり口調に、リンは顔をしかめた。
「言っとくけど、全然楽しくなかったからな」
「えぇ? でもわたしみたいに記憶もなくなったりしてなかったんだから、普段とちょっと違う生活ができて楽しそうなんだけどなぁ」
 とにかく楽しくなんかなかったんだぞ、とそこだけ不愉快げに顔を歪めてきっぱりとリンは言いきる。
「まぁ、コレには罪はないし、これを食っても問題ないのはお前だけなんだから、お前にやるよ」
 甘いモン好きだったろ? と差し出された蝶々結びの先っぽとリンの顔を見比べて、
「ホントにもらっても良いの?」
 と千尋は首を傾げる。折角鼓城様から贈られた品なのに――まぁ、たしかにリンが食べるわけにもいかないとは理解できるが。
「他のヤツが間違って食っちまう前に片付けとけよ」
「……うん」
 そこまで言われては仕方ない。千尋は蝶々結びのはしを引っ張って紐をほどいて蓋を開けると中にちんまりと入っていた菓子をひとつつまみ、心底嬉しげに頬張ったのであった。

   【二】

 そしてその翌日。有りて無い特別室の廊下をばたばたと足音高く駆け抜けて、繊細な意匠を施した『東雲の間』の襖を勢い良く開け放した者がいたりした。
「笹姫様!」
 いつもの如く、たまの休みに油屋にふらりと現われては酒豪なくせに二日酔いに苦しむ闇砕の姫君は蒲団につっぷしていたのだが、その声は容赦なくその枕元に伏せって泣きはじめる。
「なになになに?!」
 さすがの笹姫もそれ以上寝てもいられずに飛び起きたのだが、桃色の水干に身を包んだ、枕元に突っ伏しているその女性の背中のラインには見覚えがなくて小首を傾げる。はてさて、この細い項やそれに続く背中に見覚えなんてないんだけど……。微妙に考え方の方向におやじが入った笹姫であった。
「あの、どちら様……?!」
 二日酔いでぐるんぐるんする頭でも、知り合いとそうでない人の区別くらいつく。けれども、どう見ても、茶色い髪を長く伸ばした、細い体つきの、妙齢の女性には見覚えがなくて……とことんおやじ思考であった。
 とそこまで考えて、よく似た女の子なら知ってるんだけどなぁ。茶色い髪をポニーテールにした、おっちょこちょいだけど元気な女の子。わたしのお気に入りの、妙に変なモノに好かれる、人の子。でもたしか彼女は十六歳だしなぁ、まさかなぁとぐるぐるぐるぐる現実逃避してみるのだが……
「笹姫様! わたし、センです!」
 泣き過ぎて真っ赤になった顔をあげてそう名乗ったその女性を目の前にして、さすがの笹姫も明後日の方向を向きたくなったのであった。


「とりあえず、ぜぇったいに! わたしじゃないからね」
 もう何度目になるのかわからない台詞をこの後に及んで口にする笹姫であったが、今回も――と言うか今回は、かもしれないが――絶対的に得体の知れない物は持ち込んでいないと断言できる。けれども、あきらかに十歳ほど年を取った千尋を追いかけてきたリンの目が胡乱な物を見る目つきで痛い。なにせ前科があり過ぎた、その悉くが未必の故意と言えなくもなかったけれども。
 笹姫が『何をどれだけ飲んだんだわたしは?』と答えのない自問自答を毎度のことながら繰り返しつつ眺めやる目の前の現実は、妙に嘘っぽくて困惑するもので――それ以上に楽しくて、現実感がない。
「理由なんてどうでもいいんです! 笹姫様、助けてください〜〜!」
 と千尋はまたもや泣きそうな声を出すのだが、その声もいつもの声とはまた趣きが違い、少しばかり落ち着いた声色である。
「助けたいのは山々だけどねぇ……」
 しっかり大人の体つきだよねぇ、と笹姫は千尋の腕をぷにぷにと指先で突つくだけである。
 子供のぷくぷく感とも、少女のきめ細やかさとも違う、妙齢の女性特有の柔らかさと匂いがする肌である。十ばかり年を重ねた姿であってもどこかあどけなさ幼さを残した頬の線に、少女の頃よりもまろみを帯びた体の線、しっかりはっきり『女』である千尋。これをどうしろと言うのだ、どうしろと。
「なにせ、今回は幼児化とは違うし、千尋ちゃんはしっかり記憶も意識もあるしねぇ」
 どうしたら良いんでしょうねぇと笹姫は細いおとがいに手をやりこっくりと考え込むが、なにやら楽しそうな予感がひしひしとして真面目に考えられない。自然笑みを刻みそうになる口元を慌てて引き締める。でないと、蒲団の脇にどっかと座り込んだリンの視線が途端に剣呑になるのだ。
「ずぅえったいに笹姫様じゃぁないんですねぇ?!」
 言葉さえも剣呑な。
「だーかーらーわたしじゃないってぇ! わたしだったらウエディングドレス持参でやって来るよぅ! 生きてる間に千尋ちゃんの花嫁姿見たいもーん!」
 だってこれだったら年齢関係ないもん挙式オッケーでしょ? あ、ハクちゃんだったら白無垢とかの方が嬉しいのかしらん? そっちあたりの生地とかネット通販で取り寄せてみようかしらん? と笹姫は無理矢理に作っているしかめっ面のままでまたもぶつぶつと問題発言を吐き散らしている。
「ウエディングドレスも白無垢も挙式も関係ないです――っ!」
 握り拳を作って千尋がつっこめば
「あぁ、最近の若いもんは婚姻届だけってのも有りだしねぇ。それも時流か、仕方ない。生い先短い老人の楽しみなんて身内の結婚式出席くらいなんだけどなぁ」
 娘の花嫁姿を見るのは親の夢なんだけどなぁぁぁぁと遠いお空を眺めながらの笹姫の言葉に、誰が親だ身内だ、誰が生い先短い老人なんだ万年女子高生のくせに。とリンは心の中でだけつっこんだ。それ以前にセンも『ハクとの挙式』云々自体を否定しないのか?? そこは問題にならんのか、そこは。ある意味、この娘はこのあたりが素で怖い。
「……まぁ、じゃぁ、笹姫様じゃぁないんですね」
 どこか釈然としないながらも、たしかに笹姫ならそこまで根回ししてから千尋を大きくしそうである。こんな、ただ大きくしただけで終わりだとは思えない、とことんひっかきまわすだけの材料を揃えてやって来るはずだ。あの、昨年の、帳場役と妹分が小さくなる事件の時のように、挙式用具一式抱えてくるくらいは軽くするはず。
「だからわたしじゃないって」
 リンちゃん、信用なぁーい! と笹姫はわざとらしく袖を噛みしめてよよよと泣き真似しているが、そんなあなた信用なんてご大層な物はかけらもありませんがな、とリンは思うのであった。
「とーにーかーくーっ! 助けて下さい〜〜!!」
 なんだか妙な方向に流れ気味な話を修正したくて、またもや千尋が叫んだ。原因だってどうでもいいし、笹姫が原因かどうかもこの際どうでもいい。問題はこの先だ。このままでは家に帰られないし――なによりもハクに会えない。この姿で会うだけの勇気が――ない。千尋はぎゅっと唇を噛みしめるのであった。
「急ぐ必要ないと思うんだけどなぁ。ほら、千尋ちゃんってば、もう何度も小さくなっているでしょ? 多分この手のことには免疫が出来ているから時間が経てば元に戻ると思うんだよねー。なにせ、一年前にちっちゃくなった時も『自分は十五歳』と思い出さなくてもひょっこり元に戻っていたんだし」
 とりあえず、蒲団の中から状況を考えるのもなんだろうと思い立ちごそごそと這い出て、リンが用意した座蒲団におさまり居住まいを正して事態に向かうことにした笹姫の第一声が、まずそれで。
「嫌です、待てません!」
 悠長に待ってなんていられるわけがないではないか。千尋の叫びはやけに悲壮感をまとっていた。
「と言われてもなぁ」
 困った困った、と心底困ったようには見えない笹姫の言葉尻を捕まえて、千尋はまたもや泣きそうになった。
「じゃぁ、ここに匿って下さい!!」
 解決策がみつかるまで、元に戻るまで――ハクにみつからないように匿って下さい! と拳を握りしめて力説する千尋を見ていると、さすがのリンもハクが憐れになってきた。言葉そのものの意味も、その裏側の意味も同性であるからよくわかるものの、ここまで力説されるのもかわいそうな気がしてくる。ま、自業自得とも言うけれど、とリンは納得したけれど。なにせ、第三者からみてもはっきりとわかるほどにがっついている男であるのだし。当事者の片割れはそこまでは思っていないだろうけれど、第三者は常々そう思っているのだし。
 が、そうは思っていない第三者だって、いるのはいるのだ。能天気でおめでたい第三者が。
「えぇ? いいじゃない別に。いつかはその年になるんだし、ハクちゃんならなんの問題もないでしょ?」
「ヤだったらヤなんです! だって、だって……っ」
 十年経っても胸がこんなに小さいままだなんて恥ずかしくて外に出られないよーっ! と千尋は畳の上にまたもや泣き伏した。
 そこが問題かい、そこが。冷たい風が心の中にふきつけるのを感じたリン。ハク……なんかますます憐れさが加速したぞ、とリンは心の内で呟いた。
 けれどもそんな千尋の脱力発言を真に受けて真剣に考え始める人物が約一名。
「胸? そりゃぁ千尋ちゃん、元がそんなに細いのに胸だけ欲しいなんて贅沢な」
 そしてがっしと千尋の手をとって両手で握りしめ、真顔で一言。
「胸は彼氏に揉んでもらえって言うでしょ?」
 実践あるのみ! と爆弾連続投下大盤振る舞いをする闇砕の姫の頭をおもいきりはたいてやりたい衝動を必死で抑えるリン。なんてこと言うかなぁこのエセ姫君! とリンは胸中で叫び倒した。
 そして千尋は
「それが本当になりそうだから恐いんですってば――っ!」
 なにせ、最近ハクの目が恐いんですから――っ! と絶叫したのであった。

   ◆◇◆

 ところかわって、可愛い彼女に密かに恐れられているとも知らないのん気な――ある意味不憫とも言う――帳場の管理人。
 朝の仕事もはじまろうかと言うのに、小湯女のリンと千尋が現われないので、心中ひそかに眉をひそめていた。態度に問題はあるものの仕事はきっちりこなすリン、そして生真面目な千尋。そのふたりが揃って現われないのは、何事かが起きているからとしか考えられない。
 もしや千尋が体調をくずしてでもいるのかと、無意識にリンを意識から排除した思考方向で同室の小湯女を捕まえてさり気なく探りをいれるものの、小湯女はあからさまに視線をうようようようよとさ迷わせてなにも答えない。ならば他の者に、と視線を転じると、すでに千尋と同室である者達は猛ダッシュで逃げてしまっており、そこには誰もいなかった。そうしている間にも、捕まえていたはずの小湯女すらいなくなっている。
「一体なんなのだ?」
 ハクはおのれから露骨に逃げる小湯女達を眺めやり、巨大な疑問符を大量生産させた。
 事情を知らない従業員達も、小湯女達の変な様子に『触らぬ神に祟り無し』『今の小湯女達にちょっかい出せば、それはすなわち地雷踏み』と唱えて明後日の方向ばかりを見やるのであった。


 とりあえず、小湯女達は
『ハク様にセンの状況を知られる訳にはいかない!』
 との点で一致団結していた。朝に巻き起こった千尋の声無き叫びやその状況は、同性であればよくよく理解がいくものであるのだし。
 なにせ、彼女は本来花も恥らう十六歳。ぴっちぴち盛りである。固い蕾が柔らかくほぐれ、花開くその過程が美しい少女。ちょいと手を出すにははやい、ぎりぎり境界線上の危ういお年頃。十年時を重ねて二十五・六だって女盛り、少女時代とは違う色香もあろうと言うものだが、それとこれとは別問題。ある意味今の状況は『少女だ』『子供だ』と言われる危うい境や枷がなくなってどうなるのやらわからないではないか。誰がと言えば――『彼』が。
 場所が場所であるからか、人の色事には敏い油屋の従業員。その彼女達はふたりが『そんな関係』であるとはちゃんと察してはいるものの、まだ関係がいきついたわけでもないとわかっていた。ならば、こんななし崩しで関係が変わるのもかわいそうであるし、かばってやらなければ。特に、彼女の方が彼に気持ちの上で追いついていないような雰囲気であるのだからして――と言うか、彼の方が勝手にいっぱいいっぱいだとも言うけれど。
 小湯女達全員が『誰』とは直接的に名前を挙げない『彼』が、小湯女達になんと思われているか如実にわかる一致団結の理由であった。

   ◆◇◆

「さてさて、首尾はどうなっているやら」
 もうその執念は金狐の掟云々からだいぶ外れた感のある、金狐鼓城。
 その金狐はおのれの画策の結末を見に、そして同時に花嫁を掻っ攫う為に油屋へと訪れていた。その場所はお客様専用の表玄関ではなく、従業員達の勝手口。伊達に千尋を追いかけまわして幾年月ではない。本来なら客が出入りしないような場所まで踏み込んで従業員達には煙たがられているが、お陰で隠し通路や勝手口なども把握してしまった。とは言うものの、外見上は尊大でふんぞり返った、金糸銀糸に彩られた豪奢な絹を纏った金狐様がこそこそこそこそ廊下の先を伺いながら抜き足差し足忍び足をしている様はなんとも滑稽この上なく。本人まったくその点に気がついていないのは幸か不幸か。
「ふっふっふ。これでもう『軟弱者』『人の娘に振りまわされる痴れ者』呼ばわりされんぞ」
 壁に身体を押しつけじりじり進みながら、思わず笑みが零れてしまう。自分の耳には入っていないと思っているのか、周囲がなんと言っているのかしっかり把握していた鼓城であった。幼女趣味だとかロリコンだとか言われていることを知らないのは幸か不幸か判別つきがたいところではあったが。
「恨み千万の野狐の様子も楽しみであるし」
 ことあるごとに邪魔をするリンと帳場の管理人にはもうもうびっしり地中深くまで根を張る雑草に匹敵するほど恨みのある鼓城。今回は千尋の姉役であるリンに的を絞っており、そちらの首尾も楽しみである。一体どんな婆になっているのやら、おおいに物陰から笑ってやろうと決めていた。
「……それにあの闇砕の姫は明日からここに逗留予定だとの情報も入手してあるし」
 あまり浮かれてばかりもいけないだろうと、その事実をほっくりかえして気を引き締める。あの、無害そうでいて一番有害な姫がいない間に全部済ませてしまわなければならない。かの姫が関わってくると――否、彼女が同じ場所に存在しているだけで状況は坂道を転がるように悪化する。あの姫はいつでもどこでも火に油をそそぐことしかしない。なんでもないことを大騒動にする天然の天才だ。それはここ油屋の中だけでなく、それこそ、どこでもいつでも何度でも節操なく存在そのモノが迷惑極まりない。いるだけで疫病神、それ以外の何者でもない。
「まぁ、今日中にすべてカタはつく」
 明日にしかここにこない存在に心を奪われるのも愚かしいだろう、と鼓城は笹姫を心の中からさっさか追い出して、隠れていた物陰から忍び足で出てこようとした瞬間――背後で異様な殺気を感じてはっと振りかえった。


「……鼓城様」
 不機嫌不愉快オーラを隠す努力なんてするわけがないハクは、信じられない存在をみつけてその名を低く冷たい声色で呼んだ。
 なぜここにいるのだ金狐の鼓城。どうせまた百害あって一利なしな画策でも張り巡らせているのだろう。千尋にとっての鼓城、の意味を彼女が理解しておらずとも、もうもうハクにとっての鼓城とは『上得意のお客様』ではなく、大事な大事な花につくゲジゲジ毛虫以外の何者でもなかった。昨今の流行で言うならばチャドク蛾の幼虫か。彼にとっての大事な花には毛虫もアブラムシも天道虫も蝶々さえも近づけたくない傍迷惑な独占欲の塊である白竜。――そんなに大事大事にしている花自身に逃げまわられ、小湯女達が一致団結して彼を近づけないようにしているなどとは知らぬが花であるかもしれないが。
 そんなハクに気圧されながらも、鼓城は声を荒げた。
「帳場の若造か! 主などに用はない、去ね!」
 と言われて簡単に引き下がるハクではない。ここではいそうですか失礼しますと引き下がってはなにが起こるかわからないのであるし。毛虫は毛虫、害虫は排除すべきものである。
 ハクは素晴らしく冷たい笑みを浮かべてさらりと言ってのけた。
「おや鼓城様、本日はご宿泊名簿の中にお名前をみた記憶はないのですが?」
 逗留もされないのにこんな所においでと言うのは所謂『不法侵入罪適用』ですね? とハクは鼓城の襟首を細い指で優雅に掴み、足でしっかりとふさふさの尻尾を踏みつけて、にっこりと笑った。
「うぬぬ……。なれば部屋を取る! いつもの部屋に案内せよ」
「あいにくと鼓城様ほどの方をお通しできる特別室は全室埋まっております」
 にっこりと、邪気のないように見えるほどに邪気にまみれた笑顔で言いきった帳場の管理人。閑散期で、経営者が予約名簿を繰っては怒り狂っていようとも、この害虫を泊めるなんて真っ平御免である。
 ので、
「実は、特別室よりも格上の部屋を先ほど設けまして、是非とも鼓城様にお使い頂きたいのですが?」
 特別室よりもグレードが高い、成金趣味丸出しの湯婆婆好みの最上級室。その悪趣味さによって誰もが使いたがらない部屋だけが空いているとハクはにこにこにっこり笑顔で言いきった。
 その行為を第三者が見ていたならば、多分にヤツあたりやヨッキュウフマン解消が含まれていたと語るであろう笑顔であった。

   ◆◇◆

 さてさて、その後鼓城は『最高の部屋に最高の薬湯。最高の料理に最高のおもてなし』をとらされた挙句に、その日油屋に訪れた客全員に振るまい酒に振るまい湯をさせられ、油屋帳簿に数え上げて嬉しい数字を躍らせてくれた。誰の仕業かと言えば彼の仕業であるが、ハクはその様子と数字を嬉しげに眺め日頃の鬱憤を晴らしたとのこと。ある意味、一寸の虫にもあると言われている五分の魂すら許すつもりがないらしかった。完膚なきまでに懐の有り金を吐き出させる容赦のないたかり様であったと遠巻きに眺めていた従業員達の感想をハクは知りはしなかったが。
 が、そんな騒ぎの裏で『荻野千尋大きくなる』の事実を掴みそこね、後日それを伝え聞いたハクがおおいに残念がったのは自業自得のなにものでもなかったのであったがそれはそれ別の話。

 嬉しげに鼓城に高い酒や薬湯を吹っ掛けているろくでもない管理人の様子を伺いながら、千尋をかばっていた小湯女達が
「一番敵にまわしちゃいけない人を敵にまわしたかもしれないよ、あたし達!」
 と抱き合って、千尋が大きくなった事実を伏せていたとばれた時のことを考えて涙している状況もまた別の話で。

 そして同時に、大宴会を繰り広げている最中に笹姫が予定を繰り上げてすでに油屋に来ているのだと知った鼓城が
「あんっの特大厄病神!」
 と叫んでやけ酒をかっくらったのもまた別の話。その上に、最上級室の趣味の悪さに寝付けもせず、げっそりとした彼が翌朝ふらふらと自分のお社ヘと逃げかえったのもまた別の話。
 その先で、お社に仕える部下狐達が気をまわし、油屋への届物をあちらの世界の桃にしたと聞いて企てのしょっぱなから躓いていたのだと知り茫然とした間抜け面を鼓城がさらしたのもまた別の話だ。

 鼓城が来ているとは知らず『東雲の間』で泣き濡れていた千尋が元に戻るまではらはらどきどきとしつつ笹姫の着せ替え好きに心の中でげっそりしながら付き合うと言う不毛な時間を過ごしていたなんてのも、また別のお話。

 ただひとつ、笹姫だけが妙に上機嫌であったとだけ付け加えておく。




どうも長い間お付き合いくださいましてありがとうございました。
これにて『野生の楽園』は終了でございます。
『やー、なんか書きたいなー、おーわたしのかわりに仕事に来てくれた後輩、割れたものくらい修繕してってよー、陶人形の手がもげてるよー』からはじまったこのお話がよもや四部作になるとは思いませんでした。すこしでも楽しんで頂けたようなら書き手冥利に尽きると言うものです。