カプリブルー




   【1】

「あ」
 さめざめと湿っぽい細雨が降っていてセピア色に世界が染まっている午後、セーラー服の少女が青い空のかけら色した傘の中で小さく声をたてた。さらさらと傘を濡らす雨にも掻き消えそうな声を。
 住宅街と住宅街の境目にある、歩く者など大型犬の散歩に来ている住人や一区間のバス代をけちろうとしている者や、安いスーパーへ突撃をかけた自転車に乗った主婦や、あとは隣の住宅地にある高校に通う学生くらいで、ほとんど車専用と化している道路。両脇には建物もなくまばらに木が生えているだけで、ガードレールさえもない、町と町との中間にある中途半端なわたり道。
 真っ直ぐに敷かれた灰色のアスファルトは、雨に打たれて白く滲んでいた。細い木は薄い葉に雨を受けゆらゆらと宙を漂っていた。
 腰にまで届こうかと思うほどに長いポニーテールの髪先をゆらゆらと揺らせ、その少女は真っ直ぐに歩いていたその道からそれ、道に併行して流れている川の方へと足を向けた。その少女の行動に視線をやる者などもはじめからいなかったので、誰も彼女のいつもとは異なる行動を咎めたりはしなかった。
 川のぎりぎりまでを生白い色をした防波ブロックで覆ったその頂点とアスファルトの境目に立ち、少女は川の流れを見下ろす。
 さらさらと降り続ける雨が青い傘を伝い落ち、少女と外界を隔てる薄い水の膜となっていた。
 足元には、生命たくましい雑草が、ブロックとアスファルトの隙間からその身をねじり出すようにして生えていた。
 櫻もとうに散り行き葉櫻となった春を越えた季節のぬくみは、間断なく降り続く雫に冷やされてひやりとしていた。
 雨雲が薄く低く垂れ込めているからか、はたまた時間がもう夕刻であるからか、上空から夕日に照らされた空はなんともノスタルジックな色を帯びて世界を染め上げていて、陰鬱なばかりの雨の日とは少しばかり違って見えた。
 本日は鬱陶しいほどの細い細い霧雨のような雨であったけれど、昨日もその前の日もバケツの底が抜けたかと思えるほどの豪雨が続き、目の前に横たわる川は狂ったようにどうどうと空気を揺るがせて大量の水を下流へと押し流していた。まるで、空から降ってきた水がそのまま川へと流れ込んでいるかのような勢いだ。
 ミルクをたっぷりと入れたコーヒー色の流れに押し流されるようにして沈没している、普段はゆらゆらと風に揺れているはずの葦が、どれだけ川が増水しているのかをまざまざと少女に知らしめていた。通学の為にこの川沿いの道を歩き始めてもう一年以上、あの葦がどんなに背が高いのか少女はよくよく知っていた。
 きっとわたしの背丈より高いに違いない。
 とそこまで考えて、少女は小さく笑った。
 わたし、クラスでも中くらいの身長だから、それと比べては葦が気を悪くするだろうけど。
 濁りきり荒れ狂った川の流れを無言で見つめていた少女は、つと隣に視線をやった。そこには、少女と同じように川を見つめている少年がひとり。――否、少女がその少年の真似をして川を見つめていたのだ。ふたり並んで、静かに。けれども少年の横顔は見えなかった。肩の上ですっきりと切り落とした髪に、川を見つめている為に俯いた角度で、ちょうど顔が見えなかった。白い衣の袖から伸びた白い手は、見ようによってはこぶしに見えた。無表情でありながら、なにか御せない感情の塊を抱え込んででもいるかのような、こぶし。
「あなた、元いたところに戻った方がいいよ」
 流されてしまうよ、とひっそりと少女は口にした。その目はもう隣を見ておらず、茶色く濁った川の流れを再び見つめていた。目の前には狂った川があったが、俗世界から隔ててくれる優しい雨の感触も、隣に立つ少年の雰囲気もしんと静まり返って、少女にはたいそう心地がよかった。
 青い傘には水滴が降りかかりさぁさぁと音をたてていたが、少年は傘も持たずにそこにいた。けれども細い雨は少年の頭や髪や肩や時代がかった衣服をしとどに濡らしているわけではなかった。
 少女は少年の静かな後ろ姿を見つけて声を上げた時からその不思議には気がついていたが、それを不思議にも感じていなかった。後ろ姿だけしか見ていないが、年の頃は十二・三か。なにものをも受けつけない雰囲気を漂わせた細い背中は、その年頃には不釣合いなもの。
『私が、川に――?』
 少年も隣を見ようとはせず、けれども少女の言葉に少しばかり興味を惹かれたのか、なんの表情ものぼらせていなかった顔を少しだけあげ、言葉を発した。どこか存在感に薄い声だった。まるでアスファルトが弾いた雨が喋っているようだった。
『川に、流されると?』
 少女はその顔を見ようと動きはしなかった。こちらの横顔を見上げている不思議そうな視線を感じながらも、少女はただ川を真っ直ぐに見つめ続けていた。雨は変わらず降り続いている。
 しとしと しとしと。耳に心地よい雨の音と、どうどうと地響く川の音。そのアンバランスさの境目に立ち、少女は川を見下ろす。
「うぅん、違うよ。わたし、何回かあなたみたいなヒト、見てきたんだけど、そのうちみんなそこから離れられなくなったり、風に流されてしまうの。だからはやく元いたところに帰った方がいいわ、こんな寂しいところにいないで」
 流されてしまうのならいいけど、そこから離れられなくなったヒト達はね、なんだか怖がられてるよ。『あそこ、怖いのがいる』って指差されたりして。みんな悲しそうな顔したり怒ったりした後で、ゆっくり時間をかけて最後には消えていくの。恐ろしく、苦しそうな顔をしたまま。
『そなたには異形の者どもが見える?』
「異形? ふぅん、あのヒト達、異形って言うのね」
 と少女は確認の為に隣へと視線をやろうと顔をあげ、その顔をすぐにまた川へと向けざるを得なかった。さぁさぁと細い雨が降る川沿いのその道には少女の他に誰もおらず、増水した川がどうどうと音たてて唸っているばかりであったからだ。
 少年の姿は細く降り続けるこの雨か、はたまたセピア色に染まった世界が滲んで見せた幻か。少年の声は雨に打たれた雑草か、はたまや川の唸りが聞かせた幻であったのかもしれない。
「まぁいいか。元いたところに戻ったのかもしれないし」
 少女はその道に白い車が一台通りかかりライトに照らし出されるまで、ぼんやりと川を見つめていた。
 川は変わらずどうどうと地響きにも似た音をたて、流れ続けていた。


「千尋、あなた、なんだか顔が赤いわよ」
 さぁさぁと降り続けた長雨は月が山の端から顔を覗かせる頃には止み、止んだと思えば雨雲はあっという間に山の向こう側へと退散してしまった。月がその姿を中空ヘと晒した頃には、澄み渡った夜空だけが残されていた。夏の配置へと移行しようとする星座がくっきりと空に刻まれていたが、家々に灯る明かりに邪魔されてどこかうすぼんやりとした形にしか見えない。
 そんな時間帯のとある家庭の夕食風景では、そんな言葉が飛び出していた。
「赤い?」
「熱があるのじゃないの」
 千尋と呼ばれた少女の皿に盛られた母親お手製のライスコロッケの攻略も遅く、それよりもはっきりと少女の視点もぼんやりとふらふらして頼りない。手にした箸はサラダのトマトを突ついているだけで、そこから先に進もうとしなかった。
「うん、もしかしたらあるかも」
 ならさっさとお風呂入って寝なさい、明日は休みなんだし。
 父親が残業続きで母娘ふたりきりの食卓となると、元から切って捨てたような口調に磨きがかかる母親の台詞。端的な言葉で命令口調になる母親になにを言う気力もなく、千尋は黙って頷いた。熱があるのではないかと指摘をされたら途端に体が熱いことに気がつき、それと同じく眠くて仕方がなくなったのだ。
 最近ならそんな命令口調を母親が使おうものなら
「そんな言い方してたらお父さんに怖がられちゃうわよ」
 と笑って混ぜっ返すのに、それすらもできなかった。
「長くつかってちゃ駄目よ。さっと体を洗う程度で上がりなさい」
 お風呂は存外疲れるのだから。
 と悠子は娘の皿を下げがてらてきぱきと言葉を投げてくる。その口調のそっけなさはいつものことで、風呂に関して文句をつけてくるもの相変わらずであったが、その中に確かに母らしい気遣いがあるのだとはもうわかっていた千尋であったので「うん」と返事をするだけに留めた。


 母親に言われた通りにおざなりに風呂から上がった千尋は、自室のベッドの上にぽてんと倒れていた。枕元に置いたランプのオレンジ色をした柔らかな光に包まれて、体を仔猫のように丸めてぼんやりとしている。そうしていると、やがてやってくるだろう眩暈がすこしなりとやわらぐのだ。間接照明のランプの色は瞼裏にまで侵食しようとはしない自己主張に乏しい色で、千尋はそれが気に入っていた。部屋の隅にわだかまった薄い闇も心地が良かった。
 千尋はこの熱の原因であろう正体をおぼろげながら悟っていた。それは、きっと、夕方に出会った白い少年なのだろう。なぜなら、千尋が微熱を出して夜にはひどい眩暈に襲われるのは、いつでもあのような不確かな者達を見たり、近くに寄ったりした日の夜であったのだから。
 彼らとの接触が原因なのだろうとはおぼろげながらわかってはいたが、それでも千尋は彼らをほうっておく気にはならなかった。なにができるわけでもないけれど、そっと寄り添って、聞いていてくれるともわからないながらも言葉をかける。元いたところに戻った方がいいよ――と。戻れるのなら、戻った方が良い、と。どうして戻らなければいけないのか、そしてそれをどうして勧めているのかは、千尋自身にも理由がわからなかったけれど。
「あの子、返事したなぁ」
 両手を赤ん坊のように柔らかく丸めたまま、千尋が呟く。
 彼らはいつでもこちらを無視してゆらゆらと揺れて奇声を低く漏らしたり、一点を見つめてじっとしていたりするだけで、会話のひつとも成り立った試しがない。なのに、今日は会話をした。こちらに興味を示した。こちらを向いた気配までした。けれど、風に吹き消されそうに薄い気配だったので、こちらが真向かったらそのまま彼は消えてしまいそうで千尋はじっと動かなかったのだ。
 あの時傘を傾けて顔を上げれば良かったかもしれない、そうしたらはじめて彼らと真向かって会話ができたかもしれないのに。だが、そこまでするには千尋には勇気が足りなかった。彼らはこちらに害意はないとわかっていたけれど、それでもやはり得体の知れないモノだったので。
 それでも彼らが気になっているこの気持ちのありようはなになのだろう?
 千尋はとろとろと睡眠の海に溺れながら、ゆっくりと考えていた。


 翌朝は、ここ三日間の雨が嘘みたいに綺麗に晴れ上がった空であった。びしょ濡れになっていた庭木も朝露に濡れているばかりで、陽光を受けてきらきらと輝いている。家前の道路はまだ半乾きでまだらであった。
「あら、もう少し寝ていればいいのに」
 朝の七時。学校のある日の起床時間とあまり変わらない時間に起きてきた娘に、自分用のクロワッサンをふたつ温め直していた悠子は驚きの混じった声をあげた。
「千尋、今日は日曜だって覚えてる?」
 お母さんおはよう、と挨拶したきり椅子に座ってぼぅっとし、口を開こうとしない娘の為にミルクを注ぎながら、そんな確認を改めてしてしまうほどに千尋はぼんやりとしていた。
 旦那である明夫は本日が日曜であるとしっかりと覚えていて、遅寝を決め込んでいるのか、起きてくる気配ひとつない。日曜の朝食くらい家族揃ってとりたい、などとは口が裂けても言えない望みになってしまっていると、そのテーブルにつく者達は心のどこかでなんとなく悟って諦めていた。
『わたしが寝ている間にお父さん、帰ってきたの?』
 なんて会話のひとつもでてこない現状に慣れ切ってしまっていた。
「うん、覚えてるよ。目が覚めたから」
「そう、それならいいけど」
 ちょうどほっくりと温まったクロワッサンの片方を千尋の皿に入れてやるが、千尋はそれに手をつけて一口分にちぎったはいいが、なかなか口に運ぼうとしない。大きくとった窓際に設置した食卓テーブルに腰をかけ、全身に朝の光を浴びて白く輝いているが、その顔はどこか青みを帯びた白だった。
「千尋、大丈夫なの? 顔が青いわよ」
 すると、千尋はゆったりと微笑んだ。どこか夢見心地の、不安定な笑みだった。
「うん、大丈夫なの。お母さん、わたし、あとですこし出かけてくるね」
「出かけるって、北門さんち?」
「ううん、ちょっとね」
 白い光に包まれたまま穏やかに会話する千尋の横顔に、時折悠子ははっとさせられる時がある。今確かにここに存在しているのに果てしもなく遠い水辺の風景を臨んでいるかのような、見知らぬ少女を見ている心地に襲われるのだ。このような、若い娘には似合わない、大人びて、落ち着いていて、それでいて不安定な微笑を浮かべている時は。
 透徹とした眸に、穏やかな表情、滑らかな頬の線。どこを見ているのかもわからぬ視線の先を覗きこんでみたくなる。生まれた時から知っているはずの茶色味を帯びた黒い眸が違う色に染まっているのではないかと不安になる。遠い空の、または深い水の青でも、五月の新緑を映しこんだ色でも、ルビーのような赤い眸になっていても不思議には思わないだろう。
 淡い色のカットソーにデニム地のロングスカートの、この年頃にしては洒落っけに足りない娘ではあったが、誰よりも美しく見える一瞬だ。ガラス細工の危うい美しさで、とても綺麗だけれどどうしようもなく不安を呼び覚ます。
「……千尋?」
「ん? なに?」
 ふとこちらを見やった千尋の視線はよく知った娘のもので、悠子は内心で小さく安堵の息を吐き出す。あれは目の錯覚だ、ともう何度目になるのかわからない呪文を無意識に唱える。
「気をつけていってらっしゃい」
 それだけを告げるのが精一杯であった。  
 千尋は、近場に散歩に行く格好で、手にはなにも持たずに家を出た。昨今の高校生であれば携帯電話は必需品であろうに、この少女はそれをなぜか持ちたがらなかった。別段話す相手がいないわけでもなく、『ケータイなんていらない』と強がっているわけでもなく、拘束感を嫌うわけでもない。ただ単に、散歩にまで持ち歩くだけの必要性を感じなかっただけであった。それと、今から赴く場所には、携帯電話なんて無粋なものに邪魔されたくはなかった。
 三日も降り続いた雨が空の汚れを拭い去ったのか、肺に送り込む空気はすがすがしくてどこか甘味さえ感じられた。千尋は大きく深呼吸を繰り返しながら、時折すれ違う車を見送って住宅地から伸びている道を下っていった。
 やがて辿りついたのは、山間部に落ち窪むようにして走る、町と町のわたり道。そこだけは妙に人から忘れられた場所であるのか、派手派手しい看板もなく、ただ数本の木と、乗り降りをする者も稀なバスの停留所があるばかりだ。バス停表示は錆が浮き、もうじき腐食が始まりそうな有様であった。
 その道に併行して流れているのは、昨日千尋が見つめていた川だ。昨日よりかは水量も減り、水色も透き通ってきたが、まだまだ川は唸っていた。泥水から少しばかり顔を出した葦は苦しそうであった。
 千尋は昨日の少年にまた会えるかと思ってここに来たのだ。大抵彼らと出会った時は、幾度か同じ場所に行くようにしていた。もしかしたら彼はもう元いた場所にもどったかもしれないと――または、あれはわたしの目の錯覚なのだと確認をしに。その度に千尋は胸の中になんとも表現できない気持ちがあるのを確認するのだ。昨日と同じ場所でわだかまっている彼らを見るたびに。
 けれど、昨日の少年はそこにはいなかった。時代劇めいた白い着物に、童人形のように肩の上でまっすぐに切り揃えた髪。特徴的な雰囲気を持ったその背中は明るい朝の光の下では存在できもしないとでも言うかのように見当たらなかった。
「あの子、いない」
 千尋はその今までとは違う存在に、それでも軽く肩をすくめながらきびすを返そうとしかけたのだが――ふと川の中央に見つけた白い姿に竦んでしまった。
「あの子……っ」
 昨日よりかはマシとは言え、まだまだ荒れ狂っている川のただ中に、千尋が探していた細い背中があった。ようやく肩の上だけが出ている状態で、その白い着物もすっかり水に浸かっていたけれど。小柄な姿は、今にも荒れた泥水に飲まれてしまいそうだった。ほんの少し荒れた水の流れが来ただけで、あっという間にか下流へと押し流されそうな、危うい姿。
「どうしてっ!」
 千尋はその背中を凝視して、ぎゅっと両の手の平を握りしめた。頭が混乱しそうだった。彼らはきっと生きていない。川の中に入っても問題ない。けれど……なまじ『ヒトの姿』をとっているだけに、助けなければと心が悲鳴をあげるのだ。泥色の水を掻き分けるようにして向こう側に向かっている小さな背中。
 千尋はぐらぐらとする心を抱えて一歩を踏み出し、白い防破ブロックを駆け下りようとしたのだが――千尋はなんの前触れもなく――突然その上に崩折れてしまった。倒れ伏した千尋の顔色は、これ以上ないほどに真っ青だった。
 ほうぼうと生えた草の上に、生白い防破ブロックの上に起きた鈍い音に振り返ったのは――たったひとりしかそこにはいなかった。

   【2】

 千尋は頬に柔らかな感触を感じて、ゆっくりとまぶたを押し上げた。指先に感じるものと頬に感じるものはよく似ていて、太陽の柔らかい匂いがした。薄ぼんやりとした視界にうつったのは、緑と透き通った青だった。木陰に吹く風は穏やかで、たいそう気持ちが良かった。
「わたし……?」
 ここはどこだろう。どうみても山の中なのだけれど。
 柔らかな下草が広がっている木の下に千尋は倒れていた。けれども、千尋自身にはそんな場所に来た記憶などなくて、上半身を起こしてその木洩れ日をぼんやりと見つめるしかできなかった。覚えているのは、なにかとてつもない焦燥感と、体調の悪さだけであったのに……幻を見ているのかと長い睫毛を何度もしばたたかせるが、景色が変わるわけもなかった。
「わたし、どうして……」
 額に右手をやりとっくりと考えこむが、どうにもこの現状を理解する手がかりはなく、意識はまたもやぼんやりと緑に飲みこまれていく。
 ここはたいそう気持ちの良い、心が落ち着く場所だ。気がつけば、昨夜から全身を抱きすくめていた微熱も眩暈もなくなっていた。
「あぁ、わたし、倒れたのじゃなかったかしら」
 ふと、左手にできた小さな擦り傷を見つけて、千尋はぼんやりと微笑んだ。擦り傷を見つけると、次々と記憶が甦ってきた。
 わたしは確か、川に行ったの。朝から気分が悪かったけれど、川に行ったの。でも倒れた。なにかを見つけて……叫ぼうとして……
「そう、あの子――」
 昨日の子が、川にいた。それを見つけて、助けようと思ったけれど……体がついていかなくて、倒れた。ひどい吐き気が胸にあったから……
「あの子は?」
『それは、私のこと?』
 つと振り返ったそこに、声の主がいた。はじめは川のほとりで見つけ、次は川のただなかで見つけた白い少年が、今は同じ木の下にいた。どこまでも自然に、その木の下に立ち、千尋を見下ろしていた。泥水の川に入っていたにもかかわらず、一点の汚れも見受けられない白い衣をまとって。けれども、葉の隙間から零れ落ちてくる白い光に掻き消えそうなほどに薄い姿であった。
 穏やかな翡翠色の眸の綺麗なイキモノだ、と千尋は感じた。日本人の顔立ちにその色の眸は際だっていた。鮮やかな翡翠色は不思議な印象を与えるが、やはり存在が希薄なせいなのか、どこか薄い色に見えた。
 千尋は、彼らに真正面から向き合ったのははじめてなのだと改めて気がついた。今までの彼らも、本当はこんなにも穏やかな目をしていたのだろうか、今となってはわからないけれど。
「あなた、元いた場所はここなの?」
 こっくりと小首を傾げながら問いかけると、少年はゆっくりと首をふった。肩先で揺れる髪の色は不思議な色合いだった。
「元いたところはどこ?」
 その問いに、少年は潔癖そうな唇をさらに引き結んだ。そして、千尋が悪いことを聞いたのだろうかと不安になった頃、ようやく口を開いた。
『私には、元いたところが、わからないのだ』
 その、どこかぶつぎれな言葉に、千尋は目を臥せた。木洩れ日が目に入りこんで眩しかったからではなかった。
「ごめんなさい、悪いこと聞いちゃったわ」
 許してくれる――?
 千尋は目を臥せたまま問いかけた。どうにもこの少年に嫌われるのは嫌だった。否、この少年に不快な思いを抱かせただろう自分の存在が嫌だった。自分の膝の上で、きゅっと両手をにぎりしめる。
『許すもなにも、私は怒ってなどいない』
 それよりも、どうしてそなたはあの日あんな場所にいたの――?
 頭上から降ってきた質問に、千尋は頭を上げた。彼らに質問をされるなど予想もしていなかったので。
「あの日?」
『雨が降っていた時。荒れた川など、そなたみたいに若い娘には楽しいものではないだろうに』
 少年の時代劇がかった口調や、こちらを子供扱いしている口調に、千尋はくすりと微笑んだ。外見だけを比べてみれば、こちらの方が年上であるのに、彼にその口調はこの上もなく似つかわしくて微笑ましかった。
「あそこ、通学路なの。晴れてても雨が降ってても通るよ」
 ふぅん、と少年はその返答に興味のなさそうな相槌を打った。
「あなたこそ、どうしてあそこにいたの? あの川に懐かしい思い出でもあったの?」
 細い細い雨に包まれて濁った川を見つめていた背中は、気配の薄さよりもその郷愁を強く呼び起こす愛しさが滲み出ていて、千尋の目に鮮やかにうつった。だからこそ千尋は、隣に立ち、同じように川を見つめた。そうしたいと思わせたのだ。その背中が見つめるものは、自分にとっても愛しくて懐かしいものである気がした。
『いや、わからない。私はなにも覚えていない』
「覚えていない?」
 肩の上ですっきりと切り揃えられた少年の髪がかすかに揺れた。
『そう、なにも。あの川となにかがあったのかも、なにも』
 あの川に入ってみたのは――もしかしたらそここそが私の居場所ではないかと思ったから。
 なんの感情も含まない声色で語る少年に、千尋は少しばかり哀しさを抱いた。
「……自分の名前も?」
『なにもかも。なにひとつ覚えていない。おのれの名前も、どこにいたのかも――何者なのかも』
 まさか、との言葉を千尋は飲みこんだ。その気持ちはよくわかる。千尋にも経験があったのだ。都会から田舎に引っ越してきたその境の一週間の記憶が千尋にはない。両親とともに一週間もの間行方不明になり、その間の記憶が三人ともぽっかりと抜け落ちていたのだ。否、一週間もの時間が自分達をよけて流れてしまったのだとしか考えられなかった。けれど、そうであったとしてもその事実をにわかには信じられなかったあの気持ちを覚えている。
『覚えているはずだろう』
『覚えていないはずがない』
 周囲の言葉にどんなに追いたてられても、覚えていないものは覚えていない。そんなに責められてもどうしようもないと叫びたかった幼い日の自分を思い出して、千尋はゆったりと笑った。
「わたしと同じね。わたしも、思い出したいのに思い出せない記憶があるの」
 そこに大切ななにかがあった気がするのに、思い出せないの、わたしも。
『そなたも?』
「えぇ、だから、一緒」
 少年はその、普通の少女であれば賛同などしないであろう話で「一緒」だと言ってくる千尋の感性に、少しばかり笑った。自分自身でも『なにも覚えていない』状況が尋常ではないのだと自覚していたので、尚更千尋の感性が不思議に感じられた。なにを忘れてもそれだけは覚えているであろう『名前』さえも忘れているのだと告げても、彼女はさして驚いた様子ではなかった。もう少し話してみたい気になった。
『ここは……人里から離れていて落ちつくから、居付いているだけだ』
「うん、ここ、いいね。緑がとっても綺麗。風が気持ちいい」
 頭上の緑や透かして見える青い空をうっとりと見やり、千尋は深呼吸をした。緑や水の独特な甘味を全身で味わっているようだった。耳には小鳥のさえずりや、樹木や揺れる音がころころと転がり込んでくる。近くに花の群生でもあるのか、目を閉じて意識を澄ませると甘い香りもする。
『そなたは……その、少し変わっている』
 そう? と千尋は少年をちらりと見やり小首を傾げた。その視線は、緑や自生の花を見るのとなんら変わらない視線だった。腰まである長い髪は耳の脇で小さなガラス細工を施した髪止めで止めてあるだけで、それがきらりと光を弾いて瞬いた。艶やかな茶色味を帯びた髪が肩から零れる。
 いきなりこんな場所に連れられてきて、こんな話をしているのに、千尋はうろたえたのははじめの一時だけで、今はまわりの樹木と同じように自然にそこにいた。その様子は、少年の目にも不思議にうつった。
『ヒト』はこんなにも超然とした雰囲気を纏う者ではなかったと認識しているのに、この少女はなんと不思議な。そう思わずにはいられなかった。
 けれども、
「あ、どうしよう、今何時くらいなんだろう?」
 うろたえもせずに話をしている現状が不思議だと思った瞬間後に、目の前の少女は高くのぼった太陽のかけらをとらえて慌てふためきだした。まだ正午にはほど遠い光ではあったけれど、朝食後すぐに家をでたことを考えれば長い時間行方不明になっているのではないだろうか。
「時計、時計持って来てないっ。あんまり遅くなったら、お母さん心配しちゃうかもっ」
 わたわたと立ち上がりかけた千尋は、足首まである長いスカートに足をとられ、中途半端な体勢で転びかけた。
『危ないっ!』
 少年もとっさに腕をのべ、前のめりに倒れそうになった千尋の体を抱き止めた。
「ひゃ、わ、ありがとう」
 どこか希薄な少年の体に支えられて、
『うわぁ掴まれるんだ』
 などと頭の隅で考えながら、千尋は感謝の言葉を述べた。質感の感じられない、やわやわとした霞の集合体のような、色味まで薄い少年の姿にしがみついていると、そのまま地面にすりぬけてしまいそうな不安定さがある。夢の中で雲に乗っている錯覚と似ている気がする。ほのかにあたたかいのだ。
『そなたは随分と印象がちぐはぐだ』
 千尋の上半身を抱えこむようにして抱き止めながら、少年がそんな不可思議な言葉を紡ぐ。どこか単調な声色で。
 川元で隣り合った時の、不思議な存在を見つめる澄んだ瞳。倒れ臥していた時の青い顔。尋常ならざる存在を認識しておきながら泰然とした態度もとれるくせに、なんてことのない問題で大慌てして転びそうになる。なんとちぐはぐな少女だろう。どこか感覚の鈍いおのれの頬に触れる髪は艶やかで、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「ちぐはぐ……?」
 きょとんとした目で見上げてくる腕の中の少女に、元から表情に乏しかった白い顔をますます能面のようにさせ、
『いや、いい。ここがどこだかわからぬだろう?』
 ヒトのつくった道まで送っていく、と少年は千尋をさりげなく解放するのであった。

   【3】

「そろそろ返事が聴きたいんだけど」
 そんな言葉で千尋が誘いさだれたのは、三階建て校舎の屋上だった。午後の授業も終わり、部活に向かう者達がざわざわと活動場所に赴く時間。運動部だろうか、走り込みをしながらの威勢の良い掛け声がわんわんと響いていた。
 夕方の冷たさを含んだ風がゆるゆると吹いていて、千尋の長い髪を乱しては遊んでいた。千尋は乱れた髪をかきあげようともせず、吹かれるにまかせていた。腕を軽くもたれさせた屋上の柵の向こう側、眼下に広がる鈍い灰色をした町並みをただ眺めている。空の端には薄い雲がたなびいていて、やがて訪れる夜の深さを予感させていた。
 陽光も弱まった薄い青空に包まれたその後ろ姿を見つめながら、じっと『返事』を待っているのは、三年生の男子生徒だ。千尋よりも背が高く、細面の、今時の顔をした綺麗な男であった。しゃんと着こなした制服に風になびく髪と、高校生らしい清潔感が漂っていた。
 荒事など一度もしたことのない、学校と塾と家の往復で今まで生きてきたような細い指をした手が、今は真剣に握りこぶしをつくって返事を待っていた。寒さで震えそうになっているわけではないこぶしを、その持ち主に背を向けたままである千尋は見ることはなかった。
「桂木先輩、受験生じゃないですか。こんなことしててもいいんですか?」
 こちらをちらとも見ようともせず、校舎の柵に両腕をかけたままの姿で、千尋が風に聴かせるでもなく言葉を紡ぐ。まるで、『桂木』と呼びかけてはいたが、彼など存在していないかのような口調であった。ひらりと煽られた制服のスカートから伸びた足はすらりとし、白い半袖のセーラー服から続く細い腕は陽に焼かれていないかのように白くしなやかだ。
「東大、がんばってくださいね。先輩なら大丈夫ですよ」
 細い背中を緩く覆った髪が桂木の目の前で踊っていた。その背中は思わず抱きしめたくなるほど儚い。言葉はどうあれ、内容をよくよく考えればあからさまな断わりの色を含ませた千尋の返事を振り解き、その背中を抱きしめてしまいたくなる誘惑が桂木の中に湧き上がる。けれども桂木は必死に堪えた。
 聖性。犯さざる者の雰囲気を纏った少女のそれは守りたくなる衝動と汚したくなる衝動を等しく湧きあがらせるのだ。それは、桂木だけではなく、千尋の周囲に存在する人間の胸に常にある衝動。または絶対な崇拝にも似た感情を、千尋は周囲へと無意識に振り撒いていた。そんなことに千尋自身は少しも気がついていなかったが。
「……それが返事か」
「これが返事です」
 最初から最後までこちらを見ようとしない背中に、こくりと頷いたらしい髪の乱れに、それでもしんと心が静まるのを感じながら、桂木はきびすを返して階段を駆け下りるのだった。
 仕方がないのだ、と潔く諦めがつく。あの背中を見つめていれば。握りしめていたこぶしはいつの間にか脱力して解けてしまって頼りない空気を掴むばかりだ。本当ならあの白い手をとりたいのに、その欲があるのに。
 仕方がないのだ、彼女はすべてを包み込むような、穏やかな澄んだ目をしているのに――その背中は一切を拒絶した雰囲気を纏っているのだから。
 ――それが『荻野千尋』の名を持つイキモノであるのだから。


「やぁやぁオギノチヒロちゃん、これで何人目?」
「誠先輩」
 屋上からおりる階段の踊り場の壁にだらしなくもたれかかっていたのは、背の高い女子生徒であった。千尋と同じセーラー服とは思えないほどに着崩した制服に、ぼさぼさとした脱色しているのであろう明るい髪。腕にはジャラジャラとアクセサリーがひしめきあっていた。千尋とは真反対の人種がそこにいた。
 千尋と同じように膝丈まであったはずのプリーツスカートからは、健康的な白い大腿部がおしげもなくさらされている。千尋よりも頭半分背の高いその女子生徒が壁にもたれかかってようやく千尋と目線があうくらいだ。
「なにがですか?」
 黒めがちな目をきょとんとさせて小首を傾げた千尋の鼻先に指をつきつけた『誠先輩』と呼ばれた桐原 誠は、
「中澤坊やに浜崎坊や、二年高橋、同じく橋本、そして今回の三年桂木。今年度に入って五人切り達成」
 チヒロちゃん、まだ六月に入ったばかりなんだけど快調だねぇ。絶好調だねぇ。
 と、名前を読み上げるごとに千尋の鼻先に指をつきつけながら、にっしっしっしっと笑った。細く整えられた眉が、楽しげな三日月を描いていた。
 千尋はつきつけられた指をすいと横に流し、まだ残っている階段を消化する為に足を動かした。後ろから誠がついてくる気配もする。乱雑に繰り出しているように見えて、誠は足音も立てずに歩く。千尋は彼女を良い意味で『野生動物』だと思っていた。それも、極彩色の動物だ。懐こい顔をして人の目の前にあらわれるけれど、けして懐きはしないイキモノ。けれど、その、こちらが気がつかなければ誤魔化されそうなほど巧妙に刻まれた他人を隔てる溝も、その雰囲気も、千尋にはどこか好ましかった。野生動物は嘘をつかないからだろうか、生きる為の知恵はあっても。
「二年生終るまでの目標は何人か教えて欲しいなーなんて」
「そんなの、目標でもなんでもないんですけど」
 とんとんっとリズム良く階段を降りるのにあわせて、千尋の長い髪がとんとんっと背中を叩く。艶やかな茶色味を帯びた髪のその動きにいちいち視線をやりながら誠は二階まで無言で通した。
 けれど、二階にある教室へ荷物を取りに向かおうとする千尋の背に、なにやら意味ありげな視線を送る。
「チヒロちゃーん、お嬢ちゃんの理想って、つまりどんなん?」
「だーかーらー誠先輩、そんなのなんてないんですってば」
 誰よりもなによりもやかましく目に入るであろう人種の誠を空気か何かと間違えている千尋は、それでも律儀に振り返ってそんな返事をのたまう。
「だってだってだって、今回の桂木はお似合いだと思ってたんだけどなー。桂木でも駄目ってなると、ホント、誰ならイイワケ??」
 こーんなにモテモテなのにどうして誰にも『うん』って言わないのかなぁ。彼氏作らないってことは、理想と現実のギャップが激しいのか、特定の人物がいるかくらいしかないじゃん。
「ってことは、狙ってるヤツがいるの?」
 勝手にこちらの心中を推理してくる誠に、千尋はくすりと笑みをのせた。もうどんなきっかけで知り合ったのかも覚えていないこの奇妙な先輩は、こちらからすれば発想どころか存在自体が奇抜だった。これで成績も上位に食い込んでいるのだから驚きだ。どんな育て方をされたらこの先輩ができあがるのだろう、千尋には思いもよらなかった。
「そんな人がいたら、誠先輩にはこっそりと教えてあげますよ」
 今日はこのお話はおしまいです、の意味をこめて、千尋はくるりと背を向けて教室の中へと姿を消した。誰かが教室の窓を開けっぱなしにしていたのだろう、扉の奥に姿が消えるまで、長い髪が風に吹かれて揺れていた。同じように揺れているだろう、胸元の青いリボンのひらめきは、見るまでもなく彼女に似合っていた。
「うーん、無駄に風をしょったお嬢ちゃんだよ、まったく」
 その後ろ姿を見送り、誠は常々思っていたことをぽろりと口にした、くらいの軽口でとんでもない言葉を吐くのであった。  


 千尋は、ひとりぽつぽつと隣町から続く川沿いの道を歩いていた。手には学生鞄と、弁当箱を入れたサブバッグがひとつ。カタカタ カタカタ と軽くなった弁当箱が聞こえないほど小さな音で鳴いている。
 よく手入れしてある革靴が踏みしめるアスファルトは、ようやく乾いた灰色になっていた。ここ暫くは梅雨に入っているわけでもないのに雨ばかりで、服も庭木もアスファルトも乾く暇もないほどであったことを考えると、乾いたアスファルトなど久し振りな気がしてくる。
 今日はようやくの晴れ間で、高台にある高校の屋上から眺めた景色は綺麗だった。千尋にとっての桂木への――否、彼らへの『返事』とは、心苦しさはあるもののどこかさっぱりとしたモノで、特段その為に申し訳なさを胸いっぱいに宿らせるモノでも、優越感にひたる原因にもなりはしなかった。今は誰とも付き合う気がまったくないから――だから付き合えないから――双方ともに時間の無駄にならないように、すっぱりと断わる。思わせぶりなことは言わない。ただそれだけであった。今の晴れ間のようなさっぱりとした対応を心がけていた。
「けど、別に、理想と違うから断わっているわけじゃないんだけど」
 思わずぽつりと呟いてしまう。
『もちろん、意中の人がいるからでもないのだけれど』
 と続けた頭の中で、ひらりと閃いたのは、薄い印象だけれどもとても綺麗な翡翠色。肩の上ですっきりと切り揃えた髪をした、年下の少年の朧な姿が浮かび上がって、すぐに消えてしまった。
「……なんであの子が」
 千尋は道に添って流れる川に視線を流し、考え込んだ。どうしてあの子の顔が浮かんだのだろう。たしかに、とても綺麗な子ではあったけれど、年下な上に、生きている人でもないだろうに。
「やっぱりあの子、死んでるのかしら」
 生きている存在であるはずはないだろう。生きているとしても『ヒト』ではないのかもしれない。
「昏睡状態の幽体離脱とか」
 そこまで考えて、千尋は『馬鹿らしい』の一言で思考を断ち切ろうとした。彼らが見えるのはもうどうしようもない事実で、彼らが尋常の『ヒト』でないことも事実だろうし、彼らへこちらからどんな働きかけもできないのも、もうわかりきったことなので、どれだけ考えても仕方がないだろう。
 それでも彼らの姿が見えると思わず見つめてしまうのは、もうどうしようもないほどの――けれども理由もわからない――未練と、習慣でしかないのだから。
「帰ろう。今日はお父さん、はやく帰って来るらしいし」
 ここ一ヶ月ばかり、父親とはまともに顔をあわせていない。その前は二ヶ月ほど顔をあわさなかった。顔をあわせたと言っても、今から思い返せばほんの一瞬にも満たない時間であった気がして、父親との距離が日に日に広がって、やがてそんな距離があったことすら忘れ果てて遠く離れたところから互いをちらちら見ているのが普通の感覚になってしまいそうで少しばかり怖い。『父親』とは、今ならまだ間に合うのではないかとも思うけれど、積極的にどうしようとも思わない、流されるに任せている、自分の中の消極的な事案であった。
「今日はお父さんの肩でも揉んであげようかな」
 父親への働きかけなんて、小学校の頃から止まったままだ。今時の高校生なら父親になにをするだろう。でも、いくら考えてもその他に思いもつかなかった。友達なんかは、父親と同じ歯磨き粉を使うのもいや、下着を一緒に洗わないで欲しいなどと言っているが、千尋はそこまで思うほどの接触に乏しかったので、彼女達の発言は異邦人の言葉に等しかった。
 そんな取り止めもない思考に溺れていたからか、はたまたそれ自体が薄い陽炎に似た存在であったからか、千尋はいつかの日のように防破ブロックの上に立っている少年の存在に近くなるまで気がつかなかった。
「あ」
 今日は、ようやく水位を下げてきた川を見つめているわけではなく、こちらをじっと見ていてなにやら気恥ずかしい。
「あなた」
 またここにいた。どうして?
 そんな質問が口をついてでてきそうになったが、千尋はゆっくりと足を動かして少年に近づくに留めた。何故だか、逃げてしまわれそうで怖かった。綺麗な翡翠色の眸は、すこしばかりこわばって見えた。防破ブロックやアスファルトの上に落ちていなければならない彼の影は、やはりないようであった。
「どうしたの?」
『いや、そなたがここを通るかもしれないと思って待っていた』
「……ありがとう」
 何故だか、嬉しかった。この少年が待っていてくれた、その事実が妙に嬉しくて、千尋は微笑んだ。たとえ、足元に影を刻めない存在であろうとも。
 けれども
『そなたに忠告があるから』
 千尋の微笑みに少しばかり影が落ちるのは仕方がない言葉であった。
「忠告?」
『もう、私達のような異形に近づいてはいけない。そなたは私に『流される。元いた場所に帰れ』と言ったけれど、それはそなたの方だ』
「どうして?」
『そなたにはわからない? 私はこの世界の理から外れた存在だ。そんなモノに近づいていいはずがないではないか』
 昨日倒れたのも、その為だろう? ここに翳りが見える。
 少年は細い指先で千尋の胸元をとんっと突いた。心臓のあたりだ。千尋は、その一瞬の接触に、ちりりとどこかが痛むのを感じた。触れられた指先から流れこむなにか――否、身体が作り出した微電流を感じていた。心臓が一瞬で熱くなった。
 細い指先がなにをしたのだろうかと視線をやるほんの僅かな時間の間に、もう指先は離れ、ふたりの間にあった距離も一歩分大きくなっていて、千尋は目を見張った。
『だから、もうここにはこない。そなたも、私達のような存在には近づかぬように』
 もう一歩分彼が遠くなったのは、少年が一歩分足を引いたからなのだと気がついたのは、次の瞬間だった。
「待って! 待って、お願い、行かないで!」
 もうこの子には会えなくなる! 会えなくなってしまう!
 千尋は少年が作った距離をまろぶようにして縮め、風変わりな衣の袖をひこうとしたのだが……
「えっ?!」
 するり、と千尋の指は衣をすりぬけ、なにもない空を掴んでいた。
「触れない……」
 自分の衣を貫いて空気をすうすうと掴んでいる少女の手を、少年もまた驚きの目で見つめたが、やがて、あぁとため息に似た息を吐き出した。細められた翡翠がつと見つめているのは、有り得ざる光景だ。
『わかっただろう? 私とそなたは違う存在だ。きっと触れ合ってはいけない世界に存在しているのだ』
「でも……でも、昨日は触れたわ。あなた、わたしを支えてくれたもの」
『川岸からそなたを運んだのも私だし。あの時は確かに触れられた』
「なら、どうして……?」
 掴むものを失った千尋の手はまだ空中に所在なげに伸ばされたままで、少年はその指先を包み込むように両手を伸ばした。その手は頼りない感触ではあったけれど、確かに千尋の手を包み込んだ。
「あなたからなら触れるってこと?」
『どうやらそうらしい』
 けれど、それはなんの解決にもならないよ。
 少年は、千尋の手を包み込む優しさとは正反対の色をのせて冷たく言い放った。
「あなた、ひどいね」
 その優しい手と冷たい言葉に包まれた千尋の口から出てきたのは、そんな言葉だった。
 水量をなくした川はしんと静まりかえっていたが、ふたりの間に落ちた沈黙が深くて水の流れる音がさらさらと耳につくのであった。