触 れ る




   【1】
 
 わたしは会いたいのに。あなたに……会いたいのに。

 少年は、ひとりで緑の中にいた。そこは、あの少女を連れてきた場所だった。ひっそりと静まりかえった山中に時折響くのは、風に揺れる樹木の歌や、夜の闇を動き回る獣達のたてるかすかな音くらいだ。下草に埋もれるように咲いている素朴な花々も、今は蕾を閉じて寝静まっている。
 昨日少女が背中を預けていたその幹に、今日は少年が同じように背中を預けていた。けれども、葉の隙間から覗く夜空や星の瞬きを見ているわけではなく、ただぼんやりと夜に落ち窪んだ樹木の葉を見るともなく見つめていた。ここ数日の雨のおかげで夜空も潤んで繊細な色に染まっていたのに、それに心惹かれはしないらしい。
 頭の中には少女の顔しかなかった。彼女はなぜかわからないが泣いた。白い滑らかな頬をゆっくりとすべっていくひとつぶの雫はたいそう美しかった。手の中に残る温かさが、寒暖などとは無縁であるだろうこの身まで熱くさせた。
『会いたい』
 なんて甘美な響きなのだろう。誰かに求められているおのれのありようは、なんとも素晴らしい存在なのではないだろうか。そんな錯覚さえ抱いてしまう。
 けれども、その理由がわからなかった。どうして彼女はそんなことを言ったのだろう。そして、その彼女の言葉はどうしておのれのこの胸にこんなにも甘く宿るのだろう。彼女はおのれとは相容れない存在であるのに――触れ合えもしない存在であるのに。その言葉ひとつで、また会いたいと思ってしまったこの心のありようは――??
 月を望む子供の我侭にも似たこの思いは、一体どうして……??


 泣いてしまった。どうしてだかわからないけれど。
 千尋は自室の窓の下にぺったりと座り込み、星空を眺めながら考えていた。風呂で十分にぬくもった身体がすっかりと冷え切ってしまうのにも構わずに。
 学校からの帰り道、そこで待っていた少年に忠告をされ、もう会わないと告げられて……悲しいと思う間もなく零れていたひとつぶの涙。それにより驚いたのは、彼ではなく千尋の方であった。
 彼らと自分が違う……似て異なる存在であるのだとはわかっていたのに、どうして彼と会えなくなると思ったらこんなに胸が痛いのだろう。今までの彼らにはこんな思いを抱かなかったのに。
 どうして『会いたい』などと口走ってしまったのだろう。これではまるで『彼』を特別視しているようではないか。聞きようによっては愛の告白ととられても仕方がない台詞ではないか。それでも千尋は構わなかった。あの時のこの言葉は、心の発露なのだから。嘘ではないのだから――理由はわからなくとも。
 千尋はパジャマの胸元をきゅっと握りしめる。自分の心臓を掴むかわりに。夕刻の光に包まれたあの一瞬に、彼によって産み出された熱を心臓ごと包み込むように。
 知らず溢れてくる涙で滲む視界には、細い月がうつっていた。切ない白い月だった。彼もまたこの月を見ているだろうか。同じものを見られるのだろうか……

   ◆◇◆

「ん? んん??」
 校門をくぐってすぐに、そんな変な声に背中を押され、そのまま掴まれた右手ごと校舎脇にと拉致された千尋は、犯人である誠に真正面から覗き込まれ、どうしたものかと思案していた。いつの間にやら学生鞄は誠の手に持っていかれ、逃げるに逃げられない状態にもなっていた。
 ほんの少し後ろにある校門には教師が立っていたけれど、そんな女子生徒ふたりの動きには注意を払うどころか振り向きもしなかった。校門脇に植えられた六月の青葉がやけに遠い。
「誠先輩、おはようございます」
 とりあえずにっこりと笑ってみる。けれども、誠は上からさらに
「んんん?」
 と覗きこんでくるばかりだ。誠の方が身長が高いので、どうにも身体全体で囲まれたような体勢になってしまう。こちらは鼻ぺちゃなのに、誠の鼻が高いのでもう少しでこっつんしそうである。
「あの、なにか?」
 彼女の珍行動には慣れっこになっているはずであるのに、珍しく冷や汗が背中を流れそうで、実は大変困っていた。この奇抜な先輩は、大雑把で傍若無人に見えて、なかなかするどい観察眼を持っているのだ。
「チヒロちゃん、あんた、昨日ちゃんと寝た?」
 ほら、鋭い。と、千尋は心の内だけで嘆息する。
「えぇ、寝ましたよ。十一時前には蒲団に入っていました」
 校舎の壁に押し付けられた背中がひやりとして気持ちが良い、今日の誠先輩の髪も爆発してるなぁ、見事に制服着崩してるなぁ、鞄ぺたんこだけどあれどうやってるんだろう、あ、新しいピアス可愛い、なんぞとあちこちに逃避思考をしながら返答していると、やはり鼻先にびしりと指先を突きつけられてしまった。
「それは『蒲団に入ってた』ってだけでしょ? 睡眠とは時間じゃなくて質が大事だ、質が!」
 いえだからそのあたりは別に先輩に迷惑かけているわけじゃないからほっといて欲しいんですけど。
 と言いたいのに言えない千尋の頬に、いつの間にやら誠は指を伸ばしてさわさわと触っていたりした。このままでは、耳の脇で留めただけになっている髪までなでなでされそうである。と言うか、校舎の裏に本体ごと拉致されそうな気もする。ちなみに、柔らかな腕の内側を撫でまわされこそばされたのは冬服から夏服に変わった頃で、まだ記憶に真新しい。
「あぁもうっ! 肌がちょっとかさついるっ! 顔色がちょっと悪いっ! 駄目じゃないのチヒロちゃんはすべすべ肌で気持ちいいイキモノなのにっ!!」
 その間も好き勝手にすべすべさわさわと頬を触りまくりつつ、真剣に悔しがっているらしい誠に、千尋は今度こそ本当の意味で笑った。
「えぇ、わかりました、ごめんなさい。今日からはちゃんと寝ます。誠先輩の為に」
「そうよ、ちゃんと寝なさいっ。誰のためでもなくあたしのたーめーにー。心配事があるってぇならあたしに言いなさーいっ」
 力強くどんっと自分の胸を叩いた誠の仕草と、起きたばかりなのに『今日ははやく寝るんだぞー』との言葉に、千尋はますます笑った。
 わたしは誠先輩に気にしてもらえるほど良い子じゃないし、わたしがどんな思いを抱えていても世の中はかわらず馬鹿みたいに平和なのだ。
 心の中で双方を軽蔑しながら、その言葉の冷たさを中和させるかのように――千尋は柔らかな笑みをのせるのだった。

   【2】

「どうせこんなことだろうと思っていたわ」
 そんな言葉とともに、千尋が少年の元まで自分から歩いて会いに行ったのは、忠告の翌日であった。ちゃんと寝ろ、はやく寝ろ、との誠のやかましい忠告をたったの数時間で綺麗にすっぽかした感じだ。
「どうせ、同じ場所にいるんだろうと思っていたの。だから、ここから離れない限り、わたしは何度でも会いに来るわ」
 翡翠色の眸いっぱいに驚きの色を浮かべた少年は、昨日泣き顔を見せた少女が同じ姿で、けれど本日は怒りを纏っているのを不思議そうに眺めていた。制服も鞄も髪型もいっしょなのに、表情が百八十度ひっくり返っていた。纏う色が違って見えた。昨日を空の色とするなら――今日は、火の色。目をぱちくりとさせる以外にどう反応をすればよいのやら。
『ふ……っ』
 木々から葉が一枚ゆっくりと舞い降りて少年の手の中に落ちるまでたっぷりと時間をかけた後、あまりにもおかしくて笑わずにはいられなかった。
 唐突に、くくくっと笑いを押し殺していながらも確実に――しかも盛大に笑い始めた少年の豹変ぶりに、今度は千尋が驚く番だ。薄い気配に透徹とした表情を浮かべていた彼が、口元と腹を押さえて笑いを堪えている。振動に揺れる髪先も、笑いを堪えて苦しそうな様子も、およそ『生きているヒトではないモノ』には思えないほどで儚くて綺麗で非現実めいていた。そうであっても、どこか現実離れして上品に見えるのは、彼が纏う独特な雰囲気ゆえか。
 周囲の緑が、彼の放つ波動に梢を揺らしているのか、ざわざわとざわめいて千尋を音で取り囲んだ。ざわざわと樹木が鳴くと、緑が二倍にも三倍にも伸びあがった感じがして少しばかりおっかなく、彼や自然を怒らせたのかと不安になってしまう。目の前には笑いを堪える綺麗な少年、背後はざわめく緑、そのアンバランスさに心はどうしても掻き乱されてしまう。
 なにかおかしなことを言っただろうか、この『ヒトならざる存在』をおかしくさせることを――または、怒らせることを。思わず心底から心配になってしまうし、焦ってもしまう。
「あのー……?」
 心配になりすぎて焦りすぎて、毒気を抜かれた千尋がようやく言葉を発したのは、少年が笑い出してかなりの時間がたってからだった。
『いや……いや、もういい。完敗だ。好きにすればいい。でも、私は何度でも忠告するだけだ』
 笑いをようやくひっこめて、けれども少年が語る言葉はそればかりであった。千尋はまたもや怒りにも似た感情が湧きあがりかけるのを感じて、それを必死に押さえつけた。言質は取った、今日はわたしの勝ちだ。そう自分を納得させて、唇を噛みしめるにとどめるのであった。


 言質を取ったので、千尋は翌日も同じ場所に赴いていた。
 もしかしたら、
『同じ場所にいる限り何度でも来る』
 そう告げてしまったので、彼はもうそこにはいないかもとの不安がなかったわけではないが、彼は同じ場所にいるだろう確信にも似た予感があった。今までの彼らは、見つけた場所からあまり遠くには行かない。まぁ、彼のように、会話が成立し、川から山までの行動範囲を持っているモノもいなかったので、もしかしたら彼らと彼は違う存在ではないのだろうかとの考えもできたのだけれども。
「でも、本当の本当にもしかしたら、あの笑いっぷりは『来てももういない』って意味があったのかも……」
 住宅街からほどほどの距離を歩いている途中、ふとそんなことを思いつくと自然足がはやくなった。とんとんとんっと背中を髪が叩くリズムが激しくなるのに、千尋は気付かないフリをして歩き続けた。
 そして、千尋は、最後に会った所とおぼしき場所に、とうとう辿りつけはしなかった。何故なら、そこに辿りつくよりももっとはやく、樹が天蓋のように枝を伸ばし、ふかふかとした苔が生え、白い小花が咲く茂みのある場所で立ち止まらざるを得なかったからだ。その場所で、千尋はありえない存在を――自分と同じほどの背格好の――男を見つけて、山中を歩いてすっかりとあがっていた息をぴたりと止めるしかなかった。
「あの……」
 あの子と同じ存在であるとはわかるのに、年齢が違っていた。背が高くなっていた。肩の上で切り揃えていた髪は自分と同じように長くなり、ゆるく結わえていた。古風な着物は、古典の教科書や資料でしかお目にかからないような雅やかなものに変わっていた。そこにいたのは子供ではなく、『大人』だった。
 ほんのすこし年齢があがっただけで、この年頃は男も女も印象が大きく変わる。それは目の前のその存在も同じであった。少年姿でも綺麗な姿形であったが、長じても際立った容姿になっていた。
 その彼が、こちらが見下ろしていたはずの翡翠色の瞳で、今はこちらを見下ろしている。緑に包まれて端然と佇んでいる。
「あの……あなた?」
 なんて呼びかければよいのかまごつき、千尋はそんな言葉を乗せるしかできない。自分自身で名前を知らない人になんと呼びかければ正解だろう?
「昨日の……??」
『そう、私』
 すると、彼は悪戯っ子めいた笑みを覗かせた。心中を覗き見れば『してやったり』だろうか。鮮やかな意趣返しであった。
「あの、どうして??」
『どうしてって、悔しかったから』
「悔しい?」
 なにやら、馬鹿な子のような言葉しか口にしていなじゃないかと思ったら、悔しいのはこちらだと言いたくなった。けれども、彼は余裕綽々と言った雰囲気で、なにを言ってもこちらが悔しくなりそうだ。そうだ、わたしと彼らは――否、わたしと彼は違う存在なのだ。姿を変えるのもなんの不思議もないのかもしれない。そもそも、肉の器と言う制約に囚われたものでもなければ、外見など自由だろうし。
 姿形に惑わされる必要はないだろう、と千尋は胸中で何度も深呼吸した。すっと通った鼻梁、すっきりとした頬の線、立ち姿は雅やかで、澄んだ瞳がこちらを見ていても、それがどうだと千尋は深呼吸しては内心でひとつひとつを否定した。そこまで気がついていながらなんて往生際が悪い、と誠あたりが感想を返してくれそうなことを考えながら。
「悔しいって、どうして」
 思わず、無意識に挑むような口調になってしまって、千尋は変な気分になってきた。わたし、こんなにも誰かにムキになったり、誰かのなにかにひっかかったりしたこと、なかったのに。どうして。
『だって、出会った時から、そなたには見下ろされてばかりだ』
 それが悔しかったのだよ、と、姿形からすれば子供っぽい反応を返す彼に、途端に毒気を抜かれてしまうのだけれども。
 毒気を抜かれてぽかんとした表情でその青年を見つめていると、なぜだかおいでおいでと手招かれた。それにふらふらと誘われ、千尋はいつの間にやらふかふかとした、苔が椅子のようになっているそこに腰をおろしていた。
 青年が隣に音もなく座って、ようやく千尋は事態に気がつき、青年を振り仰いだ。座する姿さえ美しい青年がすぐ隣にいて、けれども美しければ美しいだけ存在感に薄い幻のような姿にため息まででてしまうのだけれども。どんなに否定しても、彼の姿形は美しかった。それは『人として造詣が美しい』『好ましい姿形をしている』と認識するよりは、蒼い空を、緑の中の湖を、花の色を美しいと思う気持ちと同じレベルではあったけれど。
「それにしても、もういないと思ってたわ」
 苔の上に座るなんてはじめてだ、制服が汚れるかもと思ったけど湿気ているわけでもないから大丈夫なんだ、とひそかに感動しながら、千尋がぽつりと本音を口にした。今は、彼がこんな所にいる方が、いないことよりも不思議だった。
「わたし、ここにいる限り何度でも会いに来るって言ったから、もういないと思ってた。あなた、何度でも忠告するだけだって言ってたから」
 青年は軽く肩をすくめて見せた。
『そう、何度でも忠告する。ここには来ない方が良い。私なんかと関わりあいにならない方が良い』
 けれど、と青年は言葉を切って、かすかに笑みを乗せた。辛うじて『笑み』だと判別できるほどに淡いものだった。
『でもそなたは、そう忠告したところで、私が姿を消したところで、遭難するまで山を探しまわりそうな気がしたから』
「……わたし、そんなにも情熱的じゃないわ」
 目の前にある微笑みを信じられない心地で見上げる。このヒトとも言えないヒトに、わたしはそんな風に思われていたのかと考えると消え入りたくなるけれど。確かに、会えるまで一日くらいは探し続けたかもしれないけれど。それくらいの『情熱』――または『興味』なら持っているかもしれない。
「それに、あなたが心配してくれたように、もう変な熱があったりしないのよ。昨日もその前も、熱も眩暈もなかったもの。これなら、あなたが『会わない』なんて理由はないはずよ」
『そう、もうここの翳りが強くなっていなかったから……会うのは構わないかもしれないけれど……』
『会う理由もない』と言われなかったので少しばかり安堵して気を抜いていたからか、千尋は、いつかの日のように胸元に触れられていたことにも気がつかなかった。否、それはあまりにも自然な仕草だったので、気がつけなかったのだ。
 指先で心臓を指し示す青年の仕草に、何度目になるやら目を丸くした。どうしてこのヒトはこんな仕草がいやらしくないのだろう、不自然にならないのだろう、それが心底不思議でたまらない。それ以上に不思議なのは、それを嫌だとも思っていない、こちらのありようであったけれど。
「あなた、それ、他の人にいきなりしない方がいいわ。セクハラって言われるから」
『ありがたいことに、私の姿を見られる者などそなたくらいしかいない』
 あぁそれもそうか、と妙に納得してしまった千尋であった。
 そんなふたりの間を、山頂から草葉を凪いできた風が割り込んできて、ふたりの長い髪を揺らせた。青年の髪は束ねられていたので髪先が揺らめいただけであったが、千尋の髪は緩く煽られて肩先から零れ落ちる。それを千尋はかきあげる為に手をあげ、細い指先で横髪を耳にすいとかけた。
 その滑らかな指の動きを追った青年の質問に、千尋は髪をかきあげる指を思わずとめてしまった。
『今日は髪飾りをしていないの?』
 そこまで見ていたのか。
 そう思わないでもない質問。隣の人物がこちらの耳と指先に注視しているのだと考えると、どこか深い所がぐるぐるとして熱くて仕方がなかったけれど。
『硝子細工のある髪止めをしていたね。昨日も、その前も。良く似合っていたのに、今日はしていない』
「……後輩がどうしても欲しいって言うから、あげてしまったの」
 思い出すのは、昼休みに人気の少ない廊下の角から跳ねるようにして目の前にあらわれた、一年生の女の子ふたり組みの顔だ。中学生から高校生になったばかりで、こちらからするとまだまだ幼い顔立ちをしたふたりだった。本人達は精一杯にきめているつもりだろう髪型も制服の着こなしも、頬の柔らかさや赤味や子供っぽい表情に気付けばまだまだ努力が足りなかった。
 自分も一年前は先輩達にそんな風に見られていたのかとぼんやり考えていると、そのふたり組みが唐突にしてきたお願いが、
『荻野先輩のモノが欲しいんです!』
 だったので面食らってしまったのだけれど。
 とりあえず、わたしは、絶対に、先輩のモノを――しかも同性のモノを欲しがったりはしなかった。だから、ふたりのその突拍子もないお願いの意味がよくわからなかった。けれど、真剣なふたりの様子にほだされたのも事実だ。
『だって、先輩って凄いじゃないですか!』
 なにが『凄い』のだ、なにが、と思わないでもない。
『だってだって、先輩、素敵ですもの! 一年の女子も男子も、先輩達も、憧れてますもんっ』
 そんなに目立っているつもりはないのだけれど。
『先輩はそこにいてるだけで目立つんです! 憧れなんです!』
『それにそれにっ! 凄いもててるじゃないですか! アタシ達、ちゃんと知ってるんですよ!』
 そんな言葉を向けられても嬉しくなんかないけれど、と呆れ果てる千尋の心中も知らずにまだまだまくしたてる。
『それで、それでですねぇ、先輩の持ち物を持ってたら、アタシ達ももてるんじゃないかなって!』
 いえいえ、そんなにもてなくてもいいんです、告白する勇気だけ持てたらいいんです。高望みなんてしてないんです。たったひとつだけ叶えばいいんです!!
 赤い顔でくるりくるりと表情を変え、両手を握りしめて力説する彼女達はとても可愛かったが、同時に千尋にとっては心底理解のできない宇宙人になっていた。
 彼女達は気がついていないのだろうか。確かにわたしは客観的に見ればもてている――誠が言うのだからそうであろう――その理由はやはりわからなかったが――らしいけれど、誰とも付き合ってもいないことに気がついていないのだろうか。
 わたしが少しでも気になるような相手は目の前に現れず、そしてそれはそのままそのような相手からは告白されたことなどない意味になるのだと彼女達は気がついていないのだろうか。
 少なくとも意中の人がいる彼女達に、自分ではない誰かを好きになれる人間に――わたしをうらやむ理由などないのだと、彼女達は少しも気がついていないのだろうか。
 滑稽だった。けれども、それをそのまま伝えるのも酷な気がした。彼女達はまだまだ幼い。素敵な恋に無邪気に恋するくらいには、幼い。
 そんな思考の果てに、千尋は両脇の髪を止めていた髪止めをふたりに与えていた。千尋が『縁起の悪いモノ』と考えているのだとも知らず、ふたりはきゃぁきゃぁと大喜びで何度もお礼を言って廊下を駆けて行った。
 その話を、髪止め繋がりから話してしまった千尋は、なんとも居たたまれない気分になっていた。隣には綺麗な男が座っていて、自分と同じ年頃の女の子の可愛い行動の話に耳を傾けている。けれど、それは客観的に見るのなら、その女の子が『わたし』であってもなんらおかしくないのに、話している本人は『わけがわからない』と同時に口にするのだ。彼にとっても『わたし』は宇宙人的存在になっていることだろう。恋に興味を持てない『わたし』は人間的におかしいのだろうか。
 そこまで考えて、千尋は口元に笑みを乗せた。だって、隣に座ってくだらない話に耳を傾けている人物は、『人間』ではないのだもの。少なくとも『生きている人間』ではないだろう。
「変な話でしょ。矛盾がいっぱいね。どちらが人間的に充実しているとあなたは思う?」
『いや、ヒトはそれぞれだろうから、言明はしないよ』
 青年のその切り返しに、千尋はまたも笑った。なかなか面白いではないか。ヒトではないから言明はしない、ともとれるではないか。
『人間ではない』と改めて確認した存在に『どちらが人間的?』と質問する方も方だけれど、なまじヒトの形をしているから混同していけない。あの、川の中の小さな背中を見つけた時と同じように、心が混乱してしまうのだ。なかなかに難しいものだ、『ヒト』以外のイキモノと話をするのも。千尋は内心でこっそりとため息をついた。
 それにしても、どうしてこんな話になったのやら、千尋にはその過程が良く思い出せなくなっていた。そうつれづれに考えていると、またもや風が山頂から吹いてきて、はらはらと髪を乱して行った。先と同じように髪をかきあげてから、千尋はようやくくだらない話の糸口を思い出した。
「わたしばかりが話しているのはおかしいじゃない? 今度はあなたのことも聴かせてほしいわ」
 ここでなにをしているのか、とか。
 そう口にしようとしたら、ふいに伸ばされた指先で唇を押さえられた。どこか、ひやりとして曖昧な感触であった。
 その仕草が『黙って』の意味だとは気がつくものの
「……やっぱりあなた、それ、やめた方がいいわ。セクハラよ、完全に」
『幸いなことに』
「あなたの姿を見られる者はわたしくらいしかいない、でしょう?」
『そう。だからこんなことをする相手も、そなたしかいない』
「……」
 なんて切り返せばよいのやらかなり考えこんでしまい、仕方がないので千尋は黙っておいた。彼はどこか『白い存在』だとは思っていたが、指先まで細くてしなやかで白かったので、少しばかり見惚れてしまったからでもあった。
『私の話をしても構わないけれど、私は自分のことをなにも覚えていないからご期待には添えそうもない』
 それに、もう日が暮れてしまう。
 白い指で指し示された空の色は、いつの間にやら夕刻の色に染まっていた。木々の隙間から覗く小さな空は、淡いオレンジ色だ。それに混ざる、露草の花に似た青紫の色。太陽の反対側からは、急速に夜が近づいて来ているのだろう。
『下まで送って行く。話なら別の日でも良いだろう。そなたの気が変わらないなら――だが』
 手を引かれて苔の椅子から立ち上がると、身長差のせいで上から見下ろされる形になる。もう来るなと告げる時の翡翠色の眸は、生気に乏しい存在であるのに、どこか突き放した、冷たい、強い意思を纏っていて、千尋は身が震えそうになる。本当は怒っているのではないか、そう思わせる冷たさだった。
 心の中で震えていると、またもや風が吹いて千尋の髪を乱した。髪止めもない髪は、悪戯な風に好き勝手に乱されっぱなしである。
『あぁ、その前に、その髪をなんとかせねばなるまいね』
 青年は白い小花で身を飾った低い茂みに手を伸ばし、細い一枝の先を手折った。
 植物にも触れるんだ、と千尋が感心している目の前で、白い青年はその小枝を両手で隠すようにしてしまい、すぐに手を開いた。そこには、白い小花の飾りがついた、枝が素材と思われるヘアピンのようなものが生まれていた。小花は樹脂で固めたかのように硬質な質感をしていて、小枝は滑らかになっていた。少しばかり風変わりな、それでいてなんの違和感もない細工物。
 それを青年は千尋の髪にそっと挿した。やはり、どこか軽い感触であったが、またもや確かに触れられた。
「あの……ありがとう」
 同じようにもうひとつ髪止めを作るその動作をぼんやりと見つめながら、ぼんやりと口にしてしまう。こんなことができる『彼ら』に会ったのははじめてだ。これはもう『彼ら』と『彼』はまったく別個の存在であると考えざるを得ないではないか。もう今更ではあるだろうが。
『いや、礼などいらない。どうして私にもこんなことができるのかわからないし――こんなことができるのだと思いつかせてくれたのは、そなたの方だから』
 もしかしたなにかを思い出すきっかけになるかもしれない、と呟く長い睫毛を伏せた横顔を見ないようにした千尋であったけれど。


 千尋は山の際まで無言で歩いていた。背後にはあの青年が黙ってついてきているのだろう。けれども千尋は前だけを真っ直ぐ見て、右手には学生鞄をかたく握りしめ、道とも言えない道をひたすらに下っていた。
 革靴で道とも言えない道を下るのはたいそう具合が悪くて、少しでも気を抜けばつんのめりそうだ。それ以上に、今は前に進むこと以外のなにものにも気を散らしたくはなかった。背後にいるであろう存在を感じたくなかったのかもしれない。横髪を止めている不可思議な髪止めが木々の隙間から差し込む光を弾いて控えめに瞬いているのにも気付かなかった。
 黙々と歩き続けてようやく山と下界との境界線まで出てきた千尋を出迎えたのは、すぐ際にある車道を走っていく黒い車だった。整備が行き届いていないのか、もくもくと排気ガスを吐き出している現代の利器。
 山の中の、緑や苔や水や花の匂いとは違ってなんと醜悪な匂いなのだろう、と千尋は背後を振り返ってみたが、もうそこにあの白い青年の姿はなく、夕刻の色に染まった空と、一歩外に出れば黒々として深みを増した緑が千尋を締め出すようにそこにあるばかりであった。