聖なるかな




   【1】

「先輩っ。荻野先輩っ! ありがとうございました〜〜っ!」
 千尋が新しい髪止めをつけはじめてから、まだ一週間も経っていない日の、ある晴れた昼休み。
 いつかの日と同じように人気のない廊下の角からぴょこりと現れた一年生ふたり組みの姿に、千尋は少しばかり目を見張っていた。
 まだ幼い幼い顔をしていたはずのあのふたりが、少しばかり大人びて、そしてとても可愛らしく見えた。なによりも、体中から幸せオーラが溢れていた。
 ふたりの前髪に飾られているのは確かに以前まで自分が使っていた髪止めだけれども、まるで見慣れない顔をして彼女達の髪に当然のようにおさまっていた。ベリーショートの髪に止まっているのは薄青い透明な硝子細工、おさげの彼女に渡ったのはブラウンの硝子細工がついたヘアピン。どちからと言えば地味な色合いであったそれらは、今はお洒落な色に思えた。
 たった数日であるのにこのはっきりとわかるほどの変化、一体ふたりになにがあったのだろう? 千尋にはなんとなくなにがあったのかわかる気がしたが、彼女達からの話を辛抱強く待った。
 ふたり組みは興奮に顔を赤く染め、もじもじとして、どちらが最初に話し始めるかを肩先で役目を押し付けあっていたが、ようやく口火を切る役目が決まったらしく、ブラウンの硝子細工がついた髪止めをもらった子が最初の一言目を喋り始めたら、今度は止まらなくなったようだ。
「あたし達、ふたりとも告くられたんですよ〜〜」
「それも、明日こそ告くろうっ明日こそって決めてた相手から告られたんです!」
「もうすっごい奇蹟ッ!」
「信じられないくらいハッピーですっ!」
「ありがとうございます〜〜〜っ!」
 きゃぁきゃぁと騒ぎながら両手を固く握りしめ、ぴょこぴょこと跳ねるように何度も何度も礼を口にする少女達の頬は薔薇色で、とても可愛らしかった。彼女達が飛び跳ねるたびに、ひらひらとひるがえる制服のスカートの裾から命のきらめきがふりまかれているみたいに眩く、どこか薄暗かった廊下は昼の光よりも明るく感じられた。
 高校生らしい、恋する幸せな少女らしい、溌剌とした表情や仕草に、自然千尋の口元もほころんだ。
「そう、良かったわ。おめでとう」
 でもそれはわたしのせいじゃなくて、あなたふたりがとても頑張ってて、日頃の行いが良かったからだと思うよ? 
 微笑みかければ、それにもまたきゃぁきゃぁとふたり組みは喜んだ。なんとも素直なものだ。その真っ直ぐさは、やはりまだまだ彼女達が幼い証拠のようで、なんとも微笑ましかった。
「それでですねぇ、あたし達、よく考えたら荻野先輩に貰うだけ貰ってなんにもお礼してなかったから、コレ、用意してきたんですけど……」
 そこだけしおしおと枯れた風船のように力がなくなっていく彼女達の手の中には髪止めが入っていると思われる小さな紙袋があった。可愛らしい袋に入れられて、リボンまでちょっこりとかけられている袋。しかしふたりの視線はあの青年から贈られた不可思議な髪止めの上に留まっているのがよくわかる。
「それ、すごく素敵ですよね。不思議な光沢……あたし達が選んできたのじゃぁ勝ち目ない」
 視線はどんどんと下向きになり、手の中にまで戻ってしまう。
 彼女達なりに一生懸命考えて買ったであろう髪止めはこのまま日の目を見ない方がいいのではないだろうか、と考えているのがありありとわかる表情に、千尋はくすりと笑った。なんて無邪気で素直なのだろう、自分にはなかったものだ、とどこか遠くをみる目になってしまいそうであった。
「ううん、いいの。あなた達が選んでくれたのなら、それだけで嬉しい」
 途端にしおれてふにゃふにゃしていた風船にぱんぱんになるほど空気が入って、ふわふわとした表情になるふたり組みは、千尋からすれば本当に可愛かった。きっと彼女達はまだまだ可愛らしくなる。脱皮を繰り返して花々を飛び交う成虫になる蝶と同じなのだ、彼女達は。わたしの髪止めなんてなくても、きっと彼女達の恋は叶ったであろう、そう思わせるほどの可愛らしさがあった。
 一時も休みなく跳ね続けるゴム毬のようなふたりの背中を手を振って見送ってから、千尋は変な気分になった。
 わたし、誠先輩に言わせれば『もてている』らしいけれど、別段彼女達のように見た目や性格が可愛らしいわけでもないし、美人でもないのに、どうして彼女達のような間違った思い込みが周囲にはびこる結果になったのだろう? 
 鼻だって高くないし、目だってぱっちりと大きなわけでもないし、スタイルだって抜群なわけでもないし、服装や髪型に気を配っているわけでもない。どこにでもいる十人前の容姿だと自覚しているのに、どうして。
 性格だって、表にはあまり出さないようにしているけれど、かなり捻くれているのに。
 それでも周囲がそう思うのなら……宗教でも興そうかしら、わたし。
「千尋様を崇めなさいって?」
 どうにも自虐的な気分であった。


 気を取り直そうと意識して努力して午後の憂鬱な授業をこなし、なんの用事もないとなれば後は帰るしかない。
 高校生になってから親しくなった子に引きずられるようにして所属した、気乗りもしない部活動を今日もさぼって、まっすぐ帰ることにする。彼女は真面目に部活に行っているのだろうか、その顔もぼんやりとしか思い出せないくらいの、千尋にとっては浅い付き合いなんかに乗ってしまった我が身がすこしばかり怨めしい。とことんと自分は『友達付き合い』は不得手だと思う。
 それよりも、少しばかり嫌な予感がちりちりとうなじを撫でてくるのだ。こう言うものは無視してはいけない。もっと面白いことがあるではないかと無理矢理に気分を高揚させて校門をくぐろうとした。
 校庭に植えられた櫻の木は、先の雨で葉をつやつやとさせ、昼間には素敵な木陰を作り出していたけれど、夕刻では長く薄い影を伸ばすばかりだ。
 グラウンドからは、真面目な体育会系部員の掛け声が聞こえていた。くだらない会話を交わしながら下校するのは帰宅部だ。千尋はそれらを振りきるように、足を急いで動かした。
 けれども千尋は、その足を止めざるを得なかった。校門外の壁に待ち伏せるようにして背を預けていた、他校の男子学生の姿が見えたからだ。
 背がほどほどに高く、顔もなかなかによい。体育部所属であるのか、さっぱりと切り揃えた髪に、襟元をくつろがせた白いカッターシャツの制服。潔癖そうな眼差しと、真剣そうな表情。帰宅部の女子生徒がちらちらと後ろを振り返ってその人物を眺めている、十分に人目をひく風貌。誠あたりが見れば『頭筋肉バーカの爽やか体育会系』と切って捨てるであろう、他校生。
 その姿を見て、千尋は先ほどから胸の中でくすぶっていたものが『不快感』や『苛立ち』であったのだと自覚した。そして、『嫌な予感』がこれなのだと確信した。もうこの予感に関しては外れないのだから嫌になる。不快感や苛立ちが一気に底無し沼にダイブしたのを他人事のように感じていた。
 ――六人目、だ。
 まだ声をかけられたわけでもないのにそうわかって、千尋は胸中で深々とため息を吐き出した。


『なにか楽しいことでもあった?』
 遠回しに断わっても、何度もしつこく話をもどして食い下がる六人目の相手をしたらすっかりと疲れきってしまった千尋は、そのまま足取りも勇ましく、ここ最近通い詰めているとある場所へと真っ直ぐに向かった。
 その姿を誰も見る者がいなかったのは不幸中の幸いなのか、見る者があれば千尋のいらだたしげな足取りやどこか無表情なその様子に目を見張っただろう。千尋はそんな風に感情を表に出すとは思われていなかったので。彼女にとってそれは少しばかり不幸なことであったかもしれない。
『彼氏にするならスポーツマンがいいぞ。運動するやつに悪いのはいない。誰もが爽やかでおおらかで優しいぞ』
 そんなことを言っていたのは父だっただろうか。大学時代ラガーマンだった父らしい言葉だ。先の人物を思い出すと『どこが爽やかなのよ、どこが!』と思わないでもないが、父の言葉はなにやら懐かしい気もした。
 この言葉を聞いたのは引っ越しをする前だったろうか、随分と前のはずだ。そんなことを恥ずかしげもなく語っている父を見ている母の顔は、呆れているようであったり、幸せそうであったり、絶妙な複雑さ加減だった。
 微妙な懐かしさを味わいながらそのままいつもの苔と小花が咲いている場所へと行くと、あの青年がいなかったので、千尋はばふりと苔の上に身を投げ出した。苔を痛めないように加減はしているが、鞄も足元に投げ出し、横倒しに寝転んでしまう。頬に触れる苔の感触はビロードのそれにも劣らない。苔の独特な匂いが全身を柔らかく包み込んだ。
 長い髪が苔の上を流れる清水のように広がったが、千尋にはこの年頃の娘みたいに髪に苔の匂いがうつるやらゴミがつく云々との思考方向はないので、それも特に気にならなかった。鼻腔をくすぐる緑と水の匂いに包まれて目を閉じると、残っていたくさくさとした気分が全身から気化していくようだ。そのまま苔と一体化して身体は腐り落ち、この山の養分としていつかは跡形もなく消え去るのではないか、そうして永遠に生きていけるのではないかとの少しばかり危険な誘惑がふと心に忍び寄る。
 そんな心地でとろとろと眠りのふちを両手で撫でまわしている時にかけられた声に、千尋はゆっくりとまぶたを押し上げる。よくよく意識していないと風の音か梢の音かと勘違いしそうに薄い気配のその声は、それでも低くて滑らかで眠りの奥ヘと千尋の背を押すもの。だから、千尋は本当に眠りこけない為に、ゆっくりと目を開けた。
「――このぶす顔で『楽しいことでもあった?』って聞けるあなたの感性がわからないのよねぇ、わたしには」
 まだ横になったままの薄ぼけた視界にうつったのは、身を屈めてこちらを覗き込むようにしている美しい翡翠色だ。その色は視界の不鮮明さを貫いて、どこまでも鮮やかでありながら夢のように不確かな色彩でもあった。
 この年頃の娘であれば、異性にそんなにも急接近されていれば心臓のひとつもばくばくと異常動作を起こしそうなものだが、千尋と言えば
「楽しそうなのはあなたの方ね」
 唐突に先ほどの嫌な感情を思い出してぶすりとし、また目を閉じる。
 なにやら些細なことに腹が立つ。ほんの少しでも突かれればくさくさとした気分が泡立ってしまう。彼が楽しそうに笑みを口の端に乗せているだけで腹が立つ。こちらだけがくさくさしているのが、なんとも腹が立つ。折角こそばゆく心地よい幻想に抱きすくめられていたのに、なんて勿体無い。
『いや、そなたがそんなにぶすくれているのははじめて見るなと思って』
 青年は穏やかな笑みをその口元に宿す。その鮮やかさを千尋が目にしていれば増々ぶすさが深まったであろう柔らかな笑みであった。
 この、誰も知らない不思議な逢瀬も片手の指を越えてしまった。そんな中でここまで苛立ってこの青年と真向かったのははじめてだし、人間であろうとなかろうと『異性』の姿形をとったモノの前でこんなはしたない格好をしているのもはじめてかもしれない、と千尋は途中で今更ながら気がついたが、だからと言ってすぐに居住まいをただして向かい合うのも過剰反応な気がして、そのままじっと寝たふりをした。一度気がついてしまうとどうにも変な汗をかくような、血液が足りないような寒気を感じてしまったけれど、それも我慢して寝たふりをする。苛立っている自分を人に見せるなんて苦手だし、はしたない格好をしていると自覚すると顔に血が集まってきそうで、できることなら寝転がる前の時間に戻りたかった。
 と、ふいに空気が動いた気配がした。ついで、髪に触れるかすかな重みを感じた。青年から貰った髪止めで両脇を止めただけの長い髪を、細く長い指が梳いている感触がする。それは不快な感触ではなかった。
 さらさら さらさら、細い雨が降りかかるようなやわい感触に、千尋は閉じたまぶたの裏に睡魔が忍び寄ってくるのを感じていた。あんなにも苛立っていた心が、彼が髪を梳くたびにしんと静まる。髪に触れられている、と言うことは――それはすなわち、彼が触れたがっていること。
 苔の甘い匂いと身体が溶け合ってしまいそうな不思議な感覚にとらわれて少しばかり怖くなり、千尋はゆっくりと目をあけた。途端かちあうのは、こちらを見つめている翡翠色だ。
 はじめて川で出会った時とも、もう近づくなと言った時とも、ひどいヒトだとの言葉を向けた時とも違う穏やかな色を、千尋はじっと見つめる。常なら有り得ないような体勢で見つめるその色は綺麗だった。儚く、向こう側の緑が透けて見えそうな頼りない姿であっても、その姿は綺麗だった。まるで、自然が作り出した造詣を――山や川や海や空を綺麗だと思う気持ちにとても似ている。そう気がつくと、先ほどまで全身を覆っていたほんの少しの恐怖感はさらさらと溶け行き、千尋はまたしてもとろとろと眠りのふちを両手で撫で回してしまう。まぶたはとうに安堵で閉じられ、ゆっくりと深呼吸をしていっそ潔く苔と一体化しようとする。
『眠ってはいけないよ』
 さらさらと髪を梳く感触も溶け行きそうな声も変わらない。
『眠ってはいけないと言うのに』
 その指先の動きやその声が一番眠気を誘うのだと、この異形の佳人は本当に気がついていないのだろうか?
 千尋は考えるのも、もちろん動くのも億劫ですうすうと呼吸だけを続けた。
 目を閉じると触れられる感触や零れてくる声の色がもっとよくわかる。全身で『彼』を感じられる。目を開けているよりもはっきりと。全身で感じ取ろうとする。それに気がついたのはいつ頃であろうか。もう思い出せなかった。
 勉強に明け暮れる桂木の、スポーツに打ち込んでいるらしい六人目のそれともまったく違う、細くて白くてしなやかな指。
『そなたは本当に忠告を聞かない』
 どこかあきれたような声色でも美しい。
「わたしは寝るの。眠いのだもの。気持ちがいいんだもの……」
 この気持ちよさを妨げようなんて、本当にひどいね。どんなに綺麗な声でも、ひどい。そうとしか感じられない。
「わたしが来ててもいない人に、寝るななんて言う資格ないと思うの……」
『私はそなたの為に存在しているわけではないのだが?』
 なんぞとまだ目を閉じたまま口にすると、聞きようによってはこの上もなく冷たい言葉とともに、ふと指先の動きが止まった。けれども、眠りの中に本格的に引き込まれそうだった千尋はそんなことでは後戻りできなかった。まぶたの裏は柔らかな夕刻色で、それはやがて夜の色になるのだから。
 徐々に落ちていく意識に、ふわ、とした感触が生まれた。柔らかな箇所、頬に触れる、あるかないかの冷たい感触。反対側の頬に触れるあたたかな苔とは違った、細い指の先。それは別に不快ではなかった。羽で触れられるようなくすぐったい感触に千尋は無意識に首をすくめながら、それでも起きてやる気にはなれなかった。
 そのうち、頬を伝って指先はもっと柔らかい箇所、唇へとおりてきた。他人にそのように触れられるなど千尋にとってはじめての体験ではあったが、心はしん、と落ち着いていた。
 ついで、身をもっと屈める気配がした。さらさらと肩先から零れ落ちる艶やかな長い髪と白い衣が奏でる音楽が耳に心地よい。そして、触れる、指先よりも優しい感触が唇に落ちたけれど、千尋は同じ瞬間に夢の中に落ちていた。
 唇を重ねている、と言うことは――それはすなわち、彼が口づけをしたがっていること。
 目を閉じているからこそもっとたしかに感じる――接触。

   【2】

 おのれがなにかもわからない『彼』は、千尋にとっては山の神様だった。
「あなたはここでなにをしているの?」
 それは、青年が小さな髪飾りを作った翌日の会話であった。
 翌日に持ち越しされた質問に、青年はまだ覚えていたのかと少しばかりあきれた表情を作った。それは、懲りずにそこまでやってきた千尋の姿を認めてから続く表情ではあったけれど。
『特になにもしていない。ただ、時折、そこここの樹木と話をしている。最近は山の獣達が腹をすかせて樹皮を食い荒らしてしまって大変だとか、たまに痛い雨が降るのだがなになのだろう、とか』
 秋になったらこのあたりでもきのこが生えるとか、栗目当てにヒトが押し入ってくる、など色々を話す。時々、そなたの髪止めを作ったように、木や獣の簡単な怪我なら癒したりしている。
 なんでもないことのように語る青年を、不思議なものを見る心地で見つめてしまうのは仕方がないであろう。
「あなた、山のお医者さん?」
 木と話したり、怪我を治したり、などと、今までの彼らには到底できないであろう事柄をこなしていると淡々と語る青年は、やはり彼らとは別種の存在なのだろう。彼らはもう自分のことだけで精いっぱいで、他者と関わりあいになる余裕などないように見受けられていたので、どうにも目の前の存在とは違うモノに思えた。
「それとも精霊さん?」
 ぼんやりとした姿はとても美しく、淡い姿は光の加減では燐光に包まれていて、精霊と言っても言い過ぎではないだろう。けれども青年は苦笑するだけだ。
「山の精霊にしてはあまりにも真剣みが足りないし、他人行儀過ぎるかしら。それとも神様?」
 言葉を連ねるごとに、目の前の苦笑は深くなる。
 曖昧な存在ではあったが、こちらが目をこらして見つめていれば、鮮明になってくる姿。けれども、一番はっきりとその存在を感じられるのは、目を閉じた時なのだからそれも不思議でならない。
「神様にしたら、あまりにも力量不足ね。記憶喪失だし」
『そなたはやはり変わっている。存在への理由付けなどなんの意味があろう?』
 心底不思議そうな声色だった。小首を傾げるその仕草も、他の感情の色は一切含まれていないようであった。
「それはそうかも知れないけれど……」
 あなたはあなたでしかないのだろうけれど。どんな呼称を冠されようと。
 とは千尋も思う。自分自身も『人間』の種族にくくられるだけで、本質は『荻野千尋』以外のなにものでもないのだから。このくくりが違うものになっても『荻野千尋』は『荻野千尋』でしかないだろう。それ以外にはなれないであろう。
『どうして『神』なんて存在が出てくる? 私が神ならば、樹木の怪我など元から起こらないように環境を整えるし、獣達の怪我など一瞬で治してしまうだろう。それに、この地にヒトなど入られないようにしてしまうよ』
 そなたひとりこの地に来られぬようにできない私が『神』などであるわけがないではないか。
 青年は苦々しく笑った。
「だって神様って、もっと超越した存在でしょう? たった一本の木の不満や、たった一頭の獣の怪我なんて気にもとめない存在でしょう?」
 そんなものは超越した存在だと思うもの。神様って、慈悲と残酷さの両面を矛盾なく持ち合わせている存在でしょう? でも気まぐれで構ったりするのよ、そんな感じ。
 千尋のその不可思議なものの捉え方に、青年は時折感心してしまう。それよりも先に、こんな得体の知れないおのれに何度も会いに来る、その行為の方が不思議であったけれども。
『まるで見てきたような口ぶりだ』
 ふと口をついてでてきた言葉に、青年は心の中で少しばかりひっかかりを覚えたのだが、それを千尋にけどられぬように、更なる心の奥ヘとそのひっかかりをするりと隠しやってしまった。
「……神様なんて見たことないと思うのだけど……」
 千尋は、青年のそんな隠しごとに気がつく様子もなく、遠くの緑を眺める目で、青年と同じように『神』の単語にひっかかりを覚えていた。
『神様』なんて、この国では……すくなくともわたしの世代や周辺では、本当の意味で死に絶えて等しいのに。残っているのは、楽しい部分だけを抽出された、残骸。または幻想。形骸化された祭りだけ。そこには本質的な精神なんてかけらも宿ってはいない。そんなものに『神』なんて名前をつけてはいけないのだ、と千尋は思っていた。けれども、ならばどうして、と問われれば答える言葉を持たないので、千尋は自分の中のひっかかりについては口を噤んだ。
 ふたりの間に落ちた微妙な間に、ふたりとも見ないふり、気がつかぬふり。
「神様なんて、今のこの国の人達に見られるわけがないもの」
 そんなことは、自分を含めてもよくわかっている。なのに、どこかで――その存在に触れた気がしてならない。『神』などは特別な存在ではなくて、もっと身近にいる――例えば、その樹の裏にでも、山に湧く清水の淵にも、野に咲く花の傍らにも――そんな気がしてならないのだ。なのに、神はなにものをも超越した存在、そう感じるのも事実で、千尋は遠い遠い目をしてしまう。
「まぁ、姿は色々なものを超越したような姿で、綺麗だけれどもね」
 恥ずかしげもなく感想を述べる千尋は、隣に座った青年の腕に手を伸ばしたけれども、その手は白い衣を不確かな感触を残して突き抜けるばかりだ。ぼんやりと薄い姿は視界から受ける質量も千尋の手の中に残してくれない。それがとても不思議で、そして同じだけの悲しみを千尋に与えていた。隣にいて、見ることができて、話もできるのに、こちらからは触れられないまぼろし。
「……この時点で意識なんてしないでね、怖いから」
 自分の手首と青年の手首あたりを貫いて交差させている時にふっと浮かんだ怖い考えに、思わず千尋は呟いていた。この時点で彼が『触れる』ように意識を持って行ったらどうなるのだろう? 手首同士で結合したりして、なんぞと怖くなるが、思いに反してどうにも動けそうにない。少しでも動こうとすればそれがきっかけとなって、そのままの形で結合してしまいそうでなんとも怖すぎる。
『そう思うのならしなければよいのに』
 ほとほととあきれた口調で、先に動いたのは青年の方だった。手首あたりを交差させたままの形で固まっている千尋のそこからおのれの白い手を抜き取り、かわりに、伸べたままになっている千尋の小さな手を両手で包み込むようにする。それは、いつかの日と同じに、曖昧だけれども確かな感覚を伴ってなされた――接触。
「本当に不思議ね。どうしてあなたからなら触れるんだろう?」
 山の緑が綺麗なのと同じ理由で美しいと思う姿に、見ることができて、話ができて、それでも触れられない。綺麗な花が咲いていればそれに触れ香りをかぎたいと思うのが人の欲求であろうに、それが叶わない辛さに似ていた。見えるけれど手が届かない、蜃気楼の花。
 それだけの存在であればやがて千尋の興味も薄れていくだろうに、青年からは触れられる不思議。それは、千尋からは触れられない悲しみよりももっと深い悲しみを千尋に与えていた。千尋はそれに気がつかないふりをしていたけれど、ひっそりと降り積もっていく、悲しみの白い残骸。満開を過ぎた櫻のように、はらりはらりと降り積もっていく。
「本当に……不思議ね」
 白い両手で包み込まれているおのれの手はひとり分の熱しかなくて、けれど、そのひとり分の熱も――発火しそうな――高温。悲しみの残骸を溶かしてしまうほどに。幾度も繰り返される忠告の痛みを溶かすほどに。

   【3】

「ねぇ。川と、ここと、それくらいしか移動できないの?」
 そんな質問を千尋が口にしたのは、またもや細い細い雨が低い雨雲から次々と舞い降りて、世界をセピア色に染めている夕刻だった。
 ふたり並んで座っている、いつもの定位置は、いい加減に重なり合った木々の天蓋に覆われて、雨の被害からは免れていた。ただ、ふわふわとした湿気と、雨に喜んでいる濃密な苔の匂いに包まれていた。
 しとしと しとしと。天蓋の端から薄い幕のように零れてくる細い雨は夢のように美しい光景だった。向こうの緑を透かしてうっすらと色付く、無色の雨の幕。
 幕に隔てられなかった道の向こう側に咲いている名も知らぬ花もしとどに濡れていたが、花びらも葉も生き生きとしていて嬉しそうであった。足元に生えた葉の表面には、薄っすらとした水の膜があり、それを透かして葉の産毛の流れを見ることができる。
『そんなわけではないだろうけれど……試したことはないな』
 別段、あちこちに赴く必要もないし、興味もないし。
 すこしばかり投げやりな返答を、千尋は青年の横顔を見上げるようにして受け止めてから、顔を正面に向けた。これから口にすることは、彼の横顔を見つめたままではとてもではないが言えない。
「少し遠出してみる気にならない?」
 こんな細い雨が降った日の月がとても綺麗なことに気がついたのだけれど。普段は見えない星まで見えて、とても素敵なのだけれど。
 千尋は、真正面を向いたまま口にしてみる。今度はこちらの横顔を青年がつと見ている気配がするけれど、千尋は真向かう気にはなれなかった。ただひたすらに水の幕や、その向こうの緑や花を見つめているふりをする。
「ひとりで見るには勿体無いわ。あんなに綺麗なんだもの」
 もちろん、雨が止んだらでいいの。あなたが嫌でなければ――いいの。
 いいわけがましく聞こえないように、なんでもないことのように口にする千尋の内心を詮索するつもりは青年にはないらしい。
 かわりに、
『この雨はじきに止む』
 そんな予言めいた言葉を口にするのだ。
 つぃと差し出した青年の白い指先に、緑の天蓋を透かした雨がひと雫跳ねたその軌跡に、千尋は目を細めた。
「それは予想? 予言? それとも希望的観測?」
 希望的観測だと言われれば少しばかり嬉しいかもしれない、とは千尋がけして口にできない言葉だ。雨が止むのを望む――それは、千尋の誘いに彼が乗りたいと思っていることなのだから。
 けれど、青年はつと空に視線を向けて、
『空の者達が教えてくれたから。ただの事実』
 もとから薄かった雨雲は、抱え込んでいた雫を落とし終わったのか、空の端から乾き始めていた。彼にはそれがよくわかったのだろう、千尋とは違う感覚で。
 けれども、千尋は心の中で落胆した。ただの事実――なんて素っ気無い言い方なのだろう。
「木や動物と会話するだけじゃ足らないのね。空の者って、鳥のことかしら?」
 さぞかしヒトのわたしとの会話なんて迷惑だと思っているのでしょうね。
 千尋は本心ではない言葉を口にしてしまってからはっと失言に気がついたが、次の瞬間には学生鞄を引っ掴んで足早にその場を立ち去っていた。
 千尋の身を濡らすまいとしているのか、雨雲の切れ間が彼女の姿を追いかける。
 千尋はただひたすらに短い下草の細い道だけを睨みつけるようにして足を繰り出す。
 青年が走り去っていくその背中をどんな表情で見送ったのかを確かめもせず。
 突然にいらいらした自分の心の意味をわかろうともせず。

   ◆◇◆

 夢の中で会えたらいいのに。
 夢で会えたらいいのにね。
 
 そんな意味の歌を歌っていたのは誰だっただろう、千尋はどんなに考えても思い出せなかった。
「夢で会えたらいいのにね」
 全部を思い出せない歌の、そのフレーズを口ずさむと、無性に泣きたくなった。いつかの日と同じように、眠る前、窓辺に座り込み夜空を仰ぐ一時。
 知らず滲む涙に、月はうつらなかった。青年が『事実』として口にしたのは『雨が止む』――それだけだ。晴れるなんて一言も言わなかった。だからだろうか、空は全面薄く白い雲に覆い隠され、月も星もかくれんぼ。
 どうして涙が滲むのだろう、その理由はわかるようでわからなくて、それが理由だとしても泣くほどでもないだろうに、どうして。
 いや、わかっている。わかっているけれど、幾つも意味があるようでそれを深く考えないようにした。その中に混ざっている、とても簡単でとても単純な幾つかの意味はとうにわかっていたけれど。
 夕方にわけもなく怒ったことへの、腹立ち。
 呆れられてしまったのではないかとの、恐れ。
 自分の中に住んでいるもうひとりの自分を、彼の前ではうまくコントロールできない苛立ち。学校や家でならいくらでも押し込められるのに。押し込められていたのに。
「夢で会えたら……」
 わたしの身体も夢の中に溶けて、外側のわたしも内側のわたしも混じりあって、あのヒトと同じ不確かな存在になれば触れ合えるかもしれないのに。そんな存在になれるかもしれないのに。そうしたら泣く必要なんてなくなるだろうに。彼にとっての『人間』のくくりは、マイナスになりこそすれプラスに転じはしないのだとなぜかわかった。彼はヒトとは違うくくりに所属している存在だとわかるのだ。
 泣きたい気分の時は、ひとりがいい。けれど、この理由で泣きたい時は……ひとりは嫌なのに。
「女の子が泣きたがっているのに傍にいないなんて……」
 ひどいヒトね。
 何度目になるのかわからないその言葉を、ぽつりと呟いた。
 けれど、その呟きを聞く者が――いた。それは、室内ではなく室外――窓の外に。月のかわりに千尋を照らす、ほの明るい白い光の姿をとって。
 月も星もなかったのに――どうして?
 夜もふけ、薄い薄い雲が覆い尽くした空はどこか白かったが、その白とは明らかに違う光源の気配に、千尋は窓から身を乗り出して、そこにある光の姿を見た。
「……竜?」
 二階にある千尋の部屋の窓を覗き込むようにして身をくねらせていたのは、長大な体躯に白銀色の鱗、水底の色に似たたてがみ、優美な曲線を描いた二本の角を持った、異形のイキモノだった。窓ガラスを透かしたランプのオレンジ色にほんのりと照らされているのに、それでも変わらず純白に輝いているイキモノがそこに存在していた。
 白い光はその異形が放つ光であるのか、家々の明かりを弾いて、または白い夜空の光を集めて輝いているのかは千尋にはわからなかったが、それでも美しい光景だとだけは理解ができた。
「どうして……?」
 間抜けにも、そんな言葉しか口から出てこない。千尋がこの時間部屋に招こうとしたのは、異形の佳人であって幻想の獣ではなかったはずなのにと考えれば当然の反応かもしれなかったが、千尋のその言葉は少しばかり意味を違えていた。
「あなた、でしょう?」
 姿はまったく違うのに、優美な姿に白い白い印象、翡翠色の眸に気がつけば、目の前のイキモノはあの青年であるとの錯覚にとらわれてしまったのだ。
 実際、呼びかけてみれば頷くような仕草でその長い首を振り、次には背中に乗れとでも言うように鼻先で背中を指し示した。
 その仕草を見て、千尋は不謹慎にも頬を緩めてしまった。あぁ、なんだ、これは夢だ。わたしは白く曇る夜空を見上げながら眠ってしまったのだ。けれど、こんなに綺麗で不思議な夢ならいいかもしれない。泣きたい気持ちよりはよっぽどいい。
 千尋はくすくすと笑いながら、竜に促されるままにその背にまたがった。どうせ彼はこないだろうと思い込んで、風呂も済ませてすっかりと寝支度を整えてしまって足先は素足だったけれど、素足で触れた竜の身体のひやとした感触は冷たすぎもせず、心地が良かった。夏パジャマの半袖の腕をたてがみがくすぐって、千尋は自然に笑みを浮かべた。
 竜は千尋がしっかりと背にまたがったことを確認すると――ひゅぁ……と、音にならない音をたてて窓辺から飛び立った。
「わ……ぁ」
 あっと言う間に遠ざかる、窓からもれていたランプの柔らかなオレンジ色の光。小さな間接照明の灯りなどもう識別できないほどに家は遠ざかり、眼下に広がるのは家々の町明かり。
 街頭の光、ビルの広告塔、店の看板、そんな物はもうなにも判別できなくて、ただ地上に転げ落ちた星のように千尋には思えた。
 空は薄い雲に覆われていたが確かにその上には月がのぼっているのだろう、雲も町も夜であるのに白く白く輝いていた。
 結わえてもいない長い髪は、竜が上昇するままに後方に流れて行く。
 両手でしっかりと掴んでいる竜の角はほのかにあたたかった。
 風を切って飛翔しているので本当ならパジャマ一枚ではすぐに凍えてしまうはずであるのに、夢であるからだろうか、寒さなど微塵も感じなかった。ただ、全身で風に乗っている緩やかな流れを感じるばかりである。
 綺麗。綺麗だわ。
 そう言葉にしたいけれど、そんなものは不要に感じられて、千尋はただただ角を握る両手に力を込めるだけだ。
 今この瞬間に言葉なんていらない。心は、触れ合った場所から流れ込んでいくだろう。わたしからはこの光景を綺麗だと思う気持ちが、この不思議な体験を楽しんでいる気持ちが竜に流れ込んでいるはずだ。竜から、わたしを背に乗せての夜空の散歩を楽しんでいる気持ちが、昂揚感が流れ込んできているのと同じように。
 風に撫でられてか、しゃらしゃらとえも言えぬ音がする。竜の鱗が奏でる風の音だ。それが千尋と竜を追って音を振りまいている。
 竜はぐんぐんと天の高みを目指した。薄い薄い雲を、螺旋を描きながら上昇すると、竜と千尋の足元に広がる世界も螺旋を描きながら遠ざかった。
 やがて薄い雲を抜けたそこに広がっていたのは、月と星と雲海。どこまでも白い世界だった。
 果てなどなく広がる白い雲。頭上に散らばった小さな光。月が照らし出す真白い世界。雲の陰影は銀色に輝き、言葉にできないほどに美しい。
 白い雲のところどころにある白い渦は、風が描き出した悪戯だ。その濃淡も自然の芸術であった。
 ぐんぐんと天を目指していた時は、鋭い風を切る音に包まれていたが、今この世界ではすべてが静まり返っていた。千尋の中の心臓までもがひそやかに鼓動を繰り返しているばかりだ。とくん とくんとかすかな音をたてる心臓の音がやけに大きく響いて感じられたが、その音はこの世界の中でおいては不協和音などではなかった。
 あぁ、なんて綺麗な夢なんだろう。
 千尋は心の中までも白く染め上げるかのようなその白い世界を目にして、そっとまぶたを閉じた。あまりにも非現実的な光景は掻き消え、手の中に残るのはあたたかな角の感触だけ。それが、たまらなく、愛おしかった。

   【4】

「おーぎーのーちゃーん?」
「……」
 ここ暫くはなんとか晴天を保っていたのに、ようやく訪れた晴れ間を楽しむ間もなく梅雨入りした日本の片隅の高校敷地内で、朝っぱらから不景気な声が千尋を背中から襲っていた。誰だと振り返らなくてもわかる、桐原 誠の声が。
「あーれーだーけー睡眠とは量より質だと言ったのに、チヒロちゃんたら質どころか量だってとってないでしょ?!」
 ま、反抗期なのね。ママは悲しいわ!
 なんぞと小指を立てた右手を口元にあてがい大きくのけぞったかと思うと、今度はその手を目元にあててよよよよと泣き崩れた。
「こんなに一生懸命可愛い娘にしようと骨身を惜しんで育ててるのに、反抗期なんてっ反抗期なんて〜〜〜っ」
 泣き崩れるさまはとても芝居臭くて、なにを言い返す気にもならない。登校中の学生も、あからさまな好奇の目を向けるだけで、なにもしてくれない。
「ごめんなさいね、誠先輩。昨日は遅くまで勉強してたから……」
「チヒロちゃん、ニ十番内だもんね、うむうむ」
 あぁでもちゃんと寝なきゃ駄目だからね〜〜〜っ! と語尾を伸ばしながらもなぜか誠は千尋の腕をがっしりと掴み、学生鞄もがっしりと確保すると、いつかの日のように校舎裏へと引きずっていく。
 はぁぁぁぁ? と寝不足の頭の中で素っ頓狂な声を上げている間にも、いつぞやと同じ体勢をとられてしまっていた。ちなみに、先ほどはたしかにあった衆目も、ここではひとつも向けられなくて、千尋はひしひしと危険危険と感じてしまう。
「でさ、チヒロちゃん、ヒラカワ高のアサイもぶった切ったってホントウ?!」
「……アサイさん?」
「昨日校門でとっつかまってたのを見たってトモダチからタレコミがあったんだけど?!」
 あぁんもうっ昨日はババアから用事を言い付かってたもんだからはやく帰るしかなかったなんてくーやーしーいーっ!
 誠はあいも変わらず千尋の顔を覗き込むような――端から見れば襲っているような体勢のままで歯軋りをして雄叫んでいる。千尋は自分の精神的安静の為に「ババア殺す!」との誠の言葉は記憶から消去することにした。
「アサイさんって……なんでしたっけ?」
「チヒロちゃん、ヒラ高のアサイって言ったら、ここらの陸上では超! 有・名・人! それを素で知らない上にその有名人をぶった切るチヒロちゃん、最凶!」
 あぁぁ現場を押さえたかった! 頭筋肉バカの情けないツラを是非拝みたかったっ!!
 誠は、常人の考えとは違う点で悶えながら残念がっていた。
「爽やかガリ勉君の桂木も、爽やかスポーツ系のアサイもダメとなると、千尋ちゃんが首を縦に振る相手ってどんなんーっ?!」
 あーもうっ予想できないーっ!
 誠はひとりで頭を抱えてどうでもいいだろう悩みにふけっている。
「誠先輩、そんなことに興味があってわたしに構うんですか?」
 この、地味な性格の自分が普通に生活していれば一生接点なんてなさそうであった桐原 誠と、どうやって知り合ったのか千尋は唐突に思い出した。はっきりとした接点なんてありはしなかったのに。
 あれは、高校一年生の秋。なぜだか知らないけれど入学してから次から次へと告白されて、どうしてこんな現象が起きているのかさっぱりとわからなくて途方に暮れていた、十二回目の断わりの言葉を口にした校舎の屋上で
「百人切り目指しのオギノチヒロちゃーん」
 そう声をかけてきたのが誠だった。最初から今のように妙に馴れ馴れしかったのを思い出した。
 誠の、どこか人を小馬鹿にした口調にもいつの間にか慣れて愛着を抱いている自分にふと気付かされて、千尋は内心で驚いていた。常々彼女をおのれの『鏡』と感じてはいたが、それとはまた少しばかり違う思いに気がついた。
 けれど。
「あぁん? 違うよ、チヒロちゃん。お綺麗お綺麗した態度でも所詮お嬢ちゃんも俗物だって瞬間を見たいだけ! そこらに群れてる、ひとりじゃいられない女どもと一緒、季節選ばず発情してオスが欲しくてたまらないメス豚と一緒って証拠が欲しいだけ!」
「……誠先輩?」
 千尋は一瞬、目の前の人物が発した言葉が理解できなくて、無闇に瞬きを繰り返した。ついで、その内容がおぼろげながら理解ができると、目の前の人物が誰なのかわからなくなった。
 わたしを覗き込むように見るのが癖な、このスキンシップ過剰で口の悪い人はどんな人だった?? 背が高くて、爆発したような短い髪に着崩した制服でも似合ってしまうこの人は一体どんな――??
 目の前にいるのに――確かにいるのに、その顔すらもわからない――思い出せない――……
『鏡』は『鏡』でも、亀裂の入った粗悪な『鏡』ではなにが見えるだろう??
「お嬢ちゃんが学校でなんて言われてるか知らないの? 『聖女様みたいなオギノチヒロ』――いつでも微笑んでいて、優しくて、頭だってイイ。なにをやらせても絵になる。傍にいると安心できるオーラに包まれてるの〜〜! だってさ!」
 そんな聖女みたいな女、気持ち悪いって思わない?
 誠が尋ねてくるが、千尋はぼんやりと誠を見上げるしかできなかった。まだ彼女がどんな人間であったのか思い出せなかった。
「あんたも汚い人間なんだって吐いちまえよ。誰かを傷つけて蹴落としながら生きて、後々には男たらしこんでガキ生んで、そうやってずっと生きていくそこらにいる人間と一緒だってしらしめちまえよ」
 そうしたらもっと楽に生きられるだろ? あたしみたいに。
 唇の端を歪めて刻まれた笑みも不思議と不愉快なものではなくて。悪意なんてものから構っているわけではなくて。
「あぁ、でも、もう誰かを傷つけて蹴落としてなんて、散々やってるか。告ってきた男どもを切って捨てて、その影には泣いてる女だっているだろうしねぇ。直接手を下さなくてもチヒロちゃんの手は綺麗綺麗じゃないようねぇ」
 あ、ホームルームはじまるからあたし行くわ〜優等生なチヒロちゃんと違って出席日数危ないんだよね〜。
 鈍い電子音が響き渡る中、ひらひらとお気軽に手を振りながら校舎へと走って行った誠がいた場所には、掻き曇った空しかなかった。
 いつかの日と同じような細い雨がはら、とひと雫千尋の頬に降りかかり、その不快感に千尋はぎゅっとまぶたを閉じたのだった。