さよならを
告げるつもりはなかった





   【1】

 雨が降る。梅雨入りしたのに、どこか勢いに欠ける、細い細い雨が。身を叩くほど強くもなく、さりとて無視できるほどの小雨でもなく。
 確実に空から大気の隙間を埋めるようにして降る雨の中、千尋は朝方辿った学校への道を逆に歩いていた。手には学生鞄が辛うじて引っかかっているありさまで、もちろん青い傘はない。
 セーラー服をじっとりと濡らす雨に降られながら、千尋は歩いていた。そのしっかりとした足取りに惑わされがちだがその顔色は真っ青で、けれどもそれ以前に彼女のそんな姿や奇行を見咎める者などどこにもいなかった。それも一種の不幸なのだと千尋も誰も気がつきはしなかった。
 山間にある、町と町との渡り道。そしてそれに沿って流れる、徐々にあい濁り水量を増しつつある小さな川。さらさらと控えめに降る雨の中いまだどうどうと恐ろしい音は立てていないので、うっかりするとそんな川があることさえ忘れてしまいそうになるほどに小さな川。千尋はその川に視線を向けることもなく、黙々と歩いた。
 やがて辿りついたのは、あの存在がいる山の入り口だ。けれども、千尋はそこで足を止めざるを得なかった。
「どうして……わたし」
 どうしてこんなところに来てしまったのか、学校からの道のりがとんと思い出せなくて千尋は困惑の声をあげていた。ここまでどうやって来たのか、おのれの行動であったのにまるで夢を見ている心地だった。そして目の前に立ちふさがる、予想もしなかった光景に、まだ夢は続いているのかとも思うのだ。
 なぜなら、今までなら確かにそこにあった、薄く細い道とも言えない道が……大きく柔らかな葉を持った蔦で覆われていたので。簡単に踏み固められて雑草があちこちに飛び出た程度であったその道に、隙間なく生えている草。
 まるで千尋を締め出すかのような変わりように、けれども千尋が躊躇ったのは一瞬だった。きゅっと唇を噛みしめると、手を伸ばして蔦を掻き分け、草の道へと足を踏み入れる。
 蔦が持つ産毛が千尋の手の平をちくりと刺し、踏み入れた草の道では制服の裾をひかれる。それでも千尋は前へ前へと進んだ。絡まった蔦の産毛が濃くなり痛さを増し、切っ先鋭い草で白い足に切り傷を作っても、千尋は顔を歪めるだけで止まりはしなかった。否、痛さや苦しさで唇を噛みしめているのではない、それはすべて内面に渦巻く自身にすらわからぬ感情がさせていた。
 千尋は両の手に、両の足に、制服のスカートにたくさんの擦り傷を作り、深い草に足をとられ何度も転びそうになり咄嗟に伸ばした手の平を鋭い草でしゅるりと大きく切り裂きながらも、それでも道を黙々と辿った。
 細い、もう道とも表現できないその道の両脇にそそり立つ樹は大きく伸び上がり、千尋に向けてざわざわと不気味な音を降り注いでいた。舞い落ちる一枚の葉が雨とともに千尋の艶やかな髪に張り付くが、そんなものに気もやらず千尋は草を掻き分ける。腰まで伸ばした髪はすっかりと雨で重くなっていた。
 いつもならそこここでさえずっている鳥達も、雨であるからか、それとも千尋の存在が異様であるからなのか、ちらともその声を聞かせない。千尋の耳には、ただただ草を掻き分ける音と、乱れた自分の呼吸の音が入ってくるだけだ。
 視界の端に、あの、苔の生えた、白い小花が咲く茂みが見えたけれど、そこも千尋を拒絶しているのか、太い蔦が絡まって一歩も入れそうにはなかった。白い小花は枯れ落ちてしまったのか、苔の上にその残骸があるばかりだ。
 千尋は一度も足を止めず、まだ歩き続けた。自分が行きたいのはきっと『あそこ』ではないのだ。この足が止まらないのだから。
 千尋の指先は、もう長い、短い、深い、浅い擦り傷だらけで、雨と混じり合ってさらりとした赤い色に染まっていた。
 空はどんどんと掻き曇り、雨足も激しくなってきた。ぽつ、ぽつ、と千尋の頭や肩を打つ雨は、草や蔦を掻き分ける手の先にも降りかかり、滑りやすくしていた。変な具合に草を薙ぐたびに、千尋は痛みに息を殺す。それでも前へと進むのをやめなかった。
 膝下までしかなかった草はもう千尋の胸元あたりまで伸び、とうに足元など見えなかった。柔らかな産毛しか生えていなかった蔦は、太く幾重にも編まれた有刺鉄線にも似た鋭い棘を有した姿で千尋の行く手を阻むようになった。学生鞄などとうの昔に打ち捨ててしまい、今はもうどこの草の中に埋もれているかもわからない。
 荒い息を繰り返しひたすらに奥へ奥へと進んでいた千尋の目の前に唐突にあらわれたのは、びっしりと組まれた蔦のバリケードだった。太い釘を打ち込んででもいるかのような棘と、きざきざな鋭く小さな葉と、赤い小花がところどころに咲いた奇妙な蔦。それが、一枚の壁ででもあるかのように道の両脇から長くがっしりと生えて絡まり、千尋の進行を閉ざしていた。蔦や葉や花の隙間から覗く向こう側はその蔦が境界線ででもあるのか全く違う趣きで、千尋が掻き分けてきたあの草の道の気配は微塵もない、本当の『道』に繋がっているようであった。
 千尋は震える手を伸ばし、蔦に手をかけた。途端に食い込む太い棘に、もう千尋は苦痛の表情をつくることもできなかった。深々と食い込む棘はもうどこか鈍い感触だ。つ、と流れた血の線もすぐに雨と混じり合って制服を染める染料になるばかり。ただ、蔦と葉の隙間から見える、山の更なる奥へと続く薄暗い道と、蔦に咲く赤い花をぼんやりとした視界で見つめるだけ。
 あぁ、この花はわたしの血で染まったものだ。
 手の平を赤く染める色と目の前の花は、そっくり同じ色だった。雨に薄まったとしても血は血。その色をたがえられはしない。千尋は半分蔦に身体を預けるようにもたれかかり、ぎゅうと蔦を握りしめる。じんじんと鈍い痛みが手の平から全身に伝わるが、疲労や苦痛はもう自身のものとは考えにくかった。頭も身体もすっかりと痺れて、どうして自分が今ここにいるのかもわからない。ただただ、身体の中から血が徐々に失われていくその感覚さえ不快ではなくなっていた。
 千尋は荒い息を鎮めようと、まぶたを閉じた。手の平の痛みはもう心地よい錯覚にすり換わっていて、その心地よさを追い求めようとさらに力を込めた時――耳元で、声が、した。
『もうここには来ない方が良いと何度も言っただろう』
 細い雨に紛れる、透明な声。千尋は目を開けず、けれども耳だけを澄ませる。すると、今まで恐ろしいばかりであった樹の葉音はしんと静まりかえり、雨の音しか耳に聞こえなかった。
『私などに関わりあうのは良くないと忠告した』
 蔦の壁の向こう側から届く、声。
「ここは……なになの――?」
 きし、と蔦が鳴った。
「あなたは――なになの??」
 顔をあげ、目を開き、真正面から向かい合おうとした翡翠色の眸。けれど、そこにはいつもの澄んだ色しか見つけられなかった。哀れみの情も――もちろん聞き分けのない娘への嘲りの情もない……一切の表情を含まない色。
 青年も同じように蔦を握りしめていた。質感に乏しい白い手の平はそれでも力を込めているのだとよくわかる。濃い緑の蔦から、白い手の平から、細い手首へと流れ落ちているものは千尋と同じ赤い雫だった。その色だけが妙にはっきりと浮き上がって見えて、美しかった。
 緑の蔦はふたりを隔てる壁であり、『あちら』と『こちら』の境界線であり――互いを『護る』為の『檻』――そう千尋は感じてしまった。この蔦の意味がおぼろげながらわかった気がした。


『ここはそなたの心の中。
そして私は、そなたの心の中の住人。
まぼろしよりも確かで、現実よりも不確かな存在』



 えぇ、そんなこと、知ってたんだわ。きっと、わたしは――……最初から。

 千尋は蔦の向こうから聞こえる声を耳に残し、すっかりと雨に全身を抱きすくめられて冷たくなった身体と、草や蔦を掻き分けて突き進んだ疲労と、失血の為と――なによりも眠りを誘うその声に――意識を闇の中へと委ねた。白い半袖のセーラー服を、雨と赤のまだらにぐっしょりと染めたまま。あんなにもあちらとこちらを強固な姿で隔てていた蔦さえも突き抜けて、白い腕に抱きとめられたとも知らず。
 意識を失う寸前に、緑の蔦の向こう、白い青年の向こう、薄暗い道の遥か先にちらりと見えたのは赤い建物の影。

《 モルタル製だ 》

 ――その台詞は誰のものであったのか、千尋にはもう思い出せなかった。
 雨足の強まっていた雨はいつのまにかさらさらとしたものに変わっていた。夕刻でもないのに、懐かしさを誘うセピア色に染まっていて――世界は美しかった。

   【2】

 聞いて欲しい話があるの。
 わたしね、お父さんが苦手なの。
 もっと小さかった頃は、あんまり思わなかったんだけどね、すごいわたしのこと猫可愛がりするのね。一人っ子だし、娘だから、今から考えたらどこでも似たようなものかもしれないけれどね。気がつかなかった頃はそれでも……それでも、って言い方はおかしいわね、『そうだったから』とっても幸せだったわ。それが『幸せ』なんだって気がつかないほどに。当たり前だったもの、それが。
 忙しかったお父さんの仕事がもっと忙しくなって、会社でももっと認められて、前みたいに家のことにかまけないようになっても、それはそれで良かったの。
 引っ越してからかな、もっと忙しくなったのも、それはそれで良かったの。でもね、お父さん、変わっちゃったわ。仕事が更に忙しくなったからすれ違いになったわ。
 ううん、さっきも言ったけれど、それでお父さんが苦手なわけじゃないの。ただね、引っ越してきたことで……わたしも変わっちゃったから……変わっちゃったみたいだから、距離がね、もっとね、離れてね。お互いの隙間を埋めることもできずに一年ちょっと経っちゃったわ。だからどうしたらいいのか、いつの間にかわらかなくなっちゃってた。お父さんと向かい合って食事をとったのっていつだったかしら、もう思い出せないくらい昔かな。
 うん、そう、去年の春にね、わたしの高校進学と同時にね、ここに引っ越してきたの。前住んでいたところは数年間だけの社宅みたいなものでね、近くに電車が走ってるのかどうかも、お店があるのかどうかも、高校があるのかすらも、お父さんもお母さんも全く気にしていなかったわ。仕事の都合の、わたしが高校にあがるまでの仮住まいって割り切っちゃってた。
 お父さんが約束通り転勤になって、ここに引っ越してきて状況が悪くなったわけじゃないわ。むしろねぇ、不思議なんだけど、良くなってるのよ。理由はさっぱりとわからないけど、わたし、男の人にも女の人にももててるんだって。
 でね、わたしが変わったみたいって言うのがね、あまり口にはしたくないんだけどね、わたし、いじめられてたのよね、前のところで。『とちの木台』ってところでね、小学校の名前もとちの木台小学校って言ったわ。凄く人数が少ない田舎の小学校なの。
 別に、殴られたり物を隠されたりとかしてたわけじゃないわ。単にね、一歩ひかれていた感じなのね。仕方がないけどね、わたし……わたし達、そこに引越ししてきた日に、一週間行方不明になったの。その間、家族揃ってなにも覚えていなくて、一週間も行方不明だったなんて認めなかったわ。だから気味が悪いって思われてたのね、きっと。そんなだったから、そこでは友達ってできなかった。
 でもひかれたままも無視されてるのも嫌だったから、中学校にあがった頃からね、できるだけ笑うようにしたわ。嬉しそうな、なにも考えていないバカみたいな笑みじゃなくて、ほのかに笑うようにね、したのね。穏やかな心になれるように、優しい気持ちになれるようにいつも笑っていたの。なにも影口言われないように、なんでもできるように努力もしたけどね。
 聖母マリアって知ってる? わたしね、それをお手本にしていたわ。救い主を生んだ人よ。たくさんの絵画に微笑をたたえて描かれているわ、あんな感じをね、目指していたの……

「でも、わたしは聖母なんかじゃないわ」
 わたしは『人間』なのよ。人間の『荻野千尋』を――見て欲しいのよ。お父さんにも、お母さんにも――皆にも。
 ろくろく見もしないのに、『できた娘だ』なんて言われたくなんかなかったわ。親戚か誰かに電話で自慢げに話すお父さんの声を、階段の隅に座って聴いていたわたしの気持ちなんてわからないでしょう?
 
 千尋は、青年の膝に頭を乗せられて寝転んだ体勢のままで、顔を両手で覆った。涙で滲んだ視界には、ほのぼのとした綿雲が浮かんだ、目に優しい柔らかな青い空が広がっているのが見えた。
 いつの間にこんなところに、との疑問が浮びもしないほどに先ほどとは違った光景がふたりを包んでいた。鼻先に香るとろけそうなほどに甘い花の香り、髪先を揺らす柔らかな風、身体に降り注ぐ陽光は、どこの花畑なのかさっぱりとわからない。けれども、髪を撫でる感触が誰のものであるのかは、考えるまでもなかったけれど。
「わかっているよ、そなたはヒトだ。間違えようもなく」
「なら、どうしてあなたみたいな存在を見るのかしら。どうしてこんなところに来られるのかしら」
 千尋が意識を失う寸前の青年の台詞は、思い出そうとしなくてもやすやすと脳裏に蘇ってくる。この山は心の中なのだと。ならばここもそうなのであろう。
「心とは、その者の領域であろう? その持ち主が来られなければ、なんの意味も成さないだろう」
「でも、あなた、来るなと言ったわ。会いに来るなと」
 何度も何度も忠告された。とりとめもない話をできるようになっても、無表情だった白い顔に他の表情がさし込むほどに親しくなっても、千尋の背に向けられたのは、いつでも同じ忠告だった。
 青年は、千尋の額にかかった髪をさらりと梳いた。その指先が冷たくて、泣きたい気持ちでほてった額に心地よい。
「心の最奥など、知らぬ方が良い。今はそなたの心が落ちついているからこんなにも美しい風景が広がっているけれど、この光景は先の蔦や草に占められた山と同じ場所にある。そなたの心の中は、ヒトであるからこそ混沌としている」
 そんなものを見る必要は『ヒト』にはないのだ、と難しい話を連ねている口とは裏腹に、髪を梳く指の感触はひどく優しかった。
「心の……最奥?」
「そう。心を持つイキモノの、一番深い場所」
 千尋は恐る恐る、顔を覆っていた手をはずしてみた。途端に手の平の中に吹き込んで来た小さな風はどこかあたたかかった。なにかはわからない花びらが一枚、千尋の手の中に残った。ふわふわとして柔らかい感触の、桃色の花弁だった。
「嘘よ、わたしの心がこんなに綺麗な場所のはずがないわ。わたしの心はもっと醜いか――なにもないところよ」
 先の、鬱蒼とした山の道よりももっと恐ろしい風景か、真っ黒な闇のはずだわ。それとも、なにもない『空虚』――それであるはずで、断じてこんな花畑など広がる可能性もないのに。
「いいや、ここはそなたの心の中。そなたの手と言わず足と言わず顔と言わず広がっていたあの草傷がないだろう?」
 言われてみれば、花びらが一枚おさまっている手の平には傷ひとつ見当たらなかった。夢中で歩き続けていたのではっきりとした意識はなかったけれど、鋭い草で切った感触や、棘を握りしめた痛みは確かに感じていたのに。傷も痛みもどこにもなかった。
「そなたの心には、たしかにあのような暗く、自身すら傷つける痛みや闇がある。美しいそなたの内面にも、ちゃんと暗部はある」
 けれど、このように美しい世界も持っている。と指し示された青年の指の先には、小さな鳥が一羽、ちょこりと留まって千尋を見下ろしていた。頭上に広がる蒼空を軽くちぎってこねて作られたような青い鳥。首をちょこちょこと右に左に傾げて、不思議そうに千尋を見ていた。
「ヒトを傷つけるのは、他者でもあり、自身でもある。けれど、その傷を癒すのも、他者であり、自身であるのではない?」
 そなたは傷つく為にここまで来たの? それとも癒しを求めてここまで来たの?
 青年が向ける問いに、千尋は押し黙るしかなかった。
 青年の指先より千尋の胸元へと舞い降り、ちまちまとした足取りでセーラー服の上を辿ってきた鳥は、千尋の頬にその頭をこすりつけながらくるくると喉を鳴らした。甘えている仕草だった。頬に触れる柔らかな感触に、千尋は小さく微笑んだ。
「わたし、傷ついたんじゃないわ。癒されたくてここに来たんじゃないわ」
 虚勢じゃないのよ? 
 千尋は慌てて付け加えたが、青年はわかっているとでも言うのか、頷くに留めた。その手は変わらず千尋の髪を梳き続けていた。
「誠先輩の言葉にまったく傷ついていないわけじゃないけど……嬉しかったの、あんなひどい言葉でも、わたしは」
 だって、誠先輩はわたしを『人間』として認めようとしてくれてるのだもの。
 わたしが作り上げたうわべに惑わされずに、わたしの『人間らしさ』を探そうとしてくれているのだもの。わたしを、どこにでもいる『人間』と同じイキモノだろうと言ってくれていたのだもの。『分身』か『まぼろし』か『鏡』かと思えるけれど、紛れもない『他者』である誠が。
 青い鳥は新しく吹き込んできた風をその翼いっぱいに受けると、青い空へと舞い上がってしまった。どんなに探しても小さな鳥は蒼穹に同化したかのようにどこにも見つけられなかった。一度も振り返りもしなかったその鳥に、けれどもそれで良いのだと千尋は思うのだ。ただ、柔らかな微笑を浮かべたまま、言葉を紡ぐだけ。
「誠先輩は、あんなでも、わたしを普通の『ヒト』と見ようとしてくれていたの。言葉はひどいけど――嬉しかったのも事実なの」
 強がらなくてもいい。綺麗がらなくてもいい。聖女みたいに微笑まなくてもいい。
 あんたは『荻野千尋』ってイキモノだろう? あんたは『特別』なイキモノじゃない。誰もあんたを『自分とははるかに違う別種のイキモノ』だなんて認識していない。誤解させているのはあんただ。
 そう誠に言われた気がした。
「皮肉だわ。はじめはショックだったし、なんてひどい言い方をするのだろう、なんて穿った見方をするのだろうと怒ったわ。わたしはそんな、誠先輩が期待しているような、低俗な人間じゃないわって」
 でも、人間なんて、それくらいしか価値がないイキモノかもしれないじゃない。どんなに勉強がよくできても、どんなに運動ができても、どんなに品行方正でも、最終的には死んでしまってその『個人』は消えてしまう。
 どんなにひとりで生きてきたような顔をしても、どこかでひとりでは寂しいと叫んでる。誰かにそばにいて欲しいと願っている。それはどんなに綺麗に言い繕っても――次代を残す為とか、未来を繋ぐ為とか――結局は『今ひとりでなければいい』のであるし――最終的には『自分』の種を産み出す為のキーワード。なんて安っぽい、罪深い感情。
「でも、それがイキモノなのね。わたしもそんなイキモノのひとりだったのにね。怒れるはずないのに。わたしは『人間』だと認めて欲しかったのだから。『わたし』って人間を認めて欲しかったのだから」
『ヒト』が『ヒト』を見るのは、結局はそんな連綿と受け継がれてきた子孫を残す、その枠組みの中の決まりごとに乗っ取ってなのよね。『あの人は強いから好ましい』『あの人は頭が良いから好ましい』『あの人は優しいから好ましい』『あの人は美しいから好ましい』――そんな多種多様な種を残す為に、多種多様な好みがあって、ただわたしが取り繕ったうわべがその決まりごとの中で好ましいと思われていて……実質の『わたし』を見ていた人はどれだけいたのかしら。今となっては思い出せないほどにたくさんの人に告白されたけれど、その心の内を推し量ろうなんてしなかったわ。
「心の中ってなになのかしら。あなたが言うようにここがわたしの『心の中』だとしても、ここが『心の中』なんかじゃないと証明ができないわ。ここが『心の中』なのだと証明できないのと同じように」
 誰かが誰かを好きになる、その感情も、心の内も、色々な無意識のキーワードや決まりごとに乗っ取っているし、それを『違う』と否定するだけの根拠もありはしない。心の内を推し量るなんて傲慢かもしれないし、そんな努力はある意味無意味かもしれない。
「あぁ、なら、本当の意味では、わたしがなにものであっても構わないのかもしれないわ。わたしはただの歯車に過ぎなくなるのね。歯車の感情なんて、大きなうねりの中ではなんの意味も持たないわ。ただの『人間』なんてくくりの中に入ってしまえば、わたしの中身になんか意味はなくて、ただ肉体が持つ機能しか必要ないんだわ。救われたなんて錯覚かもしれない」
 子供を産んで、育てて、そして死んでいくのだ。『千尋』と言う人格を持った『人間』に育てられた『千尋』の半分の遺伝子を持った種が残るだけ。それ以外にはなにも残らない。『千尋』そのものの性格も、存在の意味も、主張も、怒りも、悲しみも、苦悩も――喜びも愛も。『人間』である限り、いつも、どこかやりきれないのかもしれない。
 千尋は自分の中身が予想以上にがらんどうな気がして、そっとまぶたを閉じた。
「悲しいことを言わないでおくれ」
 髪を梳いていた青年の指が、つととまった。
「悲しい?」
「そなたの中身も外見もなんの意味もないのなら、どうしてそなたはそんなにも孤高であろうとする? 優しくあろうとする? そなたの髪はどうしてこんなにも艶やかで、頬は柔らかくて、唇は甘くある? 私にとっては、そなたの苦しみも痛みも、すべてすべて愛おしいものなのに」
 川に流されるように周囲に流されて、もっと楽な生き方もできただろうに。
 言い寄ってくる異性の中からより良いものを選び取って隣に立たせ、優越感にひたる生き方もできただろうに。
 子供を産み育て、社会の労働力となるだけであるのなら、美しい髪も柔らかな頬も甘い唇も必要ないだろうに。土くれでつくられた男の骨から作られた『女』の体が、素となった骨とは遠くかけ離れた柔らかさと美しさと強さと弱さを秘めた存在になる必要などないだろうに。
 青年の指は、髪から額に、頬に、唇に優しく触れた。目を閉じているからか、否、目を閉じているからこそ、千尋はその感触をもっと確かなものとしていた。
「あなたは……一体なになの?」
 会うたびごとに問いかけたかった言葉を、千尋はもう一度口にした。震えそうになる唇で。
 この花園であれば、あの希薄な存在ははっきりとした質量を伴っていて、どちらの想いであるのか、千尋が伸ばした指先は青年の頬に触れることができた。おぼろげな感触ではない、滑らかな頬に触れる。目を閉じていても、指先が青年を感じていた。
「わたしの、なにだったの?」
 心の中の住人だと言ったその真意はどこにあるのだろう。
「そなたは目覚めなければなるまいよ」
「目覚め……?」
 眠っているわけじゃないわ、わたし。
 その台詞を、千尋は飲み込んだ。
「わたしは……」
「そなたは眠り続けているよ」
「……いつから」
「私と再会した時から」
『再会』――その言葉を耳にして、千尋の胸は熱くなった。彼が『どれ』をさして『再会』と言ったのかはわからない――彼が川に入っていた時のことだろうか、それとも忠告を受けた時だろうか――いいや、違う、さらさらと雨が降っていたあの日、川辺で肩を並べた日である気がしてならない。
 あの日を『再会』とあらわすにはおかしいとわかりながらも、『再会』の単語に甦ってくるのは、あの雨の日の記憶だ。静かに降る雨に、唸る泥水の川。重たげに雫を身に纏った若草。透き通ったセピア色に染まった世界――
「わたし、あなたに……もっともっと前に……あったこと、ある?」
 記憶がないあなたに、今、それを聞いてもいい?
 千尋は恐る恐る問いを口にした。『覚えているだろう』『覚えているはずだ』と責められた、あの十歳の夏に周囲から向けられた言葉は、千尋に無理矢理問いかけて答えを引きずり出すことを『恐れ』と感じさせていた。けれども今、どうしてもそれがしたい。どうしても彼から答えが欲しかった。記憶などない、おのれがなにものなのかも知らないと言った、彼から。
「会っていたよ。もっともっと前から」
 千尋は想像もしていなかった答えに、震えるような細い息を吐き出しながら、ゆっくりとまぶたを押し開けた。変わらず白い、手を伸ばせば触れられるなめらかな頬と、穏やかな翡翠色の眸と、不思議な光沢を持った黒髪と、柔らかな蒼い空が見えるだけだ。
「いつの間に住みついたのかしら、あなたみたいな存在が。わたし、どうしても思い出せないわ。あなたに一番最初に出会った時のこと」
 それともわたしが勝手に作り出した存在なのかしら。でもそれなら『再会』したなんて言葉はおかしいわね。
 千尋はおかしくて少しばかり笑った。どうにも堂々巡りだ。謎は解けたような、けれども更に深みを増したような、複雑な気分だ。『心の中の住人』とか『会ったことがある』とか言われても、それははっきりとした答えではないからもやもやとしたものが残るのだろう。
「質問に答えてもらっていないわ。あなたは、誰?」
「私は――河伯。かつて川を統べていたイキモノ」
「川を――?」
「川を統べていた竜。今はどこにも存在しないイキモノ」
「どうやってそれを思い出したの?」
 それともはじめから忘れてなんかいなかったの? 
「雨に濡れそぼったそなたが、あの蔦を握りしめているのを見た時に、すべてを思い出した」
 雨と血に全身を染めて、苦痛も疲労も極めているであろうに、もうそんなものは関係のない次元の肉体的損傷と成り果てていたあの姿を見て、思い出した。鋭い棘ごと掴み込んで、伸べられた右手を見て。
「そなたはかつて、私の川で溺れた幼い命。あの手はかつて、私の川でもがいていた手だ。あの手を覚えていた」
「わたしとあなた、そんなにも昔から知り合っていたのね。また出会えたなんて、もしかしたらこれって安っぽい運命?」
「いや、運命なんかではないよ」
 しんと静まりかえっていた千尋の心臓は、青年のその言葉にとくんっと跳ねたけれども、次の青年の言葉で凍え果てた。

「何故なら、私は死んでしまったのだから」

 生きているそなたともう二度と道が交わりはしない。
 あの日の、不思議の町であったような奇跡は――もう二度と起こらない。

   ◆◇◆

 青年はどこまでも穏やかな目のままで、ただあるがままに話をはじめた。話を聞くにつれて、どうしてそんなにも穏やかでいられるのだろうと千尋が不思議になるほどに、落ちついた口調であった。
 昔々、おのれは川を統べる者であったこと。
 その川で幼い千尋を助けたこと。
 統べていた川が埋め立てられ、魔女が支配する不思議の町に流れ着いたこと。
 魔女の弟子となり、意に染まぬ悪事を重ねたこと。
 そんな中で千尋に再び出会って、また別れたこと。
 そして、宿りの川を失っていたことによって、今度こそ本当の意味で死んでしまったことを。
「死んで……?」
 川のほとりで彼を見つけてからなら、今の方が姿形ははっきりとしている。指先で触れた感触はもっとはっきりとしている。それなのにもうおのれは死んでいるのだと彼は告げるのだ。
「どうして……?」
 千尋は、ずっと青年の膝に預けていた頭を持ち上げ、居住まいを正して彼と向き合った。そうしないとみっともなく泣き出してしまいそうだった。今でも視界は涙でぼやけ、嗚咽を押し殺すのに苦労するのに。穏やかな瞳に落ちついた口調に『嘘だ』と理性は考えているけれど、それとはまったく別のところがその話を理解してしまっている。心臓が熱い。静かに脈打っているのに……熱くて痛い。
「私があの世界で生きていたのは、それそのものが奇跡であるのだと魔女は語ったよ。それでもその存在ははっきりとした核などないぼんやりとしたもので、まぼろしにも等しいものだったと。いつ崩れ去ってもおかしくない存在だったと」
 それは執念――妄執と呼べるものの成せるわざ。一体なにに執着していたのかも、その時はわからなくなっていたけれど。
 おのれのことであるはずなのに、どこか他人事のように語る青年の白く端正な顔から、千尋は目を離せずにいた。
「そなたをこちらの世界にもどして暫くしてから、私の身体は重くなって動かなくなって、やがて崩れてしまったよ。命の源にも等しい川から逃げて、その川はとうに死に絶えているのだから、あるべき姿に戻ったのだ」
 だから哀しまないでおくれ、と言われても、千尋の頬をすべる雫をとめられはしなかった。
「ただ、そなたにはすまないと思っている。別れ際に、私は嘘をついた。いいや、嘘にするつもりはなかった。だから、死した後で魂だけの存在になり、こちらの世界へと来た。そなたの目には見えなくても、あの約束を果そうとして」
「やくそく……?」
 彼が死んだ後までも果そうと――死をもって果そうとしたその約束を思い出せない我が身が悔しくて、千尋は唇をきゅっと噛みしめた。涙を拭いもせず。
 膝の上で無意識に作っていたのは、かたいこぶしだった。川のほとりで彼を見つけた時の手がこぶしに見えたことを思い出すと、なにやら不思議な感じがした。
「私もそちらの世界にもどる、必ず会えると約束した。だから、こちらに来たんだ」
 けれど、それによって、そなたの心を眠りの中に引きずり込んでしまった。そなたはずっと夢の中に――心の中にいる。過去の記憶と、心と、夢の狭間に落ち窪んでいる。私と一緒に捉えられている……
「縁とは不思議なものだね。思いもよらぬことを引き起こす。私は、一目そなたの長じた姿を見られればと思っていただけなのに」
 こちらの世界に紛れ込んだ衝撃でか、それとも完全に死したからなのか、おのれがなにであったのかも約束すらも忘れ果てた上に、そなたを引きずり込んでしまった。
「わたし達、眠っているのね」
 眠っていることにも気がつかず、普通に生活をしていたつもりになっていたのね。
 突拍子もない話ではあったが、なぜだかすんなりと理解ができた。ここ何日もなんら変わらぬ日常が続いていたのに、それでも彼の話を理解ができた。それは、朝でも夜でもどこか懐かしいセピア色に世界が染まって見えていたからだろうか。黄昏を思い起こさせるセピア色に染まっていたからだろうか。
「私はすべてを思い出した。そして、望みも果された。私はもう行くことにするよ」
「行くって……どこに?」
「死んだ神が堕ちる場所に」
 もうとうの昔に赴いていなければいけなかった死の国に――。
「待って、わたしも連れて行って!」
 千尋はそこがなになのかよくよく考えもしないで、そんな言葉を口走っていた。それまで落ちついていた青年ですら、千尋の懇願には驚くしかなかった。
「なにを言っているのかそなたにはわかっている? 私が向かうのは死者の国だ」
 しかも、死んだ神が向かう国だ、との言葉を遮るように、千尋は青年の胸元へと飛び込んでいた。白い衣にしがみついて、胸元に顔をうずめた。
 千尋には、彼の語っていることをはっきりとは理解できない。けれどもこの存在が遠いところに行ってしまうのだとだけはわかる。そしてそこに自分が行けないのだともわかる。それでも駄々をこねずにはいられなかった。幼い子供のように。
「あなた、やっぱりひどいわ。どうして……どうして」
 わたしが好きになるような存在なんて、今まで目の前にあらわれなかった。わたしが持っていた『多種多様』の基準にあう人がやっとあらわれたかと思ったら、もうその存在は遠くに行くのだとわたしの目の前に残酷な境界線をひく。なら、どうして、わたしの目の前にあらわれたの――どうして、どうして。
 ほら、やっぱりあの子達はおかしいじゃない。好きになる人がいて、その人からも好意をもたれて……わたしなんかをうらやむのはおかしいじゃない。
 千尋は青年に体を預けながら、頭の片隅で考えて少しばかりおかしかった。世の中は理不尽だ。うらやむのはわたしの方なのに。
「私が向かう先にそなたを連れて行けはしない。私は――そなたにひどいことしかしていないな」
 守れもしない約束をした。その『約束』によって、異形の者達を見る目をそなたに与えてしまった。約束を果たそうと思えばそなたを『世界の狭間』へと引きずり込む結果になって――そなたの願いさえ叶えられない。
 苦痛を含んだ言葉の連なりではあったが、それでも青年の表情はどこまでも穏やかであった。
「連れて行ってくれればいいのよ。そこがどこでも構わないわ。連れて行って……っ」
 話だけ聞いても、あなたにとってのわたしが、わたしにとってのあなたが『なに』だったのかなんてわかりはしない。けど、今のわたしにとって『あなた』が『なに』であるのかだけははっきりとわかるわ。これからのわたしにとって『なに』であるのかも。
 彼が穏やかなのが悔しかった。どうしてこの気持ちをわかってくれないのだろう、あなただって望んでいるのだろうに――口にはしなくても、拒絶しか示さなくても――本心では。だから千尋は願うのだ、何度でも。
「連れて行って。どこにでも」
 離れたくない存在と言うのは――あるのだと、知った。それには、時間も、距離も、種族も――なにも関係ないのだと、知った。その存在から離れない為に、千尋はしがみついた指先にぎゅっと力を込めた。その指が、今までの世界を振り切る矛先になるのだと自覚しながら。
 唇に生まれた甘い熱に、千尋はそっとまぶたを閉じた。どちらかが触れたい時に触れられる幸せに、頬をすべり落ちたのはひと雫の熱い涙。

 いつの間にか柔らかな蒼い空から、しとしとと細い雨が降ってきた。けれどもそれはふたりにとって、同じ体温を感じる印のひとつにしかならなかった。雨の冷たさを心地よいと感じたり――体が生み出す『熱』を知る為のはかりにしかならなかった。







雨が降る。
ひとつぶひとつぶが細かな霧にも似た雨で、
しとしとと静かに降り続いている。
雲が低く薄く垂れ込めているからか、
その雲の上に夕陽があるからか、
世界は懐かしいセピア色に染まっている。

しとしと しとしと。
弱く強く続く雨の音は、
微妙に変わりながらも続いていく音楽。
いつまでも続いていて、この偽りの世界に流れる日常の中で。

その音楽に包まれて、わたしは今日もあなたに会いに行く。
心の中の花園に。



覚めない夢を望みながら。




おわり




あの、別れの朝が来る前の、暁よりももっと前。
やっと取り戻した私の名前。笑顔で口にした貴女の名前。
それを互いに呼ぶこともなく、呼ぶ必要もない世界に留まる。
それを『幸せ』と言うのか、『私』は知らない。