ロリポップキャンディー・デー 

 ホグワーツ魔術学院の『闇の魔術に対する防衛術』教授に就任してから、すでに二回の授業が終ったのだと考えると、リーマス・J・ルーピンは心底不思議に思うのだ。きっとすぐにでも追い出されるだろうと――それは、自身が抱え続けている秘密の為と――つまらない授業に対して子供達が反乱を起こし解任されるかとも少しばかり危惧していたからだ。まぁ、できる限り楽しい授業を、と考えつつ自分自身も楽しんでいたし、子供達もかつての自分のように目を輝かせてくれていたので安心はしていたけれど。
 そう思いながら、数少ない知り合い宛の手紙をしたためる為に羽ペンとインク壺と羊皮紙を準備して机へと向かう。窓の外には夕方の青紫色した澄んだ空が広がっていた。禁じられた森の上空にのぼった月は半分ほどに太った白い月で、こんな日にはとても調子が良い。新しい授業の教材も届いたばかりであるし、今日は平和に終れそうだ。なにやら背後の荷物がゴソゴソキーキーと音をたてているが気にする程ではないのだし。
 と、インク壺の蓋を開け羽ペンの先をひたそうとした時に、控えめなノックの音を耳が拾った。許可の言葉にぴょこりと顔を覗かせたのは、グリフィンドール生のハーマイオニー・グレンジャーだった。この年頃の女の子にしては自分のことに構わないのか、どこかぼさぼさとした茶色い髪がドアの隙間から突き出ているのでそれとわかるのだ。
「ハーマイオニー、どうしたの?」
 本日の授業もとうに終り、夕食までの短い自由時間。常の彼女であれば、グリフィンドールの談話室で宿題をしているか、それとも図書館からの帰り道であろう、と親友の息子のそのまた友達である彼女は必然的に視界に入るからそう知っているだけにどうしたのかと思わずにいられない。彼女の顔が強張っているのは、廊下の闇を背負っているからではないだろう。
「ルーピン先生、すみません。昨日提出した宿題のことなんですけど」
『レッドキャプに関するレポート』を回収したのは昨日の授業の終わり。羊皮紙一枚分でよいところを、彼女はびっしり二枚に纏めていたはずだ。親友の息子のもうひとりの友達ロナルド・ウィーズリーは、対照的に大きな文字で一枚をようやっと埋めていたものであるのに。類は友を呼ぶ、とのことわざがどこかの国にはあるらしいが、ハリーのまわりはかなり異色な組み合わせが揃っているらしい。
 その『異色』の片割れである彼女のレポートはいつもながらすっきりと纏まっていると感心した記憶が残っている。それがどうしたのだろう?
「わたし、あのレポートに書き忘れがあったのを思い出したんです! レポートを返して頂けませんか?」
 絶対に書こうと思っていたことだったのにすっかりと忘れてしまって! と続けたハーマイオニーの表情は、まるでその書き忘れによって『闇の魔術に対する防衛術』の単位がとれない重大事ととらえているような悲壮さであった。
 おやおや、あんなにもレベル違いなレポートを纏めておきながらその表情、と少しばかり悪戯心が湧いてこないでもないルーピン。
 学生時代に
『お前ってひそかにいじめっ子だよな。口調が柔らかいからそうは感じないけど、しっかり外堀埋めて逃げ道ないようにしてから言葉で苛め倒すし』
 まぁ、言われた相手のほとんどがそれに気がついてはいないだろうけど。
 と評された懐かしい記憶まで甦ってくる。自覚はしているからノーダメージだよと言い返せば『無自覚よりなお悪い!』と言い返してきた今はもういない親友を思い出してしまった。
「残念でした、もう採点は終ったよ」
 だから返却はできません、と告げると、ハーマイオニーは『三年生をもう一度して下さい。落第です』と通知されたかの如く真っ白な表情になり、思わずルーピンは吹き出してしまった。まさかそう来るか、そんな心境であったので。否、よくよく考えればそれは至極ハーマイオニーらしい反応であったけれど、どうしてレポートの書き漏れひとつでそんな表情ができるのか、それが心底不思議であり興味深くもあった。
 けれど、とりあえず今は彼女のその死人一歩手前の物凄い表情をなんとかするべきだろう、折角の可愛い顔が台無しであるのだし。ただし、レポートについては触れないでおこう、後々彼女がこれをどう引っ張るのかにも興味があるし。
「ハーマイオニー、レポートは返してあげられないけれど、かわりにこれをあげよう」
 右手でちょいちょいとハーマイオニーを手招きつつ、くたびれたローブのポケットを左手で探る。不思議そうな、疑わしげな表情へと微妙に変化させたハーマイオニーが一歩一歩近づいてきた。ちょいちょいと手振りで手を出すように促して、その手の中に落とし込んだのは、透明なセロファンに包まれた棒付きキャンディー。それが、それこそ魔法のようにハーマイオニーの手の中に現われていた。
「キャンディー??」
 その様子に、今度は目を白黒させている。自分の両手の上に現われた物体が信じられないらしい。なにせ、ハーマイオニーの手の平と同じくらいの大きさの特大ロリポップキャンディーなのだから。しかも、そこらへんに売っているような、白やピンクや緑のアメがぐるぐると螺旋を描いているものではなく、なんとも言えない形をした淡く透明な青の中になにやら赤い魚らしきものが二匹泳いでいるものだ。
 暫く呆然とそれを見つめていたハーマイオニーは、やがてがっくりと肩を落とした。げっそりと疲れた面持ちだ。
「忘れてました。ルーピン先生って、そう言えばホグワーツ特急の中でもチョコレートを下さったんですよね」
 いつもこんなキャンディーを持ってても不思議じゃないですね、とひとりで納得したらしいハーマイオニーは憔悴しきっている。
「いや、あれはディメンターが来るのを予想していたからなのだけど」
 まぁ普段からあれくらいは持っていたりするけれど、なにせ、学生時代から親友達に呆れられる程に甘党であったから。自分が甘党で今まで他人に迷惑をかけたことはないからなんとも思っていなかったけれど、もしかしたら彼女がその『迷惑かけられた記念すべきひとり目』になるのだろうか? いちいちの反応が面白くて仕方がなかった。
「もしかして、僕がこんなのを持っているのは、ハーマイオニーにとっては意外?」
「いいえ、ちっとも意外じゃありません」
 だってルーピン先生ってば、紅茶も珈琲もお砂糖たっぷり入れてるじゃないですか。
 げっそりしたままでさらりと言い切るハーマイオニーに、またおかしくなってくる。なんだかんだとそこまで見られているわけであるからだ。思わず、ありゃよく見てるねぇと呟いてしまう。
「ロンなんて、この前ルーピン先生が珈琲に角砂糖をふたつも追加したのを見ちゃったって言ってました」
 しかもその前にふたつも入れたのに! って騒いでましたよ? と続けられて、あちゃぁと思う。本心は額を抑えたいところだ。たしかについ最近角砂糖を合計でよっつも入れた。なぜならそれをいれてくれたのが渋好みのスネイプ教授で、なにを思ったのかとびきり渋い珈琲豆のセレクトな上にでろでろと濃くいれてくれので、とてもではないが飲めたものではなかった。いくら不味い脱狼剤を定期的に飲んでいようとも、それとこれとはまた別だ。苦いもの、渋いものはとことんと苦手だった。……まぁ、顔突き合わせて珈琲を飲んでいるのが『あの』スネイプ教授であったとしてもなりふり構わず砂糖を放り込んだが(そして放りこんだ砂糖とその結果を予想して気持ちが悪くなったスネイプ教授と言う、世にも珍しいものを拝見できたので、個人的には楽しかったのだが)。
「この赤いの、なになんでしょう?」
 薄いセロファンの向こう側は、まるで水中のような青色。右に左に行き来している小さな二匹の赤い魚をつんつんと突つく。その仕草で青い色がゆらゆらと水のように揺らめいた。
「あぁ、それ? 『金魚』をモチーフにしたものらしいよ。『じゃぱにーず・ふーりゅー』の生物で、『金魚鉢シリーズ』なんだって。僕もさすがによくは知らないけれど」
 ハニーデュークスでも売っていない品だろう? と楽しげにのたまうルーピンの目の前で、ハーマイオニーは盛大にため息をついてみせた。ようするに動く蛙チョコレートと同類項らしい。いくら自分がマグル出身で魔法界のお菓子に免疫がなかろうと、あの動く蛙チョコレートはいつになっても好きにはなれなかった。カエルのトレバーを飼っているネビルでさえもなんの躊躇いもなくリアルに動く蛙チョコレート頭から食べるのだから、環境や慣れと言うのは恐ろしいものだとハーマイオニーは常々思っていた。
「ところでルーピン先生、あれ、なんですか?」
 魂が半分抜けかけた声で『ありがたく頂きます』と礼を言ってからどうやっても入りきらないキャンディーをポケットにしまう律儀さに続いて視線で示されるのは、部屋の奥に置いたやかましい荷物。半透明に曇って中が見えない巨大な水槽だ。
「気になるかい?」
「気になります」
 当たり前じゃないですかとぶすくれて即答したのは、結果的にレポートを返してはくれないのだと気がついた為であるのか、それともキャンディーで丸め込まれるところであった自分に気がついたからなのか。やはりそんな様子もおかしくてたまらない。まぁ、話の途中でも遠慮もなにもせず、好きなだけガタガタキーキーとうるさい荷物であったので当たり前と言えば当たり前であろうが。
「これは次の授業に使うものなのだけれどね」
 と、杖を一振りさせると水槽の曇りが晴れ、中身が見えるようになった。途端目を輝かせるのだからハーマイオニーも好奇心が強い少女だと感心せずにはいられない。
「水魔の一種ですか? 水掻きと吸盤がある……」
 でも、本で読んだグリンデローの特徴とは微妙に違うわ。角もないし、特徴的な体躯の色が緑っぽいもの。うーんこれはなにですか?
 まじまじとハーマイオニーが水槽を覗き込むと、中の生き物も同じ仕草でハーマイオニーを覗き込むようにガラス面に手をはりつかせて首を伸ばした。猿に似てはいるが明らかに猿ではないとわかる骨と皮ばかりの骨格。水中生物であるからか肌はぬめぬめとしているがよくよくみれば緑色の鱗に覆われており、手触りは非常に悪そうだ。頭髪はぼろぼろと抜け落ち、ごわごわとした濃黒緑。愉快そうにがばりと開けた口の中には、ずらりと牙が並んでいた。それは人の歯とは明らかに違う、どちらかと言えば魚介類に似た歯。ぎざぎざとした小さな歯はそれでも鋭いようであった。縦に並んだ鼻の穴は開閉自由なのか、しゅぼしゅぼと閉じたり開いたりしている。
「日本に生息している『河童』だよ。水魔の亜種のひとつ」
 水魔亜種熊本県産。知り合いがちょうど捕まえたと連絡をくれたから借り受けたんだ、絶滅危惧種だよと笑うと興味深そうに一歩近づくハーマイオニー。
 そう言えばその知り合いに手紙を書く予定だったけれど、これは普通以上に礼の言葉で埋め尽くさねばならないらしい、とハーマイオニーの興味深そうな横顔を見ているとそう思わざるをえない。それ以上に、その表情に悪戯心をいたく刺激されるのだから我ながら困ったものだ。もう少しつついてみたくなる。
 けれど、悪戯心も、いたいけな少女にはまだまだ理解の範疇外のようで。
「あんまり近づくと危険だよ」
 その亜種は『尻子玉』を抜くんだよ。
「シリコダマ?」
「そう、お尻から手を入れて肝臓を抜き取るんだ」
「え?!」
 る……ルーピン先生! わたし、お邪魔しましたっ! と叫ぶように言い切りお尻を両手で隠しながらハーマイオニーが慌てて飛び出して行き、ありゃぁやりすぎたかと頭をかく困った先生。
 水槽の中ではいわれのない暴言に怒るかのように、河童が片腕を振り上げてギーギーとがなっていた。
 その後、ずっと笑いっぱなしであったルーピンの様子を知る者は、河童以外には誰もいないのであった。