心の王様 

 太陽が西の空に傾いてくると、天井にしつらえられた明り取りから柔らかな光が降ってくる。
 外の回廊を歩けば、半身が夕陽色に染まる。
 空の反対側に視線をやれば澄んだ夜の色が忍び寄り、その中にひとつふたつ小さな瞬きをみつけられるだろう。
 昼と夜の狭間。その移り変わりの中、辛うじて『昼』が多くの場所に踏みとどまっている曖昧な時間。
『闇の魔術に対する防衛術』教授であるリーマス・J・ルーピンは、昨日書きかけていた手紙を仕上げてふくろう便で送ったその足で、クィディッチ競技場へと赴いていた。夜に向かって飛ぶふくろうに背を向けて、ぼろぼろと薄ぼけたローブを夕方の風に翻しながら。
 なんとなしに競技場に足が向いたのは、ふくろう小屋へと行く前にクィディッチの練習に向かうハリー・ポッターの姿をちらりとみかけたからであった。親友とうりふたつのハリーのその後ろ姿はなにやら懐かしく、思い出す記憶は鮮明な気がするがやはりどこかセピア色を帯びていた。
『姿くらませ』もできないホグワーツ城での移動手段はと言えば数が限られる。ほうきで飛ぶか、煙突飛行薬を使うか、歩くかくらいである。残念なことにルーピンはほうきを持っていなかったし、競技場に暖炉はない。仕方なく、数ある手段の中で一番手軽で地味な徒歩を選択した。
 ほどほどの距離をぶらぶらと競技場まで歩いていくと、やがて見えてくる高い観客席にみっつのゴール。そして、その周囲を飛び交うグリフィンドール・クィディッチ・チーム。それらを照らしている夕陽は、さらにオレンジ色を増したようだ。光に照らされて、選手達はこの距離からでは黒い点にしか見えない。
 と、その競技場の隅に、ルーピンはここでは見慣れない後ろ姿を見つけた。小柄だけれども、ぽっちゃりと丸い背中だ。
「ネビル?」
 グリフィンドール生のネビル・ロングボトムだ。その彼が、下に少しだけ設けられた観客席にぼんやりと座り込んで空を見上げていた。その視線は飛び交う選手達をみているようで、まったくみてはいないのだとルーピンにはわかった。同じ年の少年であるハリーとは対照的な雰囲気を持つ背中であった。
 その手には、ほどほどの厚さを持った本が一冊。
「あ、ルーピン先生」
 返ってきた声に、ルーピンはおやと眉をひそめる。随分と元気のない声だ。まるで今しがた、彼が『苦手』と公言してしまったスネイプ教授に説教を喰らったばかりのような声。けれども、ネビルの手にある本は彼が得意とする『薬草学』関連の本であると見抜いていたので、そのアンバランスさが際立って思えた。
「どうしたんだい、ネビル。読書をしていたんじゃないの?」
 するとネビルは元気を取り戻すどころか、ますますシュンとしてしまった。
「これ、『魔法薬学』のレポートなんです」
 僕だけの、としょぼしょぼと続けるネビルの声は泣きそうなものであった。
「スネイプ先生も呆れてたんです。どうやったら僕が『魔法薬学』の基礎がわかるのかって。……わかってもらいたいとは思ってないけど、わからせるのが仕事だからって。」
 ぐすりと鼻をすすったネビルは、黙っているルーピンとの間に降る沈黙が気まずくなったのか、空を振り仰いだ。
「ハリー達はいいなぁ。なにをやっても最後には認められてる」
 一年生の時には、ホグワーツで保管されていた『賢者の石』を守り、二年生の時には『スリザリンの後継者』からホグワーツの安全を守った。特にハリーは、百年ぶりに一年生でクィディッチ・チームの選手に選ばれて、泥だらけ汗だらけになりながらも着実に腕を上げていた。何度もグリフィンドール・チームを勝利に導いた。なによりも楽しそうであった。
 そんな彼の活躍に、ネビルが応援と歓声をあげながらも、その胸のうちで苦いものを飲み下していたのは一度や二度ではない。
「ハリーは知らないんだろうなぁ。今どんなに凄く輝いた顔をしているか」
 やりたいことをやっても良いと許可されて、しかもそれが他の人に認められているのだ。僕にはそんなことひとつもない、とネビルは呟く。なにをやってもうまく行かないし、なにかをやってもよいと言われるよりは『やらないで』と思われていることの方が多いと知っていた。勉強が特別できるわけでもないロンはそれでもチェスが大の得意だし、なによりも大家族で育っているからか大雑把一歩手前の朗らかさで大抵の人と仲良くなれる。ハーマイオニーは誰もが認めるほどの勉強好きでなんでも知っていて、なにくれと世話を焼いてくれる。自分とは違い、三人ともなにひとつ認められていないわけではない。
 そんな彼からすれば、なにかをしている間はそれを認められなくて言われない誹謗中傷を浴びながらも最終的に認められているハリー達は心底羨ましくてならない。それは、その存在の有り方からして違う為に。
 羨んでも仕方ないとはわかっていながらも、ネビルはそれをやめることはできなかった。一年生の頃からハリーを見上げる角度はこの角度だ、と、空のハリーを見上げながらネビルは笑った。ぎこちない笑みだった。
「ネビルは、いいトコを持っているのに?」
 横の空間から届けられたそんな声に気がつかないかのように、ネビルは動き回るハリーを一心に視線で追いかけた。そんな言葉は、ドジでグズな自分に向けられる慰めの言葉の常套句だ。もうそんな言葉にどんな実も意味もないと知っていた。そんな慰めに価値はないと思っていた。
『じゃぁ、具体的にいいものってなに?』
 そう問いたい衝動を必至に抑えつける。そんなことを言えば呆れられる。こんなにもドジでグズで、折角慰めてやっているのになにを反抗するのだろうかと思われるのが嫌だった。それ以上に、常に慰められている自分が嫌だった。どうしようもないとはわかっているのだけれど。
「我慢強いし、粘り強いし、努力家だし」
 ネビルに言わせれば、我慢するしかないし、粘るしかないし、時間をかけるしかないだけだ。人の何倍も我慢して、人の何倍も粘って、人の何倍も時間をかけて努力して、それでも人並にはできない自分がいる。
『一族の面汚し』――面と向かって言う者はさすがにいなかったが、聡いネビルは相手の心の声を聞いていた。それは幻聴かもしれないし、相手の声ではなくてネビル自身のものかもしれなかったけれど――もうそこの言葉はネビルのうちに巣くって消えてはくれなかった。なら、もうそれが『本当の言葉』であってもなくてもネビルにはまったく関係がなくて。
 ネビルは内心でぶすりとため息をついた。結局ルーピン先生もその他大勢の大人と同じなのか、と。
「けれど、それができる者もあまりいないのだよ?」
 打たれ続けていれば嫌になるのが自然の流れだ。個人の資質もあるだろうけれど、我慢して努力してそれでも失敗を続けていたら、いつかそんな自分が嫌になる。それは、我慢や努力をしたらしただけ深い自己嫌悪の穴になるだろう。多分、それは誰もが考える楽な流れのはずだ。そんな流れに乗る者の割合が半分よりも少ないとしても、あきらかにネビルはその中に入っていない。それがルーピンにとっては嬉しかったのだ。そしてそのことに気がついている者は、自分以外にもいるのだと――例えば、目の前を飛び交うハリーや、ロンや、ハーマイオニーはきっと気がついていると確信がある。もしかしたら、ネビルが得意な『薬草学』の本を与えたあの人も。
 ネビルは少しばかり違う大人の言葉に、あんぐりと口をあけてルーピンの顔を見つめてから、口を閉じて気恥ずかしそうに下を向いた。今の自分を肯定される、そんなことは稀な体験であったので。ドジでグズだけれど、それだけじゃないと言われて、すこしだけでも誇らしくて心の隅っこがほわほわする。
「だけど、僕、それでも全然ちゃんとできてない……」
「それでも、ネビルの心の王様は君だと、ちゃんと踏ん張っているじゃないか」
「心の王様……」
『心の王様』なんて、陳腐な、使い古された説教の常套句で恥ずかしいね、とルーピンは苦笑いをした。それでも、きっと、我慢も努力もすべてが無駄なのだと放棄して、ドジでグズな自分を肯定し、うずくまってしまったら、ネビルはネビルでなくなってしまうと思うから。
「だから、ネビルはいいトコを持っていると思うよ?」
 そうして、ルーピンは先のネビルと同じように、ほうきで空を自在に飛び交うハリーの姿を見つめた。そうしているルーピンの横顔は、いつもの授業で見せるような飄々としたものでもなく、先ほどネビルの心をすこしでも浮上させた優しいものでもなく、どこかまぶしいものを遠くから眺めている傍観者の冷静でいて悲しげなものだった。
『もしかしたら』
 ネビルはふと思う。もしかしたら、我慢も努力も無駄である、その高くて非情な壁を――乗り越えられない『なにか』をこの先生は知っているのかもしれない。それでもまだ彼は諦めていないのだ。諦められずにいるのだ。ルーピンはそんな想いを持っているのではないか――そんな気がした。
 その時のネビルには目の前のルーピンが文字通り『心の――意識の支配』を今の自分ではないモノに乗っ取られるおぞましい呪いに捕まっているのだとは知る術はなかったけれど。それでも、ルーピンの言う『心の王様』は――ルーピンのそれは、やはり彼自身であるのだと思うのであった。