俺は一体なにをしているのだ。
下も上も黒い闇が蠢く、深い森の中にいれば関わり合いになることも一生なかったであろう別世界で、黒衣の魔法使いは自問する。
俺は一体、なにの為にここにいるのだ。
上下左右、大に小に揺れる船の中で、レジーは自問する。
ぎしぎしと気持ちの悪い音をたてて、自然の脅威に抗っているちっぽけな船の姿は、そのまま、死の運命に反抗した自分だ。
そう考えた瞬間、船体が上に高く突き出され、次いで内臓とその上の肉体が微妙にずれる気色の悪い感覚がくる。
……なんの為にここにいるかの意味すらも忘れ果てているとはこの船よりもタチが悪い、とレジーはようやくそう思えた。
死の精霊にとって、この嵐の船は恰好の舞台。いつもの様にレジーの心に忍び寄り、船縁より海にその身を一歩踏み出させる時間さえあればいいのだ。魔法も使えぬ、人力でも助けられぬこの逆巻く海に飲み込まれれば、なにに祈っても無駄である。
気を緩めてはいけない。隙を見せてはいけない。『死』の誘惑に魅せられてはいけない。レジーは自身に言い聞かせる。
けれどもいつ終わるかしれない海の嵐に、思考は緩やかに円を描き、誰かの手に落ちていく。
気を抜くと、頭の奥から、体の常ならぬものから、暗い声が染み透って来てなにもわからなくなる。
そして時折捉われる。心の裏側にある不安に。
俺は――を守れたのだろうか。
これは――の為になっているのだろうか。
俺は――の国に帰られるのだろうか……。
視界は渦をまいた闇。耳には虫の羽音にも似た暗い声。手の感覚は冷たくかたく、思考に小さな黒い点がぽつぽつと増えていく。
そして唐突に脳裏に鋭く高く、誰かの声で『死ね』と響く。心の片隅で冷静に『死の精霊が言っているのだ』と思いつつ、もう片方ではその声の主が苦しくなるほどに懐かしくてたまらないのだ。肉の器を脱ぎ捨てればそこに辿り着くのかと、本気で思ってしまうほど。
小さく長く息を吐く。幾度も。
これは、死の精霊が言っているのだ。はじめの運命の受け主の元に、俺を行かせようとしているだけなのだ。だからあれは断じて違う。――は、人を呪う言葉は口にしない。金剛石の原石の様なあの姫は……。
『ローラ』
ダイヤモンドの姫君と謳われる王女。
曙の女神の名を掲げる、小さな王。
その名前を思い出して、レジーは取られた思考を奪い返した。それは、彼の意識が浮上する小さな鍵。
レジーは、意識をしっかりと結び直すように、ローラ姫の名前を声に出さずに唇にのせた。まるでそれが、舳先に掲げられた灯明であるかの如く大切に。
そして彼は、先の自問に答えを返す。
――俺は、俺の為にここにいる。
◆◇◆
俺は一体なにをしているのだ。
信じられない速さで静寂の石の情報をそろえ自分の元へと来た黒衣の魔法使いに、好奇心と、それになにより自分の研究するものの為にここまでついてきたが、この嵐はないだろう、とはぐれ魔法使いはあきれ返る。
嵐のことは知っていた。なにより、頼りにしている魔法が使えない不利も理解していた。すべてを承知でここにいるつもりではあったが、ひとつではない理由でこんなことになるのもまずい選択だったと思うのだ。
自分だって『急いては事を仕損じる』と言う言葉くらい知っているのだ。それにかかっているモノが、自分以外の運命なのだから尚のこと……。
パナカナは、暗い船室の小さな窓に身を寄せ、生き物の様に体をくねらせる海を恨みがましく睨みつける。
船のどてっぱらに強烈な波が襲い掛かる。なんとも言えない衝撃が船を、そしてその中のちっぽけな命を飲み込もうとする。
甲板の上はまるで戦場。船員は、崩れそうになる荷に縄を張り、船長は舵をにぎったまましっかりと立っている。
そんな姿を丸い窓から見つめ、なんでこの男達は、出れば必ず嵐にぶちあたる運命にあるのに、この海に船を出すのをやめないのだろうと考える。
島から出なければ、少なくとも命の危険に晒されることはない。仕事だからの一言で済むほど、この嵐は甘くない。
もしくは、家族でたった一度の嵐を乗り越える奇蹟に賭けてもいいはずだ。まだそれなら理解できるのだ。
けれどもパナカナにだって、本当のところはわかっている。この船出にそんな計算なんてないのだ。ただ人間だから、自分の運に挑戦し、嵐に挑戦し、奇蹟の限界に挑戦している。せずにいられないのだ。祖父が、知恵と運と勇気をもって、ガスの迷宮に挑んだことと、これらはなにも変わらない……。
そしてそれらを支えているのは、海の向こうと島にある夢。生きていることの自信が、生き続けることの自信が、彼らに船を出させる。
夢は、希望だ。きっと誰にも消すことなど出来ない、輝くもの。
パナカナは瞼を閉じ、知らずつめていた息をゆっくりとはく。
後ろに残してきたはずのものが、今は目の前にある。そのことに、ようやく気がついた。
◆◇◆
黒く逆巻く嵐の海。
蒼穹などかけらも臨めない空。
それでも、希望は誰の胸にもある。
それは見えなくても――見えないからこそ大切な、一条の光。
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