廊下の窓から眺めやった緑豊かなトッペンガムデンも、はや紅の色に染まりつつあるとある秋の朝。
黒い装束を身に纏った背の高い男を、小走りにかけて呼び止めた者がいた。
「待って下さい! 待って下さいよ!」
廊下の先を行く男は呼び声に気付いていないのか、それとも無視をしているのか。多分に怒り肩になっている後ろ姿を見れば後者だとわかるであろうが、追いかけている人物はご丁寧にも前者だと勘違いしているらしい。両手を筒にして口元にあてがい、大きく息を吸い込んでから改めて呼びかけた。
「レジー国王補佐!」
その声はようやく届いたらしく――否、その言葉になにかしら覚えてゆっくりと振りかえった男は、あきらかに目で
『その呼称を使うな!』
と圧力をかけていたのだが、後ろの――エルファン公はまったくに気がつかず、普段から垂れ気味の目尻を更に下げてレジーへと追いついてから笑いかけた。
「国王補佐、今から国王の元に行かれるんですか?」
「……あぁ」
言葉とも言えない言葉の端々にちらちらと冷たい火をともらせながら威圧するも、エルファン公はまったく気がついていないようだ。黒衣の脇腹を意味ありげにつんつんと脇で突つき、にやりと笑う。
「それにしてもいまだに信じられませんよ! 姫と――おぉっと、もう国王ですね。その国王とあなたがこんな関係であったなんて!」
まぁ私は薄々感じていたのですがね! とエルファン公は朗らかに笑ったが、その当事者の片割れが聞けば
『嘘よ! エルファンはラズウェルとのこと、勘繰ってたじゃない!』
とわめきそうである。
兎にも角にもエルファン公は言いたいことを言い終わるとすっきりとしたのか、妙に爽やかな笑顔を残して来た道をもどって行った。
廊下の角に立っていた兵がそんな光景にくすりと笑い、それを見た国王補佐がぎっと睨みつけたのは、そんな穏やかな秋の朝。
◆◇◆
「レジー、毎朝来なくても良いのに」
朝だ朝だ朝だー! と、大きく開け放した窓から身を乗り出して万歳し、深呼吸をしている娘――これでもこのトッペンカムデン国の施政者、ローラだ。今は看板をしまい込んではいたが――を部屋に入るなりみつけたレジーは、額を抑えてうめいた。
「ローラ、危ないと何度言えばいいんだ?!」
だから毎朝来なくてもいいって言ってるのにー。と、ぶつぶつ呟きながらこそこそ窓辺から離れていくローラ姫に、レジーはわざとらしくため息をつく。
「あのなぁ、そんな状態で窓になんか寄るな!」
あははははと乾いた笑いを浮かべながらちょこんっとソファに埋もれたローラ姫の腹部はまぁるくふくれている。歩く姿さえ『えっちらおっちら』となっている。元から細く小さな娘であったので、その危なっかしさは見ていてハラハラするのだ。父親になった男の過保護さはどの世界でもどの国でもどの職業にでもあてはまるのか、レジーも例外ではなかった。……まぁ、ローラ姫の場合は、それだけ言ってもまだ言い足りないくらいではあろうが。なにせ、とことん危なっかしく、後先考えないのであるし。
「でもねぇ、本当に、毎朝来てくれなくてもいいのに?」
微妙に降りた沈黙を破りたくて、ローラ姫は口を開く。まろやかにふくれた腹を無意識に撫でながら。
「レジーだって、わたしの仕事を肩代わりしてくれてて、忙しいんだし」
なによりも、昨日から視察に出ていたのではなかっただろうか。昨日の昼に出立する騎馬隊を見送った記憶がまざまざと甦る。たった三日の視察とは言え、レジーがいないと心細いと泣いたのは昨日の朝のこと。子供が腹の中にいる、その情緒不安定さもあったのだけれど。
「わざわざ魔法で戻ってこなくても良かったのに」
そう言葉を続けると、よそ者が見ればわからないほどに――つまるところローラ姫にはわかるほどに――不機嫌な顔になった国王補佐。
まぁ、これはこれで、穏やかな秋の朝のひとこま。
◆◇◆
「パナカナ! トッペンカムデンに来るのは半年ぶりだね!」
茶色い籐の籠を右手にかけ肩から布のカバンを下げたおさげの娘は、跳ねるようにして刈り入れの終わった麦畑の横を歩いている。秋の朝日に照らされて、淡い淡い影ができている。
「ローラちゃん、今年の冬には赤ちゃんが生まれているんだよねぇ。これ、喜んでくれるかなぁ?」
南の地方に旅をしていて見つけた、子供の成長を願って贈られる白い石を大事そうに手に持ちながらの、ノーチェのはしゃぎようはずっと続いている。それを買い求めたのは、もう三ヶ月も前であったのに。それは微笑ましくも、同時に、子供など持てないであろう死人の娘の境遇を考えればやりきれなくもあり――それよりも現実的に、純粋的に危なっかしくもあった。
「前向いて歩けよ」
と、杖を持った剃髪の男が声をかけると同時に、道に根深く埋まっていた石につまずいてぺしゃりとこける娘。
まったく、しゃぁないなぁ。全然変わらない。
なんて言葉にはしないけれど……変わらないでいてくれればいい。『もう変化は望まない』――それがコイツの願いであるのなら。とパナカナは胸中で呟いた。
これも不変な――あるいは、不変こそを願う、穏やかな秋の朝の光景。
◆◇◆
「おや、レジー国王補佐。ヴィルヘルム大臣の領地へ視察に行かれていたと記憶しているのですが?」
政務の前に中庭散歩としゃれこんだシャイデック宰相は、秋色のテーブルクロスを敷いた上にしっかりとお茶にお茶菓子が乗っていて、尚且つこのトッペンカムデン国の施政者ふたりが揃っていると言う、ある意味有り得ない光景を目にしていた。
「ラズウェルったら、こーんなに積み上げられたお見合い状を目にして、目が点になっていたんだってぇ」
と笑い声をたてていたローラ姫は
「あ、シャイデック、おはよう!」
テーブルに飾られた秋咲きの薔薇よりもあでやかにはれやかに笑った。
新しい命を宿した、この国の王。踏み躙られ荒れ果てた国に大地、失われた命の末に立ったこの王。その王が新しい命を抱えている。まるでそれは、この世界が向かう未来の象徴のようで――なにやら嬉しい、とシャイデックは常に思う。
けれどもシャイデックはそんな思いなどかけらほども表情にあげず、
「おはようございます、国王に国王補佐」
とだけ返す。身重であろうに、こんなに寒い朝に外にいるなんて……とは、シャイデックほどになれば口にしない。それ以前に、もこもこになるほど服を着せかけられてもいるのであるし。
「シャイデックもお茶をどう?」
かつて彼女を裏切ったのに、この王はそう声をかける。それが今でも不思議でならなかった。
「遠慮しておきます。あらぬ疑いをかけられてはたまりませんからな」
ちらりと意味ありげに国王補佐へと視線を流すが、かわりに返って来たのは仏頂面である。そのふたりの顔を交互に見合わせ、ローラ姫はこてんっと首を傾げた。
そして、そんな穏やかな秋の朝の光は、いつまでもトッペンカムデンを柔らかく照らすのであった。
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