古い歌遠くに




 それは、古王国トッペンカムデンで、華燭の典が行なわれてから一年ほどあとのこと。
 ある晴れた日の朝、若い国王がいつまで経ってもベッドから出てこなかった異変より、物語ははじまった。

   ◆◇◆

「なんだそれは」
 その日、国王補佐の任につく長身の男は呟いた。目の前には若い女中が心底困り果てた顔で立っている。
 男――魔法使いの肩書きも持つレジーは、長めの黒髪をくしゃくしゃと掻き回した。その仕草に眼鏡がずり落ちそうになる。
 それを神経質な指で定位置にもどしている間にも、女中はレジーに泣きついていた。国王補佐と魔法使いの肩書きを持つレジーは国王の伴侶でもあるのだから、女中にとっては泣きつく相手としては正当性があるのだ。
「ですから、姫様がまだお起きになられないんですよ。いつもならとうに政務に就かれている時間ですのに……」
「揺すぶってでも起こせばいいだろうに。だいたいローラは、月に一度は怠けぐせを出してベッドにへばりつこうとする常習犯だろうに」
 ベッドに沈没してしまいたいのはこちらの方だ。それがレジーの本心であった。なにせ、ここ一週間地方の視察にでずっぱりで、朝駆けで城に到着したばかりなのである。視察書を作る前に軽くひと眠りしたかった。
「いえ、ですから、もうお起こししようとお声はかけたのですが……一向に反応がなく」
 レジーはもう一度『なんだそれは』と呟いた。なんとも表現し辛い仏頂面で。
 けれども、ことは『怠けぐせ』なんてものではないのだと判明するのは、すぐ後のことであった。
 なぜなら、トッペンカムデンの国王にしてレジーの伴侶であるローラ姫の眠りは、揺すぶっても耳元でどなっても、足裏をくすぐっても覚めない眠りであったからだ。


「本当に姫様はお目覚めになりませんのぉ」
 宰相シャイデックは、無精に見えながらもその実ある程度整えたひげを撫でながら、書類上の確認事項をそらんじている口調で現状を言葉にした。今年の小麦の収穫量は例年並みですね、と同じ口調である。
 その口調に、ひとりかけの椅子に腰掛けたまま腕を組んでいたレジーのその指先が、かすかに揺らいだ。
「まぁまぁ、姫様が謎の眠りにつかれるなんて、はじめてじゃぁないんだし。国王補佐もここらで一服したらどうですか」
 レジーの前に紅茶を供したのはエルファン公である。ひとばらいをしてあるので配膳の手が足りない為でもあったが、年長者であり宰相であるシャイデックに紅茶のセッティングなどさせるわけにもいかないし、仏頂面のレジーの手を待っていたら永遠にお茶など飲めやしないからであった。
 ことローラ姫が関すると、昔のいざこざや衝突はもう跡形もなく、ひたすらに『良いお兄さん』になってしまうエルファン公は、運悪く登城日が尋常ではない事態の勃発日にぶちあたってしまったのに、本日もほやほやとした表情であった。言葉通り、この国の国王が謎の眠りにつくなどはじめてではなかったし、尋常ではない事態なんてものも日常茶飯事なのだから慌てても仕方がないと鷹揚に、そしてなんの打開策も見つからないのに能天気に開き直っている。これが領地に戻ればかなりの切れ者であると評価されるのだと誰が信じるだろう。
 エルファン公を正しく評価しているうちのひとりである宰相は、公の言葉など聞かなかったかのようなふりで紅茶をすすった。
「一服なんてのんきなことを言っていられる場合か? 五日後には平和記念式典だって執り行なわれるのに、そんな行事にあの戦の立役者である国王が出席しませんなんてできるわけないだろう?」
 エルファン公がいれた紅茶には手もつけず、レジーが淡々と言い募る。
 あの戦の立役者、否、世界を救ったダイヤモンド姫が式典に姿を現さないなど、トッペンカムデン国民も諸外国も黙ってはいない。彼女はある意味同盟国の旗印、輝ける平和の象徴であるのだから。
 それでも、宰相の口八丁手八丁の政治手腕を持ってすれば諸外国の不満をそらすなど不可能ではないかもしれない――とは、その席にいる若輩者達の感想だ。
 その宰相は、まだなにも言わずに紅茶をすすっている。国王の謎の眠りがもう三日目になっているなど、この宰相にとっては慌てる事態でもないのかもしれない。
「だいたい、これからの政務はどうするつもりなんだ? 宰相と言えど王印は使えないんだから、冬篭りの采配許可だって通せなくなるんだぞ」
「なに、この国には正当な『国王補佐』がおりますので、その心配は無用かと」
 なにせ、レジー殿は国王補佐にして国王の正当なる伴侶ですので、王印使用にはなんの障害もないかと。
 ようやく口を開いたかと思えば宰相の言葉はそんなものであったので、レジーは押し黙るしかなかった。国王補佐だの国王の伴侶だのの単語はいまだにこっぱずかしくて居心地が悪くていけない。特に、この宰相の口から出たそれらの単語は、誰に言われるよりもいちいちがひっかかってしまう。なんとも嘘臭い。
「あぁそうか! 政務は国王補佐がしちゃえばいいんだ!」
 な〜んだ、じゃぁなんの問題もないね、君は姫様の仕事の手伝いもしてくれているから、そのまま決済をまわしちゃえばいいんだ!
 のん気に喜ぶエルファン公の様子に、さすがのレジーも慌ててしまった。国王補佐は単なる『補佐官』であって、国王代行者でもなんでもないのだと気がついていないのだろうか。
「ちょっと待て! あんたがた、そのまま俺がトッペンカムデン乗っ取りとか、王位譲渡書に王印を押すとか考えないのか?!」
 勘違いを逆手にとって、とんでもないことをしでかすとか考えないのだろうか、この国の者達は。
 食えない宰相は除けておいても、この国の住民はどこかのん気過ぎる。その筆頭が伴侶であり国王である現実は国民にとって不幸なのではないだろうか。それでも『古王国』と言われるほど長く続いているのだから、この国の存在自体が最大の奇跡に思えてきた。
 けれども、その『奇跡』には、ちゃんと理由があるのだ。
「なぁに、君がそう言うだろうから、僕達は安心していられるんだよ。こんな言葉尻に安易に乗る相手の方が信用が置けない」
「唯々諾々と国政を代行するなどとレジー殿が言われるようなら、その時点で国逆罪で捕縛するつもりだったのだが……」
 なんてぬけぬけと言い放つ。
 どうやら食えないのは宰相だけではなく、トッペンカムデン国民の根底にある気質であるらしかった。
 目の前に置かれた紅茶だけが、なんの裏も表もなくのん気に湯気をくゆらせていた。なぜだかその純粋なのん気さだけがレジーの心をほんの少しだけ癒すのであった。


 食えない相手との気の休まらない一服のあとで、レジーはここ暫くの定位置へと戻ってきた。国王ローラの寝室の、ベッド脇に置いた椅子が彼の定位置だ。
 決裁を下すべき最高責任者が不在では、決めるべきことは仮決定のまま動きもせず、政務は最低限しか稼動していない。国王の状況は重篤と言うには重病でもなく、即急に代理を立てねばならないほどの火急の決裁もない。上層部も特段慌てて動こうともしなかった。
 国王補佐。などと仰々しい肩書きを持ってはいたが、その補佐するべき相手が文字通り眠り姫をしているのならば補佐のしようもない。宰相達が言うように、この状況で国王代理となれる者は、立場的にも『国王の伴侶』であり『国王補佐』のレジーであるのだろうけれど、レジーはあくまで『補佐』の言葉にこだわっていたので代理になんて立つ気はこれっぽちもなかった。『国王補佐』なんて、国王の傍にいる為の大義名分でしかない。
 よって『国王補佐』は時間を持て余してこんなところにへばりついていたが、彼の顔色はすぐれず、目の下には黒クマが寝そべっていた。一週間の地方視察から帰城後、まだ一度もおのれのベッドに沈没していなかった。なにができるでもなく、頭に入りもしない本のページをくっていても仕方ないのだとはわかっていながらも、レジーはこの定位置を離れることができなかった。こんな自分でも『人間らしい』かけらがあるのかと考えると少しばかりおかしくなる。
 大変なトッペンカムデン城の内情など知らぬげに、空は高く澄み渡っていた。窓のすぐそばを小鳥が二羽、絡まりあうようにして横切って行く。窓際に置かれた鉢植えでは、今朝黄色い花が開いた。彼も――もちろん彼女が見ていなくても。
 その薄い花びらを揺らした風が、そのまま部屋の中へと踊りこみ、レジーの黒髪と、ベッドの住人の髪をかすかに揺らしていく。
 小鳥のようにくるくるとよく動く赤味を帯びた瞳は伏せられているが、肉付きの薄い胸がゆっくりとしたリズムで上下しているので、眠っているだけなのだと――生きているのだとはわかる。元から色白であったけれど、その印象的な目が隠れているだけでその白さは透けてしまいそうな白に思えた。
 どこまでも世界は穏やかであった。ローラ姫が目を覚まさなくとも、ローラ姫が笑いかけてくれなくても、世界は穏やかにそのすべてを成り立たせていた。
 今、彼は心底願ってしまった。この、空白を掴む右手に――カノッツァの存在を。穏やかな日常とは相反する、生きた器物を。あの、慣れ親しんだ古びた杖の感触を。精神の拮抗を揺らす偉大なる魔の杖を。おのれの魔力の解放と行く先を指し示す杖を。おのれなどいとも簡単に飲みこもうとする狂暴なる杖を――闇を開ける鍵を。その完全なる姿を。
 あれがあれば、人の精神の奥深くヘと降りて行き、その眠りの原因を探ることも不可能ではないのに――魔力はあれども、精神の糸口をほどく手段もわかっていても、道標となる大いなる鍵がない身には、叶わない願いだ。そんじょそこらに転がっている魔法使いの二流の杖では心許無い――繊細な術であるがゆえに。
 ……繊細な術であるのに、いとも簡単に飛びこんで来たヤツもいたっけか。
 レジーはふと、こちらの精神に飛びこんで来たローラ姫の姿を思い出した。魔道王グラムに肉体ごと囚われていたあの時、魔道王を道連れにしようとしていたおのれを止めに来たローラ姫。その手には、魔力はあれども、杖などなかったのに。
 ……あれは無謀、または本能で動いているだけだ。
 レジーは考え直す。ローラ姫の存在自体が、魔法使いの――世界の理を逸脱している、常識なんて通用しないのだ。
 そこまで考えて。
 レジーは、もうひとつの『常識外の存在』を思い出したのだった。

   ◆◇◆

≪ やぁ、やはりお前が来るか。カノッツァの魔法使い。 ≫
 こぽり、と気泡が生まれそうな、どこか水中に似た密度を持った世界。それでいて肉体自体の重みは消えてなくなったかのような矛盾を感じるそこは、薄い青の世界だった。
 重力とも無縁なそこでは、足をつけるべき地面も床もなかった。どこに立っているのかもわからないのは、なんとも奇妙で心細い感覚だ。この世界をレジーは『知らなかった』が『知ってもいた』
 それは『知識』の上で『知ってもいた』が『知りもしない』場所であり、『体験』の上でも同じであった。『知ってはいた』が『訪れた』のははじめてな、不可思議の場所。
 確かにここを目指しては来たが、それがどこにあるのかもわからない場所であった。
 その場所の主も、『知らなかった』が『知ってもいる』者であった。
≪ まぁ、ここに来られるのはトッペンカムデン国代々の王しかいないから、歓迎するぞ? ≫
 こうやって特別にいれてもやったし。
 目の前の相手は、どこか楽しげに口の端をあげて笑った。
「歓迎なんていらん。なにか知っているのなら教えてもらいたいだけだ」
 そもそもなんで俺の姿ででてくる、本来の姿を現せっ!
 レジーは右の人差し指で相手を指し示すものの、それも俊敏さを欠いた動きだ。
 その、指し示された薄青い世界の主は、鏡に真向かったかのようにレジーそっくりな姿を取っていた。黒髪に、青い目、黒い服も一緒なら、ご丁寧に眼鏡までかけている。
 けれども、そっくり同じ姿の中に有る、唯一の差異に気付かずにはいられない。ろくろくみない鏡であってもおのれの顔がどんなものなのかはわかっているつもりでいるレジーであったが、瞳孔が縦に伸び、獣にも似た人外の目などしてはいないと断言できる。あきらかにこの擬態者は人ならざる者であった。
≪ おれはここを訪れた者の姿を写し取ることにしてるんだ。人の趣味に文句をつけるのはよくないぞ、カノッツァの魔法使い。 ≫
 それとも現国王の姿にしようか。あれなら得意だ。
 ふてぶてしく腕を組みながらの『鏡の精』の言葉に、レジーはなにも言えなくなった。なにをしにこんなところまで来たのか、その目的を忘れてはいけない。あの宰相に『国王の冠でも被ってみる気になりましたかな?』なんぞと嫌味を言われても我慢したのが水の泡になってしまう。
 多分、この城の中で、ローラのことを一番良く知っているのは――この『鏡の精』なのだから。
≪ そうだ、カノッツァの魔法使い、どうしておれの存在を知った? ≫
 今更気がついたのか『鏡の精』は小首を傾げて問いかけてくる。
「俺とローラの命は繋がっているからな、記憶の断片が流れ込んでいてもおかしくなかろう」
≪ ……夫婦だものな。 ≫
「命が繋がっていると言っとるだろうがっ!」
 そこだけ神妙な顔つきの『鏡の精』に突っ込まれたレジーは、
『やっぱりこんなところに来るんじゃなかった!』
 激しく後悔して、そのまったりとした空間から帰ろうと足をひいたのだが、その動きもやはりのろりのろりとしていて、ちっとも『鏡の精』に背中を向けられない。じたばたとみっともなく足掻いているように見えるだけだ。けれども『鏡の精』はその様子を面白い気分で眺めているわけではなかった。
 命が繋がっている。その意味を正しく理解できていない『鏡の精』ではない。なにせ『鏡の精』は、このどこにあるとも知れない空間から一部始終を見ていたのだから。魔道王グラムと半分以上精神を同化させたまま滅びを選んだ魔法使いの精神を、ローラ姫がその人の器にあるには不自然なほど強大な魔力でこの世に呼び戻し、繋ぎ止めたそのすべてを。
 その時にふたりの肉体と精神の境界は限りなく曖昧になり、多少は混ざり合っていてもおかしくなかった。ローラ姫は元から隠し事ができる性格でもないしこの人ならざる者の存在やトッペンカムデンの秘密を重要視している風でもない。それと同じほどに、この存在のことをその口で語るとも思えなかった。特段意識はしていないが、『鏡の精』の存在はトッペンカムデンの最重要秘密であるのだと、それはローラ姫にも理解が出来ていた。
 そしてレジーは、情報の断片だけで物事の推測ができない凡庸とした男でもない。
 それらを考えれば、ここに彼が訪れるのは必然とも言える。今現在『外の世界』で起こっている現象を考えれば、尚更に。
『鏡の精』はにやりと笑った。レジーの顔のままで。
≪ だから『夫婦だから』と言っただろうが。国王のことは。 ≫
 ようやく『鏡の精』に背中を向けられたは良いけれどなかなか前進(後退?)できなくてじたじたと足掻いていたレジーが、ぴたと動きを止めた。ついで、あれだけじたじたと足掻いて向いた向きを戻そうとするが、それはなぜかすんなりとうまくいった。
 くるりと向いた真正面に立つ同じ姿の人外の存在が、右手の指でくるくると空気を掻き回すと、レジーの意思とは関係なしにその長身はくるくると回転した。どうやらこの変な世界に存在する者はすべてがこの『鏡の精』に強く影響を受けるらしいとレジーにはわかった。きっと、どんなに努力してもこの空間から脱出ができなかったのは、この『鏡の精』がそれを望んでいたからなのだろう。今どんなにも回転なんてしたくないと思っていても、コマのように体がくるくると回転しているのと同じに。
『鏡の精』はレジーをくるりくるりと指先ひとつでまわしてから、今度はその指を一閃させた。すると、この世界を包みこむ外殻とも言える場所の色味が変化した。薄い空間はどんどんと透明度を増して、トッペンカムデンの古びた森の鳥瞰図になった。風が吹いたのだろうか、ゆっくりと揺れる梢の動きまでがよく見えるのだけれども、そこに写っているのは遥かなる高度からの光景だ。空飛ぶ絨毯からの景色に良く似てはいるけれど、強い違和感があるのもまた事実。
 全体を写しながらも視界はひとつひとつに注がれている、まるで神の視界にも思えるそれにレジーは目をまわしそうになって、仕方なく目の前の擬態者に視線を移した。こんな奇妙なものを見ているよりかは、自分に似ている姿の方がまだマシかもしれないと思い込もうと無駄な努力を開始しながら。
≪ なにもわかっていなかったのか? カノッツァの魔法使いは。それじゃぁ国王も報われないねぇ。旦那がこんなにも鈍い男だなんて。 ≫
 だから同じ顔で鈍いとか言うな。
 そんな言葉をレジーはむぐりと飲み込む。どうやってもこの相手には勝てそうにない、いや、勝てるわけがないのだから。存在や種族の違いと言うよりは、答えを持っている者と答えを求めている者、その絶対的な立場ゆえに。
≪ 異なる命を抱き込んでるんだよ、国王は。 ≫
 だからレジーは、唐突に放り投げられたそんな言葉に、きょとんとならざるを得なかった。
≪ 本当に鈍いな、今国王の伴侶は。 ≫
 重ねて『鈍い』と言ってから、『鏡の精』は先と同じようににやりと笑い
≪ ややこが腹の中にいるといるからだと言っているんだ。なにせ今国王は夫婦で、しかも『女』だから。 ≫
 魔法使いが孕むよりはかはまっとうな展開だろう?
『鏡の精』は続けるが、レジーはそこにきてようやく我に帰ったらしい。『異なる命を抱き込んだ』との言葉からなんとなく答えがわかっていた気がするもののその答えに思考は止まってしまったし、その上はっきりと断定されては思考も凍結しようものだ。
「は……だからって、どうしてローラが覚めない眠りにつかなきゃならないんだ?」
 百歩譲って、ローラ姫が妊娠したのだとしよう。それはもう、それこそ『夫婦』なのだから否定はできないしできる問題でもない。けれど、それがどうして『眠り姫』に繋がるのか、まったくわからないではないか。
 レジーはこめかみに発生している鈍い痛みに頭を抱えたくなった。
≪ 本っ当に鈍いな、今日の魔法使いは。 ≫
 だから鈍い鈍い言うなその顔で。
 レジーは三度目の『鈍い』の言葉に、もう返す言葉がなかった。たしかに鈍いのかもしれない、今の自分は。ローラ姫のそんな重大な変化にちらとも気がつかなかったのだから。
『鏡の精』は、あまりのレジーの鈍さに呆れ果てたのか、先まであった笑みを困惑へと変えてしまっていた。
≪ カノッツァの魔法使いの存在を支え続けているほどに強い魔力の持ち主なんだぞ、今国王は。ややこなんて、半分はおのれの命にも等しい存在だとしても、もう半分は異質物だろうが。反発や負担がない方がおかしい。眠りで中和してるんだよ、中和。 ≫
「なら……なら、いつローラは目覚めるんだ? まさか、その、異質物が外に出るまで?」
 すると『鏡の精』は、その縦長の瞳孔によってどこか非人間めいた表情であったのに、ほとほとほとほとと呆れ果てたような表情になった。今までの『笑い』や『呆れ』は、どこか作り物めいていたけれど、今回のそれは心底からの表情に見えた。
≪ 鈍い上に情緒もないな。生命の神秘を出し入れで表現するな。 ≫
 今国王も苦労するなぁと続けられるが、苦労させられているのはこちらの方だ、とはレジーの弁だ。
≪ 中和にどれだけかかるのかは、おれにもわからん。けど、出産まで眠りっぱなしなんてのはないだろうとは……思う。 ≫
 あの時もそうだったし。
 珍しく歯切れの悪い言葉の『鏡の精』の様子になど、今の『鈍い』レジーが気がつくはずもなかった。もちろん、小さく呟かれた最後の言葉にも気がついてはいなかった。
≪ 求める答えが得られたのなら、さっさと定位置にもどったらどうだ。ここにこれ以上いても得られるものはないんだし。元々ここは『トッペンカムデンの秘密の小部屋vv』なんだぞ、ちょっとは遠慮しろ。 ≫
 レジーは慌てて頭を下げると、今度は『どこに向かえば出られるのだ?』と今更ながら疑問に思いながら後を振り向こうとしたのだが、『鏡の精』が手荒く人差し指でおのれをはじくような仕草をしたのを見たのが最後、気がつくと『定位置』へと戻ってきていたのであった。
 ローラ姫は、彼女の現在の『定位置』であるベッドに横たわり、穏やかな呼吸を繰り返していた。その様子を、レジーは先の不毛なやり取りなど忘れ果てたかのような気持ちでぼんやりと眺め始めた。思わず、ゆるく組んだ手の下にある、肉付きの薄いローラ姫の腹を眺めてしまう。ここに新しい命が宿っているなんて、誰に言われても信じられなかった。
 けれども、透けてしまいそうに白かった頬にほんのりと赤味がさしてみえるのは、レジーの心持ちの違いが見せる錯覚なのだろうか。そうではないと思いたかった。
 原因がわかったからなのか、急におのれの目の下に寝そべっている黒くまも気になってきた。先ほどまで対峙していた相手とのもうひとつの差異である、みっともない黒くま二匹。きっと目を覚ましたローラ姫にまっさきに指摘されるであろうくまの存在。
 あの、主曰く『秘密の小部屋』である場所へ赴く前には、その穏やかさが世界から取り残されたような疎外感をいや増していたが、今はその不変さが心地よかった。
 変わらないから美しいものと、変わり行くから美しいものがある。

 五日後に迫った平和記念式典の席上で、食えない某老人が『トッペンカムデン国王懐妊』との慶事を華々しくばらしてしまいふたりそろって声なき悲鳴をあげさせられる、そんな事態が待っているのだと――その時の国王補佐もその国王も、予想しないのであった。

   ◆◇◆

『鏡の精』――もとい『精霊王』は、その世界いっぱいに、古く美しいトッペンカムデンの城を写しだし、その光景を目を細めて見ていた。
 この城の中に、古い血を継いでいく者達がいる。歌い継がれる古い歌と同じに、連綿と受け継がれていく赤い血の調べ。
≪ まったく。いつまでたっても『ローラ』はおれをゆっくり寝かせてくれやしない。 ≫
 同じ名を持つあの娘も、この身を散々振りまわして、今の今世まで眠りにもつかせてくれない。その血に連なる者達もたいがいがそうだ。
 ローラ姫はこの姿も名前も性別すらもわからない相手を『鏡の精』だと信じて疑ってもいなかったが、本来の身分はトッペンカムデン一帯の精霊を治める王。そして、公式には知られていないが、トッペンカムデン国王の血の流れに関わりのある者でもあった。
≪ 所詮、おれもお前も振りまわされるだけの存在ってわけだ。子供が産まれるだけで大騒ぎさ。死ぬまでそれは終わらんぞ、カノッツァの魔法使い。 ≫
 お前もせいぜい覚悟を決めるが良いよ。
『精霊王』は、心底から楽しそうな笑みを浮かべて、そんな言葉をレジーに贈るのであった。