私と千尋が出会って、かれこれ一週間。
夜は仕事。昼は千尋と過ごし…。
生まれてこの方、誰かといることがこれほどにも楽しいなどと思えたのは初めてだった。
千尋と共に過ごすようになってからというもの、私は自分の中で何かが変わっていくのを感じていた。
「…うわぁ、すごい!…数字ばっかり……」
少しやり残した帳簿付けを自室でやっている私の手元を覗き込みながら千尋が驚きの声を漏らす。
そんな千尋に苦笑しながらも私は帳簿にペンを走らせる。
「あれ?……ね、コハク。ここ間違ってない?……36,420、じゃなくて、36,520じゃない?」
トン、トンと千尋が指を指している欄を見て、その前にズラリと並んだ数字をもう一度計算して確認をしてみると…。
………なるほど。
確かに千尋の言うとおり、36,420ではなく、36,520だ。
私としたことが……千尋が気がついてくれて良かった。
「本当だね。直さなければ…」
「私、計算は結構、得意な方なの。」
ふふっと千尋が笑った。
「コハクは毎日これを一人で全部やってるの?」
「全部…ではないけれど…。まぁ、少なくとも半分は私がやっているよ。」
「………私…手伝おうか?」
不意打ちの千尋の申し出に、途中まで計算していた数字が頭から一瞬にして消え去る。
「……千尋?…本気かい?」
「うん。だって、少しでもコハクの役に立ちたいもの。…言ったでしょ?計算は得意だって。」
「言ったけれど…。大変だよ?」
「大丈夫。コハクと一緒だから。」
……それもいいかもしれない。
千尋に帳簿付けを手伝ってもらうことに迷いはあるが、千尋も四六時中私の部屋にいてはつまらないだろう。
最近の千尋は顔色が良くない。
本人は大丈夫だと言っているが…。
これを期に少し他の者たちとの関わりを持たせてもいいかもしれない。
「では、頼んでもいいかな?」
「もちろん!」
待ってました、とばかりに千尋が元気よく返事をした。
その千尋の姿に自然と笑みが零れる。
しばらくして帳簿付けを終えた私は、この日、帳場に関しての簡単な知識を千尋に教えたのであった。
「千尋、お疲れさん!」
「リンさんも、お疲れ様。」
昨日、千尋に手伝いを頼んだとおり、今日は千尋と共に仕事を終わらせた。
千尋は見事に私の手伝いを成し遂げてくれた。
どうやら千尋に頼んで正解だったようだ。
…それに、話し相手もできたようだし…。
私は嬉しくなる。
「千尋、ご苦労様。…話相手ができてよかったね。」
「うん!」
……と、その時。
「あのっ!ハク様いらっしゃいますか?」
皆が片付けを始めた頃、一人の湯女が帳場を訪ねてきた。
「私はここだが…。」
「…あっ、……その…少しお話が……」
「何だ?」
「ここでは……ちょっと…」
「……わかった。外に出よう。………リン、千尋を頼む。」
「わっかりました〜、ハク様。」
「…行くぞ。」
「は、はい。」
そして私たちは帳場の外へと足を運んだ。
コハクが出て行く姿を目で追いながら、私は仲良くなりたてのリンさんに聞いてみた。
「……リンさん…」
「何だ?千尋。」
「何の話かな?」
「さぁな。俺にわかるもんか。」
「そうだよね。…ごめんなさい。」
でも、どうしても気になる。
そして私は決心した。
「リンさん…私、ちょっと行ってくる!」
「お、おい?!千尋!?」
リンさんの呼びかけを無視して、私もあの二人と同じように帳場の外へ足を運ぶ。
…外に出てきょろきょろと辺りを見回して二人の姿を探す。
何処だろう?
そんな私の耳に誰かの声が聞こえてきた。
「…あの……ハク様……その…」
さっきの女の人の声…。
私はその声がする方へ歩み寄る。
コハクたちはこの先の少し奥まった場所で話していた。
そ〜っとなるべくそっちの方向に近づいて、壁に体を隠した私は二人の話に耳をそばだてた。
「早く言いなさい。」
「実は……前からハク様の事が好きだったんです!」
………え……?
な……に…?
自分の体が震え出す。
「……何…を…」
「私、ハク様の事、本気で好きなんです。」
これ以上は聞きたくなかった。
すぐにこの場を去ろうと一歩踏み出した時…
ギシッ!
動揺していたためか、床がそう音を発した。
「誰かいるのか!?」
コハクがそう声を張り上げる。
だけどその声を無視して、私は二人の横を通り過ぎ、外へ向けて走った。
「ち…千尋?!」
私の名前をコハクが呼んだけど、私は振り向かない。
振り向けるはずなんかない!!
廊下を駆けて……外に出て…そのまま海へと向かう。
「はぁ………はぁ……」
乱れた息を整えた後…
バシャ…。
海へと自分の身を浸した。
腰の辺りまで海の水に浸かっている私の体に弱い波が打ちつける。
そんな中、さっきの女の人の言葉を思い出す。
"前からハク様の事が好きだったんです!"
綺麗な女性だった。
コハクは何て答えたの?
ポロ……ポロポロポロ…
自分の目頭が熱くなって涙が零れ落ちた。
「………っく………ひっく………」
私は顔を覆って泣いた。
その時…
「千尋!!」
コハクの声が辺りに響き渡る。
その瞬間ビクッと自分の体が震えた。
バシャ、バシャとコハクが海に入ってくるのが音で分かる。
私は叫んだ。
「来ないで!」
「……千尋?」
コハクが動きを止めた。
「来ないで………もう…いいよ………」
「ちひ…」
「ごめんね。迷惑だったよね、いきなり現れて……でも…私はコハクが好きだから……だから側にいたかった…。」
そう言った私の鼻を、ふと大好きな匂いがくすぐる。
気がつけば、私はコハクに後ろから抱きしめられていた。
「私も……私も千尋のことが好きだよ…。」
やめて…。
嘘をつかれるのが一番つらい。
「……同情なんか…しないで…」
ぎゅっと、コハクが私を抱く腕に更に力を込めて言った。
「同情なんかじゃない。本当に千尋が好きなんだ。」
……本…当…?
本当に私のこと好きでいてくれるの?
「コ……ハ…ク……」
「何?千尋」
私の呼びかけに優しい声音でそう問う。
私は自分の体にまわされたコハクの腕にしがみついた。
「…私…から……私から離れていかないで……お願い…」
「もちろん。…ずっと千尋の側にいるよ。」
「ずっと?」
「あぁ。」
「本当に?」
「約束する。」
ふ…と、コハクが腕の力を抜く。
そして、くるり。
体をコハクの方へと方向転換させられた。
「千尋…」
そう呼ばれて私は自然と瞼を閉じる。
すると、五秒も経たないうちに、私の唇とコハクのそれが重なった。
「……ク……ハク…コハク……」
「………ん……」
「コハク…起きて!」
肩を揺すられて夢の中にあった意識がだんだんと覚醒してくる。
「…千…尋?」
瞳を開けると私の顔を千尋が覗き込んでいた。
「コハク、具合でも悪いの?」
体を起こしながら千尋の言葉に答える。
「いや、別に…。どうして?」
「だって……いつもならもうとっくに仕事いってる時間だよ?」
「え……?」
千尋にそう言われて窓の向こうにある空を見ると、既に夕方。
いつもなら、空がオレンジ色に染まる前には仕事を始めている。
「……やってしまった…。」
まさか、自分が遅刻というものをするとは……
私は急いで身支度をする。
そんな私を目で追って千尋は笑いながら言った。
「くすくすくす…。コハクが寝過ごすなんて、何か新鮮。」
「…笑うことはないと思うのだけど…」
少々、目を細めて千尋を睨んでみる。
「そんな怖い顔しないの。…ほら、早く行かないとよけいに遅くなっちゃうよ。」
身支度が終了した私を促す千尋。
帳簿と書類を片手に部屋を出て行こうとして、ふとあることを思いついた。
「忘れ物…。」
「え?」
私がいきなり踵を返したため、きょとんとしている千尋に歩み寄る。
そして、私は千尋の額に口付けを落とした。
「ちょっ…///」
「いってきます」
「…………いってらっしゃい…」
赤くなりながらも千尋はそう返してくれた。
私はこの幸せを胸に抱きながら仕事場に向かうのだった。
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