十万人目の贈り物


 ぱぁん!!

 そんな音とともにあたりに煙が立ちこめ、紙吹雪が舞った。
 「おめでとうございます〜っ!」という幾分聞きぐるしいゲロゲロ声のユニゾンとともに目の前に、暑苦しくも大きい蛙男のアップを突きつけられて、千尋は声もなく目を丸くする。
 「は…はぁー?」
 はらはらと散り掛かる、不揃いに切り刻まれた紙吹雪を頭のてっぺんに、こんもりと乗せたまま固まっている人間の子に、父役もまた目を剥いた。
 「な、なんじゃセン!お前か!…一体全体なんでこんな時間にこんなところにおる? すでにお客様が到着する時間は過ぎているぞ!」
 「あ、あの、夕方に、お姐さまがたに急な用事を言い付かって…。でも一体これは…?」

 絶句。
 当然だ。
 赤い太鼓橋は、周囲をごてごてと飾り立てられ、いくつも立てたれた幟には「祝・来客壱拾萬人」と堅苦しい字が朱で書かれている。
 「湯屋の営業活動の一環として、十万人目のお客様に湯屋の最高のもてなしを、という企画が発案されたのだ」
 「湯婆婆さまの魔法で、湯屋の全ての施設がなんと使い放題!山海の珍味食べ放題、至高の美酒を飲み放題!湯屋の営業を妨害するものでないかぎり、全ての望みは叶い放題!」
 「…で、さきほど通った客の末尾が九万九千九百九十九人目。次に来るのが十万人目…そうしたら」
 「…ひょっとして私が?…」
 父役は、苦々しげにコックリと頷いた。
 「で、でも、私はお客じゃないですし」
 「そ、その通り。論外だな。うむ。では、次に来る客に持ち越し、ということで…」
 額に浮かんだ脂汗を拭きながら父役が言うのへ、兄役が横からおそるおそる口を挟んだ。
 「しかし父役、橋に掛けられた魔法は今ので解けてしまいましたぞ。おそらく、十万人目の権利はセンに…」
 「何!本当か? 何故そんな…。ああ…困った。いくらなんでも、御霊の湯屋で人間をもてなすことは出来ん! 大体、従業員にこんな権利を渡したとあっては、湯婆婆さまがどんなにお怒りに…」
 何がどうなったのかサッパリわからないが、とりあえずマズイ展開らしい。
 千尋はとにかくこの場を立ち去ろうと、苦悩する父役に「あのう」と声をかけようと手を伸ばした。

 「どうした?何を揉めている?」
 そのとき、湯屋の奥からよく通る明瞭な声がかけられた。
 「は、ハクさま!ちょうどいいところに!」
 かくかくしかじか。父役から事の次第を聞かされたハクは、いつも考え込む時の癖であごに手をやりながら視線を上に向けた。
 「ああ…そんな企画もそういえばあったな、昔。確か橋に魔法をかけて、通るものの人数を数えていたのだったか…しかし、まだやっていたのか?」
 「なにしろ十万人ですからな…幾年かかりましたか。ひぃ、ふぅ…もう三年になりますか。…しかし、ついに出た十万人目が…」
 「…センだった、と」
 「ハァ…」
 ハクの眉が不愉快そうに顰められるのを、父役は伺うように斜め下から見上げた。

 「大体、何故従業員まで数に入っているのだ? それがそもそも間違いだろう」
 「え、いや多分、最初に魔法をかける際に、人間を除く、としていなかったのではないかと…」
 「もともとここらは、人間がいるはずがありませんからなぁ」
 「どちらにしても、これは無効だ。次に回すがよかろう」
 ハクは切り捨てるように結論付けた。しかし、父役と兄役は、居心地が悪そうに互いに顔を見合わせてもぞもぞしている。

 「ハァ、それが」
 「…問題は、あの魔法は、その…自動的に、十万人目に特権を与えるものでありまして…」
 「特権? それは何だ?」
 「つまりその…湯婆婆さま特製の、隷属の魔法を…」

 途端にハクの顔色が、リトマス試験紙ででもあるかのように露骨に変わった。
 そのまま、首だけをぎぎっと回して千尋に呆然と顔を向ける。

 「な、何〜?!」
 千尋が慌ててわたわたしている間にも、横で気を揉んでオロオロしていた兄役が、父役の袖を引いて哀願し始めた。
 「湯婆婆さまに言って解いてもらいましょう!父役!」
 「ば、バカ!今回の企画に、どれほどの予算をつぎ込んだと思ってる!わしら全員石炭にされるぞ!」
 「しかし、このままでは、どちらにしても…」
 「いいか…幸いというか、不幸にもというか、湯婆婆さまは今宵は留守なのだ。だから、センにかかった魔法は解けない。その代わり、今日起こったことも湯婆婆様の耳には入らない」
 「ななな、何をするつもりなのですか、父役!」
 「…形だけでも…十万人目が出た、ということにして報告だけをしておけば…」

 父役がひとり不穏な空気を醸し出している中、我に返ったハクが殺気立った顔で異を唱えた。
 「父役!よりにもよって隷属の魔法など物騒極まる。そのような企画は却下する!」
 何故かテンパっている父役も負けじと言い返した。
 「ハクさま!帳場頭とは思えぬお言葉! 一度決まった計画を覆すなど…今日のこの企画のために、われわれが密かにどれほど準備し、また予算をつぎ込んできたか!実際に工期に入る前にいらなくなった都市計画でも、予算どおりに行うのが官僚の心意気でございますぞ!」
 「誰が官僚かっ!」
 父役はその勢いのまま、千尋を振り返った。その目は完全に血走っている。
 「セン!」
 「は、はい?!」
 思わず千尋の背筋が伸びた。
 「こうなったら…当初の予定通り、お前に付き合ってもらうぞ!」
 「えぇ?! でもでも、私じゃ何の営業効果もありませーん!!」
 「既に話はそういう問題ではないのだ!…ハクさま!センをどうにか、見た目だけでも女神に変えてはくださらぬか!」
 「父役っ!」
 ハクの非難めいた声に動じる様子もなく、父役はニヤリと笑って急に声をひそめた。
 「…もちろん、ただとは申しませんぞ…どうせセンだけではすぐに身元がバレますからな。夫婦神として、ハクさまもご一緒にご宿泊…というのでは、どうですかな?」
 まるで賄賂である。
 そういえば父役は、千尋が来てから人間界に興味を持ち、向こうの「瓦版」にあたる「ふるしんぶん」と呼ばれるものを取り寄せて読んでいる、という話を聞いたことがあった。中でも政(まつりごと)の話がお気に入りで、つい先日も、ピーナツがどうとか、ヤミケンキンが何だとか、お食事券とか、いんさいだーナントカがどうとか言っていたような。

 ハクは内心その「条件」にグラグラ心を揺さぶられながら、父役と、千尋の顔を交互に眺めた。
 どちらにしても、すでに千尋には「隷属の魔法」がかかっている。そんな従業員を、今宵一晩とはいえ、お客様の前に出すのは不可能だ。かといって…閉じ込めてなどおくのも気がひける。湯婆婆の強力無比な魔法の効果を考えれば、自分の目の届くところにおいておくのが、一番安心なようにも思われた。
 父役の申し出は…一石二鳥も三鳥もありそうだった。いろんな意味で。
 ハクの脳内で、がこーんという音とともに、理性の天秤が傾く。

 「…わかった。ただし、このことは湯婆婆の耳にはくれぐれも入れないように」
 「それは勿論。わし等もわが身が可愛ゆうございますからな…ヒヒヒ」
 ぼそぼそとした、まるで越後屋と悪代官のような会話を交わす二人を眺めながら、横でオロオロとしていた千尋だったが、さすがにここへきて、自分を巻き込む不穏な状況に、黙ってはいられなくなった…というか、黙っていてはマズいと感じ始めた。
 「な、なんなんですか?! 私に、何の魔法がかかっているんですか?! ちゃんと教えてください!」
 千尋の叫び声に、ハクと父役の横にいた兄役が不自然なほど突然、ビシっと硬直して振り向いた。

 「それはですな、湯婆婆さま特製”隷属の魔法”といいまして、魔法がかかったものの言葉や命令には誰もが無意識のうちに従ってしまうという恐ろしい魔法でございます。かくいう私も、こうして今これを喋っておりますのはその魔法の効果でございまして、決して何の嘘も隠し立てもすることはできません。全くの事実でございます。センさまにおかれましては、このような説明でご満足していただけましたでしょうか?ご満足いただけないようでしたら、どうぞこの哀れな下僕めを煮るなり焼くなり、殴るなり蹴るなり、鞭打つなりハイヒールで踏むなり、センさまのお気の済むようにしてやってくださいませ」

 兄役は、だらだらと脂汗を流しながらも、ぺらぺらと操り人形のように言葉を紡いでいる。隷属の魔法というよりは、下僕の魔法と言ったほうがいいのじゃないかと思うような魔法の効果に、その場にいたもの全員のアゴが…あのハクですら…かくんと落ちた。
 さすがは湯婆婆特製…てゆーか、湯婆婆の趣味って…。

 「さ、さすがに、わし等には効果が無いようですな」
 「…湯屋の権利にかかわることは出来ないようにしただろうから…責任者である私たちにはかからないのだろう」
 こんな恐ろしい魔法がかからない立場を心から天に感謝しながら、二人は額に浮かんだ汗を拭った。

 それと同時にハクは、こんな物騒な権利を他の神々に渡さなくて済んでよかった、と内心胸を撫で下ろしていた。たとえば、最近千尋にいろいろちょっかいを出しているあっちの山神や、先日も千尋を部屋に引き込もうとしたこっちの好色な屋敷神の手にそれが渡っていたら、一体どうなっていたかと思うと…。
…思うと…。

 「ウっ…」
 「どうしたの? ハク?」
 思考に一瞬桃色の霞がかかり、頬をうっすら赤くした竜神に、千尋が首をかしげて尋ねた。
 「な…なんでぼだい」
 何故か鼻を押さえて上を向きながら、ハクは濁った声で答えた。
 「ど、どにかく、ここば人目に立つ。場所を移ぞう」

****

 ハクに言われるがままに目を閉じ、開ける。
 たったそれだけで、姿見に写った千尋の姿は、ひと柱の女神へと変わっていた。
 さらさらと流れる水を思わせる、ひんやりとした感触の不思議な衣は色鮮やかに幾重にも重ねられて、そこから不思議な香りが立ちのぼり、丈をなして流れる艶やかな濃茶の髪は込み入った形に頭上に結い上げられて、それでもなお床に届こうかという長さ。そこに挿されたいくつもの、玉飾りもきらきらと美しい、雅なつくりの簪や櫛。
 さらさら、さらりと響く衣擦れの音も軽やかに、長く引いた裳裾は虹の七色で、鏡に映る自分の姿は、まるで色鮮やかな蝶か、異国の鳥のようだ。

 「わぁ…す、スゴイ」
 思わず鏡に歩み寄り、上から下まで眺め下ろす。軽く白粉を塗られ、うすい桃色の紅を差された自分の顔は、まるで見たことも無い大人の女性のようだった。

 「このようなものかな」
 そう呟いたハクの姿を振り返れば、そちらもまた、雄々しい男神の姿に変わっている。
 いつもの素っ気無い水干ではなく、昔の平安貴族のような格好をして、足首で絞られた紺地の袴には水神らしく水流紋がくっきり織り出されている。いつもは簡単に括られただけの切り下げ髪も烏帽子の上に上げられて すっきりとしたあごから首のラインが清々しい。
 「うわ…」
 違うひとみたい。
 ハクの姿を目にして、千尋は思わず緊張した。
 浅葱色の衣に焚き染められた香も雅やかに、いかにも、「高貴」とかいう言葉がしっくりくるようなその姿は、いやがおうにも、ハクがもともと神様である、ということ、千尋とはまるっきり違う世界のひとだということをまざまざと見せ付けられる。
 こんな素敵なハクの目から、今の自分はどう見えているんだろう。そう思うと、千尋は恥ずかしくて、自分の顔を何かで隠したい衝動にかられてしまった。

 「で、でも、これで本当にみんなわからないのかな」
 照れ隠しに視線をそらせ、袂を握って身体を捻りひらひらと裏返して見ながら千尋が呟いた。

 いくら魔法で着るものを変えたとしても、顔立ちまで変えたわけではない。うす化粧のお陰で、普段よりずっとオトナっぽくは見えるが、基本は相変わらずクリンとした目のほっぺちゃんだし、着るものが変わってもそうそう別人に見える、という程ではないように思える。
 「ああ、千尋には既に隷属の魔法がかかっているから…あんまり妙な術を上乗せできないんだ…この香りはわかる?」
 「うん、いい香り」
 「この香りで、一応、千尋は”神の眷属”に見えるはずだから…」
 「そうなんだ…」
 神様の匂い?と不思議に思いながらくんくんと嗅いでみる。いい匂いだけれど、別に特別には感じない。
 今の姿とは裏腹な子供っぽいしぐさにハクが微笑みながら言った。
 「千尋と親しいリンあたりには通用しないかもしれないが…従業員は大体、嗅覚に頼るものが多いからね」

 千尋は、自分の尻尾を追いかける子犬のようにくるくると回りながら、なおも自分をの姿を見ていたが、やがて思い切ったようにハクを見上げた。その頬が幾分赤い。
 「ね、ハク…私…この格好、ヘンじゃない?」
 「好みに合わなかったかな? 済まない、私が勝手に衣装を決めてしまって」
 「ううん、そうじゃないんだけど…」
 ハクがあんまり格好いいから…なんだか恥ずかしくて。
 その言葉は言われないまま、千尋の胸に納められた。そんなの、わざわざ言うほうが余程恥ずかしいというものだ。

 「ハクさま…守備はどうですかな」
 父役が、引き戸を少し開けてぼそぼそ、と声をかけてきた。

 「ああ。父役、どうかな。これで」
 部屋に入り、二人の姿を見て父役は満足気に大きく頷いた。
 「…うむ、申し分ございませんな!あのセンがこのように見ば良くなるとは、さすがハクさま!見事なものです」
 …その言葉に千尋はどこかカチンとするものを感じたが、父役はそれには全く気づく様子もなく、ハクへ向き直った。
 「こちらの準備は万端ですぞ。こちらの思惑通り、湯屋中が”十万人目歓迎むーど”に満ちております。ヒヒヒ」
 気分はもう悪徳商人。笑いながら呟く父役に、千尋は呆然とした。
 すっかりキャラ変わっちゃってるよこの人。
 「本日の二人の名前ですが…「白虹」さまと奥方さまということにしてございます。間違えないでくだされよ」
 父役が、では、と扉を開くのを合図に、二人は立ち上がった。

 「千尋、隷属の魔法に気をつけて。喋る言葉には注意するのだよ」
 「う、うん…」
 「うむ…では、参ろうか? 奥」
 改まった調子で手を差し出され、千尋はどきんとした。
 奥。奥方。私がハクの。

 「は、はい…白虹…さま」
 そっと差し出した小さな手を、ハクの手が包み込む。普段はひんやりとしているその手が、今は何故か暖かった。

****

 「いらーっしゃいませぇー!」
 「十万人目、おめでとうございますー!」
 そっと玄関に回り、父役の合図でいま到着したばかりでもあるかのようにしずしずと玄関をくぐると、そこには既に従業員達がずらりと並んで平伏していた。コンサートでよくやるウェーブのように、次々と頭が下げられ、廊下のずっと奥までずらずらと波打ってゆく。

 呆然として両手を口にあてた千尋をハクが促し、二人はその中をゆったりと進み始めた。
 「おめでとうございまする〜っ」
 青蛙が、横を飛び跳ねながら、抱え込んだザルから金銀の紙吹雪を撒き散らしていく。
 ついには、ばっと吉祥模様の扇子を広げて即興の舞まで踊り始め、千尋の耳に隣のハクがぼそっと「全くお調子ものが」と呟くのが聞こえた。
 青蛙は二人の先を行くように、かなりいい調子で踊り続けていたが、そのうち、自分で撒いた紙吹雪で足を滑らせ、派手に転んでしまった。打ち所が悪かったのかなかなか起き上がれない様子に、思わず千尋は放っておけず、声をかけてしまう。

 「だ、大丈夫ですか?」
 青蛙は、とたんにぴょこんと飛び起き、大きなコブをこさえて両方の目をぐるぐると回したまま、壊れたスピーカーのように叫び始めた。
 「勿体無いお言葉、有難うございまするっ!奥方さまにおかれましてはっ!このような下賎のものにまでお言葉を賜りー!まこと、まことに恐縮至極ーっ!」
 そのまま、へへーっと頭を床にこすり付けると、額にできたでっかいコブが、床に当たってごちんと音をたてた。
 「あ、ああっ、そんな、顔を上げてくださいっ」
 「奥方様のおおせにございますればっ!まこと、まこと慈悲深きやんごとなき言葉の数々っ!わたくしめ、有難さに滂沱の涙が止まりませぬーっ」
 ごちん、ごちん、ごちん。
 物凄い勢いで下げられる頭に、額のコブはその段数を増やしていく。
 「ちひ…お、奥! 魔法の効果だ! 早くこっちへ!」
 「私めはもう奥方様の奴隷にございますーーーっ!」
 ごちん!
 背後でひときわ大きな音がしたと思うと、青蛙は山盛りのアイスクリームサンデーのようになった頭で、きゅうっと意識を失った。

 隷属の魔法、恐るべし。
 見れば、案内役の父役も、顔は笑っているものの顔色は緑色だ。
 湯婆婆の魔法のあまりの物騒さに冷や汗をかきながら、二人は逃げるように客室へと急いだ。

 「お部屋はこちらでございます。それでは、今宵はごゆっくりとお愉しみくださいませ」
 やっと客室につくと、聞きようによっては非常に意味深な言葉をハクに残し、父役はヒヒヒ、と笑いながら出て行った。

 「ああ、やっとついた…」
 千尋がほっとしながら部屋に滑り込むと、そこには客室係の湯女が既に控え、平伏している。
 「このたびは十万人おめでとうございます。何かありましたら、ご遠慮なくお申し付けくださ…げっ! お前、センじゃん?」
 「リンさんっ!?」
 「うわ、何だその神さんみたいな格好?!」
 千尋の姿を、口をぽかんとあけたまま上から下まで眺め回していたリンは、突然横からハクに声をかけられて驚いた。
 「リン? 何故お前が?ここはトキの担当だろう?」
 「…わぁ!こっちはハクかよ?!…おいおい、いくら何でもそりゃあ職権乱用すぎるだろ」

 二人の姿を見て何をどう察したか、リンは半分呆れ顔で首を振った。
 「それにしたって、逢引くらい湯屋でなく他でやったらどうなんだよ? いくらなんでもこんな近場じゃお手軽すぎないか?」
 どうやら、ハクと千尋が二人の時間を過ごすために、わざわざ変装して宿泊していると思ったらしい。

 「リンさん、違うの!違うの! 黙って話聞いて!」
 千尋の言葉に、リンは口を開けた状態で固まった。ぱくぱく。ぱくぱく。どうやら、声が出ないらしい。
 「あーっ! ごめん、今のナシ!」
 しまった!隷属の魔法だ。 千尋は慌てて打ち消し、リンのあごがぱくんと閉じた。

 「あああ、びっくりした…今の何だよ?」
 「その前に、お前は何故ここにいる?」
 「ああ、トキのねーさんは今日、橘の間に仲の良い女神さんが来てるっていうんで、そちらについてるんだよ…で、あの」
 「うん、実は…」
 千尋はかいつまんで事情を説明した。

 「うっわー…」
 リンは言葉をなくした。まったくこの妹分は、要領がいいのか悪いのか、はたまたタイミングがいいのか悪いのか、どうしてこうも面倒なことに次々と巻き込まれるのだろうか。ある意味、疫病神に取り付かれているとしか思えない。
 そこまで考えて、リンはちらりとハクをみやった。
 「…リン、今何を考えていた?」
 「い、いや、なーんにも」
 …相変わらず鋭いヤツ…。リンは内心冷や汗をかいた。

 「ああ、でも…疲れちゃった…」
 客室係がリンである気安さからか、千尋がくったりと脇息にもたれて呟いた。途端にハクが顔色を変えて「千尋!」と鋭く制止する。しかし遅かった。千尋の言葉が終わらぬうちに、リンの背筋がびしっと伸びる。

 「お疲れでございますか!大変申し訳ございません!只今湯の用意を…あ、よろしければ、肩をお揉みいたしましょうか?それとも御酒をおあがりになられますか!それとも…」

 「りり、リンさんっ?」
 「気が利かずに大変申し訳ございませんっ!只今ゆっくりお休みになれるよう床を…浴衣はこちらの二種類ございますがどちらになさいますか?お気に召しませんでしたら、他のものと変える用意もございますので、ご遠慮なくお申し付けくださいませ…」
 口ではべらべら喋っているが、リンのその表情は、”早くこれをなんとかしてくれ”と千尋に訴えている。

 「あ、あの、ちょっと待って…ちょっと止めて…」
 ぴたっ。リンの声が止まった。
 だが、様子がおかしい。リンの顔色が、段々…段々…。
 「あ、ああっ! い、息は止めないで!」
 ぶはっ! すーはー、すーはー、すーはー。
 リンはしばらくゼイゼイと息をついていたが、やがてゲッソリした顔で顔をあげた。
 「こ、これは堪らん。おいセン、お前もう喋るな。頼むから」
 千尋は、片手で口を押さえて、ごめん、と拝むようにリンに頭を下げた。
 「リン、もうここはいい。危ないから…もう下がっていろ」
 「……」
 ハクの言葉に、リンは何事かを差し計るようにじろじろとハクを見た。
 先ほどの話だと、二人は合意の上深い仲になろうとしたわけではないらしい。だとすれば、このまま、同じ部屋に男女二人を残していくほうが、ずっと危ないのではないだろうか。
 思わずリンは、千尋に近寄り耳打ちした。
 「…セン、何かあったらすぐに叫ぶんだぞ。たーすけてーって。そしたら、聞こえる範囲にいるやつはさっきの調子で駆け込んでくるからな」
 千尋はよくわからないように、かくん、と首を傾げ、リンはそれを見てため息をついた。

 「では、失礼したします。白虹”サマ”!くれぐれも、今宵は羽目を外しすぎませんようご注意くださいませ!」
 …妙なことするなよ!と言外の意味を滲ませてハクを睨み、リンは、バカ丁寧に頭を下げて部屋を出て行った。

****

 「何なんだ。リンのやつめ」
 人をまるで強姦魔のように。ハクは憮然として呟いた。
 それは勿論…ホンネを言えば、千尋とそういうことになったら…というか、なりたい、とは今日に限らず常々思ってはいるのだが、だからといって、嫌がる女を力づくで手篭めにするような趣味はない。
 まして、相手は本気で大切にしたいと願う少女。万が一そうなって、一生千尋に嫌われでもしたら…と思えば、無理矢理になど、到底できるわけが無いではないか。

 「千尋、大丈夫かい? 疲れた?」
 「…うん、少し」
 また妙な失言が無いように、両手で口をきっちり押さえていた千尋は、ふうっと息をつき、安心したように笑いかけた。
 「湯を使う?」
 「ううん…もう、いい…。また誰かと大騒ぎになったら困るもの。もう大人しくしてる…」
 「では、食事を運んで貰おう…大丈夫だ。給仕は断るから」

 考えてみれば、二人きりでこんな風にとる食事は始めてのことだった。幸い、ハクには隷属の魔法はかからない。千尋は安心して色んな料理を食べ、ハクと二人の時間を楽しく過ごした。
 すっかりリラックスして考えてみれば、この状況は、なんだかハクと二人で温泉旅行にでも来ているようだ。しかも、湯屋の最高級のおもてなしだけあって、料理は最高。中には、材料は一体何なの?と思うような妙ちきりんな料理もあったが、食べて害があるようなものは、ハクが最初に注意深く取り除けてくれていた。

 慣れない豪華な衣装に、料理に箸をつけるのすら難儀な千尋を見かね、ハクは料理をとりわけてくれた。ついでに雛に餌を運ぶ親鳥のように、ひょい、と口まで煮物を運んでくれたりして、千尋のテレをも誘う。そうかと思えば、同じ箸で自分も一口食べ、ただでさえ妙な方向に色々意識している千尋はますます紅くなる。

 ハクの杯に、そっとお酌しながら、千尋は未来に思いを馳せた。
 いつか、本当に夫婦になって、こんな時間をたくさん、たくさん過ごせたら。
 そしてまた、千尋の香りを思いがけなく近くに感じながら、ハクも思っていた。
 いつか。いつか、誰に何の遠慮もなく、堂々と夫婦(めおと)として千尋と結ばれることができたら。

 同じ未来をともに望みつつ、互いの気持ちを知らぬまま、二人は目を合わせ、少し微笑った。

***

 「さあ、随分夜も更けた。そろそろ寝よう」
 「あ、うん…」

 さりげない風を装って答えながら、千尋は内心緊張した。
 寝よう。寝ようってどんな意味? 夜になって普通に眠るほう? それとも…。
 リンさんの最後に言った言葉。あれは勿論…そういうこと、なんだろう。ハクが私を…なんて、考えただけでも顔から火が出そうに恥ずかしい。
 そっとハクの顔を盗み見れば、その端正な表情はまったくいつものハクのもので、下心のしの字も見当たらない。そうなると、なんだか一人でそんなことを考えてる自分がすごく妙な子のようにも思えて、千尋はますます恥ずかしかった。千尋17歳。思春期まっさかりの難しいお年頃だ。

 ただでさえ、どこか甘い期待と不安と恥ずかしさで一杯の千尋であったが、すすっと襖を開け、屏風の向こうの奥の間を一目見たとき、頭のてっぺんまで一気に血が上った。

 布団は一組。
 枕は二つ。

 いや、夫婦という設定上、こうなっているのは想像できたし、それだけなら…照れはするだろうが…千尋もある程度の気持ちの準備もできていたのだが。
 何よりも異様に感じたのは…布団が、円形。
 そして、枕元に用意された小さな台に立ち並ぶ怪しいモノたち。

 ひときわ目をひくのは、長い蛇がぐるぐるととぐろを巻いたまま漬かった酒ビンである。その横には金の杯と、紙に載せられた怪しげな丸薬、「これでもか!」とばかりに十センチほどの束になって置かれた金箔入りのさくら紙。色はもちろん薄ピンクだ。ご丁寧に、その横の手の届く場所に、普段は部屋の隅においてある小さな屑篭までが持ってきてある。
 この下品この上ない露骨なまでの「ヤリたい放題」の演出が、つまり、湯屋の「最上級」サービスの一環だということなのだろうか…

 「まったく、困ったものだ」
 ハクが疲れた顔で首を振って見せたので、千尋は同意を込めてこくこくと頷く。
 しかし、次に続いた言葉は、千尋をその場で固まらせるに充分なほど意外なものだった。
 「水神である客に、蛇の酒など、考え無しにも程がある。ここはイモリや虎にしておくべきだろうに」
 そ、そういう問題かー!?
 千尋のじとーっとした視線にハっと気づき、ハクはうろたえながら言いつくろった。
 「あ、いや…大丈夫。千尋、私たちはその…本当の夫婦ではないのだし…私は、こちらの部屋で眠るから、安心してお休み。夜中には、魔法の効果も切れるはずだ」

 本当のところ、ハクは内心、千尋が許してくれたら…と思ってはいた。
 しかし、この部屋の有様を見てショックを受けている今の千尋の様子では、とてもじゃないがそれは無理だろう。
 しかし、ハクの言葉を聞いて、千尋はどういうわけか考え込んでしまったようだった。
 よもや、下心を見透かされたわけではあるまいが…一体どうしたのか、何を考えているのかと、ハクは心配気に顔を覗き込んだ。

 一方、ハクが千尋を不審げに眺めているその時、千尋は激しく葛藤していた。
 ああ、私って本当にバカかも。
 ハクがそんなことするわけ無いんだわ。いつも、信じられないくらい真面目な人なんだから。なのに、私ってばヘンに勘ぐって、かえって悪いことしてしまった。
 ハクのこと全然信じてないみたいにとられてしまったらどうしよう? それとも、そんなイヤらしいこと考える女の子だったんだって思われて、嫌われてしまったら?
 それに、布団はここに一組しかないのだし。向こうで寝る、ということは、ハクは座布団でも枕にして眠るってことだよね。私ひとりがこんな広いお布団を占領しちゃったら、なんだか、それもスゴク悪いみたいな…。

 「あ、あの、ハク…?」
 千尋は、顔をあげて思い切ったように言った。
 「その、一緒でも、いいよ? お布団、私一人じゃ広いし…」

 「ち、ちひろ!そ、それは…その」
 まさか。
 振って沸いた幸運に、ハクの鼓動が一気に跳ね上がった。
 ひょっとしたら、千尋も私と結ばれることを望んでくれていて、そのための逡巡だったのだろうか。だとしたら…もしもそう思ってくれているのなら…自分は男として、きちんとそれに応えてみせよう。

 「だって、ハクだもん。ハクのこと、私、信じてるから!」

 いわく。
 蛇の生殺しならぬ、龍の生殺し。

 …自分に、隷属の魔法がかからなくて、心底良かった。
 もしかかっていたら、”一緒に寝ていい”の一言で、間違いなく今夜は一睡もできないところだ。一緒の布団で横に寝息を聞きながら、我慢しきれる自信は全く無い。夜中の魔法の時間切れとともに理性の糸もブチ切れるに違いない。

 愛らしいハクだけの女神は、目の前で、ほんの少し心配そうに眉根を寄せてこちらを見ている。
 その困ったような切ないような表情が、ハクの本能をずきずきと刺激していることなど、露ほどもも知らずに。

 据え膳食わぬはなんとやら。
 そんな言葉が頭の中をいったりきたりしていたが、そこはハク。湯婆婆の部下としても、湯屋の帳場係としても、はたまた長年耐え忍んだ千尋への思いにしても、我慢することはいまや慣れっこ。耐えることにも一日の長があった。
 …考えてみると、なかなかに不憫な男である。
 ハクは、無理やり唇の横をぎっと引き上げて笑顔を作ると「やはり、私はあちらにいよう」と辞退し、ぎくしゃくと寝室を出たのだった。



 翌日、こっそりやってきた父役が、悪徳商人の笑顔を浮かべて障子の影から声をかけた。
 「…白虹さま? ゆうべは眠る暇はありましたかな?ヒヒヒ」
 座布団と畳の上で寝て、あちこち痛い身体をほぐしながら、不機嫌そのもののハクは、それに凄みのある笑いで答える。
 「聞きたいか」

 どぉん!!

 次の瞬間、三天の豪華客室の窓から大音響とともに放り出された父役の悲鳴は、長く筋をひいて地上へと落ちていった。


 湯屋十万人目のお客様、水神白虹とその奥方は、後に「こりゃあ一体、どこの神だったんだい?」と不思議がる湯婆婆をよそに、湯屋に二度と姿を現すことはなかったという。



END



うわはぁっ。『ぐりーんふぃーるど』の榊屋 雀様ことかにゃ様より『水砕窮鳥』の十万ヒット祝いで頂きものをしてしまいました〜〜っ!
いやぁんもうっでてくる人達人達素晴らしく壊れてて凄く楽しかったですーっ。
特に父役さんの壊れっぷりに何度吹き出してしまった事か! 「実際に工期に入る前にいらなくなった都市計画でも、予算どおりに行うのが官僚の心意気でございますぞ」をはじめ、ずっと笑い転げてしまいました(笑)。
しかもトドメのお部屋の描写・・・うぷぷっ。
なんともステキなお話を、本当にありがとうございますっ。これからもよろしくお願いしますっ。