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 就業時間の終わった湯屋。女部屋では小湯女たちが数人集まり、噂話に花を咲かせていた。
「ねぇ、知ってる?」
 他愛もない噂話はこうした常套句からはじまるものだ。今夜もまた例外ではない。
「なにが?」
 話を持ちかけた小湯女は、大袈裟に左右を見回すとひっそりと首を縮めた。周りの小湯女たちもそれに倣い、円は小さくなる。

「――ハク様が、実は女だった話」

 一瞬のぽかんとした間の後、少女達のけたたましい笑い声が弾けた。
「アンタ、ばかじゃないの?」
「何を言うのかと思ったら!」
 そのままひぃひぃとお腹を抱えて笑い転げる少女達に、当の小湯女は真っ赤になって言い募った。
「だって、聞いたんだもん!誰から聞いたと思う?朝霧姐さんなんだからっ。朝霧姐さんが嘘つくはずなんかないものっ」
 どうやら、一人部屋を貰っている人気湯女朝霧の部屋の掃除を命じられた時に仕入れた情報らしい。

「ばかねぇ。姐さんみたいな太夫はね、嘘をつくもの仕事のうち。口が上手くないと良い旦那さんがつかないでしょ」
「そうそう。大方あんたをからかってみただけじゃない?」
 少女たちが本気にしない中、ひとりの小湯女が意見した。
「――でも、全くありえない話じゃないよ。実はあたしもハク様が本当に男かアヤシイって思ったことあったもん」
 味方を得た少女は俄然勢いづいた。
「でしょう?だっててハク様って自分の事『わたし』なんて言うし」
「だーかーらっ。そんな事言ったらリン姐さんなんか、『オレ』って言うでしょ。じゃあリン姐さんは男だって言うの?」
「そうじゃないけど…」
「『わたし』なら父役だって言ってない?あの顔で女だったら笑えるっ」
「ばかね。父役は『わし』でしょ」
 話が違う方向へ転がろうとしているのを、意見した小湯女が引き戻した。
「そんな話はどうでもいいの。問題はハク様が男か女かって事でしょ。あたしたち今までよく考えたこともなく、ハク様は男だって思っていたけど、誰かからそう言われたことある?」
「…ない……。」
 一同は一斉に頷いた。
「そう言えば、ハク様って男にしては、肌が白すぎない?」
「睫毛も長すぎるよね」
「髪だってなんであんなにサラサラなのっ。男だったらもっとごわごわだよ」(←偏見です)
「…じゃあ、やっぱり…。」
「…朝霧姐さんも言ってたし…。」
 一同の考えが不穏な方向へ流れていこうとしていた時、女部屋の襖がからっと開き、風呂上りなのだろう、さっぱりとしたリンと、ほこほこと顔を赤くした千尋が入ってきた。

「おっ、なんだお前ら。車座なんかになって。悪巧みか?」
 リンは、いししっと笑うと手に持った手ぬぐいを部屋の突っ張り棒に干した。それに倣おうとする千尋の腕を取り、小湯女が円に引き込んだ。
「セン、あんたハク様と親しいんでしょ」
「えっ、ハク?」
 きょとんとした千尋の後ろから、リンも顔を出した。
「ハクがどーしたって?」
「あっリン姐さんも聞いて!」
 小湯女たちはああでもないこうでもないと脱線しつつも、ハク女説を説いた。

「で、どう思う?」
 小湯女たちに見つめられ、リンは破顔した。
「どうって…。お前ら、よくそんな阿呆な考えが思いつくなぁ。んな訳ないだろ。ハクが女ぁ?あんな愛想も素っ気もない女がいたらお目にかかりたいよ」
「だって、朝霧姐さんが」
「ないない。お前、引っ掛けられたんだよ。姐さんの気性はオレがよく知ってる」
 あぁ馬鹿らしいと伸びをするリンの横で、千尋はいやに真剣な表情をしていた。
「――でも…。もしかしたら……。」
「おいおいセン。お前まで何言ってんだ?」
「でもリンさん。わたしハクに男だって言われたことない」
「いや、言わんだろ。普通」
 リンの突っ込みも耳に入らないほど、千尋は千尋で立派に動揺していた。何しろハクに片想い中と自認している以上、穏やかな問題ではない。異性だと思って恋をしていたのに、実は同性でした。なんて事になったら……!

「大丈夫。ハクが女の人でもわたしの気持ちは変わらないはず――。でもどうしよう。ハクは男の人のほうが好きかも…っ」
 憂色をただよわせぶつぶつ呟き始めた千尋を、リンは何とも言えない表情でしばらく見つめていたが、このままでも面白いとでも思ったのか「まぁいいか」と肩をすくめ布団に潜り込んだ。



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 ハクはここ数日、従業員の視線が自分を奇異なものをみるように感じていた。
 湯屋内の見回りをしても、雑巾を片手に小湯女たちがひそひそと囁き合っている。注意をしようとそちらを向くと、ばっと蜘蛛の子を散らすように掃除を始めてしまう。
 大湯女達は何やら意味深な微笑を口元に浮かべ「ハク様も大変だねぇ」と含み笑いをする。問いただそうとすると「身から出た錆さね」と耳障りな憫笑を残し去っていく。
 男達に至っては、舐めるようにハクを見てくる。
 どうやら、自分は噂の渦中にいるらしい。と合点がいったものの原因が今ひとつわからない。
 くさくさと気が晴れない中、なんと兄役が不気味な流し目で秋波をおくってくるではないか。

 堪忍袋の緒が切れたハクは、ぎろりと兄役を一睨みすると、遣り掛けの帳簿を机に叩きつけ、帳場を後にした。

「なんだって言うんだ。一体」
 湯婆婆からの命令で遠方へ出張したために、帳場の仕事は膨大に溜まっていた。千尋逢いたさに、連日徹夜で残務をこなしていたハクは、それでも千尋に逢えていない。
 やり場のない怒りを抱え、肩で風を切るように廊下を進む。
 千尋ならば、この奇妙な状態の理由を知っているかもしれない。
 いや、あの人の子は少々ぼんやりした所があって(そこも可愛いのだが)、噂には疎いかも知れぬ。

 色々と思案するハクの目に、はたして千尋が飛び込んできた。
「千尋――。」
 千尋のほうは、とうにハクに気付いていたようで、硬い表情でハクを見つめていた。客膳を運ぶ途中なのだろう。手には大きなお櫃を持っている。
 ハクと距離をとるように立っていた千尋は、意を決したようにハクに近づいてきた。
「ハク、お帰りなさい。本当はもっと早くに会って言わなくちゃって思ってたけど……気持ちの整理がつくまでに今までかかってしまったの」
 気持ちの整理?と事態が呑み込めないハクをよそに、千尋はふうっと息をつくと、決心したように顔を上げた。
「ハク、あのね、わたしハクが女の人だったなんて今まで知らなかったの。ごめんなさい。ハクも悩んだよね」
 えっ…女????
「でも聞いて、ハク。わたしハクが女の人でも、わたしの気持ちは変わらないから。ハクはハクだから。だからせめてわたしの前では自然に振舞って」
 そこで千尋は優しい笑顔になった。
「今日はこれだけ言いたかったの。お仕事中足止めしてごめんなさい。それじゃ、わたし行くね」
 千尋は茫然と佇むハクを残し、よいしょとお櫃を抱えなおすと、仕事へ戻っていった。


 あまりの衝撃にハクはしばらく頭が白くなっていたのかも知れない。
 不意にくくっと押し殺したような失笑で我に返った。
 見ると、一人の大湯女が立っていた。
 艶やかな錦の着物を豪奢に纏った女は、ハクにも覚えがある。太夫と呼ばれるほど人気の高い湯女の朝霧だ。
「色男がそんなに腑抜けた顔しちゃ、台無しじゃないか」
「な……」
 何かを言おうとしても、口をついてくる言葉が見当たらない。
 朝霧はしゃなりしゃなりとハクの目の前に立つと、わざとらしくハクの衿の袷をなおした。
「まぁ、いいじゃないか。センはあんたが女でもいいって言ってくれてるんだからさ。どう転ぶかと思ったけど、なかなか良い結末じゃないさ」
「……どういうことだ?」
 朝霧は嫣然と微笑んだ。
「さぁ、あたしは知らないねぇ。女を憂悶させるような鈍感な男には灸が必要ってことだろう?」




おわり

波多野 虹子様より、またまた頂きモノをしてしまいました。
もうもう、どんなでも受け入れようと努力する千尋嬢の頑張りや、勝手に誤解されて勝手に頑張られてしまうのをただ見ているしかないハクの困惑よりも、「いや、言わんだろ。普通」「まぁいいか」で済ませてしまうリンさんに愛D
にじこ様、本当にありがとうございましたっ。