一度目のあなた





 どんなに時間が経っていても、どんなに姿が変わっていても、纏う気配が違っていても――まだ『出会って』も『はじまって』もいなくても――見間違えなんてしないって言っても……信じない?

   * * *

「あぁもう信じられない! どうして君は僕のことをそこまで誤解してくれるんだろう? 僕を誤解するのにかけては、ソフィーは天才的だ」
 それはいつもの、些細な言い争い。もうどちらが原因だったのかも、なにが原因だったのかもわからないほどに些細な言い争い。
 ハウルのすね具合もいつものことで、オーバーな仕草で天を仰いで嘆いている。露わになった耳の飾りが、場違いなほどきらきらと瞬いた。
「もう一度緑のネバネバを出そうかな。もう身も世もないよ、おしまいだよ」
 偶然なのかわざとなのか、今度は天の反対側をがっくりと眺めると、長めの黒髪に隠れて表情なんて見えやしなくなる。もちろん耳飾も髪に隠れ、場の雰囲気を読んで大人しくなった。
 背が高いだけにしょぼんとうなだれられたりすればやたらと小さく可哀想に、そしてこちらがいじめているように感じられて、いつもならソフィーが折れるのだが、今回は何故だか違っていた。
「やりたかったらやればいいでしょ! でもあたしはあのネバネバの掃除も、ハウルの救出をする気もありませんからね!」
 そうして、意思の強そうな眉を跳ね上げ、銀色の髪をかろやかにひるがえしてぷいっと顔をそむけると、一直線に自室へと向かい、『ばんっ』と勢い良く扉を閉めて閉じ篭った。どうにも本気でハウルをほったらかしにするつもりであるらしい決心がありありと見て取れた。
「あぁぁぁハウルさぁぁぁん! ソフィーを本気で怒らせてどうするんですかぁぁぁぁぁぁ」
 なんとも情けない声で抗議するマルクルは、あと一時間もすればおいしいソフィーの料理をたんまりといれようと空っぽになるであろうお腹を抱えて身震いした。その足元では、老犬のヒンまでもが『ひぃぃぃん』と妙に間延びしたしゃがれ声で同意した。
 暖炉の傍の台所には、作りかけの料理はおろか、出来合いのものひとつない。あるとしてもパンや卵やベーコンくらいで、少し前なら当たり前の、温かければ上等の、けれども今では『素っ気無い』としか感じられないものしかなかった。
 あとは加工待ちの材料がごろごろ存在していたけれど、ハウルにもマルクルにも、もちろんヒンにもカルシファーにも手が出せるような代物ではない。調理途中で半分に切っただけの大きなかぼちゃをどうすればあのほくほくとしたポタージュにできるのだろうか。うろこをとっただけの大きなあの魚は焼くのだろうか、蒸すのだろうか、それ以前にさばき方すらわからなかった。
 荒地の魔女はふたりのやり取りが面白かったのか、部屋の隅に置いた座りごこちのよいソファーにどっしりと構えてなんとも表現できない笑みを乗せているだけで元から勘定に入っていなかった。静かに本を繰るその仕草が、今は妙にしらじらしく感じられてならないマルクルであった。
「ちがうっ! いつものソフィーじゃない!」
 そのままドロドロに溶けてしまうのかと思われるほどしょんぼりとうなだれていたハウルは、ソフィーの『ばんっ』になにかのスイッチを押されたのか、ぴょんっと顔をあげて握りこぶしをつくってそんな理不尽な否定を口にした。
 けれども、顔をあげた勢いでまたもや床を眺める。眺める、どころか床にしゃがみ込んでしまった。黒髪をぐしゃりと両手で掻き乱し、絶望と苦悩と虚脱をあらわしているらしい。
 その細い体から滲み出ているのは緑のネバネバではなかったが、あきらかに――半泣きの気配であった。
「マルクル……カルシファー……ソフィーになにか言ったのかい?」
 そんな質問が半泣き状態のハウルから湧いて出るまでの間に、カルシファーは薪を一本燃やし尽くすかと思い、マルクルはすっかりと空腹になってしまったのだった。

   * * *

「緑のネバネバはあれで二回目さぁ。一回目は女の子にこっぴどくフラれた時に出してさぁ」
「ほんと、あの時も言ったけど、一回目の時はソフィーがいなかったから大変だったんだよ」
 なにがきっかけでそこまで話が転がったのか、その日のおやつの時間に話題に上がった、ハウルの緑のネバネバ。その記念すべき一回目を振りかえって、その現場に立ち会ったカルシファーとマルクルがしみじみとした声色で繰り返した。
「そんなにひどかったの? ハウルったら」
「もーうひどいなんてもんじゃないさぁ。ヤツがネバネバを開始したのが扉からすぐで良かったぜ。階段下まで蹴飛ばして、緑のネバネバを金魚のフンみたいに草原に撒き散らして三日三晩走ったんだぜぇ。じゃなかったら部屋にネバネバのプールができて、マルクルなんか泳げてただろうなぁ」
 もちろんおいらはその光景を見ることなく消えちまってたろうけど。
 とのカルシファーの言葉を
「その間どこにも行けなくて、ぼく達飢え死にするのかと思った」
 マルクルがそんな物騒な言葉で受け継いだ。
「ふたりとも、大変だったのねぇ」
 けれどもそんな懐かしい――とは言えなくもない――話の、本当に大変だったふたり(?)にねぎらいの言葉を向けたのは、ソフィーではなくて荒地の魔女だったので、腕を組んでうんうんそうなんだよ、と頷きかけたカルシファーとマルクルはふととまらざるを得なかった。
 おや、と思いながら向けた視線の先には、なにやら不機嫌そうな――表情をなくしたソフィーがむっつりと存在していて。
「ネバネバがそのあとどうなったのか聞きたくないのかよー??」
 きっとソフィーのことだから、草原中に撒き散らしたネバネバがどうなったのか聞きたいだろうと身構えていたカルシファーは
『あのネバネバはどうやら栄養剤になったみたいでさぁ、一週間後にもどってみたら草の丈が三倍になってたんだぜぇ』
 けど、変な花も咲いてたから突然変異を起こす栄養剤だったみたいだけどさぁ、さすがはハウルから出るモンだ。
 とのオチを用意していたが盛大に肩透かしを食らった。むっつりから薄ら笑いへと移行したソフィーがじっとこちらを見ていたからだ。口元に浮かぶ笑みの十分の一ほども目は笑っていなくて非常に不気味だ。
『ふぅぅん? そう? 女の子に? ふられて? あのはた迷惑なネバネバを草原中に三日三晩も??』
 とのソフィーの言葉が聞こえてきそうなのだが、それもカルシファーの幻聴であるらしい。本当のソフィーは薄ら笑いを浮かべたまま
「それはそれは、本当にショックだったのねぇ、ハウルったら」
 なんて平坦な声で感想を述べたのだ。
 あぁら修羅場の予感、なんて荒地の魔女の感想も、口に出されなければ誰にも聞かれることはなく、人の心の機微にはうとい人外の存在であるカルシファーも、人生経験値が圧倒的に足りないマルクルも、すぐにやってくるだろう修羅場に心の準備ができなかったのであった。


 そんなあらましを、がたがたぶるぶる震えている可哀想な火の悪魔とマルクルから聞き出したハウルは、『ばんっ』の後の『がっくり』よりも深く深く沈没していた。半泣きからネバネバへと移行しそうな雰囲気ではあったが、なにやら床にしゃがみ込んでぶつぶつ呟くに留まっているのは、もしかしたらもしかしなくても、燦然と輝く『奇跡』の二文字かもしれない。あまりにも鬱陶しい光景ではあったが。
 間違ってる、誤解している。どうやったらソフィーはそこまで誤解できるのだろう、とぶつぶつ呟いているが、それに関して自分が彼女と話していない事実にはまったく気がついていない。
 ソフィーは僕の言葉よりカルシファーやマルクルの言葉を信じるのか?? と呟いてもいるが、前科がありすぎて信じてもらえない事実にも気がついていない。
 あんまりにも泣きそうで熱い目元を抱えたままうずくまって、一歩も二歩もカルシファーとマルクルが後退したのにも気がついていたけれど、それでも考えていたのは、その、記念すべき一回目のネバネバのこと。
『女の子にふられたから落ち込んだんじゃない! あれもこれもソフィーが悪いのに!! 僕がどれだけの危険を犯してあそこにいたのかにも気がついていないんだっ!』
 なんたる不名誉! と心の中でだけ大音声で叫びながら。

   * * *

 それは、ハウルがソフィーを空中散歩に誘う、一月ほど前のこと。
 荒地の魔女から――そして、王室付き魔法使いであり師であるサリマンから逃げる為、動く城を遠く遠くへと動かしていた日々の中、城が通りかかった町へと、ふらりと散歩にでた時のこと。
 鉄鋼技術が発達しているのか、はたまた燃料加工技術が発達しているのか、街中に大型輸送列車が堂々と通っている町のはずれ、店が建ち並んでいる一角を冷やかしていた時のこと。
 そんなところで、待ち続けて、探し続けて、諦めにも似た気持ちが『ないはずの心』を侵食していく恐怖まで味わっていた『彼女との再会』があろうとは思ってもいなくて――ハウルは人込みの中でソフィーの姿を見つけて、唐突に立ち止まってしまった。
 陽気な音楽が流れる、カフェのある広場の端と端。彼女は店の柱にもたれるようにして、なにやらを言っている気配がした。相手に顔を向けているから、ハウルにはその横顔しか見えない。飾り気のない麦藁帽子を目深にかぶり、長い赤毛をみつ編みにして若い娘にしては地味な色合いのリボンで結わえてあるのがちらと見えた。ぐっとひいた顎の線やしゃっきりと伸ばした背筋が印象的な立ち姿であった。
 人込みが多すぎて断片しか見えない彼女の顔、彼女の仕草に、ハウルは広場の流れを遮っているとも気がつかず突っ立ってしまった。迷惑そうに、怪訝そうにこちらを見る人々の視線なんて勿論気になるわけがなかった。
 髪の色が違う、気配が違う、表情が違う――あの、印象的な声が、この距離で、この人込みで耳にできないけれど――それだけの否定の条件が揃っているにもかかわらず、ハウルは『彼女だ!』と直感してしまった。
 嬉しくて、あんまりにも嬉しくて、涙まで出そうなほど『どこか』が熱くてたまらなくて、広場を縦に横に右に左にと流れている人込みを真っ直ぐに歩いていこうとしたけれど……たったの一歩を踏み出しただけで、ハウルはまた足を止めてしまった。何故なら、どんな偶然なのか、ほんの少しすいた人込みの合間をぬって、彼女の相手が見えたから。同じ年くらいの男が、笑みを浮かべて彼女となにやら話していた。遠くてもはっきりとわかる、好意の――それ以上の色。それに気がついて、ハウルは一瞬むっとしたけれど、ついでがっくりと心の中で座り込んだ。
 たしかにそうなのだ。髪の色が違う、気配が違う、表情が違う――それらの否定点を除いても、あの星空の下での一瞬の邂逅は、誰かの『作為』または『偶然』によって成された物だと、魔法使いとしての知識からすれば考えるまでもない。だから、あの時の出会いは、まだ彼女の中には存在していないのだろうとわかるのだけれども――『未来で待ってて』の言葉から、そうだとは推測できるけれど――だからこそ何年も何年も何年も待ち続けているのだけれど――捜してもいたのだけれど――それとこれとは別、納得できないモノ、はあるのだ。
 どこの誰が、待ち続けていた、希望を抱いていた相手が――女の子が男に一対一で真向かって会話している光景なんて見てしまって平静でいられるものか。しかも彼女はこちらが見ていることにも――こちらの存在そのものにも気がついていないのだ。
 本当ならその場でみっともなくしゃがみ込み、人の迷惑なんてとことん顧みず、闇の精霊を呼び出して緑のネバネバを発生させたい気持ちである。けれどもそれを我慢したのは――男に向かっている彼女の表情が、冷たく怒っていたからに他ならない。意思の強そうな、我慢強そうな眉をきゅっと寄せてなにやらを話しているその表情ひとつで、ハウルはひっちゃかめっちゃかな思考をぐっと押さえ込み、我慢したのだ。恐らくは、今まで生きてきた中で、一番の我慢をしたのだ。
 これがもし、ソフィーが少しでも微笑んでいたならば、その横顔に好意の色が一瞬でも閃いたならば、頬が薔薇色を帯びていたならば、ハウルは町を緑の海に沈めていただろう。YESもNOも聞かず、黒い羽でもって彼女をそこから攫っていただろう。彼女がどんな性格で、彼女がどんなものが好きで、彼女がどんなものが嫌いで――彼女と自分がどんな関係になるのかもまだ真っ黒な闇の中にしか答えはないのに、もう囚われているのだとそれだけは無意識に自覚していたから、そんなことは簡単にやってのけただろう。


『そうだ、城まで我慢したんだ。なのに誰も誉めてくれないどころか、カルもマルクルもおやつ時間のネタにして、しかもソフィーを怒らせたっ!』
 回想の合間に浮上した怒りに、ハウルは本気で緑のネバネバを出して閉じ篭ろうかと考えた。そうしたら、三回中の二回はソフィー絡みだとはっきりわからせることができていいだろう。けれど、どうやっても一回目の原因が他の女の子だと誤解されたままであると気がついて、みっともなく床にしゃがみこんだままの姿勢は続行されている。
「僕って、我慢強いんだぁ。自制心って言葉とお友達だったんだぁ。知らなかったよ、もっと我侭だと思ってたのに」
 しゃがみ込んだまま、まだぶつぶつと呟いているが、あまりに不気味過ぎて誰も聞いていない。荒地のマダムですら、読んでいる恋愛小説がお好みのシーンであるからなのか、ちらともハウルの様子を見ようとはしない。
 ソフィーは本当に知らないのだ。あの、空中散歩へと誘う原因となった出会いの半分は彼女のせいだと気が付いていないのだ。
 本当なら、まだまだキングズベリーにも、荒地の魔女からも近いこの町なんてさっさと離れるつもりだったのに、あの町で彼女を見つけたから怖いのも我慢して留まった。
 荒地の魔女の手が近くまで来ていると知りながらも、見つかるかもしれない危険を犯しながらも街中に出ていたのは、彼女を見ていたかったから。いつ気がついてくれるのだろうか、それだけを楽しみにして怖さに耐えていたのに――おかげで、彼女の危機を救うこともできたけれど――我慢の限界が近かったとも言うけれど――
『なのに彼女は勘違いしたまま怒ってる!』
 理不尽だ理不尽だ理不尽だ、とやり場のない怒りを心の中にだけ存在する床にバンバンと平手を食らわせることで発散する。
 だいたいその勘違いだってどこが情報源なのだ。
 いや、たしかに、ふらふらよろよろ口から白い魂を吐き出しながら城まで戻ったあたりまではぼんやりと覚えているが、転がり込むように城に入った後の記憶は綺麗さっぱりない。
 けれど……なにかカルシファーに聞かれて『やっと会えた』とか『彼女が……』云々と口にした気がしないでもないけれど――『女の子にふられた』なんて言葉は口にしていないとそれだけは断言できる。なのにどうしてどうしてこの僕が『女の子にふられた』ことになっているのだろう?!
 ハウルのどろどろに溶けた様子とその短い言葉からカルシファーが勝手に『女にふられたんだ!』と叫び、それに納得したマルクルが乗っかって、一回目のネバネバの原因は『ハウルが女の子にふられた』でまかり通ってしまっただけではあったが、誰もその点についてつきとめようとも勘違いを正そうともしないので意思疎通障害甚だしい状況が出来上がっているのだと、誰も気がついていない城の住人達。

「あぁぁもうほんとうに緑のネバネバ出したらすっきりするかなー……」
 少なくともソフィーはあの部屋から出てきてくれるよね? それならそれもいいかなぁ、いいかもしれないなぁ。
 悪評高い魔法使いにも似つかわしくない体勢で、似つかわしくない雰囲気で、似つかわしくない願いを口にするハウル。綺麗に整えられた人差し指は、今まさに八十三個目の『の』の字書き取りをするところであった。なんとも情けない男である。
 けれど、一度目のネバネバ発生の原因が
『ソフィーに声をかけたいのにかけられない意気地なしな自分に激しく自己嫌悪したから』
 だなんて絶対に内緒にする決意を固める、格好つけしいの魔法使い。それが元で、本当の意味での『はじめての出会い』の時、素っ気無いきどった態度をとってしまったのだし、引くに引けない。
 一度目も二度目も、そしてこれから行うかもしれない三度目の理由も『ソフィーが原因なんだっ』と言ってしまいたい誘惑はなにより甘いけれど、九十六個目の『の』の字を書きながら、唇を噛みしめて涙とともにぐっと我慢するのであった。