イクセルイアン



【 1 】

 ざぁぁぁぁ…… 
 ざぁぁぁぁぁぁ………

 雨が降る。
 水の連なりが落ちてくる。
 錆色の空から。
 世界を埋め尽くすように。
 煤で汚れた空気を洗い流すかのように。
 ――降る。

   * * *

 衣服はこれ以上がない程に派手好きであるにも関わらず、傘は『黒』が好きな悪名高き魔法使い。それでなくとも例の事件以降、派手な色や白を好んでいたのが、どことなく黒の服を揃えだすようになったのに。今現在も、よくよくみれば繊細な飾りが施されてはいるもののぱっとみただけでは黒一色にしか見えない上着をひっかけている。その姿は黒髪とあいまって、まるで闇夜を行く黒い鳥だ。
 彼曰く
「黒の方が雨に紛れやすい」
 らしいのだが、それは彼以外の誰にも理解ができる理由ではなかった。
 魔法使いはその黒い傘をさしながら、雨の中その町の細道を歩いていた。彼の家族が待つ家にと続く扉へと向けて。激しい雨が石畳を打ち、跳ね返る水滴に豪奢な靴も服の裾もびしょぬれでも足を少しも緩めずに。その足取りは空の陰鬱さも知らぬかのような、鳥の飛翔にも似て軽やかなものだ。欠けた石畳のそこここに出来上がった水溜りに彼が刻んだ波紋が広がっては消えていく。
 本当ならこんな鬱陶しい雨の中をでかけるのも嫌ならば、ちまちまとひとりで路地を歩いているのも嫌であったが、どうしてもどうしても出かけなければならない理由があれば致し方がない。彼の大事な家族のひとりが――ソフィーが風邪をひいてしまって寝込んでいるとあらば、彼女が好きなミルクのひとつやふたつ、どんなどしゃ降りの中でも、どんな深夜でも厭わずに買い求めに出かけただろう。彼女がそんな我侭なぞ言わないから尚のこと気を廻して買い求めに行くだろう。ただ、遠回りになる大通りを大真面目に通るつもりはさらさらなく、近道の路地裏を急いでいるのだけれども。
 そうして彼はそこにいた。それは完全なる偶然であったのに、その偶然に招きよせられた姿がひとつ、細い路地を塞ぐように立っていた。
「へぇぇ。厭きれた。あの『魔法使いハウル』が、黒い傘さして、肩を濡らして、ミルク瓶抱えてこんな路地裏を歩いているなんて」
「失礼な。林檎だってある」
「厭きれた厭きれた。ご自慢の金髪は真っ黒だし、きらきらのお服は雨に濡れてるし、なによりも女の為に雨の中買い物に出るなんて、厭きれた厭きれた」
 激しい雨の中にも関わらず、その声はよく響いた。けれども、その声の主をひとめ見ようと窓を開ける者もおらず、ふたりの両脇に連なった小さな窓はぴっちりとカーテンで覆われていた。まるでそこが客席がからっぽの舞台で、ハウルとその者が白々しいふたり芝居を演じているかのようだった。ふたりの声に感情や真実味はかけらも含まれていなかった。
「たんと厭きれてくれたまえ。僕は今、あなたに付き合っている暇はないんだ」
 あなたなんかより彼女の方が大切なんだから。
 そのまま完全に、細い道を塞がれているのもものともせず歩き始めた魔法使いを見送って――否、ハウルと知り合いらしいその者はハウルの進行を邪魔できるほどの体格ではなかったから、彼はただその障害物の横を歩けば良かっただけなのだ――その者は肩をすくめて見せた。もう魔法使いがこちらなど少しも意識していないと知りつつも。
「厭きれた。厭きれたわ、ハウル。あんたがそんなに変わるなんて。みっともないわよ」
 そう黒い傘に向けて言葉を零したのは、腰まである茶色い髪の、白い滑らかな頬の、十歳ほどの少女であった。
 傘もささずにいるその姿は細く頼りなかったが、その身は雨に打たれた様子もない。ふわふわとした髪は綺麗な巻き毛のままだ。繊細なレース飾りがふんだんにあしらわれた白いワンピース姿は、晴れ渡ったどこかの花園に佇んでいるような雰囲気であった。
 違和感はもうひとつあった。年の頃には似合わない、高価そうな真珠の連なりが細い首を控えめに飾っていた。
「みっともないわよ、本当に」
 その言葉とその姿は、いっそうひどく降り続く雨にかき消されたけれども。

   * * *

「あぁぁぁハウルさん、はやかったですね……」
 いつも通りに魔法の扉を開けて帰ってきた我が家には、なんとも言えない良い香りが漂っていた。そんな中、ハウルの姿を認めて慌てふためいた声をあげたのは、魔法使い見習のマルクルだ。相変わらず、ばっちりと寝癖で髪が逆立っている。
 けれどもハウルの視線は暖炉の上にかけた大鍋をかき混ぜ、味付けをしている娘の方に自然と行ってしまう。ピンク色の寝巻きの上に毛糸編みのカーディガンを羽織ったままの姿で料理をしている、ソフィーがそこにいた。
「ソフィー、そんなことしなくてもいいのに! 君は病人なんだから!」
 あぁもうその病人の為にこんなどしゃ降りの中ミルクを買いに行った僕のまごころは君には通じないってわけかい?! 受け取り拒否だって言うのかい? 返品不可だって伝票に書いたのにっ!
 ハウルは逆切れも良い所の言葉を吐き散らしながら、どんっと手荒く買い物袋をテーブルへと置いた。ミルクの入った陶器ががしゃりと甲高い音を立てたけれども、どうやらひびは入らなかったようだ。
「だってハウル、あたしが作らなきゃ誰が食事を作るって言うの? マルクル? それともおばぁちゃん? まさかヒンにさせるつもりじゃぁないでしょうね?」
『ハウルが出かけたのを見計らって部屋から出てきたのに、あなたがはやくに帰ってきちゃったからいけないのよ』と逆切れしたくなるソフィーであった。けれどもその声はどこか力なく、目もぼぅとして頼りない。
「料理くらい僕にもできる。なにせひとり暮らしが長かったんだから」
「そしてハウルの手料理を食べたマルクルはこんなにも偏食になっちゃったんじゃないの」
 ハウルにできるのは、味付けなんてあんまり必要ないベーコンエッグがせいぜいよ。
 ソフィーは最後に胡椒で味を整えて『さぁ、完成よ』ときたものだ。
 けれどもソフィーは、マルクルに準備させていた食器にそれをよそうことはできなかった。なぜなら大鍋をかき回していた木のスプーンをいつかの日のようにさりげなくハウルにとられ、そればかりか両手もとられ、小さな一歩を自室の扉へと向けて歩かされたからだ。
「ちょっ、ハウル、なに?!」
 いきなりなハウルの行動にはもう慣れたと思っていたが、病人モードではなんとも反応がしづらい。自分の両手を真正面からとっている黒髪の男をワンテンポ遅れて見上げている間にハウルの左手はおのれの腰にまわされ、足はもう一歩自室へとすすめられていた。ついでもう一歩、もう一歩……なぜかワルツを踊りながら。くるりくるりと部屋がまわって見えるのは、目の錯覚でも熱の為でもないのだろう。
「あとは僕がやるよ、風邪ひきの料理長さん」
 そして君にはあたたかいミルクとお腹に優しい病人食だ。
 と言われた頃には、ソフィーは自分のベッドにおさまっていて、額にキスのひとつも贈られていた。
「っんもう!」
 ソフィーはなんとも言えない態度をとった後、これでもかこれでもかと重ねられた毛布にうずもれてくすりと笑うのであった。

   * * *

「ソフィー、ソフィー、本当にちゃんと寝ているの? 夜に起きだして繕い物をしていたりしないのかい?」
 ソフィーが体調を崩してから、三回目の朝。
 その日も家中の誰よりもはやくにソフィーの部屋へとやってきたハウルは、ソフィーから受け取った水銀計の目盛をみて、なんとも情けない疑いを抱いた。昨日も今日もハウルの希望通りの目盛を指し示さない水銀計なんて信じられない、自分の手で測る、とばかりにソフィーの額に手を伸ばしながら。
「ハウル、こんなの、平熱のちょこっと上くらいよ。そんな大げさにしなくてもいいのに」
 たしかに、普段通りに立ち働くには少しばかり熱っぽくてだるくて、気力をニ割増しくらい奮い立たせなければならないけれど、それでも『普段のニ割増し』程度で済むのだ。それなのにここ暫くベッドにうずもれさせられ、安静を言い渡されている。何日も寝込むほどにはしんどくもないのに、この家主と来たら聞く耳持たないのだ。
 けれども、魔法使いと言えばこの世の理の探求者だ。それはすなわち人体の不思議にも知識が豊富であるとも近しいので、その『魔法使い兼医者もどき』でもあるハウルに『ダメ』と言われればさすがのソフィーも『自分の身体のことは自分がよく知ってるわ』と強く反論はできなかった。『君の主治医の言葉が信じられないの?!』と言われて、内心で『そこになんの思惑もないとはわからないもの、ハウルの言葉だから』と言い返しながらも黙っていたが。
 仕方なしにベッドと同化しそうなほど長い時間毛布にうずもれることとなったが、その上読書も駄目なら新聞も取り上げられてしまって、まるで世捨て人、隠居老人、または寝たきり老人になった気分だ。九十歳にも等しい老婆になった時でさえこんな『絶対安静、断固安静』なんて状況にはならなかったのにと考えると、はっきり言って現状は苦痛以外のなにものでもない。
 けれども過保護な医者もどきときたら
「これがつわりだってんなら僕は大喜びだけど」
 なんて聞き捨てならない言葉をベッドの足元に向けてさりげないため息とともに吐いてみせたりする。
「あぁぁのねぇぇぇぇ。いつ、あたしに、そんな身重になるような状況があったってのよっ」
「それがないから残念なんじゃないか」
 しみじみとした口調でぬけぬけと本心を告げる不良魔法使いに、真っ赤な顔をして枕を投げつけようとしていたソフィーは、かわりにこんっと咳をひとつした。
「本当に風邪なんだもんなぁ、残念だなぁ」
 まだ言ってる、と思いながらも、毛布を首元までかけ直すハウルの手の動きを見ているとなにやら馬鹿らしくもなってきて、とりあえずソフィーは口を噤んだ。口を開けばもうひとつ咳が飛び出そうでもあったので。
 ベッドの足元に視線をやれば、なんとも言えない造詣のぬいぐるみがひとつ増えていた。足元にお行儀よく並んだみっつのぬいぐるみ。毎朝ごとにひとつずつハウルの部屋から移動してくるその儀式にも似た増加にももう慣れた。どこを見ているのかもわからない、やや離れ気味のビーズの目がこちらを見ていても気にならない。ソフィーは咳が出てきそうな口元を笑みで綻ばせる。あんまりにも可笑しくて。
『ひとりでいるのは寂しいだろう? 本当は僕がついていてあげたいところだけれど、それでは君がゆっくりできないだろうから。この子達が僕のかわり』
 とでも言うかのようなぬいぐるみの増加に、
『この子達がこちらに移ってきて寂しいのはハウルでしょう?』
 といつか言ってやりたいけれど、ふたりとも何故かぬいぐるみに関してはなにも言わないのだ。毎朝黙ってぬいぐるみを置いていくハウルと、置いていかれるソフィー。些細な、けれどもふたりにしかわからないそんな儀式が楽しくてこそばゆかった。
 明るい色のカーテンをかけた窓の外には相変わらず空を黒く染めて雨が降り続いており、はめ込んだガラスを単調な音色で叩くけれど、その音もその小さな部屋には忍び込まないのであった。

   * * *

「ソフィー、今日もダメなんですか?」
 朝食の準備の為にくるくると動き回るマルクルがその足を止めて見上げた先には、ぼんやりとした魔法使いの顔があった。今さっきまでソフィーの耳の先まで真っ赤にしていた言葉を吐いていた人物と同じとはにわかに信じ難いほどに気の抜けた顔だ。ガラス玉みたいな青い目で居間の窓の先へとぼんやり視線を投げかけたまま、ソフィーの部屋の扉を背に突っ立っている。
「お師匠様?」
「うん、今日もダメみたい。と言うわけで、今朝の料理長も残念ながら僕だ」
 心配げなマルクルの声など聞こえませんとでも言うかのようにわざと明るい声で返事を返したハウルは、大きなストライドで暖炉へと歩み寄った。その先には、器用な手付きで林檎の皮を剥く荒地のマダムの姿がある。
「マダム、案外器用ですね」
 林檎の皮を薄い一本のひも状に剥いている手付きは慣れた感じだ。
「もしや、料理がお得意で?」
「いんやぁ、料理なんてあたしがするわけないじゃないか」
 みーんな使い魔にさせていたけれど、こんなのは魔法や薬作りと一緒だから。野菜の皮むきや煮込みなんかはできるだろうけど、味付けはさっぱりだねぇ。
 ふたつめの林檎に手を伸ばしつつ、あの頃からは考えられない穏やかな口調で語り、あの頃からは考えられない穏やかな笑みを乗せる荒地の魔女。
 その彼女に対して話しかけるおのれの行動にもよくよく考えなくても驚かされるのだけれども、とハウルが頭の隅で考えながら落とした視線の先では、マダムの足元で待機していたヒンが一本目の林檎の皮を端から細い目をさらに細くさせてはぐはぐと嬉しげに食べていた。
「奇遇ですね。僕も皮むきや煮込みなんかはできるだろうけど、味付けなんてまったく自信ない。味付けなんて関係ないベーコンエッグがせいぜいだ」
 ハウルは荒地のマダムから離れて、柄の長いフライパンを取り、ベーコンと卵を放り込む。ハウルがせいぜいできるベーコンエッグを作成しているのだ。
 小鍋には野菜をくたくたに煮た味付けなんてさっぱり適当のスープもあるので、マダムと病人の食事もなんとかなるだろう。薄く切ったパンをひたして食べれば、味付けなんかなくてもなかなかおいしいものだ。
「あたしゃ肉が好きだったけれど、味付けをほとんどしていないスープもおいしいものだねぇ。野菜本来の味が出ていて、結構いけるよ」
「うん、それもおいしいけど、やっぱりソフィーのスープの方がおいしいよ」
 食器を準備しがてら自己主張をしていったマルクルに、ハウルは肩をすくめて見せた。
「僕らの大好きな料理長にははやくよくなってもらわなきゃね」
 だからもう少し足音を静めておいで、とハウルは笑う。
「こうなると居間に近い部屋をソフィーに準備したのは失敗だったかな。便利で良いかと思ったのに」
「まったくの静かじゃぁ、そっちのがソフィーも落ち着かないだろうよ。ここは賑やかにした方がいいだろうねぇ?」
「違いない」
 林檎の芯を放り投げると嬉しげに追いかけ出したヒンの短い足とぶんぶん振られる尻尾を見ながら、荒地の魔女もハウルもマルクルも笑うのであった。

   * * *

 次の日も雨は降り続いていた。
 けれども、雨が降り続く暗い空でも、風邪ひきがいようとも、穏やかで賑やかな空気に満たされていたその居間に、今日ばかりは沈黙が重くのしかかっていた。
 もう昼食の時間が近いのに、誰も食事の用意をしようともしていない。ただ暖炉で燃えるカルシファーの火花の音がぱちぱちと弾けていたが、外の湿気よりもじめじめとした雰囲気に押されがちであった。
 窓の外に広がる雨雲と光を吸い込む雨のカーテンの存在を別にしても、明るい色の壁紙に燃え盛る暖炉があればいつでもほのかに明るいその部屋は、今はそこここに闇をわだかまらせていた。闇のすぐ隣には薄ら寒さまで座り込んでいた。沈黙までもが紛れ込んでもいた。
 暖炉からほどほどに離れた位置に置いたソファにいつものようにうずもれている荒地の魔女は、おのれの膝の上で丸くなっているヒンの背中をゆっくりと撫で続けている。
 ハウルも窓辺にニ脚ある椅子の扉を向いた方に腰をかけ、足を組んでテーブルの上で細い指を組み合わせていた。
 ヒンも目を閉じてマダムの好きにさせていたが、それでもなにかしら体に力が入っているのが見て取れた。ほんの些細な空気の揺れにも、耳をかすかに動かして反応を示していた。
 ソフィーだけが、そんな居間の重苦しい雰囲気を知らずに眠っていたが、咳ひとつ聞こえない。
 その居間に存在している者達は、意識せずとも扉の音に集中していた。ドアノブを回せば、街中に存在している家であるにも関わらず、荒地にも、花畑にも、もっと遠い場所にも繋がる魔法の扉が何事もなく開くのを待っていた。
「どうしたんだろうねぇ、マルクルは」
 重苦しい雰囲気を重々承知していながら――その言葉を発すればさらに重苦しさは増すとわかっていながらも、誰かがなにかを言わなければ何時間もこのままだともわかっていたので、ここは年長者であるあるあたしの仕事だろう、とマダムが時間を動かした。その手はまだヒンの背を撫で続けていたが、かすかに重みを増したその手の感触にヒンは目を開けた。
「焼きたてのパンを買いに行くって出ていったのは、もう随分と前なのにねぇ」
 朝食用のパンが切れている、とその日の朝に気がついたマルクルが財布を持って出かけて行ったのは朝もはやい時間であったのに――まだ帰ってきていない。元気よく手を振りながら扉をあけて出て行ったマルクルの後ろ姿がやけに遠く感じられた。目を閉じればマルクルの足音が聞こえてくるのは、誰の耳にも聞こえる幻聴だ。

『お師匠様、ソフィーの風邪、魔法で治したりはできないんですか?!』
『風邪を治すなんて、そんな都合の良い魔法なんかない。僕にできるのはせいぜい薬を調合することくらいだ』
 魔法使いで医者なのに頼りないと思うかい?
 そう問いを向けてみれば、魔法使いを志すマルクルは素直に頭を振った。
『いいえ、なんでも魔法でなんとかしようなんて考えるぼくが悪いんです』

 そんなやりとりをしたのはついさっきであったのに、ハウルもマダムもヒンすらも遠く感じられてならない。
 ――これ以上魔法を使いたくないから使わないんだ。
 そんな『事情』を告げていれば良かったのだろうかと、後悔の念がハウルの心に忍び寄っていても、その『事情』も不安も口にするわけにはいかなかった。
 なにかあったのかな。
 マダムもハウルもヒンまでもが喉の先までのぼらせた疑問であったが、誰もそれを口にする気にはなれなかった。
 雨はしとしとと降り続ける。まるで、小さな子供を闇に隠すかのように。
 夕方になっても、夜になっても、雨は降り止まない。世界を黒く染めたまま。

   * * *

 雨が降り続く。まるで、海の真珠を砕いてばら撒いているかのような雨が。
 ここ暫く太陽は雨雲に隠しやられ、地上にちらとも光を投げかけてはくれない。そのまま世界中から光がなくなってしまいそうな、そんな嫌な気持ちにさせる陰鬱な夜明けであった。
「あんた、寝なかったのかい?」
 ナイトキャップをかぶったままの荒地の魔女が、昨日の夜とまったく同じ体勢のハウルを見つけて声をかけた。けれども、ハウルは微動だにしない。ただじっと扉を見つめたままだ。
「ハウル、探しには行かないのかい?」
 誰を、と言わずともわかる、大切な家族の一員。
「あんたなら簡単だろう? こんなチンケな呪いなんて、行く先はお見通しだろうに」
「怖くないかと聞かれれば、僕は正直に『怖い』と言うしかないんですよ、マダム」
 言葉をなくしたかのように昨日から黙して語らないハウルがようやく口を開いたかと思えば、そんな謎めいた言葉であった。けれども、マダムは鷹揚に頷く。まるでそんな謎かけ言葉の翻訳には慣れているとばかりに。
「それはあたしも同じさ」
 いつもの定位置であるソファに腰をかけ、魔女は燃える火の子供を小首を傾げながら見つめた。カルシファーもハウルと同じように眠っていなかったのか、大きく目を見開いて薪の間にうずもれていた。おしゃべりな彼に似つかわしくなく、口を真一文字にひきしめている。いつもは赤々とあたたかな熱を振り撒いている炎が、今日ばかりは冷たく凍えて感じられた。
「けれど、あたしよりもあんたの方が幾つも選択肢を持っているじゃないか。あたしにはもう魔力はない。知識や、魔法を見る目はあってもね」
 いっそどこにでもいる老人と同じになれれば良かったとも思ったけれど、事態がなになのか微塵もわからない状況になって気を揉んでみっともなくうろたえて泣くなんて情けないことよりはマシかもしれないね。知識も目も持たないただの老人にあたしがなろうとも、敵は消えはしないのだから。
 マダムは軽く肩をすくめてみせた。
「因果なものだねぇ。あの頃は恨みを買おうとしったこっちゃなかったけれど、力の弱い存在になったら後悔のしどうしだよ。どうしてあいつにあんなことをしてしまったのか、こいつにこんなことをしてしまったのか。さぞあたしを恨んでいるだろう、復讐したいだろう、あたしを捜しているんじゃないかと思うと眠れなくなるよ」
 だから考えないようにしてるんだけどね。
 マダムは気楽にウィンクしてみせた。
「それでも、あたしに直接害があるのならそれもいいんだけどねぇ、これはやりきれないねぇ。マルクルの次は――わんちゃんだなんて」
 その言葉に、ハウルの肩がぴくりと動いた。
 テーブルの上で組み合わされていた指がかすかに力を込められて震えた。いつもは血色の良い指先も爪も色をなくして白さだけが妙に目立つ。まるで、カルシファーが熱を失ったのと同じように。
「次はあたしかもしれない。まぁせいぜいあの子達に合流してあんたの協力ができるように足掻いてみるよ」
「僕は弱虫なんですよ。ひとりでだなんて頑張れるはずがない」
「あんたはひとりじゃないだろう?」
 マルクルも、ヒンも、あたしも……あの娘もいる。守る者がある者は強い、それを示したのはあんたじゃないか。

 そうハウルに告げた魔女も――その日の午後に――姿を消した。

 雨は降り続いている。どんな小さな足跡も、匂いも、かき消すかのように。
 ソフィーはそれにも気がつかず、昏々と眠り続けるのであった。




オリキャラびしばし絡んできますので、オリキャラが苦手な方はご遠慮下さい。