イクセルイアン



【 2 】

「お前はなんてグズなんだろうねぇ。あぁ目障りだよ、消えてしまいなさい」
 どうしてお前なんて生んでしまったんだろう、こんなにもグズで醜くて目障りなのに。笑いもしなけりゃ泣きもしない。なんて卑屈な目であたくしを見るんだろう。
 まったく、可愛くないったら。お前なんて人間じゃないよ、化物で十分よ。あたくしの腹からでてきたと考えるだけでもおぞましい。
 
 そんな『音』とともに降ってくるのは、あたしにもある『モノ』だった。『見えるところ』に入ってくる、同じところにつながっている『モノ』
 あたしのもっているものより大きくて、強くて、痛みを与える『モノ』
 あたしはそれに『手』と言う名前がついていることを、『ソコ』から放り出されるまで知らなかった。
 あたしは『虐待』をされていたのだろう。手をあげられ、足蹴にされ、痛みを全身に与えられて、食事も衣服も満足に与えられず、やがて放り出された。
『言葉』さえ『言葉』と認識できなかったあの頃は、あたしを拾ってくれた人からみれば、どう見繕ってもみっつには手が届いていないだろうほどの小ささだったらしい。手足は骨と皮で、目だけがぎょろりと大きかったらしい。あの頃の状況を今考えれば、それでもよく生きていたものだと正直感心する。命汚いとも言うけれど。
 まわりの子供達を見てみれば、口達者な子などみっつならべらべらとしゃべっている。けれどもあたしは『音』を『意味のある言葉』とも認識していなかった。
 普通の生活を送っていれば認識ができてあたりまえのことができていなかったのは、異常な状況にいたからだねぇ、と拾ってくれた者は悲しそうに言っていた。年老いた、けれども優しいその手で頭を撫でてくれながら。同じ『手』でもなんて『感触』が違うのだろう、『与えるもの』が違うのだろう、そんな差異に眩暈がしそうな『手』だった。
「そうね、あたしは『愛』なんてものは知らなかったから」
 悲しそうな顔をするその人に向けて、あたしは軽く肩をすくめて笑ってみせる。そんなの、なんてことないのよと言うように。そんな過去はあたしを少しもそこねたりはしないのよ、と。
 過去には『憎しみ』しかないわ。だから今はなんてことないの。あたしをこれ以上損ねようがないわ、壊れきっているのだもの。
 復讐なんて考えていないわ。もうあたしから遠く離れた世界に固執してどうするの。もうその想いを向ける者が『誰』で『ナニ』かもわからないのだから。

 あたしは首にかけられた真珠の連なりに指を這わせる。海の珠は山の玉と同じようにとても高価だ。それに、あたしのそれはいびつな真珠ではなく、厚く丸く巻いたもの。指先に生まれる感触は滑らかで柔らかい。
 きっとお前は裕福な家庭にうまれたんだねぇと拾ってくれた人は言うけれど、その言葉には『そんな家は闇が深いから』としみじみとした呟きが続いていた。
 そうね、闇が深いね。愛されない、許されない子が生まれて、その子に高価な真珠の首飾りをつけて放り出すくらいには腐っているね。この真珠は、あたしの幸せを願ってそえられたものでも、捨てることへの罪悪感からの品でもなく、この真珠目当てにどこの誰とも知らない者に殺されてしまえとの――願いと呪い。
 あたしはそれを打ち破って、ここにいる。生き残っている。

   * * *

 雨が降り続いている。
 はじめの頃はうんざりとしていた町の人々も、もう諦めたかのように、それともはじめから雨が降り続くのが普通の生活ででもあったかのように暮らしていた。
 この雨は何日目の雨であろうか。もう誰も数を数えたりはしていなかった。ただ覚えているのは、昨日も雨で、今日も雨であることだけ。
 なんでも面白がる酔狂な若者達が傘もささずに狂ったように町を練り歩く以外は、誰もかれも屋根の下に閉じこもっていた。
 山の中腹にあるのが幸いして、雨水はすぐに低地へと流れていった。石畳で舗装した町中の、貧弱な排水口付近だけが水没気味であったが、それは低地にある細い川の惨状に比べればかわいいものであった。どこぞの貴族が気紛れに作った石造りの大仰な橋が、今は立派に機能していた。
 そんな町の片隅にある、今は閉店中の生花店の居間では、その家の主が暖炉に向かっていた。しんと静まりかえる、今は広く感じられてならないその部屋で。
「カルシファー、真珠姫に会ったよ」
 まるで、炎が生きてでもいるかのような口調に、けれどもその家の住人達は驚きはしない――はずであった。何故ならその家の住人は、今そこにひとりも同席していないから、なんの反応もないのだ。
「真珠姫? あの美人さんか」
 暖炉からそんな声が返ってきても、普段であっても誰も驚きはしないはずであった。何故ならその暖炉には意思を持つ炎――火の悪魔が鎮座しているのがその家の『普通』であったからだ。
「美人さんだなんて、それは中身? 外見?」
 久しぶりに笑ったハウルの顔をねめつけるようにして、カルシファーは薪の間から這い出てきた。そんな『無理矢理な笑い』なんて見るのは何年ぶりだろう、そんなことを頭の隅で考えながら。
「あんたが先に言ったんじゃないか! 真珠姫は美人さんだって」
 ちなみにおいらが言ってるのは『中身』だ、とカルシファーは付け加えると、今度は薪の間にうずもれるようにして引っ込んだ。なにやら、薪の間からちらちらと覗く炎の赤味が増している気がしないでもない。
 カルシファーの炎に照らされたハウルの後ろに揺らめく黒い影は、話の内容にそぐわないほど陰気にゆらゆらと揺れていた。
「うん、中身は相変わらず美人さんだったけど、外見はかわいこちゃんになってたよ」
 あんまり差なんかないじゃんよー。
 薪の間からほそぼそとした突っ込みがはいって、
『美人さんとかわいこちゃんは種類が違う!』
 こんな時でもないだろうにハウルは力説した。カルシファーにはその違いがわからなくて、あるようなないような、ないようなあるような首を捻って唸った。
 けれども、その、妙に和んだふたりの間の方向性も、やはり元の低空飛行にすぐにもどってしまう。
「じゃぁ、『コレ』は真珠姫の仕業か」
「うん、まぁ、多分、そう」
 なんだい、はっきりしないなー、鬱陶しい。
 悪態をつきながら、またもやカルシファーは薪の間から這い出てくる。今度は積み重ねた薪の上にどっかりと座り込んで腕を組んだ。目の前の人物を真似して。
「外見が変わったって?」
「一番最後に会った時は、サラサラストレートのプラチナブロンドだったっけ。腰まで綺麗に伸ばしてた。目は澄んだ薄氷の色で、近寄り難い雰囲気の、寡黙な氷の貴婦人だったね」
「前は蜜色の巻き毛だったんだろ。肩の上でくるくる巻いた大きな巻き毛が可愛いってハウル言ってたもんな」
「目は葉っぱの色だった。元気なお姉さんだったよ」
「で、今回はかわいこちゃんか」
「そう、小さな女の子。茶色い髪がふわふわしてたよ。結構前は、黒髪のスレンダーな美女だった時もあったかな? ソフィーが聞いたら楽々半日は説経できる変わり具合だね」
 ふーん、とカルシファーは気乗りしない返事をした。心なしか、燃える炎の色もくすんで見えた。それで、弾んだかに思えた会話もぷっつりと途切れてしまう。
「僕は彼女が、どちらかと言えば嫌いじゃないんだけどな。彼女も僕を嫌ってはいないと思っていたのだけれど。僕と彼女はよく似てるだろう? 立場も、趣味も、性格も、生き方も」
 自分と同じ性格のイキモノがもうひとりいるとなったら気持ち悪いけど、彼女なら別だね。強いし、綺麗だし、性格もさっぱりしてさばさばしてて、かっこいい。
 ハウルはお気楽に笑った。
「ふん、お前はわかっちゃいない。状況が変わったんだと気がついていないのか? お前も、真珠姫も」
 羨ましがられてるのにも気がつかないなんておめでたいな。そんなだったら、永久に、その手からとられた『モノ』は返ってこないぞ。
 カルシファーは低く唸った。心なしか、赤く燃えていたその姿が青みを帯びて見えた。
「……彼女に取られたつもりはないんだけど」
「だからおめでたいってんだ」
「うん。帰って来るのをただ待ってるつもりもないけど」
「当たり前だろ、それ」
「うん」
「じゃなきゃ、眠り姫までも取られちまうぞ」
「……眠らせてるのは僕だけど」
 それ、知られたらソフィーが怒るからばれないようにしろよ。
 カルシファーはそこだけ妙に真剣な声色で忠告した。
「彼女まで取られたら、本気で狂うかもね、僕」
 カルシファーはそんな物騒なハウルの言葉を聞かないふりをした。その様子がありありと想像できるので怖かったのかもしれない。黒い悪魔の降臨なんて案外あっけなくできる――その可能性に気がついている者なんて片手の数だけでも充分過ぎる数なのだ。

 雨は変わらず降り続き、そんなふたりの会話を隠しやるのであった。


 ざぁざぁと降り続くその雨は、雨足の強弱こそあれ、一向に止む気配がなかった。
 厚くもったりとその町の上空を覆い尽くした雨雲は黒々として光っている。風もまったくない状態で、それで雨雲がよそに移動しないのか、と町の住人達はため息をつきつつ考えていた。山が厚い霧に閉じ込められているのは見慣れた光景だけれども、雨に降りやられているのはあまりありがたくなかった。
 そんな雨の中、ハウルは屋根の上にいた。足場の悪い屋根の上、しかも風はないとは言え雨が降っていて屋根に登るには状況が悪いはずであったが、そんなことなど関係なしに、すっきりと背を伸ばしてそこに立っていた。全身を激しく雨粒に叩かれながらも、なんとも自然体だ。いつもと同じように、豪華な上着にそでを通さず肩にかけるだけの姿であったが、まったく危うげな感じは受けなかった。
 いつもと違うと言えば、その服がなんの色味もない黒で、いつもなら白いブラウスであるはずのそれも黒かった。髪も黒のままなので、光を吸い込んだような空にまぎれてしまいそうだ。胸元で冷たく輝く青いペンダントトップと耳飾り、そして青い目だけが鮮やかな色彩だ。けれども今ばかりは明るい色彩もくすんで見えた。
「カルシファー、わかるかい?」
 ハウルはまっすぐに前を見据えたまま、おのれの右肩に小鳥よろしくとどまっている星の子に語りかけた。
 右の耳飾りにしがみつくようにしてそこにいるカルシファーは、ちらちらと虹色の光を振りまいている。けれども、雨に降り込まれているからか、その光はどこか精彩を欠いていた。
「ハウルー、雨降ってるよー。冷たいよー」
 おいら消えちまうよー。
 カルシファーはハウルの黒髪で雨宿りのつもりなのか、どんどんともぐっていこうとする。心なしかその光は弱々しく震えて見えなくもない。
「大丈夫だろう、カル? 雨になんて濡れてない」
 左の指先でつんと突つかれた星の子は
「そうだけどよー。こんなのは気分の問題もあるだろー」
 その指先にしがみつくようにして肩へと戻ってきたが、どうにも気乗りがしなさそうであった。
「雨だけでもなんとかしておくれよぉ。おいら、やる気なくなっちまうぞ」
「そりゃぁ無理だね。レディの涙をとめられる男なんてそうそういない。僕だって泣く女性には弱いんだから」
「単に力負けしてるのをそんないい訳すんない! じゃぁ傘でもさしておくれよぅ。あの、辛気くさい黒い傘っ!」
「そうすると両手が使えなくて、風を捕まえられないだろう?」
「ちぇっちぇっ。だーれもおいらのお願いなんてひとっつも叶えちゃくれないのに、おいらときたらハウルの為にいつでも何度でもお願い聞いてやってるんだから、なんって寛大なんだろう!」
 なんとも力の抜ける軽口を叩きながら、ハウルは一歩を踏み出した。いつかの日のように、道なき道を次々と踏み出していく。けれども、あの時の風を渡るような、踊るような快活な足運びではなく、ただ黙々と空を歩いて行く。軽口ほどに表情は明るくなく、頬に微笑みひとつ浮かんではいなかった。
 止まない雨をうらんで空を見上げる者もいないので、雨雲に紛れた黒い鳥のような黒衣の魔法使いの姿を見つける者は誰もいなかった。
 
   * * *

 雨は町の上空だけでは留まらず、山間部まですっぽりと勢力圏内に取り込んでいた。山の頂きなど雨雲の向こう側に隠れてしまっている。
 この時間なら放牧されているはずの牛や羊もここ最近はずっと厩舎に押し込められっぱなしであるのだろう、放牧地に人の影も畜獣の影もなかった。
 そんな光景を眼下にしながら、ハウルとカルシファーは町から離れた山の上空を歩いていた。短い下草やまばらに生える木やごろりと転がった岩。か細い、道とも言えない道以外はなにもない山だ。
 このまま雨雲を抜けるのかと思えるほどに登った山の上に、ハウルはとうとう目的地を見つけた。山中にぽつんとある、小さな丸太小屋と、渋い赤で塗られた小さな木の扉。
 ハウルはふわりと扉の前に着地する。長雨に降り込まれてぐずぐずに崩れた大地とそれにへばりつくように生えている雑草の妙な感触が足裏に伝わるけれども、ハウルはそれを無視し、なんの躊躇いもなくその扉をあけた――――

「あ! ハウル、おかえりなさいっ!」

 途端、ハウルに攻撃するかのような唐突さでかけられたのは――そんな『普通の言葉』――であった。
 目の前には、マルクルよりもひとつふたつ年下の――女の子がいた。装飾よりも機動性を重視した、こざっぱりとしたドレス。洗いざらしのエプロン。小さな顔を縁取りながら肩の上でふわふわと揺れている茶色い巻き毛に、大きな目とそばかす。精一杯のお洒落のつもりであるのか、髪には青いリボンが結わえられていたがどこかひん曲がっていた。雨で外に出られないので読書でもしていたのか、やけに分厚く古臭い装丁の大きな本を両手で抱えていた。
 そんな子供が、ハウルを見つけて嬉しげにとことこと走ってきた。そしてハウルの前に到達すると、その長身を見上げて、腰に片手をあてがい、素っ頓狂な声をあげた。
「やだぁハウルっ! びしょびしょじゃない! やだぁほんとに今朝モップかけたとこなのよぉっ!」
 傘もささないで出かけたのね、サイテーっ! ほんとにもー困ったおとななんだからーっ。
 子供になぞ慣れていない者にとっては超音波攻撃のような甲高い声でなにやらなにやら全身濡れ鼠状態を非難され、ハウルは目を丸くするしかなかった。
「おばぁちゃん、おばぁちゃーん! ハウルったらねぇ、びしょびしょなの! お洗濯したヒンよりもびしょびしょなのーっ」
 甲高い声をあげたまま、ぱたぱたと軽い足音をたてて奥へと少女が向かっていくと、まるでその騒ぎを予想していたかのようにその先から老婆がタオルを持って出てきた。荒地のマダムだ。きっと、少女のひん曲がったリボンはマダムが結わえたのであろう。
 マダムが柔らかく微笑みながら手招くと、少女はぱたぱたと駆けて行き
「さぁハウルに渡しておくれ。風邪をひいちまう」
 タオルを受け取ると、再びぱたぱたと少女が駆けて来た。肩の上でふわふわと茶色い髪が跳ねた。
 その足元では、マダムと同じ部屋から駆け出してきたヒンが、細い目をさらに細めて、尻尾もこれ以上ないほどにぶんぶんと振り立ててじゃれついている。普段は表情も読めない不敵な顔が、今ばかりはでれでれとしていた。
「ほらっハウル、タオルよ。これ以上床を濡らしたら承知しないんだからね!」
 それとも頭拭いてあげなきゃ動けない?
 子供らしく小首を傾げて聞いてくる仕草もおしゃまな言葉も、本当の可愛らしい子供のそれで、ハウルは思わず「うん」と頷きかけてしまった。背の高い自分が年相応の身長である少女に頭を拭いてもらおうと思ったらどれだけ身を屈めないといけないか、そんなことにまで気が回らなかった。けれどもこの家の中には、そんな甘えが『当然』だと思わせる雰囲気があったのだ。なによりもその雰囲気は……ハウルから一番遠くて……一番憧れている香りに似ていた、頭の奥がぼぉっとなりそうであった。
 ハウルはタオルを受け取りがてら、家の中を見まわす。あたたかな熱を振りまく暖炉に、座り心地の良さそうなソファに、高価ではないけれど使い勝手の良さそうないくつかの家具に、家族全員が着席できる大きなテーブル。二階へと続く階段と、奥にふたつの扉。
 引っ越しをする前の我が家に酷似した作りに、ハウルは目を細めた。窓辺に飾られた暖色系のカーテンや、ソファに積み上げられたパッチワークのクッション、テーブルの中央に飾られた鉢植えの青い花が、あの頃の男所帯よりはまっとうな人間の家だと知らしめていた。けれども、外見は丸太作りの平屋であったことを思い出せば、この広さや構造はやはり『魔法の家』であるのだとはっきりと示していた。
 ハウルがぼんやりとタオルをひっかぶっている間にも、少女はくるくるとよく動いていた。暖炉に薪をくべ、湯を沸かし、お茶の準備をしている。
 かと思ったら階段上へと向けて
「おにいちゃーんっ! ハウル、帰って来たよーっ」
 大声で叫んでいた。
「ハウルさん、おかえりなさいっ」
 階段上から駆け下りてくる足音とともに降ってきたその聞き慣れた声に、ハウルは目を閉じた。
 次に目をあけた時に階段を駆け下りてそこに現れていたのは――やはり、寝癖で髪が逆立った、マルクルであった。
「あたし、お風呂いれてくるね」
 マルクルと入れ違いに、ドレスの裾をひるがえしながら階段を駆け登っていこうとする女の子を、マルクルは呼び止めた。
「エル、お風呂はぼくがいれてくるよ。ご飯の仕上げはエルじゃないとできないじゃないか」
 マルクルのその口調はどこかおにいちゃんぶっていて、ハウルはこんな時であるのに微笑ましい気持ちになった。戻って来たばかりの心臓にぽっと暖炉の熱がうつったような心地だ。
『エル』と呼ばれた娘とマルクルはもちろん似通ったところなどなかったが、本当の兄妹のような雰囲気を醸し出していて、ふたりとも『この家の子に見えるか』と誰に聞いても『見える』としか返答がないだろうほどに家の有るべき『役割』に当て嵌まって見えた。
「そうそう、エルちゃん。あたしゃぁ味おんちだからねぇ。仕上げはエルちゃんにしてもらわないと」
 野菜を切ったり煮込んだりはできるけど、味付けはさっぱりなんだから。
 どこかで聞いたような会話の次に、
「もう胡椒の味だけがきついスープなんて嫌だよ、ぼく」
 マルクルが付け加えると、胡椒の瓶を今まさに大鍋の上でひっくり返そうとしていた老婆が笑いながら調味料入れの籠の中にその瓶をもどした。
 和やかな、和やかな家族の光景。穏やかに笑いながら食事の準備をする祖母。妹の先を行き手伝いをする兄。家族の足元にじゃれつく犬。そしてハウルと、その濡れそぼった手を引っ張って暖炉の前に連れていこうとする小さな娘。途切れることのないお喋りと、相手を思いやる気持ちに溢れた空間。意思のないはずの暖炉の炎まで、特別に優しい熱を振りまいている気すらする。
 娘が老婆に呼ばれてぱたぱたと大鍋に寄り、たくさんの調味料から幾つかを選んで手際良く中身を振りかけると、途端にふわりと美味そうな香りが漂った。味見をして、隠し味にチーズを削って入れれば、羊肉の入ったシチューができあがる。こんな山の中の家族にとってはなんとも言えない『ご馳走』で、それは、きっと『ハウル』が帰って来た為の『ご馳走』なのだ。
 僕はさしずめ『父親』の役なのだろうか。
 ふと現実に立ち戻って、ハウルは少しばかり悲しくなった。手にしたタオルは晴れ間に太陽をたっぷりと浴びさせたのか、ふかふかとして柔らかい。なにからなにまで素朴な『家族』に相応しい手触りだ。手に触れるその優しい感触が優しければ優しいだけ悲しくなる。
 何の為にここにいるのかも忘れそうになっていた。与えられた『役割』を演じたくなってしまった。目の前の少女に親愛の情を持って頭を撫で、抱きしめて、頬にキスを贈りたくなるのだ。本当の娘にするように。手の中のタオルと同じ優しさで。
 同時に、『家族』を知らないハウルにとっては夢のようなこの空間に、迂闊にも取りこまれてしまった自分を自覚すると、心底恐ろしかった。泣きたい気持ちと良く似た、甘酸っぱい感覚が胸に広がるのはあまりにも心地が良くて、これが『偽りである』と知っているだけに、たまらなく恐ろしかった。
 まさにここはハウルの夢そのもの――否、夢にも見られない光景であった。何故なら、ハウルは『家族』を知らないから、彼の豊かな想像力を持ってしてもこんな光景を思い描くなんてできなかった。けれども『家族』とはこんな感じであるのだろうとだけはわかる。素朴で、あたたかい――これが『家族』なのだろう。その中に身を置いて、心が落ち着いてふわふわとあたたかみを宿すのだから。
 家の中には町の喧騒や余計な物音などはひとつもなく、聞こえるのはくつくつと煮えるシチューの音や、鍋の下でぱちぱちと弾ける火の音。楽しげな会話と笑い声以外は一切存在していなかった。窓の外で降り止まない雨の音は閉め出され、雨など降っていないかのような錯覚にすら陥る。
「ハウル、目の下に熊がいるわ。黒熊が二頭ね!」
 下から見上げてくる大きな眸が、いらぬものを見つけたらしい。
「きっと、ご用で疲れてる上に雨の中傘もささずに帰ってくるからよ。その熊さん、ちょっとやそっとじゃどこかに行ってくれないかもね」
 いや、そんなことが理由じゃない。これは何日も眠れなかったから……あぁ、でも、その理由は『あなた』なのだと言えば、目の前の少女はどんな表情をするのだろうか。
 ハウルはそっとタオルを目の下まで引き下げた。
「あらあら、お洒落好きなハウルにしては迂闊だったわねぇ。蒸しタオルでも作ってあげようかい?」
 血行を少しでも良くするからね、ちょっと待っておいで。
 老婆が奥の部屋へと歩いて行くのを見届けてから、ハウルは娘の前にひざまずいた。小さな娘と視線をあわせる為に、自然に。これから口にする言葉の内容とはうらはらに、穏やかな仕草で。
 これから口にする言葉は、できれば言いたくない……この、夢のように穏やかな『光景』の中では尚更に――けれども『言わなければいけない』こともあるのだと、『成さねばならない』こともあるのだと、もう知っているから。逃げていてはいけないのだと、知っているから。どんなにそれを言いたくなくとも、したくなくとも。
「エル……インマニエル。あなたの『魔法』は不完全だよ」
 なにも知らない娘に語りかけるかのような穏やかな口調に
「ハウル??」
 娘はなにを言われたのかわからないのか、きょとんとした顔になった。小首を傾げる仕草に、肩の上の巻き毛がふわふわと揺れた。暖炉の炎を受けて、その髪は燃える赤毛にも見えた。
 あの人は、赤毛に茶色の目の時もあったっけか。
 ハウルは心の片隅でそんなことを思い出していた。その地味な色彩を纏った姿は、三日後には銀髪に紫の眸をした美女に変わっていたけれど。
「それとも、真珠姫と呼ばれたい? この『中』では『インマニエル』が相応しいと思うけれど」
「しんじゅひめ?」
「自由に生きる為に幾つも名前を持つ。こんなところまで僕達は似ていたね。でも僕はずっとあなたを『真珠姫』と呼んでた。どんなに姿が変わっても、どんなに名前を変えても、僕と同じ、本質はやっぱり変わらない人だから」
 出会いは偶然だった。たしか、どこかの町の酒場だったろうか。それとも、小さな町の書店だったろうか。もう覚えてはいない。
 話し込んでみれば、細かなところが色々と似ていて興味深かった。髪や目の色を気まぐれで変えるのも同じなら、気まぐれで名乗る名前を変えるところまで同じだった。もっと珍しい共通点だってあった。
 これが他の人間ならきっとそれらのことに自分自身が興味を失ってそれ以降二度と『同じこと』をしなかったであろうが、目の前の女性が相手であったからなぜか気にもとめなかった。きっと彼女も同じような気持ちになったのだろう、と聞かなくてもなぜかわかった。
『彼女』は、どこか深い箇所が繋がっているのが妙に嬉しくて、ハウルの記憶の中に鮮やかに残る人。幾度も出会い、幾度も別れ、その度にまたの再会をひそかに楽しみにしていた相手。
 けれど、今度の『再会』は、そんな無邪気なものではなかった。今までに見た何人もの『彼女』のどの姿にも似ておらず、たった数日前に再会した時の姿よりもなお幼くなっていようとも、口調までもが変わっていても、同じ人だとわかる相手は、今は再会が『楽しみ』だけでは済まない相手になっていた。『対決』『敵』――いつの間にかそんな立場になっているのだと――どうにも信じ難かったけれども――ハウルの目の前に広がる光景は真実だ。
「真珠姫、『家族』の配置を持って成す『請願魔法』なのに、決定的な『役割』が抜けているよ。マダムはその役割にあてはまりそうだけれど、『子供達』を考えればそぐわない。マダムには別の『役割』が割り振られてしまっている。これでは未完成だ。それでなくても、古い古い魔法なのに」
「……まほう?」
「そう。僕から奪い取った『家族』を使って、なにを成就させようとしていたの?」
「けっていてきな『役割』って……なに?」
 どこまでもどこまでも無邪気な、なにも知らない『子供』の顔に、ハウルが『インマニエル』または『真珠姫』と呼ぶ娘は不安そうな色を乗せた。
 ハウルはひざまずいたまま、頭からかぶっていたタオルをさっと取り、一振りした。まるで、名残惜しいものを無理矢理振りきるかのような仕草であった。
「……母親、だよ」
 ハウルが振ったタオルは魔法を帯びていたのか、細かな光の粒になり、質素な『家』の光景に亀裂を入れ――別の光景を呼び寄せた。
 壁に、天井に、階段に、暖炉に、次々と細かな亀裂が入り、端からぽろぽろと崩れていく。飴色に光っていた家具も、暖色系のカーテンも、パズルをひっくり返してばらばらにしたかのように平面的な質感を伴って剥がれ落ちていく。あんなにも『家庭』を描き出していた家の中は、下手な絵画のように色褪せて崩れていく。
 ハウルと少女だけが壊れていくその世界からくっきりと浮かび上がり、まるでできの悪い貼り絵のようなアンバランスさを醸し出していた。
「……ははおや?」
 足元までも瓦解して消え去った黒い世界に立ち、娘はその単語がなにをあらわすのかもわからないような虚ろな声色で呟いた。ひざまずいたままの体勢でハウルが見上げる幼い顔は、年に似合わない無表情だった。
「ははおやって……なに?」
 痛ましい、痛ましいその空虚な顔を眺めているのが辛くて、ハウルはそっとまぶたを閉じるのであった。