イクセルイアン



【 3 】

「カル! カルシファー! 聞いておくれよ、すっごい素敵な人を見つけたんだ!」
 白い建物の白い扉を勢いよく開け放ち、その部屋に隠された存在の名前を声高に呼ばわったのは、白いローブを身に纏った少年だった。肩の上で切り揃えた黒髪が、楽しげに弾んではすとんと首元におさまる。
 その時の彼は、他の誰かにその名前を聞かれるかもしれないなんて危惧は頭からすっかりと抜け落ちていた。いつもなら慎重の上に慎重を重ねている事柄であるにもかかわらず。それほどに興奮していた。
 子供らしい柔らかな頬は薔薇色で、青い目はきらきらとしていた。三週間前より大部屋から狭いながらも『自分の城』である一人部屋に移った為の気安さもあったけれど。
 とにもかくにも彼は興奮したままで『隠された存在』がいるあたり、たったの三週間で築き上げられてしまったがらくたを大雑把に掘り返して居場所を作ると、その存在の前へとしゃがみ込んだ。
「カル、カルってば!」
 大部屋ではあまり目立たなかった――必死に隠していた、整理整頓を心がけていたと言うよりは、世話好きな同室の少年が貧乏くじを引きまくって片付けてくれていたのだが、少年はその事実についに気がつけはしなかった――悪癖が山となって『カルシファー』のまわりを囲んでいる中で、『カルシファー』は少年の方をちらと見たきりそっぽを向いている。なにやら不機嫌そうな青みを帯びた炎の色であったけれども、少年にとってはカルシファーの不機嫌よりも、自分の話を聞いてくれない方が問題であった。
「ちょっと聞いておくれよ!」
 どんなに名前を呼んでもこちらを見てくれない薄情な相棒に、少年の『癇癪を起こすスイッチ』が半分入りかけた頃、ようやく『カルシファー』が動いた。
 けれども、
『……そのすっごい素敵な人とやらは、あの子のことじゃぁないのかよ?』
 そんな言葉だったので、途端に少年はしょぼしょぼとうなだれてしまった。
 そんなの今言わなくてもいいだろうに。そんな『特別』な存在のことは。まだ出会えなくて、もう二度と出会えないのじゃないかとの恐れを抱いている相手のことなんて、今は思い出させて欲しくなかったのに。折角楽しい気分だったのに。
 少年は心の中でだけぶつぶつと言い募る。そんな些細な反論ででもその存在のことを軽々しく口にはしたくなかった。
『あの子』とは、少年と火の悪魔の数少ない共通話題のひとつで、だからと言って気軽に話題に出来る類いの共通点ではなかったのだ。できるなら触れないで欲しい、今はまだ――そう思える共通点だ。それはどちらがより強く望んでいるのかは両人とも測りかねていたけれども。
「あの人じゃぁないけどさぁ……それでも、すっごい素敵な人なんだよ。カルもきっと気に入ると思うのに」
 半オクターブばかり興奮が落ち着いた声で、それでも少年はその話から離れようとしない。どうにも本当に嬉しかったらしい。火の悪魔がしぶしぶと向きあうと、途端に少年は半オクターブ以上跳ねあがった。その手は、右側から崩れかかってきた魔道書の山やがらくたを抑えるのに必死であったけれど。がらくたと言ってもその大半は、たったひとりの身内であった叔父の荷物であり蔵書であり、ハウルにとっては宝物であったが、扱いはひどくぞんざいであった。
「学校の図書館でさ、『魔導師セグ・フェンのその生涯と位相魔法論』と『ユークリッド四門文書』を探してたら、その人がいてさ、本を僕にとってくれたんだっ」
 二冊とも配列棚からまったく違うところにあったのに、すぐに見つけてくれたんだ。下っ端司書も知らないところに隠れてた本なのにさ!
 少年は頬を真っ赤にして、壊れた蛇口のように言葉を垂れ流す。両手で支えていた魔道書とがらくたは、支えるのに飽きたらしく反対側にえいやっと押しやってしまって部屋中に散乱状態だったけれど、はっきりと言えば今更なんの変わりもないだろう。がらくたや魔法書の上に、がらくたや魔法書が上乗せされただけなのだから。
 少年の言葉を耳半分で聞いていたカルシファーは、少年が『探していた本』が所謂『禁書』扱いに近い魔法の本であると気がついて眉をひそめる。下っ端司書も名前を聞いたら眉をひそめただろう、とその光景を思い浮かべる。
 ――またそんな本を読んでいたのかこいつは。
 そう思わずにはいられないがけして口にはしない。何故なら、いつまでもこんな危険な国立魔法学院なんて場所にいられるわけがないからだ。自分と目の前の子供がここにいるのは、ひどく危険な賭けなのだから。
 けれども、司書さえも知らない本を見つけてくるその『すっごい素敵な人』に興味を惹かれたのも事実だ。
「どうして見つけられたんですか? って聞いたらさ、その本隠したの、その人なんだって!」
『……そりゃぁ見つけられるはずだ』
 自分が隠した本を自分で探してきただけであるのに、なにをそんなにこの子供は凄いと喚いているのだろう。
 きっと
『それ、女なんだろ』
 おのれの部屋の中はひっちゃかめっちゃかを通り越した『ゴミ溜め』または『魔界の領域』だが、衣服や容姿や『綺麗なもの』には異常な程に執着するこの子供の性格を考えると、その相手とは『女』であるのだろう。しかも、今までの付き合いから推測すれば、若い、美人な女。
「女の人ってのはあたり。でも『若い』かどうかは諸手上げて『若い』とは言えないかも。びみょー」
『はぁ?』
「僕のお母さんって紹介するのが普通くらいかな。でも美人。とっても美人だった。明るい金色の髪と青紫の目をしてて、凄く若く見えた。自分が学生の時にこの本を隠したんだって。んで、この本を探す学生が出てきたら連絡が来るように悪戯魔法をかけておいたんだってさ!」
 あ、カルシファー、女性の年を話題にするなんて男の風上にもおけないんだぞ、叔父さんがそう言ってた!
 今更のようにそんな一般常識を『一般外生物』に押し付け、少年はぶぅと頬を膨らませた。この表情の豊かさの本質である『心』が彼にないなんて、いつも信じられない火の悪魔であった。
「あと四冊本を隠してるらしいから、あの人が隠した本を全部僕が探してやるつもりなんだ。そうしたらまた会えるだろう?」
『……』
 そんな、近隣諸国随一の魔道書蔵書数を誇る大図書館中の四冊、なんてあてずっぽう極まりない探し物をどうやってやると言うのだ。けれどもどうせそれって全部『禁書もどき』なんだろう? そんなのを堂々と探そうと――必要としているヤツなんてお前くらいしかいないか。なら探し物の確立はもう少し下がるのか。
 カルシファーはそんな言葉を飲みこんで
『まぁせいぜいがんばれや』
 心のこもらない応援を送るに留めるのであった。元から、手伝うつもりなんてものもないのだから。

   * * *

「あれ? またあんたなの? まったくもう、ここの学生ときたら、探求心ってものがないのかしらねぇ?」
「そんなことを言ってはいけないよ、真珠姫。それだけここが仮初でも表面だけでも『平和』だってことなんだから。飼い慣らされた従順な子供達にそんなのを期待する方が酷だよ」
 あたたかな光が燦燦と降り注ぐその図書館で、一年ぶりに会ったのに、その上これが三度目の出会いであるにもかかわらず、まるで毎日顔をあわせているかのような気安さで会話がはじまってしまう。子供の一年と言えば、身長も顔立ちも大きく変わるのに、相手はなんの違和感も抱かないらしい。彼が『彼』である事実はひとめ見ればすぐにわかるとでも言わんばかりの対応だ。
 その人物も、背中の中ほどまでの黒髪はくるくるとした綺麗な巻き毛に神秘的な紫色の瞳、話す口調さえもがらりと変わって陽気であった。以前の面影など綺麗に払拭する変わり具合であるのに、ハウルもなんの不思議も感じなかったので、感性が似通っているのかもしれない。
 ただ以前と同じなのは、彼女の首元を飾る海の珠。それを指してハウルは彼女を『真珠姫』と呼ぶことにしたのだ。
「あら、その『子供』のくくりに自分は入っていないような口ぶりねぇ?」
「少なくとも『飼い慣らされた従順な』子供ではないと自覚してるけど?」
 違いない。
 と、高いガラス張りの窓をした広大な学院図書館の片隅にある、休憩用の長椅子に並んで座った相手が言葉もなく頷いた。
「ハウルの場合はねぇ、羊の皮を被った臆病者のはぐれライオンだから」
 うわ、それはひどい。ハウルは屈託なく笑った。
「皮を被ったまま羊のリーダーくらいは目指す気概があればいいんだけどねぇ。とことんとはぐれ者気質だから」
 こんな本を探しているくらいだし、羊のフリをしていてもはぐれものははぐれもの。
 そう続けた相手の手にある本は、言わずと知れた『禁書もどき』であった。まっとうな神経をした子供であれば、すこしでもその方面の知識がある子供なら、近付きたくないような類いの本だ。教諭の許可がなければ近付けもしない『禁書』の方が、管理されているだけ安全かもしれない。
 ある意味、そんな本が一般学生の手に届く棚に存在していることこそが問題であろうが、その図書館の歴代司書長はかなり無頓着なのか豪胆なのか茶目っ気に過ぎるのかのどれかなのだろう。
 たったの二回しか会ったことがないにも関わらず、なんだかよくよく性格を理解されている気がしないでもなかったが、ハウルは不愉快ではなかった。複雑でいて捻くれていて、けれども結構単純な自分の性格を相手に読まれているのと同じくらい、相手のことも理解している気がしたからだ。
 鏡に向かって怒るヤツはバカだ。鏡はおのれを映すものでしかなく、せいぜいが身支度やおのれの顔や姿をまじまじと覗き込むしか価値はありはしないのだから。『真珠姫』とはおのれの鏡に等しい存在であるのだと、ハウルは何故か感じていた。  
 黒髪にあわせたのか、本日はたっぷりと布を使った光沢のある黒いドレスをまとった真珠姫は、『禁書もどき』を片手に椅子から立ちあがり、本の森の中で軽やかにステップを踏んでくるりとまわって見せた。ドレスの裾や黒髪がふわりと広がり、なんとも楽しげだ。紫色に染まった目も、魅惑的な三日月の形。
「でも、まぁ、あのサリマンの弟子のあんたがこーんなはぐれものだなんて、考えると面白いけれど」
 あの生真面目な女の弟子の中にこーんなのが紛れ込んでるなんて考えたら、すごーく楽しいじゃない?
 真珠姫はここが『静謐』を重んじる書庫であることも頭からすっ飛ばし、楽しげに笑った。驚いたことに、真珠姫がどれだけ笑い声を立てようと、学生相手には気難しい下っ端司書達がすっ飛んで来て注意をしたりはしなかった。それどころか、いつでもうろうろと動きまわっている下っ端司書達は、ここを避けてでもいるのか、ちらとも姿を見せない。まるで、真珠姫に近付けないのか――または、真珠姫の存在を感知していないのか。同学年の学生達と書庫に来た時は年相応を装って騒いでは注意を受けているハウルとしては、とても不思議な現象ではあった。
 上部は全面ガラス張りのこの上もなく贅沢なその図書館の空間は、あたたかな光と熱を惜しげもなく人々に振りまいているが、揃えられた調度や日焼けなどは天敵以外のなにものでもない本に対しては光や熱の干渉を遮る魔法に満ちていた。その、水が弾けるような感触にも似た干渉の波動を肌でちりちりと感じながら耳にする真珠姫の言葉はいつでも面白い。
「でも、サリマンだって結構抜けてるから、それからすればこんなのでも似合いかもしれないわね」
『こんなの』扱いされたハウルは、話題に出てきた自分の師匠の名前に首を傾げた。
「抜けてる? あの、サリマン先生が?!」
 柔和で温厚でありながら、頑固なほどに生真面目で曲がったことが嫌いで、裏も表も読めなくて奥が深い。そして実力のある、思慮深い――容赦のない冷酷な魔女。それらが弟子の目としてではなくハウル個人としてのサリマン像だ。柔らかいのに硬い、明るいのに暗い、あたたかいのに冷たい、優しいのに厳しい。相反する両極端の価値を等しく使い分けている、怖い人。
 その師匠を『抜けている』呼ばわりしている目の前の若い女性とあの先生に接点などあるのだろうか?
「真珠姫もサリマン先生の弟子だったとか?」
 弟子同士の交流会だったの、これは?
 ハウルは恐る恐ると怖い想像を口にする。いまだに自分があのサリマンの弟子なのが信じられないように、真珠姫がサリマンの弟子であるのも信じられない。
「いいえぇ。でも、彼女のいくつか、面白いことは知っている間柄、なのは確かねぇ。彼女が周囲に絶対知られたくないような少女時代の汚点も知ってるし」
「……汚点?」
 真珠姫の発言はますますサリマン像から離れていくばかりだ。あのサリマンを掴まえて『汚点』があるなど、この国で何人が口にできるだろう。
「んー、教えてあげてもいいけどぉ、こんなのは本人がいないところで話するのって根拠の無い噂話や悪口みたいでイヤねぇ。直接本人に聞いてみたら? 絶対面白いわよ、顔色ひとつ変えずに猛烈に怒るから」
 猛烈に怒ったついでに殺傷魔法繰り出されて一ヶ月程入院なんて結果になりそうだから、あたしは係わり合いになりたくないけどねぇ?
 なんて、豊かなハウルの想像力の範疇を遥かに超えた言葉ばかりを連ねてくる。
「……やめとく。僕も命は惜しいし、まだ追い出されるわけにはいかないから」
 微妙な間が落ちたハウルの言葉に、真珠姫も寸の間口をつぐみ、神妙な顔つきでハウルを見下ろした。鏡を見るにしては、鏡に映った別のものを目を凝らして見ているような表情であった。
 か弱い美少年ひとりが無謀にも脱走して生きていけるほど世間ってば甘くないでしょ?
 そんな軽口ひとつ口にするのも憚られる、どこか心地よい静謐な沈黙がとつと降りる。
「ふーん。そうね。中身が『羊の皮を被った臆病なライオン』でも、身の内に飼っているのはもっと別のモノかもしれないものね」
 正体がばれるのも危ないし……生きていく為の『知識』を得るならここはうってつけの場所だしね。
 どこか感情の色を無くした真珠姫の言葉に、光が降り注ぐあたたかい図書館にいるにもかかわらずハウルは身が凍えるほどの冷気に抱きすくめられ、真珠姫の顔を見上げるしかできなかった。
 出会いは作為的なものはあっても、相手は特定されない、まったくの偶然のもの。ただ真珠姫が図書館にばらまいた六冊の本を手に取った者とおしゃべりをするだけの魔法。そこにはなんの方向性もありはしない。ただ『こんな禁書もどきを必要とした馬鹿者の顔が見たい』――そんな動機からの悪戯と、それにわざと引っ掛かった馬鹿者がいただけで、願っても二度と出会えないふたりでもおかしくなかったのに。
 顔をあわせたのはこれで三度目。三度とも、髪の色も目の色も、服の好みも話し口調も、顔立ちさえも違って見える女性。今日は、紫の瞳に黒の巻き毛のどこかエキゾチックな色合わせだ。闇の路地裏で行き会った謎めいた黒猫にも似た存在。
 そんな彼女に――すべてを見透かされている??
「あたしとあんたは良く似てる。そんなところまで」
 空に雲がかかったのか、そんな言葉を呟いた真珠姫の姿は、一瞬薄い闇に飲まれた。その闇は彼女を包み終えるとハウルの上に落ち、やがてまた光と熱が戻ってきた。
 その時の、まだ人間としても魔法使いとしても未熟な子供のハウルには、ぽつと呟いた彼女の言葉の真意に気がつくことは――できなかった。

   * * *

 その黒い空間の中で唯一の光源は、ハウルの肩を宿り木にしているカルシファーの瞬きだけであった。
 ちりちりと七色の光を振りまくその姿は、ハウルの黒髪の中でまさしく天上の星。その照り返しを受け、ハウルの髪も星をいだく夜空色。
 山中の小屋でも、小屋の大きさを無視した家の中でもない平坦な闇の中で、ただ存在しているのはハウルと少女だけであった。そのふたりを照らすには、カルシファーの小さな燭だけでは足りないようでいて、どこかふたりには似つかわしかった。
 小さく、明るく、透明な七色に煌く星にほんのりと照らされて対峙するふたりは、そこに第三者が存在していれば、どこまでも幼く無防備に見えただろう。
「真珠姫」
 不可思議なものを見るような視線でカルシファーの光を映している真珠姫の目の色は、素朴な茶色だった。思えば、こんな、茶色の髪に茶色の瞳なんて地味な色あわせを彼女がしていたことはあっただろうか。茶色の髪をしていた時も確かにあったけれど、それは新しい目の色を際立たせる為に髪の色を抑えていただけであって、その地味さにもすぐに飽きてしまったと笑って言っていなかっただろうか。
 ――目の前の姿が、彼女が本来纏う色なのだ。
 ハウルは唐突に気がついた。おのれが今の、黒い髪に青い目のままで手を加えて染めかえたりしていないように、これが彼女の本当の色なのだ。
 自分には『その色だって素敵よ』と言ってくれた存在があったけれど……彼女にはそんな存在があったのだろうか――あらわれたのだろうか。少女に問うてみたいけれど、呆然とした表情の彼女にその問いを投げつけるのは酷なのではないだろうか、そう逡巡させるものが彼女の中に確かにあった。
 そんな存在があったのなら……『こんなことはしない』だろうから。ハウルはすでに答えを知っていたのかもしれない。
「ねぇ、ハウル。あたしは間違ってる?」
 大きな両目を見開いたまま、呆然とした口調で真珠姫が口にした言葉は、そんな問いであった。ゆらりとおのれの両手を掲げ、ぼんやりと両の手の平に視線を落とした。長い睫毛で瞬きする仕草も、どこか緩慢で投げやりであった。
 なんて頼りなげな仕草なのだろう。あの、姿形や口調や仕草まで次々と変えてはハウルの目の前にあらわれた真珠姫は、胸元を飾る真珠の連なりが変わらぬように、いつでもその中心部にはしっかりとした意思を持っていた。なよやかな淑女の姿をしていても、顔を毅然とあげていた。ぴんと伸ばした背筋がとても似合う人だった。なによりも、生きていることが楽しそうであった。こんなにもぼんやりとした表情は似合わない人であった。『心』を持っていない我が身を振り返ると、時折彼女が眩しく感じられるほどに、生き生きとした人であったのに。
「間違っていると言って欲しかったの?」
 答えはすでに持っているのでしょう?
 自分の行ないが『間違っている』と知っているのでしょう?
 どうして甘えられなかったの? 甘えられる人はいなかったの?
 それとも――もう甘えることすら――こんな『命がけ』なの? 強くてキラキラしていて見ていて心が踊る、そんな人の『弱み』や『痛み』の吐露は、こんな『捨て身』しかなかったの??
「だから……僕、だったの?」
 鏡に映したかのような、自分自身にも似た、僕にしか――甘えられなかったの?
 それならば――なんて可愛そうなのだろう――そして愛おしいのだろう。
 鏡のような彼女に対してそう思えるのなら――少しは自分を好きになれているのだろうか。彼女を可愛そうと思い愛おしいと思えるように、自分自身の弱さを『可愛そう』と思い『愛おしい』と思えるようになったのだろうか。ただそこから逃げるばかりで、強がってばかりではなく、おのれも大事だと思えるようになったのだろうか。少しは成長したのだろうか。ほんの少しでも――変われているのだろうか。なにもかも諦めそうになっていた子供時代から。
「あたしが欲しかったのは、こんな暗闇じゃないわ。暗闇はもうたくさんよ。たくさん持ってたわ、もうこれ以上はいらないわ」
 そうぼんやりと呟く少女は、山小屋の扉を開けた時にハウルを出迎えた彼女よりも幼く見えた。雨の降る路地裏で何年かぶりの再会をした時から比べると、あれからほんの数日しか経っていないのに、もうまったく別の子供のように見えた。否、実際に幼くなっていた。
 子供の成長は半年ずれれば目を見張るものがある。『なんて大きくなったのだろう』と驚く。なら、その逆もあるだろう。半年時を遡れば、その幼さが嫌でも目につく。口元に宿っていた利発さは影を薄め、目はさらに大きくなり、髪の色さえも微妙に違って見える。
 けれども彼女のその変化はただたんに『時を遡った』にしては――肉体的に若返ったにしては――無邪気さや子供らしさまでも薄くなり、どこか無表情な、固いものを奥にひそませはじめているのに、ハウルは気がつかないわけにはいかなかった。
 どこかみすぼらしさと、哀れさを秘めた子供がそこにいた。子供らしい柔らかな頬はほんのりと削げていた。時が遡っていると言うのなら、それは幼い時に満足な食事を与えられていなかった名残り。このまま時が遡れば、無表情も固さもみすぼらしさも哀れさも――頬のこけも一層ひどくなるのではないだろうか。
 子供はふくふくとした、悩みも知らぬ無垢な生物。それは『親』や『保護者』の『庇護』や『愛情』や『配慮』があったればこそ。そしてそれは無条件にすべての子供の上にあるものではないと――こんな時代だから――否、どんな時代であってもそれは『幻想』だ。なにものにも『絶対』はありえない。それは様々な要因ひとつで子供の手からも簡単に取り上げられる『幻想』――それらがなければ子供の一生に拭えぬ影を落とすのに。『庇護』や『愛情』や『配慮』がなければ、子供はひとりでは生きていけも、それらを改善する力も持たない存在であるのに。
 そんな過去に逆戻りするのか。それはなんて辛い罰なのだろう。誰にとっても恐れ慄く呪いだろう。この魔女にとっても。
「僕達は業が深い」
 幼子が見下ろしているおのれの手は、子供らしさのない、骨ばった手になっていく。そばかすの浮いていた白い肌は、血色の悪い黒い肌になっていく。肩の上で揺れていた茶色の髪は、ばさばさとした細いものに。
 時はとどまることを知らず、ハウルの目の前で加速さえつけて遡っていく。『時』は『未来』に向けて流れ続けるのが理であるが、真珠姫のそれは逆へと流れ続けた。
 はじめに出会った時は、ハウルの母親と言ってもおかしくない年だった。次に会った時にどこか印象が違って見えたのは、髪の色や髪型がまったく違っていたからだと思っていた。三度目の出会いは対峙した存在そのものがまた真反対の雰囲気をした姿形になっていたしはきはきとした口調にまたもや気のせいかと感じられた。姿形がひとところにとどまらぬことなど、ハウルの感性からすれば気にも止まらないことがらだったので、どうでもよかったのだ。けれども、四度目、五度目、再会場所が図書館から街角に移り変わって鮮やかに浮かび上がる事実に認めざるを得ない。彼女は徐々に若返っていた。
 大人の女性から若い娘に。逆立ちしても酒場などには近寄れない、書店で分厚い本を繰る姿がどこか大人びていると感じさせる少女に。ハウルが学校を脱走するように卒業した年頃に。どこかで偶然出会うたびごとに、彼女は少しずつ若くなっていた。
 気のせいなんかではない、ハウルはちゃんと気がついていた。けれども、それがなんなのだろう? 彼女はなにも変わりはしない。だから指摘もしなかったし話題にもあげなかった。彼女の胸元を飾る真珠が変わらぬように、彼女自身は微塵も変質したりはしていないのだから。姿形が若返っているのがなになのだ、彼女がそれを楽しんでいるのだから問題なんてないと――思っていた。
 この、降り続く雨の中で出会うまでは。
 この町を不自然に包み込む雨の原因に気がつくまでは。
「身の内におのれ以外の――人外の存在を飼っている。僕達はそんな珍しいところまで似通ってた」
 ――自然界の子供を隠し持っている。
 彼女と元素の子供の出会いも偶然だったのだろう、ハウルと星の子の出会いが偶然だったように。そんなところまで似ているのだろう、ハウルと真珠姫は。けして、どちらかが掴まえたくて、掴まえられたくて起きた出会いではなかったのだろう。
 指摘したのは真珠姫が先であった。あれからずっと考えていた。そして導き出されたのは、そんな答え。ハウルにとってはもう過去の出来事であったけれども、彼女にとっては現在もそうなのだろう。それくらいの差異しかない。
「真珠姫の精霊は――水の子供」

 ――泣いているのはどちらなのだろう。

   * * *

 血管が太く浮いた老婆の手は、若い頃の美しさを残す細くて華奢なもの。薄くシミの浮いた手は、病的なまでに白かった。
 その手の中でほのかに光を放っていたのは、小さな小さな命。この世界を満たしている元素の子供。老婆の細く小さな体を包み込む雨の、その子供。それが、弱く柔らかく老婆の身を叩く雨と同じように、強弱をつけて瞬いていた。美しい水の煌きは、掻き消える命の一瞬の輝き。
 老婆はその美しい光に目を細めた。手の中の存在がなにであるのかにはとうに気がついていた。これでも、この身を子供の頃に拾ってくれた年老いた魔法使い夫婦が入れてくれた魔法の学び舎でそこそこの学をおさめ、小さな村でほそぼそと魔法使いとして暮らしていたのだから。
 頼まれる魔法のほとんどが『家畜の乳がよくでるように』『泉の水が枯れないように』とのまじないや、『祭の日の天気を占う』とか、大掛かりなものでも山で迷子になった子供や家畜の居場所を占ったり、捜索隊の加護を祈るお守りを作るくらいだ。そんな身でもわかる、手の中の存在。
「あぁ。あんたはもう死ぬの?」
 呪を紡ぐには弱々しい声が、枯れた喉からひゅうひゅうと問いかけた。色味のない、黒衣のそでから伸びる手だけが明るい色彩だ。その手を照らしている光は、徐々に弱まっていった。老婆の力ない声にも掻き消えてしまいそうだ。
「あたしとおなじ。おんなじ」
 あたしももうじき死ぬわ。もう体が動かないもの。これが最後の散歩、外の世界。そんな最後の散歩で、雨の中の散歩で、命を削りながらの散歩で、あんたみたいな綺麗な存在に出会えるなんて――奇跡だわ。
 雨に濡れた草木が伸びやかに葉を広げ、遥か彼方の稜線に雲の隙間から光が差し込む、そんな美しい景色の中でこんな綺麗な存在と出会えるなんて――奇跡だわ。
「偶然って言葉、大好きだよ。作為的じゃなくて、運命って気がしないかい?」
 皺が覆ったような口元で小さく笑った老婆に向けて、水の子はちかりと瞬いた。
 なにやら、小さな小さな、屋根から落ちる水滴にも似た声が聞こえた気がして、老婆は水の子をそっと耳に近づけた。
 そして、その子供の訴えを理解した時、老婆の笑みはさらに深くなった。
「こんなお婆さんと心中しようってのかい? もって三日ってところなのに」
 ―― アタシにとってはあと数瞬だ ――。
 そんな小さな返答に、老婆は小さく微笑むと、迷うことなく、その子供を飲み込んだ――。
 老婆の黒衣に隠された胸元には、年にも格好にも似合わぬ真珠の連なり。その連なりは降り続く雨の雫を集めたかのように柔らかな光を放って、水の子を祝福した。


 その時には、まだ、老婆も水の子も、老婆の『時』が遡ることになろうとは思いも寄らなかった。三日程度で来るだろうと冷静に予測していたお迎えはどこを寄り道しているのだろうと老婆は不審に思いながら日々を過ごし、三日以上も外の世界で生き続けられた水の子は単純に老婆との共生生活を楽しんでいた。
 老婆が長年苦労した節々の痛みが和らいでいると気がついて肉体が徐々に若返っているのだと理解した時も、ただ無邪気にふたりは喜んだ。
 できなかったことが今ならできるかもしれない。そう老婆が考えたのは、随分と時が経ってからだった。もう老婆は老婆と言える外見ではないほど若返っていたが、迷信深く素朴な人々は、彼女の若返りを『彼女は魔女だから』そんなこともできるのだろう、と疑いもしなかった。
 彼女は若返り、歩きまわるのになんの苦労もないほどにしっかりとしてきた自分の足を見下ろし、ついで、細かな作業もできそうな手を見て決心した。
 あたしの今までは堅実ではあったけれど、ただそれだけだ。死を望まれて死んだも同然に捨てられて、それでも拾われて紡ぎ続けられた命。それを堅実に堅実に紡ぎ、もうそれも終わりまで近付いていたのだ。なら、この、新しい『生』はあたしのものでもいいじゃないか? 優しい魔法使い夫婦が望んだ堅実な『生』はまっとうしたのだから、今度はあたしの望みを叶えてもいいのでは――?? この素朴ではあっても変わり映えのしない閉塞的な村から抜け出して、他の場所で違う生き方をしてもいいのでは――??
 学生時代に過ごした都の煌びやかさが忘れられないわけじゃない。望みはそんなことじゃない。ただ、もっと自由に生きたい。名前さえもつけられなかった存在そのもののように、なにものにもとらわれずに、自由に。姿形さえも変えて、名前さえも変えて。気ままに。自由に。楽しく――今までの分を取り返すかのように。
 復讐すらも胸の内に抑え込んで今まで生きてきて、その復讐の相手もとうにこの世にはいないのだから、それくらいは許されるのではない?? あたしは『あたしの為』に生きてもいいのではない??
 彼女は小さな村を飛び出した。両手には魔法の技を、身の内には水の子を宿して、わずかな荷物だけで村を後にした。どこかの昔語りよろしく、風に乗る魔法をかけた日傘を広げ、一歩一歩すべるように空を歩いて町に出た。村でなら死ぬまで使わないような魔法を、彼女は楽しげに繰り出した。若返ったのと同じ理由で、身の内には魔法の力が溢れていた。こんな小さな魔法ひとつ労せず行使できた。なんとも楽しかった。老婆には縁遠くなったうきうきとした気持ちに全身を包まれた。
 気ままに町から町を渡り歩いた。どんどんと若返るおのれの姿に、ならいっそ髪の色や目の色まで変えてしまえ、と魔法を使ってみると、それはとても楽しかった。どこに行っても新しい自分になれた。髪型を変えただけで少しばかり違う『自分』になれるのが、髪の色も目の色も、そして年齢さえ変わるおのれにとっては、もう誰が見ても昨日の自分と今日の自分が同じ人間であったなどとわかるはずがないではないか。そのかわりようも無邪気に楽しめた。軽やかに町々を行き交う自由人を気取れた。
 勝手知ったる王都にも足を向けてみた。元卒業生であれば知っている秘密の方法で忍び込み、図書館や庭の彫像にたくさんの悪戯を仕掛けてもみた。『偶然』の言葉が大好きだから、偶然が紡ぎ出す出会いを求めてみた。結果、図書館の悪戯に面白い子供が引っ掛かって、暫く退屈はしなかった。
 その子供が『偶然』にも自分と同じように元素の子供と――自分とは違う子供ではあるようであったが――契約を結んでいるのではないかと気がつくと、『偶然』の上に『偶然』を上乗せしたこの悪戯を思いついた自分に自分で拍手をした。まぁ、悪戯を仕掛けた本のことごとくが、元素の子供達の記述がなにかしらある本ばかりであったので、もしかしたらとの予感がなかったわけではなかったけれど。まさかこんな子供の頃から悪魔を身の内に飼うような者が――この魔法学院で普通に生活を送れるとも思ってもいなかったので驚いたのも事実だ。元素の子供達と――悪魔の種を持った子供達と契約を交わすなど、魔法使いの道に外れているのだから、ばれればただでは済まないだろうに。
 自分と同じように『肉体が若返る』のかと少しばかり心配していたが、はじめて出会った時は子供特有の高い声だったのがいつの間にか声替わりもし、急に背も伸びて、あきらかに『成長』しているのだとわかってほっとしたのも事実だ。その時は、自分自身の感情であったのに、成長する彼の姿に何故ほっとしたのかまではわからなかったけれど、その『心の動き』に気がついたのは――それから数年後のことだった。

「あたし、どこまで若返るのかしら」

 老婆から中年の女へ、若い娘へ、そして子供へと遡る肉体の、その行き付く先に気がついて、はじめて彼女はことの重大さに気がついた。『肉体が若返る』――それはすなわち、この世に生まれる前まで遡って――消えてしまうこと。
 それ以前に、彼女にとっては忌まわしき、幼児時代まで遡ることであった。彼女は『生まれる前まで時が遡る』よりも、そのことこそを恐れた。嫌悪した。胸の奥に無理矢理押しやっていた気持ちまで時を遡って甦りそうだった。もうその気持ちをぶつける相手はこの世界のどこにもいないのに。
「あたし」
 身の内の子供が泣いている。
「あたし――」
 本当にしたいのは、こんなことじゃないのに。
「あたし――……」
 どうしてこんなことをしてるのだろう。こんな、なんの意味もないことを。無意味な――ことを。
 水の子の涙はしとしとと雨を降らせた。おのれの我侭は誰を幸せにしたの? 誰を不幸にしたの――?
 雨は降り続く。かつて老婆であった少女の絶望と孤独と、かつて死に絶えるはずであった水の子供の涙と嘆きを依り集めて。

   * * *

「だから僕の『家族』を連れていってしまったの? 復讐の相手を蘇えらせる請願でもするつもりだったの?」
 たしかにこれだけの人数ならそれも可能かもしれない。捧げられるものが知識を司る『老婆』に未来の可能性を秘めた『子供』に『犬』に、そして彼女の予定では、魔法使いである『ハウル』も――若く清い身である『ソフィー』すらもその中に入っていたのだから、古い古い魔法なら、古い古い『神』への請願ならそれも可能かもしれない。『母親』の単語さえ思い出せない今の彼女なら、それを望んでもおかしくないかもしれない。
 そうは思いながらも、彼女がそんなことを望んでいるとは思い難かった。 どんなに気が狂ったのだとしても、そんな『無意味』をする人だとは考えられなかった。
 それとも、そんな無意味で馬鹿なことをせずにはいられない程の恐怖であるのだろうか、彼女の現状は。『恐怖』は人それぞれであるから、ハウルには彼女の心境を推し量れはしなかった。
 ハウルとカルシファー、そしてこの黒い世界の創造主である真珠姫と、共存関係にある水の子だけが存在する世界はガラスよりも脆い世界だ。その世界は主の動揺を受け、彼女の内面を強く映し出し、ハウルにこの『事件』の事情をつぶさに知らせてしまった。
 もしかしたらハウルの中に流れこむようにして知らされた『事情』は、水の子の願いによるものであったかもしれないが、ハウルはそんなことはどうでもよかった。ハウルにとって大事なのは、自分と、家族と――
「真珠姫」
 ほんの幾つかの『例外』以外はなにものにもとらわれないように生きてきたハウルの、数少ない『例外』である真珠姫。
 どこまでも似通った運命の双子かとも思える程の相手。
 カルシファーとソフィーの間に『名付けの絆』があるように、仮初めの名をつけてそれを呼び続けたからか、細くともしっかりと結ばれた、ハウルと真珠姫の間にもある『名付けの絆』
 そんな相手が『大事』ではないのかと問われれば、大事ではないと答えるのにはどれだけの労力がいるだろう。ハウルはそんな労力を払うつもりはなかった。真珠姫は大事な大事な人だった。懐かしい思い出にきらりと光る、夏草のひと雫のような。
「間違っていると言って欲しかった?」
 だからもう一度その言葉を口にする、答えを求めて。
 真珠姫は弱々しく頭を振った。短い髪がばさばさと音を立てて揺れた。こけた頬を力なく撫でている髪の先はくすんだ茶色。
「間違ってる。間違っているわ、ハウル。あたしはあたし自身が欲しかったものがなにかもわかってなかったんだわ。なにをしていたのかしら、あたし。もうわからないのよ」
 肉体はどんどんと若返り、はっきりとした栄養失調による発育不順が表に出てきていた。美しかった女の面影も、可愛らしかった少女の面影もこそげ落ちて、そこにはみすぼらしい幼児がひとり立っているばかりであった。


 今まで沈黙を守り、ハウルの耳飾りにしがみつくようにしていた星の子は目を細めた。ほんの少し前の、眠るソフィーだけがあたたかく息づくその家でのハウルとの会話が思い出される。
『真珠姫が美人なのは外見? 中身?』――そのハウルの問いに『中身』と答えたのは、目の前の女の内に火の悪魔とは対極にいる、ある意味憧れを抱くような『水の子』の存在を感知していた、それが唯一の判断基準ではなかったのだと、ハウルも真珠姫も知りはしないだろう。
 状況は変わったのだと、うらやましがられている立場を自覚しろとの忠告はハウルにどう伝わったのだろう。それをはっきりと知る為にここまで付いて来た。今の真珠姫の立場は、少し間違えばハウルとおのれであったのだと、カルシファーは十分にわかっていた。人と元素の子供の共生なんて、なにが起こるかわからない、不安定な砂の城を持ち上げるような行いだ。一瞬でも形を留めていられれば奇跡な――『不可能』よりもほんの少しだけ確かな、共生。
 ハウルとおのれの関係も、もうぎりぎりの境界線だったのだ。あの戦争があって、おのれの力を引き出し黒い鳥へと姿を変えてハウルが戦場を飛びまわる、そんな無茶がなくとも、もう限界が近かったのだ。喰いつ喰われつして薄っぺらくなっていく互いの精神に、いつ『崩壊』が訪れるのか、それは今日か、明日か、明後日か、とびくびくしていた日々の連なりは、思い出すだけでも凍える思いだ。老婆姿のソフィーに『おいら達、もう時間がないよ』と告げたあの言葉は、軽い気持ちではなく切迫したものであったのだ。
 うらやましがられている立場を自覚しろ、ハウル。『それ』は、他人が『うらやましがる』ものなんだぞ。それを手放す気などお前になくても、奪われる可能性はここにこうしてある。お前が子供の頃から持っていなかったものを――今手にいれたと思っていたものをしっかりと自覚しろ。
 それが、この女も欲していたモノなのだと――思い知れ。


「ひとりは、嫌よ」
 絶望を覗きこんだかのように暗く淀んでいた幼児の目に、かすかな光が宿った気がハウルにはした。
「疎まれて、捨てられて、優しい手に拾われたかと思ったら、その手もすぐにいなくなってしまった。あたしはひとりだったわ。ひとりで生きてきたわ。どうしてそうしてしまったのかしら。ひとりは嫌だったのに」
 どうして『家族』を求めなかったのかしら。もしくは、それに匹敵した関係を。唯一無二の恋人を作っても良い。自分と同じ境遇の子供達を集めて仮初めの母親になっても良い。手段はたくさんあっただろうに、やることもたくさんあっただろうに、どうしてなにもしなかったのだろう。あたしの人生は二回もあったのに。他の人よりも長かったのに。奇跡が起きて、人の倍も生きられたのに。どうしてまた『ひとり』で生きていたのかしら。ひとりは嫌だったはずなのに。『魔法』の技まで持っていたのに――……水の子供まで宿していたのに、どうして。
「いいや、魔法の技を持っていたから、元素の子供と契約を結んだから、そんな簡単なことがわからなくなっていたんだよ、きっと」
 それが、ハウルが出した答え。
 欲しいものもわからなくなり、その手段さえわからなくなった愚か者。人よりも外れた存在であることにいつの間にか慣れきってしまって、『人』に戻る手段すらわからなくなって、『人並』の幸せを考えようともしなかった。『世の理の探求者』と人は言うけれど、素朴な『人』の願いからはどんどんと外れていってしまう。魔法使いの中で真の『賢者』など何人存在しているだろうか、ハウルにはそんな『綺麗な存在』などいないのではないかと思われてならなかった。
「なんて因果な商売だろう、魔法使いは」
「その上に、あたし達は人外のモノを飼っているし?」
 子供が乾いた唇を歪めて、かすかに笑った。黒い空間の中、もう立っていることもまま成らぬ程に時が戻った幼児の口元に宿ったそれは、外見に似合わぬ老成したものであった。
「やっぱりあんたとあたしは似てないわ。ちっとも。あたしより馬鹿に見えても、あんたは馬鹿じゃない」
 ハウルは馬鹿だよ、真性の馬鹿だよ。
 今まで沈黙を貫いていたカルシファーがそこで声をあげ、それにハウルは苦笑した。場の空気が変わったのを敏感に感じ取ったからだ。もうその黒い空間は、痛々しい場所ではなかった。あの図書館に満ちていた光や熱と同じものが確かに宿っていた。見えなくても、触れられなくても、確かに。
「男と女だし、星の子と水の子だし、成長する者と時を遡る者だし、逃げる者に舞い戻る者だし」
 鏡に映したかのように似通った境遇に性格だとあの頃は感じていた。けれども、数え上げれば次々と出てくるその差異は真逆を向いたもので。その差異に、幼児は笑った。
 なんだ、杞憂であったのだ。愚かな人生を二度も歩んでしまった自分自身にも等しいこの青年が、同じ道を歩むのではないかとの恐れがなかったわけでもない。けれども、どう言い繕っても、自分の行ないは愚かで、馬鹿げたことで、自分の欲求を無意識に求めたものなのだけれど。
 この場で妙に大人ぶって『あたしの最後の教鞭』などとは口にできなかった。一度でもいいから『家族』に囲まれたかった、そして、それを手にいれた青年がうらやましかった。ただそれだけの想いが彼らを巻き込んだ自覚はあったのに――彼は許していたのだ、最初から。あの町を包む雨が降り始めてから、ずっと。
 奥底に沈めながらも『あの人』を許せなかったあたしと、許せてしまうハウル。あたしとハウルの大きな違いはここなのね。そう気がついて、真珠姫は笑った。彼女は知っていたのだ、彼の周囲に及んだ現象の素が『自分である』のだと彼が気付いていながら、それをただ見守っていたのだと、最後の要を除いて。今すぐにでも駆けて行き奪われた物を取り戻そうとする衝動を、指をかたく組んで目を閉じて抑え込んでいたのだと。だからこそ自分も手を出せたのだ、安心して。暴走しても、狂っても、最後の最後には彼が止めてくれるとわかっていたから、茶番を演じられたのだ。
 その肉体はいよいよはじまりの姿へと近付き、細く頼りない足はついに立っていられず、惰性で前へと倒れ込んだ。ハウルはその小さな体を当然のように抱き止めた。黒い空間に溶け消えるかのような黒衣にうずもれた体はなによりも小さな存在だった。長身のハウルが膝をついたままでも、とうに目線などあわない、暗闇でうずくまる黒い仔猫にも似た、そんな小さな存在。
 彼女にとっての『暗闇』とはなんだったのだろうか。子宮の中から産道を通って生れ落ちても、そこもまた『暗闇』だったと語る彼女の世界はやはり『暗闇』で。だが、最初で最後の瞬間に抱かれているのもまた『暗闇』であった。けれどもただ冷たく辛いばかりの闇ではないと、聡い彼女にはその違いがわかっていた。闇は闇でも、人の腕の中はあたたかい闇。
「僕は、あなたが嫌いじゃないよ、真珠姫」
 ――あぁ、もう、ハウルの声が遠い。まるで、空から降ってくるようだ。肉を包む感触もおぼろだ。胸の内で肋骨を叩いている心臓の音が体の隅々にまで行き渡る。さらさら しとしとと静かに流れているのは、水の子の鼓動。真珠姫はその鼓動を全身で感じていた。もう時間がないのだと、この鼓動は残り時間を刻むものなのだとわかってはいたが――怖くはなかった。
「好きだとは言ってくれないのね、あんたは」
「その言葉は簡単に使っちゃいけないんだ。だからあなたには言えない。でも、あなたは凄く素敵な人だった」
『嫌いじゃない』と告げることは『好き』にも似た意味を持っているのだと気がついていないのだろうか。ハウルがその言葉に持っている意味とは大きくかけ離れているのだろうけれど。
「そこまで考えてるのに、その言葉の対象を母親代わりになんてするなら、最低な男よ」
「大丈夫、そんなことはしないから」
 ハウルはそこだけ妙にはっきりと断言した。
「でも、彼女は優しいから、『母親』の種を持ってるから。だから、生まれ変わったら、家族になろうよ。僕の家族は寄せ集めだけど、血は繋がってないけど、ここはあったかい」
 見えなくても、聞こえなくても、触れられなくてもわかる、ハートの位置があたたかいのだと口にできるくせに、腕の中の存在が一番救われただろう可能性を持つ『ソフィー』だけは渡せなかった、その独占欲が最後の最後には優ってしまった中途半端な自分自身が嫌になるのだと、そんな想いは綺麗に覆い隠して、ハウルは偽善めいた言葉を紡ぐ。どうか嘘にならないようにと祈りながら。
「もうひとりくらい増えても、まったく困らないよ。いや、皆歓迎してくれる」
 ハウルの言葉に、真珠姫は『笑み』と取れる表情をかすかに作った。
 優しい坊や。あたしと同じくらい深い境界を覗いた経験があるくせに、どうしてそんなに優しいのだろう?
 ハウルの葛藤を知っているのか、真珠姫は笑う。
「そんなのご免だわ。坊やの子供になんてならないからね」
 喋る器官はとうに未熟になっているはずであるのに、幼児の喉から滑り出た言葉はそんな憎たれ口だった。
 でも、と、真珠姫は目を閉じる。黒衣の腕の中で目を閉じれば、優しい闇がそこには広がっていた。

 でも、会いに行くわ。水や風の子供になって、会いに行くわ。『ごめんなさい』と――『ありがとう』を告げに。
 無理矢理にこんなところに引きずり込んだのに、誰もなにも言わなかった。あの子供も、犬も、魔女である老婆でさえも。
 彼らが優しいことは、ハウルが言わなくても知っているのだから、いつか、必ず、自分の気持ちを、告げに――……会いに行く。


 かつてハウルに『真珠姫』と、マルクルや荒地のマダムには『エル』と、そして魔法使いの老夫婦には『インマニエル』――神と共にいることを願って付けられた名と、その他にもたくさんの名前を気分によって使い分けていた名無しの子は、小さな光の点となって――ハウルの手の中で弾けて消え去った。
 後には、ただ、あたたかな黒い闇だけが残されるのであった。

   * * *

「本当にもう大丈夫なの、ソフィー? 無理してない?」
「えぇ、もう大丈夫よ。ゆっくりと休ませてもらったから」
 皆には迷惑かけちゃったわね。今日は腕によりをかけてご馳走作っちゃうわ!
 そう腕まくりをしてみせたソフィーに、
「ソフィー、あんまり張りきらないでよ。ほどほどでいいんだからね」
 病み上がりのソフィーを心配してのマルクルの言葉であったが
「マルクル! 子供はそんな物言いしないの! 素直に『わーい、今日はご馳走だぁ!』って喜びなさいな」
 ソフィーは子供らしくない子供の鼻を指先で軽くつんと押して笑った。
「わぁい、今日は『丸三日ぶり』のご馳走ねぇ。嬉しいねぇ」
 庭いじりでもしてお腹ぺこぺこにしとかなくちゃねぇ。
 年が行き過ぎて子供みたいになっている荒地のマダムは無邪気に喜び、その様子に目を丸くしたマルクルは、次の瞬間には大きく両手を振りかざして喜びの声をあげていた。
「わぁいっ! 今日はご馳走!」
 マルクルにあわせるかのように、ヒンが尻尾をふりふり、ふたりのまわりをぐるぐるとまわった。清潔な白いレースのカーテンを透かして降り注ぐあたたかい光で満ちたその家に相応しい声と賑わいであった。
 あ、でも、あんまり喜べないこともあるんだよね。
 マルクルは両手をバンザイの形で止めたまま顔をしかめた。その声にヒンがぴたりと止まり、けれども止まりきれずにこてんっと前のめりなった。
「そうよねぇ。まったくもうっ。人には散々偉そうなこと言っときながら、ハウルったら風邪ひいちゃうんだもの」
 しかもあたしよりも重症よ、信じられる?!
 ソフィーは深々とため息を吐き出した。つきっきりで看病する、とか、主治医の言うことを聞けないの? とか散々言っていたハウルが、自分が完治したと思った途端にベッドの住人と化してしまったのだ。僕は病気の研究だってしたんだから免疫が強いんだ、などと言っていた昨日の今日がこの有様、ため息も出ると言うものだ。『医者の不養生』の言葉を綺麗にラッピングして贈りたいところだ。
 丸三日もベッドの住人を言いつけられていた自分がすっきりと『完治した!』と四回目の朝に起き上がって動きまわっていても、ここ数日なにかの儀式のようにソフィーの部屋を訪れては珍妙なぬいぐるみをひとつずつ置いていくハウルがこなかったのでベッドにずらりと並んだぬいぐるみをひとつ手にとりハウルの部屋を覗いてみれば、そこには高熱にうなされているハウルが転がっていたのだ。
 熱にうなされて赤くなって潤んだ目元、と表現すれば色っぽいのであろうが、そのぼんやり加減は魂が抜けきっていた。ベッドの上で『寝ている』と言うよりは放り出されたままの恰好だ。ベッドの周辺には、まだ体力があった頃の名残であるのか、丸めた散り紙がゴミ箱から溢れて散乱していた。いくらこの部屋の主が稀に見る美青年であったとしても、百年の恋があったとしても、いっぺんに醒めるような立派なゴミ溜めができあがっていた。ソフィーですらも、ハウルの心配よりも先にそのゴミ溜め具合に呆れ果てたが、けしてハウルを見離そうとはしないところが彼女の不思議な点である。
 そのゴミ溜めにうずもれるようにして寝込んでいるハウルは
『目が回る〜。世界が真っ暗だよ〜。僕はもうお終いだ、死んでしまうんだぁ』
 などと、図体ばかりは立派な大人であるのになんとも情けない弱音を弱々しくそしてねちねちと垂れ流している。
 そのネバネバと鬱陶しい病人と化したハウルの枕元にソフィーがぬいぐるみを置いてから、
「死ぬ前にあたたかいミルクでもいかが、ヤブ医者さん? 今なら大好きなチョコレートの大きなかけらを入れてあげるけど?」
 と言えば途端に魂が抜けきった目に嬉しそうな光がもどるのだから、ソフィーにとってハウルはわかりやすい男である。そんな風に思われているなどと病人にはわかろうはずがなかったのであったが。
「そこにたっぷりの愛情を入れてくれたらすぐに治るよ、僕の看護婦さん」
 なんぞと、ぐずぐずな鼻声でまたもや余計な一言を付け加えて、ソフィーにおおいに笑われていた。
『ミルクは愛情でできてるのよ』とは、恥ずかしくて言えなかったソフィーであったけれども。自分が寝込んでいる時にハウルがわざわざ買いに行ってくれたミルクは、たしかに『愛情』でできていたのだから。


 不自然に長くひきこんでいた風邪がようやく治った嬉しさからか、それとも少しばかり寝こんでいる間に築かれてしまった炊事洗濯の山に発奮しているのか、病み上がりとは思えないほどにくるくるとソフィーは動きまわっていた。
 そのソフィーの静かな足音を遠くに聞きながら、ソフィーがいれてくれたホットミルクを飲み終わってベッドに横たわっていたハウルは、ふと目を開けた。
 そこには、暖炉を定位置と決めてかかっているような、自由な星の子がいた。虹色に輝く体は幾分かおとなしめで、こちらを気遣っていたのだろうかと思わせる。
「カル」
「なんだよ、ヤブ医者」
 あぁなんだカルまでソフィーの味方かい?
 ハウルは咳が飛び出て来そうな口元に弱い笑みを浮かべた。
「これでも一生懸命やったつもりなんだけどね、やっぱりこんなのは得意じゃないや」
「お前は正真正銘の馬鹿でぶっきっちょなんだから、んなの誰も期待しちゃいない。雨の中傘もささずにのこのこ『空歩き』して風邪までひいてるんだからなぁ。まぁ、ソフィーとマルクルを騙し通せただけでもおいらは見直してたりするんだけど」
 空白の一日があったなどと、眠り続けていたソフィーは知らないし、連れ去られていたマルクルの記憶も途切れている。荒地のマダムはなにも言うつもりがないようであるし、ヒンも余計なことを言わないので、ふたりはなにも知らないままでいられるのだ。それで良いのだと、カルシファーも納得していた。それをハウルが望むのであれば、それで良いのだろう。誰も困る必要はないのだから。
 やっぱりカル、冷たい。
 よよよ、とハウルは泣き真似をしたが、カルシファーは水色の光を強く浮き立たせただけでなんの突っ込みもしなかった。
「添い寝して温めてくれないのかい?」
 ハウルのいつもの余計な一言には
「そのまま焼死体になる覚悟があるなら馬鹿が風邪ひいた記念にしてやってもいい」
 速攻で冷たい返答を返していたりするが。
 そこに
「ハウル、起きてるの?」
 コップを回収に来たらしいソフィーが顔を覗かせて、まだ起きていたハウルに呆れた声をあげた。
「カルシファーも来ていたの? なぁに、内緒のお話? 魔法で風邪を治す方法でも相談していたの?」
「いんやぁ、風邪を治す都合のイイ魔法なんてあるわけないさぁ」
「あら、そうなの? 魔法って案外不便なものねぇ」
「そうさ、魔法使いなんて馬鹿ばっかりの捻くれ屋の役立たずしかいないさ。シチューをあたためるおいらの方がよっぽど役に立ってるだろ?」
「そんなこといいながら、いつでもなにかしら文句つけて来るのはどこのどなたかしらねぇ?」
「ちぇっちぇっ。ヤブ医者も悪魔使いが荒いけど、料理長もたいがいだ!」
「……君達、病人の枕元でよくそこまで騒ぎ立てられるものだね」
 あら、ごめんなさい、気がつかなくって! 
 ソフィーは慌ててコップを回収しようとハウルの元へと駆け寄った。
 その手を摺り抜けるかのように飛んだカルシファーは、
「おいら、先に下に行ってるよ」
 鍋を焦がして待ってるよー! と、ソフィーが心穏やかではない言葉を残して行ったが、ソフィーはハウルの部屋に増えた『モノ』に気がついて、疑問符を大量発生させるのに忙しかった。がらくたや綺麗なものやぬいぐるみが山と積まれた机の上に無造作に置かれている、今までみたことのない、真珠の首飾り。
「ハウル、こんなの持ってた?」
 艶やかな光沢を放っていただろうそれは、今は薄汚れてくすんだ乳白色だ。通された糸も古びているのか、今にも切れそうな危うい感触に、ソフィーはそっと触れるしかできなかった。『綺麗なもの』には節操がないハウルではあったが、これは彼の美意識からしたら範疇外ではないかと思われたので、違和感を強く感じたのだ。
「随分と汚れているわね。宝石商に出してみる? 糸だけでも替えればマシになると思うんだけど」
 ハウルは弱々しく首を振った。ソフィーと真珠を見もしないで。
「いいや、いいんだ。それはそのままで」
 ――それは、自戒の為の品だから。
 その言葉は胸の奥でだけそっと呟き、ハウルはゆるりと目を閉じた。
 

 あなたがいた場所は、かつて僕がいた場所。
 あなたがした行ないは、僕がしたかもしれない――するかもしれない『行ない』
 だから、自戒する。自分を律する。自分を戒める。あなたと同じことなどしないと、あなたに――誓う。絶えず揺れ動くこの不安定な心をそれでも二度と手放せないから、その覚悟も隣に置いて。


 ハウルのひそかな誓いを聞き届けたのか、ソフィーの手の中で真珠が柔らかな光を放って……やがて沈黙したのであった。