奇跡に満ちたいつもの朝



【 2 】

「わたくし、子供の頃からカブが嫌いなの。カブ頭にでもおなりなさいな」
 その言葉が終る頃には、頭らしき箇所がぐにゃりと歪み、帽子でも冠でもなく、カブを――文字通り頭に戴いていたのだった。
『あなたにお会いする為だけにこんな宴に顔を出してみたけれど、やっぱり低俗ねぇ。今の若い人達の考えることったら……国王がお忍びで参加するなんて言い出さなければ来もしなかったものを……。やっぱり我が家が一番よ。炬燵で蜜柑でも食べているのがしょうにあっているわ。梅昆布茶も必要ね』
 薄れ行く意識で最後に耳にした言葉は幻聴だったのかもしれない。あの、超然とした女性が、ぶつぶつとそんなばばくさい台詞を呟いていたなんて――今のこの現状以上に信じたくないことであった。コタツでミカンなんて、きっと、絶対、聞き間違いだ。ウメコブチャって……なに??
 それよりもそれよりも、国王も来ていたって? 私以外は――全員が『貴婦人』の仮装をしていたのに――?!
 この国の人達ってわからない……けして我が友人だけが素っ頓狂だったわけではないのだと妙に感心しながら、意識が濃い闇に埋れていくのをゆっくりと実感してしまったのだった。 

『あなたの周りにはたくさんの人がいるけれど、あなたを本当の意味で見てくれている人はいるのかしら? でもね、ジャスティン殿下。あなたが先に見ようとしなければ、見えるものも見えないし、かろうじて見えるものすら歪んで見えるものなのよ』

 だから、そんな、非常にまっとうな言葉も……幻聴だ。

   * * *
 
 その後のことはよく覚えていない。
 屋敷を出て町を抜け、かかしの足でふらふらとさ迷った記憶はかすかにあるけれど、はっきりと意識を取り戻したのは、冷たい風が吹く夕闇の迫った荒地で、藪の中に逆さになって突っ込んだ状態の時だった。
 藪の隙間から覗く空が、太陽の色から夜の色へと徐々に移り変わっていくさまは、こんな時ではあるが変わらず美しく感じられたけれども、それに見惚れてじっと一昼夜過ごした頃にはこれではいけないと思い直した。
もぞもぞとかかしの体をゆすってみても、あっちをひっかけこっちをひっかけ、どうにも脱出出来そうになくて心底困り果ててしまった。
 まだ真新しかったタキシードも、あれから何日経ったのか、どんな経緯を辿ったのか、気がつけばぼろぼろと裾はほどけて薄汚くなっていた。幾つもの町を抜け、山を越え、非現実的な仮装の宴から何ヶ月が過ぎたのか。それを確かめる術はおのれの記憶ではなく、仮初の衣だけとはなんたる冗談だろう。
 やがて体をゆすって藪から自力で脱出することは諦めざるを得ないと判断した。自由にならない体、しかも逆さ状態なのだ。
 誰かに助けてもらうほかないけれど、藪の隙間から見える空以外の場所は、どうにも人影に乏しい、どころではない荒地だ。もしかしたらこのまま、また何ヶ月、下手をすれば数年、運が悪ければ一生を逆さで過ごすことになるのだろう。
『かかしのままでなら水も食料もなしで何年過ごせるだろう? しかも藪の中ではあっても立派な野ざらし』
 先の考えを少しばかり改めた。運が悪くて良くて数週間、運が良くて悪くて数年だろう。運が良くて悪ければ、魔法の生物に変えられて生死の正常な理から外されてしまった我が身を呪わなければならなくなりそうだ。
 けれども、そんな不毛な思考も、すぐに破られることになった。なんと、山の下から誰かが登ってくるのが見えたからだ。放牧された畜獣でもなく、目の錯覚でもない、動く物体。動物の毛皮とも目の錯覚とも違う、人工的な灰色と鈍い赤の色彩がゆっくりと登ってくる。
 あぁ助かった! なんて楽観をするほどにはお気楽ではないつもりだ。その人物が、藪に刺さった一本の棒切れに気がついてくれるとも思えないし、それを引き抜いてくれるなんて、奇跡の上に奇跡を上乗せしないと叶わない奇跡だろう。
 しかも、偶然にも、藪の近くに座り込んだその人物は、灰色のスカートに鈍い赤色の肩掛けをまとった老婆だった。そこでなけなしの『運』は使い果たしてしまったらしい。よりによって老婆とは! 冷静に冷静に期待しないようにしていたものの、心の奥底に潜んでいた『もしかしたら』の気持ちがその事実ひとつであっけないほど簡単に更なる奥底へと凍えて落ちて行く。
 運命はとことん私に味方をしてくれないらしい。ほのかな希望を目の前にちらつかせておいてあっけなく追い落とすなんて。味方をしてくれなくてもよいから意地悪はしないでもらいたいところだ。
 そう悪態をついたのに、いや、悪態をついたからなのか、天邪鬼な運命が応えてくれた。なんと、老婆がちらとこちらを見やり、そしてよたよたと歩いて来たかと思うと、藪から突き出たかかしの足を引っ張り始めたのだ。がさがさがさがさ、上に下に揺すぶられる不愉快な振動。
「頑固な杖ね! ソフィー婆ちゃんを甘く見ないで!! それっ」
 藪の隙間から見上げた顔はやっぱり間違えようがないほどに老婆であったけれど、よくよく見ればなにやら視界がぶれているような違和感を覚えて、もっとじっとよく見てみた。
 すると、しわしわのごわごわでしかも鷲鼻の老婆に重なって、意思の強そうな眉をした若い娘の姿が透けて見えてきた。色もすっかりと抜け落ちた短い白髪は赤とも茶とも言えない色にも見え、血管の浮き出た手はほっそりとした白いものにも見えた。今、私自身が『魔法の生物』になっているせいなのだろうか、なんとも不思議な現象だった。
 二重にぶれるその姿に眩暈を起こしそうになりながら――多分にそれは、手荒い救出作業にもよるのだろうけれど――動かない体を一生懸命に突っぱねて跳ねあがる。途端、老婆がわぁっと声をあげて驚いた。
「かかしか。また魔女の手下かと思ったよ」
 誤作動を起こしでもしたのか、心臓を庇うようにして老婆が声をあげた。上から見てもやっぱり老婆で娘さんの姿だった。
「頭がカブね。あたし、子供の頃からカブは嫌いなの」
 ……なんだかどこかで聞いたような台詞だな。
 そうは思いながらも、この不思議な老婆に興味を惹かれたのは事実だ。助けてもらった恩もあるし、かかしの足を動かしてついていく。途中で何度も『ついてくるな』と言われたけれど、今のところこの身体でなにができるでなし。それに、こんな時間に老婆(娘さん?)が山の奥へと踏み込むのも心配ではないか。
「今夜泊まる家を連れて来てくれるといいんだけどねぇ?」
 その言葉を受けて偶然見つけた巨大な動く物体を誘導してみると、老婆はなんとかそこに潜り込むことができた。
「あれはハウルの城じゃないか!」
 動く物体を見上げての彼女の言葉に引っかかりはあるものの――『ハウルの城』の噂は国にも届いているので――その魔法使いは若い娘さんの心臓を食べるとかなんとか――こんな寒い夜に外にいさせるよりかはマシだろう。私は『魔法の生物』として寒さ暑さにはどこか鈍くなっている感じがするけれど、彼女は確かに震えていた。ほんの少しの距離を歩いただけで息が荒く激しくなっていた。どうやら『はっきりと見える姿』の方が強く影響しているらしいし、魔法使いハウルが彼女のもうひとつの姿に気がつかない可能性だってあるのだから。