奇跡に満ちたいつもの朝



【 3 】

 そうは言っても、やっぱりほうっておけなくて、城のまわりを立ち去っては戻り、立ち去っては戻りをしていたら、闇夜にまかれているのと同じように城の部品にまかれてしまった。
 それでまたしても彼女に助けられて
「あんた、逆さになるのが好きだねぇ」
 なんて言われたけれども、それはそれでなんだか楽しかった。ベランダから顔を出した彼女は、あの荒地ではじめて会った時よりも血色がよく、どこか楽しそうであったので嬉しかった。
 この頃には、あんなにも動かないと思っていたかかしの体が、今は元の体よりも高く遠くの場所へと行ける素敵な姿に感じられてきた。かつんっと大きく飛び上がって巨大な城の屋根にのぼり、風見鶏のようにくるりくるりとまわってみれば、老婆とその傍らにいる髪が逆立った少年が目を丸くした後で大笑いをしてくれた。
 その後には、保養地にでも出向かなければ触れられない自然の中で生まれてはじめての洗濯物乾しに付き合ったりもした。
 薄く重く曇った空の隙間から刺し込む陽光とその光が踊る凪いだ湖を椅子に腰掛けて眺めやっている老婆の横顔に重なる、穏やかな若い娘の顔も見つけたりもした。それは、目の前に広がる、街中に住んでいては考えられないほどに美しいこの光景よりも不思議な不思議な光景で。
 はじめの頃彼女が気になったのは、単なる心配からの行動だった。老婆の姿と若い娘の姿を持つことへの興味も多分に含まれてはいた。けれども、その横顔を見た時からだろうか、それらの気持ちが別の物へと形を変え始めたのは。老婆の姿でも、若い娘の姿でも、その目は穏やかに凪いでいた。眼前に広がる湖を写し撮ったかのように。しんとした静寂が穏やかに宿っていた。
 それまでは『老人』など――無意識に視界の中から排除してきた存在だと気がついた。『老人』を、やがて訪れる『死』の象徴と言うよりは、存在自体が『無意味』で『無価値』なものだと思っていたのかもしれない。若いけれども存在自体が『無意味』で『無価値』な自分と同じモノだと思っていたのかもしれない。
 けれども、老いてもうなにも生み出せはしないだろう老人にも、感情があるのだと気がついてしまった。『心』があるのだと気がついてしまった。彼女は『老人』の姿でも生き生きとしていた。
 藪の中から引っ張り上げてくれた時の、分厚い皮の、節の立った老婆の手は、それでもあたたかかった。
『あんたも魔法のなんかだろう? ついてきておくれでないよぉ』
『今夜泊まる家を連れて来てくれるといいんだけどねぇ?』
 その物言いは、私のまわりにいる誰の言葉よりも洒落が効いていた。あきらかに『魔法のなんか』であるはずの老婆がこちらを『魔法のなんか』であるからと私を追い払い、こんな荒地であるのに『家を連れて来てくれるといいんだけどねぇ?』ときたのだから、これがおかしくないはずがない。
 もっと話してみたくなったのが、気持ちが変わるきっかけであったのかもしれない。老人が生き生きとしていられるのなら、どうして私自身が疲れ切って生きることにも『飽いた』などと言えもしない、空虚な気持ちでいても良いのだろう?
 けれども、そんなことももうどうでも良かった。その後に体験した様々なことが――出会った人々が――魔法使いハウルとその小さな弟子や、不思議な生物である火の悪魔や、悪名高き荒地の魔女達となにかをする度に、わくわくして仕方がなかったから。
 めまぐるしく動く状況と、その端々に零れ落ちる『人らしさ』や『人らしい生活』の匂いに――はじめて『生きている』と感じた。自由に動けもせず話しもできない今のこの身でも、充分『生きている』と感じられた。
 もっと『まとも』と言われる、もっと『地位』も『血筋』も優れた教養深い者達に囲まれていた中では感じられなかった『生きている』実感――それは『私』が『私』として存在できている『実感』だ。
 国の命運をかけた交渉をしたわけでもない、人命を救ったわけでもない。ただフライングカヤックを城から引っ張り出したり洗濯物を乾かす手伝いをした、雨が降れば傘を差し出しただけ、それだけであるのに――そんな些細なことがこんなにも誇らしい。

『そうね、あなたはそこにいるだけで人を集めるから――今度は『かかし』なんかどうかしら。たまにはひとりになるのも良いでしょう。動物も人も追い払う立場になってみなさいな』

 そんな呪いをものともせずに、『私』を見てくれる人達は何にも優る宝だ。私の『血筋』や『地位』や『権力』なんかに惑わされず、ただ私の働きを純粋に評価し、私の手を求めてくれる人々。
 そのこそばゆい感覚が全身を包みながら胸の奥を熱くする。そして、その熱とともに、こんなきっかけを与えてくれたあのマダムに感謝するのだ。
 もう、理不尽だなどとは、微塵も思ってはいなかった。

   * * *

「ありがとう、ソフィー。私は隣の国の王子です」
 何日ぶりか、または、何ヶ月ぶりかに口にした『言葉』は、私が私である証明の言葉だった。稜線を青く白く染めて登り来た朝陽の、清々しい空気の中でそう宣言できたのはこの上もない喜びだった。
「愛する者にキスされないと解けない呪いね!」
「その通り。ソフィーが助けてくれなければ私は死んでいたでしょう」
 詳細はよくわからないけれど、多分、きっと、そう。
 荒地のマダムと私のやり取りなど知らぬげに、魔法使いと、かつて老婆であった少女は強く抱きしめあっていた。誰が見ても幸せそうであった。
 マダムが魔法使いの弟子を引き寄せながら肩をすくめる。
「ソフィーの気持ちはわかったでしょう? あなたはお国に帰って戦争でもやめさせなさいな」
「そうさせて頂きます」
 誰が見ても幸せそうなふたりの間に割り込める隙間なんてない。ふたりはこちらなどこれっぽちも見ていなかった。
 でも、と私は言葉を繋ぐ。
「戦争が終わりましたら、また伺いましょう。心変わりは人の世の常と申しますから」
 この時の私は、『戦争が終わったら』なんて我慢ができず、終戦に向けて駆けずりまわる合間についついこの家族達の元へと入り浸ってしまうことになろうとは予想もしていなかった。
「あっらぁ〜、いいこと言うわねぇ。じゃぁ、あたしが待っててあげるわぁ」
 かつて隣国にも噂を馳せていた『荒地の魔女』と恐れられていた老婆が、ウィンクを投げて寄越すさまはなんとも可愛らしかった。ここにも生き生きとした『人間』がひとりいる、それがちゃんと理解できる。
 私は生まれてはじめてと思えるほどに、笑った。儀礼的な笑みでもなく、心から笑えた。感情と表情が寸分の違いもなく合致していた。『晴れ晴れとした気持ち』とはこんなのを指すのだろう。こんな心地は知らなかった。恐らく、あのまま『ただ生きていた』ら、簡単な『笑い』さえこの上もなく『困難』だっただろう。
 魔法使いが魔法で生み出した長い棒は、かかしであった頃の足と同じように高く遠く跳ねた。
 戦火にまかれているであろう自国へと向かう心に苦いものがないとは言えはしない。けれども、迷いや暗いものはなかった。生まれ変わった朝陽のように心の中は青く白く輝いていた。こんな気持ちになるなんて、現状は楽観なんて微塵もさせてくれないと重々承知しているのに、なんて奇跡的なのだろう。奇跡はどこででも起きるのだと今なら信じられる。
『朝』はいつもと同じ『朝』だろうに、見方ひとつでこんなにも世界は変わる。ここにも奇跡がひとつ瞬いていた。その瞬きに背を押されるかのように私は自国を目指す。
「私が戦争の原因となるのなら」
 それを終らせるのも私自身であるべきだ。私にはそれができるのだから。ひとりの少女がひとりの魔法使いを救うこともできたのだから、私にもできないはずがない。快い昂揚感に包まれた今の私なら、空も飛べるかもしれない。
 結局、あの偽りに満ちた舞踏会で出会ったあの魔女が誰であったのか、なんの思惑があったのかはわからないけれど、事態はたったひとつの思惑などにとらわれず、坂道を転げている間に変質して形さえも変えて行っている。『私』すら昔の『私』からは想像もできないほどに変わり果てているのだから、もう彼女の思惑など気にはしない。
 今考えるべきことは、一刻もはやく自国へと帰り、一日でもはやくこの馬鹿げた戦争を終らせる方法。
 私がこの国で行方不明になった為に開戦したのであろう、あのいい年をしておきながらどこか好戦的な兄王を叱りつけたり宥めすかしたり。あの舞踏会を主催した馬鹿貴族に密書を送って内情をさぐったり。庶民をたきつけて反戦に巻き込んでも良い。
「なんだ、私にもできることはあるじゃないか」
 もう『私』は『余り物』なんかじゃない、今ならそれがはっきりとわかる。私が今までしてきたことに無駄は多かったかもしれないけれど、全てが『無駄』であるわけでもなかったのだと――今ならそう思えるのだ。
 あの、血が繋がらなくてももう家族のように思える人達があのように命を張って止めようとした戦争を、私が今度こそ止めてみせる。それが何ヶ月もかかる、困難な上に困難な仕事なのだとわかってはいても。反戦の旗頭にでも、道化にでもなってやる。
『はじめるのは容易い、けれども、終わらせるのは困難なもの』
 それが戦争なのだと充分にわかっている。けれども、成さないわけにはいかない。それが私と彼らが結んだ、家族の絆となるのなら、必ず成そう。

 喜んで。




カブ状態でもソフィーが『若い娘』さんだって見えていたのではないかなぁと思いまして、こんな感じに(笑)。老婆礼賛物語でした。