赤や青で塗られた路面バスの最終便もとうに終った、ひっそりとした町の片隅。
月明かりが煌煌と照らす屋根の下、一組の男女が向かい合っていた。
片頬に暖炉からのあたたかい炎の照り返しを受けて、部屋のそこかしこにわだかまった静かな薄い闇を肌に感じながら向かい合っていた。
「僕が怖い?」
長めの前髪から覗く青い瞳は悪戯っ気に溢れていながらも真剣な色もその奥底に潜ませていて、ソフィーはどきりと鼓動が高く打ったのを感じた。まるで、心臓ごと手で鷲づかみにされたように。
出会った頃は違っていたけれど、最近はどこか子供っぽい仕草や口調が常であった目の前の男が、今ばかりは滅多に聞けない真剣な声で言葉を紡ぐから――その差異にくらくらとする。
目の前の男の問いに答えるべく口を開くのも怖くて、きゅっと唇を引き結んだ。短い星色の髪が、肩の上でとまどうように揺れた。
「正直に怖いと言えば優しくしてあげるよ?」
つと伸ばされた指先で頬に触れられる。爪の先まで整えられた、細い指。けれども、自分のものとははっきりと違う、大きな手。優しい人肌。
けれども、その優しい感触にうっとりとまぶたを閉じることもできず、ただまじかにある青い瞳から視線を逸らせない。長い睫毛に縁取られた青い目は、髪の色こそ変わってしまったけれど本来纏う色が地味な色合いであった自分からしたらうらやましいもので、思わず魅入りそうになる。炎の照り返しを受けて黒々と色を増す艶やかな黒髪も、この青い目には相応しい。
反論もできないのを察したのか、指先は頬から唇に……ますます近付く青い瞳に、混じりあう闇と星の細い流れに、それでもソフィーはまぶたを閉じることができず……
「怖いに決まってるじゃないのよっ」
反論もできないしまぶたを閉じられもしなかったが、憎まれ口の為なら口はなめらかに動くし手も動く。
ソフィーは容赦なく左手でぺちりと近くにあったその鼻面を叩いてやった。
* * *
赤や青で塗られた路面バスの最終便もとうに終った、ひっそりとした町の片隅。
月明かりが煌煌と照らす屋根の下、一組の男女が向かい合っていた。
あたたかな色をした赤い火が照らす暖炉のすぐ傍に置いたソファに行儀悪く片足を上げて間にチェス盤を置いて真向かっているふたりの様子は、どこかの国の縁側や道端のそこかしこで見られた一昔前の夏の風物詩によく似ていた。
その風物詩の登場人物は、主に風鈴や蚊取り豚と団扇片手に肌着、または浴衣に下駄の『親父』と呼ばれる人物達であったが、今回は若い男女であるところが異国情緒たっぷりで良い。けれども試合に熱中するあまりお行儀悪くなっているところがあまり艶めいた光景には思えなかった。
それ以前に、艶めいた会話かと思われた流れの先での彼女の行動は、どんなに色っぽい会話が流れていたとしてもそれを分断するには破壊力が余りあるものであった。
ソフィーはぺちりとハウルの鼻を叩いてから
「怖いわよ! ハウルってば変な手ばかり使って、もうどこからどんな邪魔が入るかわかったもんじゃないわ!」
ちょっとはまともなチェスってできないの?! と、ソファにあげた右足を両手で掴みながらがなる。
「そう言うソフィーは定石通りだ。素直で、わかりやすい」
叩かれた鼻を押えながらのそんな言葉などちっとも嬉しくない。たとえ、その肩が笑いで揺れていようとも、言われた方は面白くない。
「悪かったわね、どうせ小細工できない性格よっ。裏読みできない損な性格よっ」
ソフィーはぶすっとぶすくれた。
「だから優しくしてあげるって言ったのに、素直じゃないんだから」
「だからって対戦相手に触るなんてフェアじゃないわっ」
「失敬な。これは『精神的揺さぶり』と言う立派な高等技術であってセクハラじゃないんだけど」
ソフィーは右足を掴んだままの両手にぎゅうと力を込めて口を閉じた。これ以上漫然と言い合いをしても、どうせのらりくらりとかわされるに決まっている。なにせこの男は、ウナギとクラゲが合体したようなイキモノなのだから。
ソフィー、よく考えて。よぉく考えるのよ。こんなウナギクラゲには鈍いパンチじゃなくて鋭い切っ先で一撃食らわせるのがいいんだから!
「そんな手を使ってくるくせに、ハウルったら一度もあたしに勝てたためしないじゃない?」
これでどうだ! とばかりに突っ込みをいれてやれば
「うん、そう。面白い手を考えるのに夢中で、勝つことなんて忘れちゃう」
でも、ソフィーには他にもいろいろたくさん負けてるから、これ以上負け越してもノーダメージだね。
ちっとも悔しそうでもないなんとも情けないハウルのその言葉に――特に、その顔はさっきの艶めいた表情からは信じられないほどに晴々としていたので余計に哀れにもなったので
『今度のゲームくらいは負けてあげようかしら?』
ソフィーは頭の隅でちらりと考えながらも、
「チェックメイト」
情け容赦なく試合終了を告げるのであった。