優しい歌が歌えない





 本当に、時折だけれど、彼はここにいないような――空っぽな目をする。
 翼の先から瞳の奥まで闇色に染まった、光を知らない黒い鳥のよう。
 その鳥がなにを歌うのか――誰も知らない。

   * * *

 ハウルにとってもソフィーにとっても――否、その城にいるすべての人や人以外の存在にとっても忘れられない一日となったあの日から、十日が過ぎた頃。
 一度完全にばらばらになったハウルの城の組み立て直しがあらかた終るまで、ハウル達は湖のほとりに腰を据えていた。
 戦火にまかれてしまった町のきな臭さも爽やかな風と森の香りにかき消されるその場所は、ソフィーにとっても心の落ち着く場所であった。がらくたを組み立てるハウルとカルシファーの掛け声やケンカの声や宥めすかせてご機嫌を取る声や、ガンガンと甲高い金属音を無視すれば、世界を包んでいるのは鳥の声や樹木の揺らめきや水のさざめきくらいだ。
「ハウルー、マルクルー、カルシファー! そろそろお昼にしましょうよー」
 内側は案外簡単に魔法で修復され、人が住むには困らないようになっていたが――街中に引っ越した家の方の損傷は空襲やサリマンの手下に掻きまわされたとは言えばらばらになった城ほどひどくなかったから、こちらから扉を繋げ直せばよかったのだ――カルシファーがいなくなったことによっての時空凝縮の渦に飲み込まれたのは、城と家のブリッジ部分であるまやかしの空間であったらしい。
 問題は外側であった。城の外部品であるがらくたは山々に散乱してしまったので、それをかき集め、組み立て、魔法でくっつけていくのである。
 その作業をハウルとマルクルとカルシファーが行なっている間、ソフィーは城の内側で家事にいそしんでいた。なにせマルクルは育ち盛りの上にあれは嫌いこれも嫌いと偏食が激しいのでひと工夫もふた工夫もこらさなければならずに時間がかかるし――あと、意外にも、あのハウルも驚くほどよく食べるのだ。
 なければないで構わないと言いながら、あるのならあるで作り手であるソフィーが呆気にとられた後気持ち良くなるほどの量を平らげる。食事の仕草までもがどこかきどっていて優雅であるにもかかわらず、はっと気がつけば大鍋いっぱいに作った料理がすっからかんになっているのだ。それこそ、魔法のように。
 それに、ベーコンと卵と固いパンなんて素っ気無い朝食を食べていたとは思えないほど食道楽でもあった。
 彼曰く
「食べることがこんなにも楽しいなんて忘れてた」
 ソフィーがつくるからだろうかな? なんて素で切り返してくるので困った物であったが、心臓を持たなかった時期には味覚なんてものも曖昧であったのかもしれない。
「毎日毎日こき使われてたら腹が減って仕方ないよー」
 とは、城を組み立てるのにこき使われている魔力の動力源の言葉だ。暖炉に居座って薪をこれでもかこれでもかと積み上げているカルシファーの姿を見ていると、それと連動しているらしいハウルの信じられないほどの食べっぷりにも幾つか理由がありそうではあったが。
 とにもかくにも、量にも味にもこだわっているとあっと言う間に時間が過ぎてしまうのだ。もしかしたら、危険ながらくたいじりをソフィーにさせないようにとの、男衆の気配りであり意地であったかもしれない。
 そんなことが少しばかりわかるようになってきたので、ソフィーも無理にがらくた繋ぎを手伝うとは申し出ず、安全な扉の内側でヒンや荒地のマダムと一緒に家事にいそしみ、おいしい料理を山のようにつくってハウルとマルクルとカルシファーを呼ぶのを楽しみにしていた。


 今日も良く晴れた空の下、湖のほとりでがらくたをあぁでもないこうでもないと魔法使いにしかわからないこだわりで繋げあわせているハウルと、彼の指示であっちこっちに飛びまわっているマルクルに声をかけ、『ご飯だ! お腹すいた!』と喜びに顔を輝かせるその一瞬を待ったのであったが……意外にもハウルはソフィーの声なぞ聞こえないのか、軽くかかげた左手にとまった白い小鳥のさえずりに耳を向けたままであった。マルクルさえもそのハウルと小鳥を見上げ、なにかしら表情を曇らせていた。
 カルシファーは星の子の姿のまま未完成の城の一部にとまっていたが、その光の色はどこか不機嫌そうな冷めた青色。
『どうしたの??』
 そんな言葉を飲みこんだソフィーは、ハウルが小鳥のさえずりに小さく頷き、時折
「ふーん、やっぱりそうなんだ」
 と小声で呟いているのをあんぐりと口をあけて見てしまった。小鳥に向ける、長めの黒髪から覗く色味の薄いハウルの目は綺麗で真剣だけれども――どこか疲れているような、中身が空っぽなになってしまったような、そんな遠い目にソフィーには感じられたからだ。まるで、あの、大きくて黒い鳥へと変わってしまった彼の眸よりも――もっと遠い感じに感じられてならなかった。
 けれども、指先より青い空へと飛び立った鳥を見送りもせずソフィーを勢い良く振り返ったハウルに
「もうお昼? お腹がすき過ぎて裏表ひっくり返りそうだよ!」
 内側と外側がひっくり返ってしまったらソフィーのせいなんだからね! 
なんだかよくわからない問題の責任をなすりつけられ、大きな歩幅で扉へと向かうハウルの背中に
『あぁなんだいつものハウルじゃない、あれは気のせいなんだ』
 ソフィーはほっと息をつき
「今日はお鍋いっぱいに魚介類のシチューよ」
 ちょこちょことその背中を追いかけた。
 うわー魚のシチュー?? と突っ立ったままうめいたマルクルは
「ちゃんと臭みも抜いてあるから、マルクルも大丈夫よー」
 はやくおいでよー、のかわりに、ソフィーに声をかけられ、観念したように足を銀色の髪が待つ扉へと向けて繰り出した。
 ソフィーの魚料理は今まで『ハズレ』はないから、今回もチャレンジチャレンジ、とぶつぶつと呟きながら。

   * * *

 ハウルの部屋からは、部屋の大半を占めていた『魔女除け』のがらくたはなくなり、今はすっきりとしたものであった。改装のついでに大きな窓もつけ、明るいカーテンをとりつけたソフィーはそうだと思っていた。
 けれども、
「今日は疲れたからはやく寝る」
 そう宣言したハウルの部屋の前を、マルクルを寝かしつけて通りかかった時に耳に聞こえた、カチカチと時を刻む音に、ソフィーは足を止めてしまった。その、今はもうひとつも残っていないはずの針と歯車の音よりも……ハウルの苦しそうなうめきに、ソフィーは足を止めるしかなかったのだ。
「ハウル……?」
 マルクルも荒地の魔女も、ヒンまでも寝床で寝静まっている階下では、カルシファーも薪の間にうずくまって眠っているのだろう。時折火が爆ぜる音が聞こえるだけで他はしんと静まり返っている。
「ハウル、大丈夫……??」
 扉越しにかける声もやけに大きく聞こえて、ソフィーはもう少し声をひそめた。けれども、眠っているであろうハウルに届くはずもない。うめきはますますひどくなるばかりだ。
「開けるわよ」
 なにか悪い夢でも見ているのだろうか、あのハウルがこんなにもうなされているなんて。
 けれども、そっと開いた扉の隙間から覗いた光景に、ソフィーは息を飲みこんでしまった。
 大きなベッドで眠るハウルを取り囲むようにしているのは、夜の闇を飛ばない色鮮やかな小鳥達。赤い羽根を持つ鳥や、白い羽を持つ鳥、緑色の鳥に、青い鳥に。
 その中にうずもれるようにして眠っているハウルの顔色は真っ青だ。うめく力もなくなったのか、今はなんの表情もない。まるで、ほんの十日前の、過去の世界から戻ってきた時に待っていてくれた、異形の姿へと変わり果ててしまった――あの時のような無表情。
「……っ!」
 その、綺麗だけれど異様な光景に、ソフィーは立ちすくんでしまったけれど、ついで大きなベッドに向けて駆け出していた。
「いや! どっかに行ってしまってッ!」
 ハウルを連れてかないで――ッ!!
 ソフィーは無茶苦茶に両手を振り回し、何羽いるのかもわからない小鳥達を追い払う。その手から逃れようと鳥達は一斉に羽ばたき、羽音と色の洪水にソフィーを引き込もうとする。けれどもソフィーはそれに惑わされないように唇を強く噛み、ハウルを庇うかのように毛布の上からハウルに覆い被さった。
 ソフィーの必死の形相を理解できないのか、小鳥達は部屋をくるりと旋廻して、ばさばさと怖いほどに羽音を響かせている。鮮やかな小鳥達が部屋を舞う光景は昼の光の中でなら美しく感じられただろうが、今のソフィーには心底恐ろしい光景であった。体の下に眠るハウルの顔色がこれ以上ないほど青いので、不気味さが増した。この羽音の渦の中で目を覚まさないハウルが恐ろしい。まるでハウルをどこかに連れて行く夜の使者のようで……恐ろしい。明るい色のはずのカーテンも、開け放したままの窓から吹き込む風に煽られて、鳥達の乱舞に色を添えていた。
 ソフィーはキッと顔をあげて旋廻する鳥達を見ていたが、それすらも怖くなってハウルの胸元に顔をうずめてしがみついた。
 その熱と重みに気がついたのか、ハウルがゆっくりとまぶたを開けた。生気のこもらない青い目がぼんやりとソフィーの銀色の髪をうつしてから、二度瞬きをしてかすかに光を取り戻す。
 鳥達は大きくくるりと旋廻すると、軽やかにさえずりながら、開け放してあった窓から一斉に夜の空へと駆けて行った。残るのは、嘘のような、静寂。ベッドの上にひらり ひらりと舞い降りた、一枚の青い羽。
「……ソフィー?」
 どうしてここに彼女がいるのだろう? そんな疑問を頭の隅にのぼらせながらも、ハウルはソフィーの名前を呼ぶしかできなかった。銀色の髪がかすかに揺れている。震えるように。
「どうしたの……?」
 なにか嫌な夢でも見たの――?
 ハウルはソフィーの肩をあやすように優しく叩いた。誰も意地悪なんてしないよ、そんな仕草だ。
「どうしたのって……っ」
 怖かった。怖かったのだと言っていいのだろうか。ソフィーはハウルの胸元にしがみつきながら肩を震わせた。あれはただの鳥なのに、『怖い』と口にしたら本当にハウルを連れて行く者になりそうで――今後も怖くなりそうで。
 ハウルは大きくて黒い鳥だったから――迎えに来たのかと、鳥を見るたびに脅えてしまいそうで。
「大丈夫だから。ソフィー、大丈夫だよ?」
 この城の中では誰もいじめないよ?
 ぽんぽんと肩を叩かれて、ソフィーはふっと力を抜いた。ハウルの心臓に押しつけるようにしていた耳が、きちんと動いている心臓の音を捉えて、なぜか泣きそうになった。生きている、ハウルは生きている。
「ハウル……が――うなされてたから悪いのよ。鳥があんなにいっぱい……こわくて……あたし、こわくて」
 肩を叩かれるリズムや、耳が捉える心臓の音に、ソフィーはほっと息をついた。ハウルの前でなら弱音を吐いてもいい、そう促されているようで、口にするのも怖い言葉をハウルに曝け出せた。
 けれども、ハウルの反応は、ソフィーにもよくわからないもので。
「あぁ、ごめんね。助けてくれたのはソフィーだったの」
「たすけ……って?」
 ソフィーはそろそろと顔をあげて、ようやくハウルと向かい合った。部屋に飛び込んだ時にはこの上もなく青く見えた顔は、今は穏やかな色に戻っていた。
「ねぇハウル、あの鳥はなに? もう夜なのにどうして飛べたのかしら?」
 顔を合わせると自分がとったこの体勢がこの上もなく恥ずかしくなってそろりと体を引き剥がそうと試みたものの、いつの間にやら、優しく肩を叩いていたその手はソフィーをしっかりと捕まえるものになっていた。至近距離から見つめあうこの微妙な距離に、知らずソフィーの顔は赤くなっていった。それを誤魔化す為に、ソフィーは思いついたことを端から口にする。
「あれは、魔法の鳥だから」
「魔法の?」
「そう、僕の友達」
「……友達??」
 そう、ハウルの友達だったの。ごめんね、怖いなんて言っちゃって。
 その言葉はさすがに口に出来なかった。怖かった気持ちは本当であったので。眠るハウルを囲むようにしてベッドにずらりと居座った鮮やかな鳥達は、それが綺麗な光景であればあるほど禍禍しく感じられたのだから。
「やっぱりハウルが悪いんだわ。いくらお友達でも、訪問には相応しくない時間よ」
「うん、今度言っとく」
 そんなどこかおかしな会話に小さな笑みが浮かんだけれども、ハウルが無理して軽口を叩いているのだとソフィーは気が付いていた。自分自身も激しく動揺していたけれど、相手の微妙な顔色や仕草に気がつくと妙に落ち着きを取り戻してしまった。肩を掴まえている指先の冷たさに気がつかないわけがない。
「ハウル、あの鳥はなにだったの? それに、昼間だって鳥が来てた」
 言葉を連ねるほどにハウルの指先に力が込められるのだと知りつつも、ソフィーは聞かずにはいられなかった。ほんの少し前まで、震えていたのはソフィーの肩であったのに、今はハウルの指先が揺れていた。見上げた顔はいつもとかわりはなかったが、指先に宿った動揺に気がつかないソフィーではない。
「魔法の鳥でなにをしていたの?? 危ないことじゃぁないよね?」
 ふ、と肩から指先が離れてソフィーは一瞬とてつもなく不安になったが、その指はまたなだめるリズムでソフィーの背に触れ始めた。けれども、その手の主は手のリズムほどには浮かない顔で、小さくため息など吐いている。
「参った。まったく、勘のいいお嬢さんだ」
 あの鳥を『怖い』と感じるなんて、よっぽどだよ。
 ハウルは小さく呟く。
「あの鳥はね、僕のかわりに『戦場』を飛んでいたんだよ。だから、そんなの、知られたくなかった」
「戦場を……?」
 覆い被さるようにしている心臓が強くはねたのを感じて、ソフィーは聞かずにはいられない。
「戦場って……だって、もう戦争は終ったのに??」
『戦争』なんてものがそう簡単に終るわけがない。昨日の今日で『敵』が『隣人』にかわるわけがないさ。
 ハウルはそこだけ冷淡な笑みまで浮かべて言いきった。かわりに、心臓が凍えているのだと、ソフィーにはわかった。
「お偉いさんの間で終戦への根回しがされている段階だから、まだ国境では殺し合いが普通に行なわれている。家を焼き払って、剣で体を貫いて、銃で打ち合って。空から砲弾の雨まで降らせて。火で染められて空が真っ赤だ。血の色で真っ赤だ」
 まるで、見てきたような口ぶりに、ソフィーは怖くなった。
 否。
「ハウル、見てたのね。『殺し合い』を」
 魔法の鳥の目で戦場を見ていたのだ。自身が鳥の姿で戦場を行き交っていたのと同じように、彼はまだ『戦場』のただ中にいたのだ。
 ソフィーにとって、もう『戦争』は終わったものであり、気持ちは『復興』に向いていたのに、現実はそんなに簡単ではなかったのだ。
 どうして気がつかなかったのだろう――きっと、ハウルが明るく振舞いながらも、巧妙にその醜い現実から家族を切り離していたのだろう。
「僕は、怖い」
 人が人を殺すのなんて見たくない。そんな場所には行きたくない。その中を飛び交って軍艦を翻弄し、戦争の状況を直に見ていた『あの時』も、本当は怖くて怖くて仕方がなかった。
 けれどもそれは『戦争に巻きこまれて死ぬかもしれない』のが怖いのではなくて――人が人を殺し、侵略し、支配を『目的』とした『戦争』が怖かったのだ。流された血の匂いや色や、叫びが怖かったのだ。これから続く、大切な人を失った家族達の嘆きの深さが怖かった。
「人が戦争をするんじゃないよ。『戦争』は集団や――国がするものなんだよ。傷ついて血を流している一個人が『戦争』を仕掛けた『悪人』なんかじゃないんだ」
 死ななくてもいい『人』が、燃えなくてもよい『土地』が、崩壊しなくてもよい『日常』が、どこかの誰かの我侭や支配欲や思惑や命令ひとつで失われていく。その愚かしさが恐ろしかった。その命令を下した者も、『一個人』として話をしてみれば、ひどくまっとうな、どこにでもいる『人』と変わりがないのが――怖かった。
「僕は――戦争なんか、好きじゃない」
 好きではないけれど、『それ』が確かに今も続いていると知りながら、自分だけ穏やかな再建の日に生きている。『殺し合い』をこの目で見るのと、知らぬふりをして見ぬふりをするのはどちらがより怖いかと問われれば……
「知らぬ存ぜぬで通す方が怖かったんだ」
 どうして『人』は、手を繋げる範囲の人々のささやかな幸せを祈って生きていけないのだろう。持てきれない富なんていらないだろうに。今日の、明日の、明後日の食事と、来年の生活に困らなければいいだけの富みがあればいいだろうに。隣の人の手はまた隣に、隣にと繋がって、優しい気持ちで国境を超えることもできるだろうに。支配されるのなら、そんな気持ちの支配がいい。それが幻想だとわかっていても。
 ――あぁ、なんて優しい人なんだろう。
 ソフィーはそう思わずにはいられない。あの『戦争』が勃発した原因がハウルの上にも少なからずあるのだと知っていたとしても、優しい人だと思わずにいられない。
『戦争』とは単純なたったひとつの『理由』で起きるものではないけれど、それをどんなに強力な魔力を持っていて凶悪な悪魔と取り引きした身であろうとも、止められも流れを変えられもできやしないだろうに。それを『意味がない』と諦めなかったのだ。先を見通す魔法使いなら、大きなうねりに一個人が干渉してもなんの意味もないとわかるだろうに。おのれを『臆病』と言うのなら、尚のこと『知らぬ存ぜぬ』で逃げてしまってもおかしくないのに。
 すぐ目の前にあるわけではない『戦火』の存在そのものに心を痛めているのだ。生れ落ちたばかりの未熟なままで動きを止めていた、幼く柔らかな心を。
 ソフィーもハウルの『恐ろしさ』のかけらはわかるつもりだ。出兵する軍隊に向けて皆があげる『やっつけろ!』の画一的な声援は、ソフィーにとってはとても恐ろしいものだったからだ。『やっつけろ!』の声援の結果が『人殺し』の後押しだとあの人達は気がつかないのだろうか。相手の国の人々があげる『やっつけろ!』の声援の対象が、今目の前にしている男達なのだと気がつかないのだろうか。『国』が籏をあげると、『人殺し』が正当化されてしまうのが怖かった。だからハウルの気持ちが、全部ではないけれどわかる気がする。その中に身を置いていた彼の闇を全て理解できはしないけれど。
 けれど、いつまでも闇にとらわれていないで欲しい。
「ハウル、そんな場合はね、『戦争なんて嫌い』って言えばいいのよ」
 好きじゃない、なんて言い方じゃなくて、胸を張って『嫌い』だと言っていいのよ。人が人を殺す行為を『好きじゃない』なんてオブラートに包まずに『嫌い』と言い切ってしまってもいいのよ。
 そう口には出来ない立場も王宮にくみする『魔法使い』ならあるのかもしれないけれど、この『城』の中では言いきって欲しい。少なくとも……自分の前では。
 なにかを恐れて『嫌い』だと言えないほどには彼は臆病ではないと知っているから。『戦場』を怖がるのではなく、その『人の狂気』が怖いのだと言える彼ならば。
「……好きじゃない、では、駄目なの?」
 問いかけるハウルの表情はどこか無防備だ。
「ハウル、あなた、言葉の使い方がおかしいわ」
 そう? と不安げに小首を傾げる様子などとても年上には見えなくて、ソフィーは吹き出していた。この体勢も話題もどこか危うげなものばかりであるのに、ハウルのこんな表情ひとつで幼い子供の悩み相談に思えてくるから不思議だ。まだソフィーの背を叩き続ける優しいリズムだけが、ほんの少し残っている『大人の余裕』であるのかもしれない。
「なら、『嫌い』って言う」
「それからね、もう、魔法ででも、戦場なんて見ないで? きっとこの戦争を止めようとしている人がたくさんいるはずだから。『人』は怖い存在ばかりじゃないわ。だから信じて?」
 この夜も別の戦場で戦っているだろう大切な家族をどうか信じて。眠りの中でまで辛い『現実』をさ迷わないで。同じ『現実』なら、星空の下や、闇の中でも花開く花畑の中にいて。どうか、ひとりで苦しまないで。
 子守唄のリズムで囁かれるソフィーの言葉に、ハウルはようやっとまぶたを閉じた。長めの黒髪が隠していた額にソフィーはそっと口づけひとつ落とし、静かに扉を開けて出ていった。
 その遠い音を聞きながら、ハウルがぽつりと呟いた言葉をソフィーは知らない。

「僕は歌を忘れた鳥だから」

 そんな優しい夢ばかり見ていてはいけないんだよ。

 闇を知る黒い鳥だから、銀の鳥のように昼の光の中を飛び、屈託なく高らかに歌えない。
 その事実を後悔しているわけではないけれど――今ばかりは優しい歌を歌える小鳥達が羨ましかった。

   * * *

 本当に、時折だけれど、彼はここにいないような――空っぽな目をする。
 翼の先から瞳の奥まで闇色に染まった、光を知らない黒い鳥のよう。
 その鳥は、あれから何ヶ月が経とうとも――まだ歌を歌えない。
 その姿が、ソフィーには、時折――哀しくてならなかった。




若輩者の戯言でした。