しあわせ





 自分の家がきちんとあるくせに――家とは言えないかもしれないが、壮麗で巨大な『王宮』も『王子様』であるジャスティン王子にとっては『家』だ――しかも、戦争は収束に向かいつつあるとは言え、まだまだ乗り越えなければいけない事柄が山積になっていてその終りは果てしなく遠いのに、彼はついついと空飛ぶ魔法使いの城へとやってきてしまう。彼が成さねばならない事柄の重さにふと疲れた時に訪れると、なんとも言えない居心地の良さと雰囲気でいつでもあたたかく迎え入れてくれるのだ。
 そこの家族達は彼を王子様扱いせず、そして完全なるお客様扱いもしなかった。それもとても嬉しいのだ。
「なにか手伝いましょうか?」
 との言葉に、
「ありがとう。じゃぁ、あのコップを棚に片付けてくれるかしら?」
 気安く頼みごとをしてくれるのが、同じくくりに入れてもらっているこそばゆさがある。
 ここに来て、ジャスティン王子は『はじめて』をたくさん経験した。マルクルと一緒に庭木に水をやり、倉庫に放りっぱなしにしていたはしごに釘も打った。ソフィーにボタン付けもさせてもらった。鍋だって磨いた。なにもかもはじめての体験だった。
 変に『王子様はそんなことしなくてもいい』とか『お客様はそんなことしなくてもいい』と言われたり気を使われたりしないので、この空間はとても居心地が良くて――駄目なのだ。いつまでも居ていたくなる誘惑、何度でも来たくなる誘惑に満ち充ちていた。寄りかかっている自覚があるのにやめられない、空飛ぶお城のお宅訪問。
 けれども、そんな彼にもはじめの頃は不満があった。
「カブ……とはもう呼べないわね。じゃぁ、王子様? ジャスティン王子?」
「カブでもいいですよ。私はなんとでも」
「でももうカブ頭のかかしじゃぁないから、ぼくも『王子様』って呼んだ方がいいのかなぁ?」
「あたしゃぁ『王子様』が好きだねぇ。高級で良いじゃないか」
「マダム、それはいくらなんでも可愛そうな理由……」
「そうさ! 名前ってのは案外重要なもんなんだぜぇ? 慎重に決めなくちゃぁな!」
 いえだからあなた達が呼んでくれるなら『カブ』でも『ジャスティン』でも構わないので、お好きなように。
 膝の上に乗ったヒンの背中を撫ぜながらのジャスティン王子の言葉は、その家族の中では綺麗に黙殺され、いつの間にやら『王子』で統一されてしまったようだ。なんとなく――ほんの少しだけ線引きされた悲しさがないでもなかったが、その家にちょくちょくと出入りしている間に気がついた。『王子』と呼びかけるその色は『カブ』とまったく同じ色であるのだと。
 それに、その家では家主を「魔法使いさん」と呼び、ソフィーを「料理長さん」「掃除婦さん」と普通に呼んでいるのだ。生活にリズムをつける、特別な言葉。その中にある親愛の情に気がつかないわけがない。なら、ジャスティン王子の『王子』にもなんの線引きもなかったのだ。彼らにとってはなんの他意もなかったのだ。
 それに気がついた時、ジャスティン王子は笑った。とかく周囲は『王子様』の身分だけを見て勝手に判断したりちやほやしたりして個人の中身を見てくれないことが多いのに、彼らはその『王子様』の身分ごとの自分をちゃんと認めてくれていたのだ。この家の中では『王子様』は尊称では有り得ない。『ジャスティン王子』を構成する一部分が『王子様』であるだけなのだ。それは、ハウルが背が高いことや、ソフィーの目が茶色であることや、マルクルが子供でマダムが老婆であるのと同じなのだ。
「国一番の料理長さん、今日のメインはなにでしょう?」
 だからジャスティン王子もその輪に入って、するりとそんな言葉を口にする。
「駄目よ、食いしん坊の王子様。夕食の時にびっくりさせたいんだから!」
 小さなキッチンでくるくると立ち働くソフィーの芝居かかった言葉に、ジャスティン王子は軽やかに笑った。『食いしん坊の王子様』なんて言葉ははじめて耳にしたので。
 その笑みを見上げるようにして目を丸くして見つめたソフィーは、ついで
「王子ったら、よく笑うのね」
 なんてのたまうので、ジャスティン王子は呆気にとられた。
 笑う? 笑っている? 儀礼的な笑いでも、自嘲の笑みでもなく、ちゃんと笑えている? 人らしい笑顔ができている? 
 そうかもしれない、この家でなら自然に笑える。紅茶やシチューや花、そんな優しい香りに包まれたこの家でなら。
「笑うのは良いことよ。笑ったら気持ちがいいし、見ているこちらも幸せな気分になるもの」
 そうして、ソフィーも笑うのだ。親愛の情を込めた、透明な笑みを。
 ほのぼのとした雰囲気で油断していたジャスティン王子は、その笑みを真正面からぶつけられて、一瞬呆けてしまった。そんな屈託のない笑みには慣れていない。なんの思惑もない笑みを向けてくれる者など、周囲に何人いるだろう? きっと、この家の住人の数よりも、少ないのではないだろうか。
 けれども、ある意味、そんな笑みができない人数の中に『自分自身』も入っていたのだと、今ならわかるのだ。
『あなたが先に見ようとしなければ、見えるものも見えないし、かろうじて見えるものすら歪んで見えるものなのよ』――その言葉と同じこと。
 こちらが本当の笑みを見せてもいないのに、相手のそれを求めるのは自分勝手だろう。
「えぇ、そうですね。笑うと気持ちがいいですね」
『そんな『笑い方』を教えてくれたのはあなた達なのですよ?』
 そう言えば、彼女達はどう反応するだろうか。頭の隅で考えながらまたも笑う。それぞれの反応がまざまざと予想できて、それが少しばかりおかしくて、少しばかり嬉しかった。
 この家にいると、少しずつ自分が『人』になっていく気がする。かかしから『人』に戻っただけでなく、血の通った、今を生きる『人』に少しずつ変わっていっている気がする。
 なにかをする喜び、それを認めてもらえる喜び。手を差し伸べる喜び、差し伸べられる喜び。名を呼んでもらえる喜び、名を呼ぶ喜び。笑いあう喜び。打算もなにもない、純粋なそれらは、王宮では縁遠いモノ。
ジャスティン王子はこの空飛ぶお城のお宅訪問をついついしてしまう自分の行いに訂正を入れた。
 寄りかかっているわけではない。甘えているわけではない。逃げているわけでもない。『人』が『人らしい』喜びを求めていただけなのだと。
 だからジャスティン王子は、近いうちにまたここの空気に満たされに訪れるだろうと予感するのであった。
 いつでもこの城の住人達は、あたたかく迎え入れてくれるから。




うちの王子様は庶民派王子。ついたあだ名がぴよ1号。