イノセント

Heaven's Door
【28】




 涙がとまらなかった。幼馴染が教えてくれた嘘偽りのない話――あちらの世界での『荻野千尋』はすでに存在していないこともある意味衝撃的であったが、それが悲しくて涙が溢れているのではなかった。あの、清冽な水の流れのような青年を幼馴染が一目見て『千尋の為に必死になっている男だ』と言い切ったのが――こそばゆいような嬉しさと、ほんのすこしの困惑を呼び起こしたのだ。相反する感情の中に放り出されて、千尋は泣いた。けれども、この涙を堪える気にはなれなかった。命の危険も顧みず危機へと赴いたハクによって湧き上がったこの涙は彼に返すべきなのだと思ったからだ。すべてをハクにぶつけたいと思ったからだ。
 手中の携帯電話はその奇蹟が終わったのか、電池を使い果たして、この世界にはない『海』の画像を二度と映し出してはくれなかった。液晶画面に表示されていた時計もすっかりと消えている。千尋はそれに気がついて、部屋にある置き時計に目をやった。時間は営業時間も後半をむかえ、窓の外に視線を転じれば夜更けの色に染まっていた。『湯屋』などの仕事についていない者達ならば夢の中を泳いでいる時間帯である。
 千尋は、ふらふらと視点の定まらないまま立ち上がり、部屋の戸を開け放して廊下へと出た。しんと静まり返った廊下はそれだけでも寒さを感じさせている。壁に手をつき手をつき、千尋は廊下をよたよたと歩き出した。けれども、廊下の半分までくると、そこでどうしても足が止まってしまう。頭上にはぼんやりとしたオレンジ色の裸電球が灯っており、千尋の足元に濃くて短い影を作り出した。
「ハク……ハクっ。ハク……ッ!」
 どうして動いてくれないんだろう、この足は。千尋は悔しくて握りこぶしを作り肩を震わせ、足元にできた影を見つめてハクの名を呼んだ。
「ハク! ハ……ク……うぅっ」
 冷静に考えれば、今の時間帯ならばハクは帳場に詰めているとわかったであろうが、千尋は口から馬鹿のひとつ覚えのようにその名しか紡げなかった。
「はくぅ!」
 思えば、この電球から右側は『男の人のエリア』なんてものではなく、ハクの心の中に入っていくことを暗示していたのではないかと嗚咽を堪えながら頭の隅で考えた。今ならば、現代人が『想いを伝える』行為を軽々しく『告る』と言い表すその時の心境がわかる気がする。相手に自分の想いを差し出したり、または相手の懐に飛び込むことのなんと勇気のいることか。自分自身が足元から瓦解していくような感覚すらして、千尋はへたりと座り込んでしまいそうになった。その時、必死にあげた視線の先に信じられないものを見て、千尋は一瞬息をとめた。視線の先に、いるはずのないハクが――立っていたのだ。

   ◆◇◆

 怪我をしたみっともない姿でお客様の前に出るんじゃないよ! の湯婆婆の一言で休まざるを得なかったハクの耳にか細くも必死な呼び声が聞こえたのは、夜半過ぎの事であった。階下や、壁ひとつ隔てた向こう側にある宴会場は賑々しい状態であるのだろうが、この一画はしんと静まり返っている為にその声に気がつけたのかもしれない。ハクは傷を癒す為に横になっていた蒲団より抜け出し、組み紐で手早く長い髪を束ねて簡単に身繕いすると自室の扉を開け放した。
「……千尋?」
 顔を出した視線の先には、オレンジ色に全身を染めた娘の姿があった。前髪のあたりできらりと光を弾くものがあり、ハクは目を細める。いつぞや彼が贈ったビーズの髪飾りがそこに存在していた。
 あぁ、やっぱり花冠をかぶっているようだ。
 おのれが顔を出した為に驚いた表情をしている千尋へとゆっくり近づきつつも、そんなことをハクは考えていた。悩みを抱え膝を抱え裸電球の下でおのれを待っていた秋の日の少女の姿に、まるでオレンジの花冠をかぶっているようだと思って贈った髪飾りに手を伸ばして触れる。
「ハク……? どうして?」
 あんなにも激しく拒絶をしたのも忘れているのか、きょとんとした目でおのれを見上げる千尋にハクは笑いかけた。髪飾りより手を離し、ついで肩に零れる髪を梳いた。それにすら気がついていない千尋の様子に、ハクは内心で安堵の息を吐く。
「湯婆婆様から休むように言われてね。それから――名を呼んでくれただろう?」
 肩先から上へと辿り、頬に触れる。涙に濡れる眸に行きつく。
「泣きたい時は私に言いなさいと言ったのに、そなたは本当に強情だ」
 こんなに目を赤くして、と小さく笑ったハクの言葉に、千尋は二・三度瞬きをしてから
「うん、だから――来たの」
 と消え入りそうな声で告げた。ハクの心の中に飛び込む為にハクの部屋に行くのだと……千尋は言い切った。手を伸ばし、きゅっとハクの手を握った。
「あの時……ハク、わたしの手をひいて行ってくれたでしょ? わたしが、悩んでた時」
 人の手を煩わせることを極端に嫌っていた千尋がはじめて感情を強く晒したのが、自分の特異点に打ちのめされたあの時であった。
「あの時ね、きっとね、ハクはわたしの心の中に入り込んだんでしょ? わたしの部屋に手をひいて連れて行ってくれて……一緒にわたしの心の中に入ったんでしょ?」
 微妙な境界線をうろうろとしていたハクと言う存在がとても近く感じられるようになったのは、今から思えばあの時を境にしてだと千尋は思う。
「だからね、あの時みたいに、手をひいて。ハクの心の中に……入れて」
 ハクをもっとちゃんと知りたい。ハクが自分のすべてをかけてくれているのなら、わたしもそれで応えたい。
「寂しいから……ひとりだから……ハクが優しいから……好きになったんじゃないよ?」
 ハクが怪我をしたと知って、自分自身の存在に疑問と苛立ちを抱えたのと同時に、ハクが傷ついたことによってはじめてハクが本当の意味でいなくなるかも知れないと言う衝撃に打ちのめされ、それを心底畏れた自分に気がついた。昏い穴に飛び込むハクの姿を見た時よりも、無謀にも虹を追いかける姿を追った時よりも、明確にその感情は湧き上がり千尋の中に根付いてしまった。ハクがいなくなるなんて考えるだけで耐えられない、それほどに大切な人になっていたのだと千尋は知った。失いたくなかった。きちんと向き合いたかった。わかりあいたかった。良い部分を見せようと強がったりして自分を見失っていたのだと気がついて、ハクの前で泣きたくなった。弱い部分も見て欲しかった。ハクの弱さも見せて欲しかった。言葉ではっきりと告げられたわけではなかったけれど、ハクが自分をとても大切に――愛してくれているのだとはもうわかっていた。『告白する』『される』と言った儀式を通ったわけではなかったが、それでもはっきりとわかった。その想いさえも返したかった。――愛して欲しかった。


後半>>