【 4 】




 自分で勝手に地雷踏み込んで自爆していたら、廊下の端から足音が聞こえて
「おー、いたいた、セン。ほれ、仕事行くぞ」
 ってリンさんが。
「だんご虫の次はへばりつき虫か。あんま甘やかしてたら後で困るぞー」
 はぁ? とか思っている間にも、リンさんにいつぞやのように襟首引っつかまれて、わたしは廊下をずるずるとお尻で掃除してしまって。今回は蒲団の山のようにしがみつくものがなかったので引きずられるしかなかった。
「リンさんっあついっお尻あついよ〜〜!」
 リンさんたんまたんまーっ!! 
 とハクの部屋の前からずるずると退去させられつつわたわた騒いだら、部屋の中からハクの小さな笑い声が聞こえた気がした(みっともない……泣)。

   ◆◇◆

 ハクは、騒がしく遠ざかっていく千尋の声を聞きながら、くすくすと笑っていた。ふたりのやりとりを聞いていれば、どんな光景が戸の外側で繰り広げられているのかありありとわかろうものだ。きっと千尋は真っ赤な顔で手を振り回してわたわたしているであろうし、リンはのしのしと力強く廊下を歩いているのだろう、千尋を引きずって。
 ハクはひとしきり笑った後で、書類でびっしりと埋め尽くされた文机の片隅に置かれていた小さな箱を手に取った。蓋を開ければ、中には小さな貝殻が入っている。薄桃色をした二枚貝だ。
 そっと箱からつまみ出して、手の平に乗せて目を閉じる。山間部から流れ、途中で大きな河に合流する為に海へは繋がっていないコハク河では聞かれなかった波の音が聞こえてきそうだ。その貝は川のものではなく、海の貝であった。寄せては返す波の音は、河伯であったハクにとってもどこか懐かしさを呼び起こすもので、嫌いではない。むしろ好ましいリズムであった。ハクの体中の水がはじめはざわざわと波立ち、やがてしんと落ちつきをとりもどし、ゆらゆらと揺れる。ふわりと吹いた風に水面を撫でられたようでくすぐったく心が落ち着く。その不思議な過程が好きで、その感覚を呼び起こす波の音は大好きだった。
 川の主であった子供の頃、海の精からもらった貝殻をたくさん持っていた。川の水は海に注ぎ込むだけでほとんど海のことなど知る機会がなかったので、とてつもなく海に憧れた時期がある。その憧れを貝殻集めで埋めようとしていたのかもしれない。
 大きな巻貝をもらった時には、人間の子供がするように耳元に貝をあて、その貝が聞いていた波の記憶を一日中厭きもせずに聞いていたものだ。
 綺麗な色彩を持った薄い貝をもらった時には、水上から差し込む光にかざして遊んだものだ。
 色とりどりの貝殻を紐に通したものを貰った時は、あんまりにも嬉しくて首から下げていて『女児ではないのですから』と水の民に苦笑いされたものだ。
 ――全部川から逃げる時置いてきてしまった思い出であったけれど。
 こちらの世界で求めた貝は、昔一番のお気に入りであった、手の平の上にある小さな貝。ほんわりとした色彩が、山櫻が川に花びらを散らして流れていく様を連想させた。ハクは自分の頭上を櫻の花びらが通り過ぎる光景が大好きだったのだ。水面を夕陽色に染めて紅葉が流れていくのも同じように好きであったが、春は良い。春のあの心地よい陽射しが好きだ。うとうとと眠気を誘うあの穏やかさが好きだ。だからこの貝も大好きだった。
「私の大好きなものは櫻色をしているね」
 ハクは目を閉じたまま、やんわりと微笑んで手の平の貝が持つさらさらした感触を楽しんでいた。

   ◆◇◆

「リンさんひどーい! きっとお尻まっかかだよー」
 リンさんが襟首を放してくれたのは、廊下の角をみっつも曲がったところだった。もうそこはハクの部屋の前にあった冷たくて寒い雰囲気なんて微塵もない、人でいっぱいの場所で。そこかしこで忙しそうに準備をしている活気のある場所だった。そのあまりの違いに眩暈が起きそう。冷たくなっていたお尻で掃除させられて、冷たさにじんっとしているどころか、熱さでじんじんするしーっ。
「ひっつき虫からお猿に格上げでよかったじゃねーか」
 良くないよー。虫から哺乳類になっても人間じゃないじゃない(しくしくしく)。とか思ったら、ここって人間だからどうだとか哺乳類だからどうだとか関係ない世界なんだっけ。かえる男さんはかえるだし、お姉様方はナメクジだし。虫でないだけましなのかもしれない。
「ってそんな問題じゃなーい!」
 って叫んだら、
「セン、無駄に元気だなー」
 じゃぁ玄関前の掃き掃除、お前に任すなーと言われてしまった(墓穴)。準備よくそばにいた同僚が箒を手渡してくれるし。
「リンさんのおにー……」
 冷たい風が吹いている外の様子と片手をふりふり廊下の先へと消えていくリンさんの背中を見つめて呟いた言葉に、誰も同意してくれなかった。